アルビの司教都市

Episcopal City of Albi

  • フランス
  • 登録年:2010年
  • 登録基準:文化遺産(iv)(v)
  • 資産面積:19.47ha
  • バッファー・ゾーン:64.09ha
世界遺産「アルビの司教都市」、タルン川に架かる手前の橋がヴィユー橋、奥がアルビ鉄道高架橋。左上がサント=セシル大聖堂で塔は鐘楼、その下がベルビー宮殿
世界遺産「アルビの司教都市」、タルン川に架かる手前の橋がヴィユー橋、奥がアルビ鉄道高架橋。左上がサント=セシル大聖堂で塔は鐘楼、その下がベルビー宮殿 (C) Krzysztof Golik
世界遺産「アルビの司教都市」、サント=セシル大聖堂。右が西ファサードの鐘楼ポーチ
世界遺産「アルビの司教都市」、サント=セシル大聖堂。右が西ファサードの鐘楼ポーチで、高さ78mを誇る (C) Jean-Christophe BENOIST
世界遺産「アルビの司教都市」、サント=セシル大聖堂の身廊から西の眺め。中央下は鐘楼へのポータルで、フレスコ画は『最後の審判』、上はムシェレル・オルガン
世界遺産「アルビの司教都市」、サント=セシル大聖堂の身廊から西の眺め。中央下は鐘楼へのポータルで、フレスコ画は『最後の審判』、上はムシェレル・オルガン (C) Pierre-Selim Huard
世界遺産「アルビの司教都市」、サント=セシル大聖堂のクワイヤ・スクリーン。見事なゴシック彫刻で覆われている
世界遺産「アルビの司教都市」、サント=セシル大聖堂のクワイヤ・スクリーン。見事なゴシック彫刻で覆われている (C) Benh LIEU SONG
世界遺産「アルビの司教都市」、北から眺めたサン=サルヴィ参事会教会。中央が身廊と側廊、左が北塔
世界遺産「アルビの司教都市」、北から眺めたサン=サルヴィ参事会教会。中央が身廊と側廊、左が北塔。石造とレンガ造、ロマネスク様式とゴシック様式が混在している (C) Jordiferrer
世界遺産「アルビの司教都市」、ベルビー宮殿。右の重厚なレンガ造の建物がマージ塔で、後ろの高い塔(サン=ミシェル塔)と前の低い塔(サント=カトリーヌ塔)からなっている。手前はフランス式庭園
世界遺産「アルビの司教都市」、ベルビー宮殿。右の重厚なレンガ造の建物がマージ塔で、後ろの高い塔(サン=ミシェル塔)と前の低い塔(サント=カトリーヌ塔)からなっている。手前はフランス式庭園 (C) H Cluzeaud
世界遺産「アルビの司教都市」、中央のハーフティンバーの建物がアルビの現存最古級の邸宅、メゾン・デュ・ヴィエイユ・アルビー
世界遺産「アルビの司教都市」、中央のハーフティンバーの建物がアルビの現存最古級の邸宅、メゾン・デュ・ヴィエイユ・アルビー (C) Unuaiga
世界遺産「アルビの司教都市」、ハーフティンバーが美しいメゾン・アンジャルベール
世界遺産「アルビの司教都市」、ハーフティンバーが美しいメゾン・アンジャルベール (C) Frédéric Neupont

■世界遺産概要

アルビはフランス南部のオクシタニー地域圏、いわゆるラングドック地方のタルヌ県の古都で、ガロンヌ川の支流であるタルン川河畔に広がる歴史地区には中世から近代にかけて赤い焼成レンガで築かれた美しい街並みが保存されている。中心となるのはサント=セシル大聖堂(アルビ大聖堂)、ベルビー宮殿(現・トゥールーズ=ロートレック美術館)、サン=サルヴィ参事会教会がたたずむ左岸(南岸)の一帯で、13世紀にアルビジョワ十字軍によって異端とされたカタリ派(アルビジョワ派)が討伐された後、ローマ・カトリックの司教都市として整備された。

○資産の歴史

タルン川とボンディドゥの丘の間の地、現在のカステルヴィエル地区の周辺には青銅器時代から人間の居住の跡があり、ローマ以前の時代にはケルト系ガリア人のオッピドゥム(城郭都市)が広がっていた。

紀元前51年に共和政ローマがガリア(ライン川からピレネー山脈、イタリア北部に至る地域。おおよそ現在のフランス・ドイツ西部・イタリア北部に当たる)を征服すると一帯もその版図に入り、町はキヴィタス・アルビゲンシウムと呼ばれた。そして川や丘を利用して城壁を張り巡らせ、堅固な城塞を整備した。4世紀にキリスト教が伝わり、5世紀には司教座が置かれてガリア宣教の拠点のひとつとなった。しかし、3世紀頃から活発化した民族大移動の圧力を受け、418 年にゲルマン系西ゴート人、507年にはゲルマン系フランク人によって征服された。

6世紀にアルビで生まれた伝説的な人物がアルビのサルウィウスだ。もともと判事や弁護士として活動していたが、アルビ郊外で修道士となり、やがて修道院長・司教にまで上り詰めた。飢饉やペストに際して多くの市民を無償で救い、最期は自らペストで病死したという。長らくアルビ市民に崇拝され、やがて列聖(徳と聖性を認めて聖人の地位を与えること)されて聖サルヴィと呼ばれた。その遺体は所属の修道院に埋葬されたが、10世紀にサン=サルヴィ参事会教会に移葬された。

アルビはタルン川がもたらす豊穣な大地と、冷涼かつ湿潤なセガラとルエルグの高地、温暖かつ乾燥したガロンヌ盆地の影響を受けて多彩な作物や牧畜に適しており、小麦、ブドウ、麻、パステル、ウシ、ヒツジなどの農牧業が営まれ、小麦粉やワイン・麻糸・羊毛・染料・麻織物・毛織物・革製品などを生産した。また、タルン川からガロンヌ川を下って大西洋に出ることができ、大西洋と地中海を結ぶ陸路の要衝であるトゥールーズにも近いことから盛んに交易を行った。10世紀にはカステルヴィエル地区の東に商業地区としてサン=サルヴィ地区が発達し、11世紀前半にはヴィユー橋(ポン・ヴィユー/古橋)が建設されて左岸と右岸(北岸)が結ばれ、左岸のコンブ地区と右岸のマドレーヌ地区が開発された。

アルビはフランク王国やイスラム王朝であるウマイヤ朝などの版図に入った後、トゥールーズ伯領の下でアルビ子爵が治めた。9世紀に子爵家であるトレンカヴェル家が独立してニームやベジエなどを入手し、10~13世紀にはラングドック一帯に勢力を広げた。この頃にはアルビはトゥールーズやカルカッソンヌ(世界遺産)、フォワに並ぶ南フランスの主要都市となった。

11世紀頃から南フランスに広がったキリスト教の教派がカタリ派、別名アルビジョワ派で、「アルビジョワ」はアルビに由来している。マニ教に影響を受けたと伝わる二元論的な世界観を持つ教派で、教会制度を否定していることもあって教皇庁は12世紀に正式に異端を宣告し、信者にはローマ・カトリックへの改宗を説得した。この頃、トゥールーズ伯など南フランスの諸侯はほぼ独立しており、教皇や国王の影響力を恐れてこれに従わなかった。

このため1209年に教皇インノケンティウス3世の呼び掛けでアルビジョワ十字軍が結成された。同年にカルカッソンヌ、1215年にカタリ派の最大拠点都市トゥールーズを落とし、南フランスをほぼ制圧。しかし、トゥールーズ伯やトレンカヴェル家は団結して抵抗し、これらを奪還する。フランス王ルイ8世は占領地の支配権を譲り受けて南フランス征服の大義名分を得ると、1226年にアルビジョワ十字軍を再結成し、カルカッソンヌを含む多くの占領地を再奪還。同年にルイ8世が死去すると、ルイ9世が遺志を継いで1228年にトゥールーズを占領し、翌年、トゥールーズ伯レイモン7世と協定を結んで征服を完了した。これによりフランスが版図を地中海にまで広げ、アルビもその支配下に入った。トレンカヴェル家は急速に衰退し、14世紀に消滅した。

南フランスではカタリ派に対する凄惨な弾圧もあってローマ・カトリックが信仰を回復した。支配層が一掃されたアルビでは司教のデュラン・ド・ボーケールが異端審問や異端者の財産の没収などを行いながらサント=セシル大聖堂と司教宮殿としてベルビー宮殿の建設を開始。続く司教ベルナール2世・ド・コンブレはこれらの事業を引き継ぎつつ、一帯の城塞化を進めた。さらに次の司教ベルナール・ド・カスタネはおおよそ完成していた石造でロマネスク様式の大聖堂をレンガ造のゴシック様式へ改築することを決定し、建設は15世紀まで続けられた。13~14世紀にかけて城塞地区が整備されると同時に城外の街並みも発展し、町は拡大した。

この時代に建設された建造物の多くはタルン川やガロンヌ川で採れた粘土を焼いた焼成レンガで建設された。これはローマ・カトリックが地元に寄り添うという象徴性や、地元の産業を発展させるという経済性に加え、一帯に良質な採石場がなかったことなどによるものだった。一方で、北フランスの様式であるゴシック様式の導入はフランス王に対する恭順を示していたともいわれる。こうした都市建設はラングドック地方のトゥールーズやモントーバンでも同様に進められたが、アルビは特に教皇庁とのつながりが強く、イタリアの文化や南フランス土着の文化をより柔軟に採り入れることとなった。

百年戦争(1337〜1453年)や14世紀のペストのパンデミックによって一時は人口が半減したが、15世紀半ばからパステル、日本語で大青(たいせい)の一種であるホソバタイセイの栽培が急拡大して経済が回復した。パステルから抽出される青い植物染料はあらゆる布を高貴な青に染め、色落ちもしないということで、大きな需要を勝ち取った。そして新たな富裕層の手によって町の再整備が進められた。この時代の司教であるルイ1世ダンボワーズやルイ2世ダンボワーズはサント=セシル大聖堂やベルビー宮殿にルネサンス様式の芸術作品や建築を持ち込んだ。特にルイ2世ダンボワーズはフランス王ルイ12世に同行してイタリア戦争(1494~1559年)に参加し、兄弟であるシャルル2世ダンボワーズとともにイタリアの芸術家や建築家と交流し、アルビにワークショップを設立して彼らを招聘した。こうした影響や、アルビではフランスの支配が安定して軍事的な脅威が消えたこともあって、16~17世紀に「アルビジョワ・ルネサンス」と呼ばれるルネサンス様式の流行期を迎えた。この時代でも建物の多くが赤い焼成レンガで建てられたため、「赤の町」と評されたという。アルビは1678年に大司教区に昇格している。

18世紀の都市改造で城壁が解体され、新たな街区も整備されて都市が拡大し、多くの建物が新古典主義様式で建設・再建・改修された。しかし、ガロンヌ川を介して大西洋と地中海を結ぶミディ運河(世界遺産)が17世紀後半に開通すると、輸送網から外れて経済は低迷した。また、フランス革命期に非キリスト教化運動が進められて教会や修道院・聖職者の土地や財産が接収・売却され、司教都市としての繁栄に終止符を打った。サント=セシル大聖堂やベルビー宮殿でも多くの彫刻や絵画が略奪された。

19~20世紀にかけてガラス製品や帽子の生産、石炭の採掘で経済が持ち直し、都市再生プロジェクトが進められた。サント=セシル大聖堂については建造物修復の第一人者であるウジェーヌ・ヴィオレ=ル=デュクが調査を行い、建築家セザール・デイリーによって修復された。歴史地区の景観を活かすために周辺も整理され、焼成レンガを用いた建物が建設された。ベルビー宮殿は司教宮殿としての機能を失い、1924年にアルビ出身の画家ロートレックの作品を収蔵するトゥールーズ=ロートレック美術館に改装された。

第2次世界大戦では歴史地区が放棄され、住民の多くが郊外に引っ越した。これがかえって現代的な街並みに置き換えられるのを防ぐことになった。1968年にその価値が再認識されて保全地域に指定され、1974年から保全計画が実行に移された。

○資産の内容

世界遺産の資産はおおよそヴィユー橋からアルビ鉄道高架橋の間のタルン川と両岸の一帯となっている。左岸の範囲がサント=セシル大聖堂がたたずむ西のカステルヴィエル地区、その東でサン=サルヴィ参事会教会のあるサン=サルヴィ地区、その南で古い住宅街が広がるカステルノ地区、北東のヴィユー橋近くのコンブ地区の4地区に広がっているのに対し、右岸はマドレーヌ地区の河岸のみが含まれている。

ヴィユー橋は「古い橋」を意味し、右岸の開発を進めるために1035~40年頃に創設された。当初は石造のロマネスク様式で、13世紀にゴシック様式で改築された。中世、橋には門塔や跳ね橋・礼拝堂などがあり、城塞の防衛システムの一端を担っていた。15世紀に改築されると橋の上に皮なめしや靴・織物の職人や商人が店を構え、住居が造られた。これらは1766年の大洪水で一掃され、19世紀にレンガ造に改修された。現在の橋は全長151m・幅3.8mで8基のアーチを有し、橋脚や上流部分の水切りは切石、アーチや橋桁は主にレンガで築かれている。

サン=サルヴィ参事会教会は10世紀に創設された教会堂で、聖サルヴィや代々のアルビ司教が埋葬された。10~11世紀に石灰岩を使用して石造でロマネスク様式の教会堂の建設が開始された。13世紀にレンガ造・ゴシック様式への改修が進められたことで、白い石造部分と赤いレンガ造部分、重厚で窓が少なく半円アーチを特徴とするロマネスク様式の部分と、縦長で窓が多く尖頭アーチが特徴的なゴシック様式の部分が混在することとなった。教会堂は67×22.5mの「†」形のラテン十字式・三廊式(身廊とふたつの側廊を持つ様式)で、北と西にポータル(玄関)を有し、南北にふたつの塔を掲げている。象徴的な建物が北塔の鐘楼で、下層が石造のロマネスク様式、中層の列柱装飾が石造のゴシック様式、上層がレンガ造のゴシック様式と、3つの時代の特徴が集まっている。頂部から円筒形の小塔が突き出している点もユニークで、カリヨン(鐘を組み合わせた楽器)も非常に名高い。クロイスター(中庭を取り囲む回廊)も13世紀の建設で、こちらもロマネスク様式の半円アーチとゴシック様式の柱頭装飾など、折衷となっている。

サント=セシル大聖堂はアルビの司教座(1678年以降は大司教座)が置かれていることからアルビ大聖堂とも呼ばれる教会堂だ。創建は4世紀とされ、アルビジョワ十字軍の終了後、1250年前後に司教都市の中心的な施設として石造・ロマネスク様式で建設が開始された。1282~1390年にレンガ造・ゴシック様式への転換が図られ、百年戦争やペストのパンデミックもあって完成は遅れ、奉献は1480年にずれ込んだ。15世紀末から16世紀にかけてルネサンス様式の華やかな装飾や芸術作品が持ち込まれ、19世紀の修復では一部にゴシック・リバイバル様式が導入されたが、彫刻や絵画などの一部はフランス革命期の略奪で失われた。教会堂は全長約113×35mと、レンガ造の教会堂としては世界最大級を誇る。バシリカ式(ローマ時代の集会所に起源を持つ長方形の様式)・単廊式(廊下を持たない様式)で、高さ約40mもの壁面が垂直に立ち上がる特徴的な外観を有している。15世紀末に完成した西ファサードは中央に高さ78mの鐘楼を備えた鐘楼ポーチで、アルビのランドマークとなっている。正門は鐘楼ポーチではなく身廊中央部の南に設置された南ポータル(玄関)で、15世紀の見事なゴシック彫刻で飾られている。内部について、ゴシック様式の教会堂としては珍しく壁面や天井がフレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)で覆われており、総面積18,500平方mはゴシック様式の教会堂としては世界最大とされる。15~16世紀にルネサンス様式で描かれたもので、基調となっている高貴な青は「ブルー・ド・フランス(フランスの青)」あるいは「ブルー・ド・ロワ(王の青)」と呼ばれている。特に身廊の西のオルガン下のポータル周辺に描かれた『最後の審判』やアプスの壁面・天井の装飾画は非常に名高い。精緻なゴシック装飾で飾られたクワイヤ・スクリーン(内陣と外陣を分ける聖障。ルード・スクリーン/チャンセル・スクリーン)は16世紀の作品で、クワイヤ(内陣の一部で聖職者や聖歌隊のためのスペース)からアプスまでを囲っている。これら以外に、2~3世紀の殉教者である聖セシリアの遺骨を収めたの聖骨箱や彫像、18世紀に設置されたフランス最大級のクラシック・オルガンであるムシェレル・オルガン、19~20世紀に設置されたステンドグラスなど、数多くの宗教・芸術作品が収められている。

ベルビー宮殿の「ベルビー "Berbie"」は司教区を意味するラテン語の「ビスビア "bisbia"」に由来し、ローマ・カトリックが支配を取り戻した13世紀半ばに司教区を治める司教が暮らす司教宮殿として建設が開始された。当初は大聖堂が石造、ベルビー宮殿がレンガ造で建設されていたが、建設途中のベルビー宮殿を見て大聖堂もレンガ造に変更されたようだ。宮殿は15世紀に完成したが、同世紀に一部がルネサンス様式で改築され、同様式の装飾が採り入れられた。17世紀にフランス式庭園(フランス・バロック庭園)が誕生し、建築や装飾に新古典主義様式が導入された。宮殿の中心となるのは庭園の南に立つ北のサント=カトリーヌ塔と南のサン=ミシェル塔で、まとめてマージ塔(魔法使いの塔)と呼ばれている。いずれもレンガ造の高く堅牢な壁と円筒形の塔に守られており、隣接する議員のウイングとともに城塞のようなたたずまいを見せる。これ以外に、通りに面したアンボワーズ・ウイング(ウイングは翼廊/翼棟/袖廊。複数の棟が一体化した建造物群の中でひとつの棟をなす建物)とアンボワーズ塔、川に面した八角形のリヴィエール塔と円形のディニソス塔、城壁として川との間にそびえるカーテン・ウォール(幕壁。側防塔と側防塔の間の市壁・城壁)、東を守るオクトゴン塔、宮殿礼拝堂であるノートル=ダム礼拝堂など、数多くの建造物が残されている。フランス革命期に司教宮殿としての役割を終え、1924年からトゥールーズ=ロートレック美術館として公開されている。

左岸にはこれら以外にも数多くのレンガ造の歴史的建造物が立ち並んでいる。一例がカステルノ地区のメゾン・デュ・ヴィエイユ・アルビー(アルビ式古邸)だ。11~12世紀の創建と伝わる現存最古級の邸宅で、木材による柱梁構造とレンガの壁構造を組み合わせたハーフティンバー(半木骨造。フランス語でコロンバージュ)で、ソレイユと呼ばれる屋根裏部屋を有している。近郊のメゾン・アンジャルベールは16世紀のハーフティンバーの邸宅で、ルネサンス様式の影響を受けた美しい壁面で知られる。

■構成資産

○アルビの司教都市

■顕著な普遍的価値

本遺産は登録基準(ii)「重要な文化交流の跡」でも推薦されていた。しかしICOMOS(イコモス=国際記念物遺跡会議)は、南フランス、北フランス、フランドル、カタルーニャ、イタリアといった地域との交流によって成立したという主張に対し、それは当時、比較的一般的であり、突出した建築や芸術の様式を生み出して他の地域に決定的な影響を与えるといったことは起きておらず、その価値は証明されていないとした。

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

アルビの歴史都市は卓越した中世の建築と都市のアンサンブルを提示している。それは地元の焼成レンガの一般的かつ連続的な使用によって高い視覚的統一性を有する同質かつ高品質の都市景観によって表現されている。サント=セシル大聖堂はゴシック様式を南フランスのスタイルに適応させた傑出した建築と装飾の例である。

○登録基準(v)=伝統集落や環境利用の顕著な例

アルビの都市遺産は幾世紀にもわたって徐々に発展し、中世以降に顕著になり、アルビジョワ十字軍の事件を契機に大聖堂や司教宮殿を中心とした象徴的な司教都市へと変貌を遂げた。この種の建造物群としては珍しく、ほぼ完全かつ良好に保全された数少ない例のひとつである。また、中世・ルネサンス期のヨーロッパの特徴的な都市住宅地であり、きわめて包括的な形でその様子を表現している。

■完全性、真正性

すべての歴史ある建築要素は資産を構成する歴史地区に含まれており、ルネサンス期の都市の境界線と正確に一致している。完全性は高いレベルで維持されているが、19世紀から20世紀初頭にかけて行われた再開発地区は例外といえる。ただ、再開発地区は範囲が限定されており、都市全体の外観の統一性に影響を与えるものではない。

資産の都市構造や中世からルネサンス期に至る数々の建造物群、そしてほとんどのモニュメントは適切に保全されており、真正性の状態は十分である。この都市は今日までの長い歴史の中で使用されつづけてきた地元の焼成レンガの微妙な色合いによって高いレベルの視覚的統一性を示している。

こうした建造物群の都市景観の完全性と真正性は今後も重要視されるべきであり、長期的保全の優先目標となるべきである。

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