アヴィニョンはフランス南部、プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏のヴォクリューズ県の都市で、1309~77年の間、教皇庁が置かれてキリスト教世界の首都となった。7人の教皇と2人の対立教皇がこの地を拠点とし、フランスの建築家やイタリアの芸術家を数多く招聘して宮殿や大聖堂・関連施設を整備した。この結果として確立された折衷的な建築・芸術スタイルが「国際ゴシック」だ。主な建造物として、教皇の御座所となっていた教皇庁宮殿やその庭園、司教宮殿として機能していたプティ・パレ、アヴィニョン司教区・大司教区の司教座聖堂であるアヴィニョンのノートル=ダム・デ・ドン大聖堂(アヴィニョン大聖堂)、13世紀の石造アーチ橋であるサン=ベネゼ橋(アヴィニョン橋)、14世紀に建造された市壁が残るロシェ・デ・ドン(ドーム岩)などが挙げられる。
なお、本遺産は1995年に「アヴィニョン歴史地区 "The Historic Centre of Avignon"」の名称で世界遺産リストに登載されたが、資産は歴史地区の一部にすぎないことから2006年に現在の名称に変更された。
アヴィニョンには新石器時代から人間の居住の跡があり、資産内に位置するロシェ・デ・ドンの遺跡からも遺物が出土している。その後、アヴェニオやアヴェニオシスと呼ばれる都市が成立し、紀元前120年頃に共和政ローマの支配下に入り、ローマ属州ガリア・ナルボネンシスの主要都市に発展した。
キリスト教が伝わった年代は明らかではないが、3~4世紀には司教区が成立し、5世紀前半に司教のネクタリウスがさまざまな公会議に出席して活躍していたことが記録されている。その後、ゲルマン系のブルゴーニュ人、東ゴート人、フランク人の侵略を受け、フランク王国に占領された後はブルグント王国、アルル王国、プロヴァンス伯領、トゥールーズ伯領などに組み込まれた。
中世盛期になると異端を言い渡されたキリスト教のカタリ派(アルビジョワ派)討伐のために結成されたアルビジョワ十字軍による攻撃を受け、1226年に3か月にわたる包囲戦の末、フランス王ルイ8世に占領された。ルイ8世はアヴィニョンに入城すると市壁を破壊し、武装解除を進めた。そしてトゥールーズ伯レーモン7世から多くの土地を割譲させ、フランスの国土を広げた。ただ、後に教皇ウルバヌス4世がレーモン7世から寄進を受けたと主張したため、ルイ8世の孫に当たるフィリップ3世はアヴィニョン周辺のコンタ・ヴェネッサンと呼ばれる土地を教皇領として寄進している。アヴィニョンはこの後、ルイ9世の親族にあたるナポリ王の支配を受けた。
これまでの時代、国王や皇帝といっても諸侯の代表者にすぎなかった。たとえばカペー朝のユーグ・カペーはフランス王ではあったものの、直接支配しているのはパリ伯として治めるパリ(世界遺産)周辺のイル=ド=フランス地方に限られていた。そして国王や皇帝を承認するのは教皇であり、教皇インノケンティウス3世は「教皇は太陽、皇帝は月」とその優位を謳歌した。11~13世紀に教皇権は絶頂期を迎えていた。
フランスはアルビジョワ十字軍の時代にイギリス海峡から地中海に至る大領域を版図とし、王権は強大化した。そしてフランス絶対王政の基礎を築いたのがフィリップ4世だ。フィリップ4世はナバラ王国の女王フアナ1世と結婚し、1284年にフェリペ1世としてナバラ王やシャンパーニュ伯に就き、翌1285年にはフランス王に就任した。さらに、フランス南西部のギエンヌや北東部のフランドルに進出し、特に毛織物産業で当時ヨーロッパでもっとも豊かな土地だったフランドルの領有を目論んでイングランドと対立した。イングランドとの戦費調達のため、1302年に貴族・聖職者・平民からなる三部会を開催して聖職者に対する課税を検討。他にも聖職叙任権闘争(聖職者を任命する権利を巡る争い)やフィリップ4世による司教の逮捕といった問題もあり、教皇ボニファティウス8世はフィリップ4世を破門してしまう。フィリップ4世はこれに激怒。官僚のひとりであるギヨーム・ド・ノガレがボニファティウス8世を彼の出身地であるイタリアのアナーニで襲撃して監禁する(アナーニ事件)。ボニファティウス8世は数日の監禁の後、教皇軍と市民の手で救出されたが、わずか3週間後に憤死する。
1305年、フィリップ4世の支援もあってボルドー大司教だったクレメンス5世が教皇に即位。クレメンス5世は1309年に教皇の座所である教皇聖座をローマ(世界遺産)から南フランスのアヴィニョンに遷し、実質的にフランスの支配下に置かれた(教皇のバビロン捕囚/アヴィニョン捕囚)。こうしてフランスは教皇に対する国王の優位を主張し、教皇と国王の序列は覆った。
クレメンス5世はドミニコ会修道院で暮らしたが、次のヨハネス22世は司教宮殿の一部を教皇庁宮殿に改築して御座所とした。また、クレメンス5世とヨハネス22世は周辺の村に注目し、歳入増加を目指してブドウ園とワイン生産に尽力した。こうして開発されたコミューン(自治体)が教皇(パプ)の名を冠するシャトーヌフ=デュ=パプで、原産地統制呼称制度で最上級を示す同名のA.O.C.ワインはよく知られている。
続く教皇ベネディクトゥス12世は司教宮殿を取り壊してヨハネス22世の宮殿を拡張し、フランス人建築家ピエール・ポアソンが18年を掛けてパレ・ヴィユーと呼ばれる旧宮殿を完成させた。一方で、プティ・パレを購入し、こちらを司教宮殿として整備した。次のクレメンス6世はゴシック建築で名を馳せたフランス人建築家ジャン・ド・ルーヴルに依頼して教皇庁宮殿を南に拡張し、パレ・ヌフと呼ばれる新宮殿を建設した。さらに、シエナ派の画家であるシモーネ・マルティーニやマッテオ・ジョヴァネッティを筆頭にイタリアの芸術家を招聘し、彫刻やレリーフ・絵画・フレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)といった装飾で宮殿を飾った。また、教皇のコレクションである写本や宝物を集める教皇図書館を充実させると装飾写本の制作が活発化し、宗教画や神学が発達した。アヴィニョンは芸術や宗教の中心地として飛躍し、詩人のフランチェスコ・ペトラルカや作曲家のギヨーム・ド・マショーが訪れるなど影響力は文学や音楽にまで及んだ。こうして確立されたのがフランスのゴシック様式とイタリアのロマネスク様式やゴシック様式、初期ルネサンス様式が融合した国際ゴシックだ。また、クレメンス6世が1348年にナポリ王・シチリア王であるジョヴァンナ1世から町を買い取ったため、アヴィニョンは教皇領となった。教皇庁宮殿の拡張は次のインノケンティウス6世やウルバヌス5世の時代でも続けられたが、クレメンス6世が死去した時点で財政が大幅に悪化したため小規模のものに留まった。ただ、インノケンティウス6世は市壁を大幅に整備したことで知られる。
フランスでは1328年にフィリップ4世の息子であるシャルル4世が死去。その息子たちが夭折していたことからカペー家の本家が断絶し、分家であるヴァロワ家のフィリップ6世が即位してヴァロワ朝がスタートした。これに異を唱えたのがフィリップ4世の娘イザベラを母に持つイングランド王エドワード3世で、フランス王の王位継承権を主張した。この継承権問題やフランドルの領有権を巡って両国の間で百年戦争(1337〜1453年)が勃発。14世紀半ばにはペストが大流行してアヴィニョンの人口は1/3まで減った。
こうした混乱もあって教皇ウルバヌス5世は一時的にローマに帰るが、ローマの荒廃やさまざまな問題もあってアヴィニョンに戻った。続くグレゴリウス11世は1377年に教皇聖座をローマに遷して帰還するが、フランスでは強い反発が起こった。翌年、グレゴリウス11世が死去し、ウルバヌス6世がコンクラーヴェ(教皇選挙)で選出されたのに対し、アヴィニョンでもコンクラーヴェを開いてフランス王ジャン2世の甥に当たるクレメンス7世を対立教皇に立てて正統を掲げた。こうしてふたりの教皇が並び立つ大シスマ=教会大分裂の時代がはじまった。
クレメンス7世はローマ攻略や、ウルバヌス6世の死に際して自らを統一教皇とすることを画策するが失敗。ローマでボニファティウス9世が選出されると、両者は互いに破門しあうほど関係が悪化した。クレメンス7世を継いだ対立教皇ベネディクトゥス13世はローマとの関係改善を図り、ボニファティウス9世と交渉を行ったが、こちらも失敗に終わった。こうしたフランスへの裏切りに対し、フランス王シャルル6世は1398年にアヴィニョンを占領し、5年間にわたって教皇庁宮殿を包囲。ベネディクトゥス13世は1403年に脱出してアラゴン王国に助けを求めて避難した。
この事態を収拾しようと1409年にピサ公会議が開催され、ベネディクトゥス13世とローマのグレゴリウス12世の教皇位の廃位が宣言され、新教皇としてアレクサンデル5世を選出した。しかし、両教皇が退位を拒否したため3人の教皇が並立することとなり、アレクサンデル5世を継いだヨハネス23世の時代までもつれ込んだ。最終的に、この混乱は神聖ローマ皇帝ジギスムントの提唱で開催された1414~18年のコンスタンツ公会議で決着が付けられた。これにより3人の教皇位はすべて廃位され、唯一正統な教皇としてマルティヌス5世が選出された。結局、これまでの時代に7人の教皇(クレメンス5世、ヨハネス22世、ベネディクトゥス12世、クレメンス6世、インノケンティウス6世、ウルバヌス5世、グレゴリウス11世)と2人の対立教皇(クレメンス7世、ベネディクトゥス13世)がアヴィニョンを拠点とした。教皇が去った後、これまでのような繁栄は続かなかったが、フランス革命期まで教皇領としてありつづけ、教皇の特使が滞在した。
1475年にアヴィニョン司教区は教皇シクストゥス4世によって大司教区に昇格した。15世紀以降、フランスは教皇領に隣接して軍を駐屯させ、たびたび軍を侵攻させたり、買収や土地の交換を呼び掛けたが成功しなかった。ルイ13世の時代には宰相になる前のリシュリューがアヴィニョンに追放されている。ルイ14世は一時的にコンタ・ヴェネッサンを占領し、ルイ15世はやはり一時的ではあったがコンタ・ヴェネッサンとアヴィニョンを占領した。
1789年にフランス革命がはじまると領有権を巡る紛争に巻き込まれ、宮殿や大聖堂は略奪を受けた。1801年にナポレオン・ボナパルト(1804年からは皇帝ナポレオン1世)によって併合され、建造物群は接収された。この併合は1814~15年のウィーン会議で承認され、教皇領に戻ることはなかった。この時代に司教区への降格やローマ・カトリックの禁止などが行われたが、1822年に大司教区に復帰。教皇庁宮殿とその周辺は1906年まで軍によって管理された。
フランス革命後の19世紀はじめに歴史的建造物の修復が開始された。1840年頃に考古学者で歴史家・作家でもあるプロスペル・メリメがアヴィニョンを訪れてその価値を報告し、1860年代にはモニュメント修復の第一人者である建築家ウジェーヌ・ヴィオレ=ル=デュクが参加して修復・保全に努めた。18~19世紀に町の多くの建物が近代風に建て替えられたが、教皇や司教に関連した歴史的建造物群はこうして保存されることとなった。
世界遺産の資産としては、ローヌ川に突き出した北のサン=ベネゼ橋やロシェ・デ・ドン公園からプティ・パレ、ノートル=ダム・デ・ドン大聖堂を経て南の教皇庁宮殿までの一帯が地域で登録されている。アヴィニョン歴史地区は市壁に囲まれているが、その北に位置するほんの一角に限られている。
代表的な建造物として、まず教皇庁宮殿が挙げられる。14世紀の作家ジャン・フロワサールが「世界でもっとも要塞化された邸宅」と呼んだ宮殿で、ゴシック様式によるヨーロッパ最大級の宮殿として知られる。ふたつの「□」形のコートハウス(中庭を持つ建物)からなり、北に旧宮殿に当たるパレ・ヴィユー、南に新宮殿に当たるパレ・ヌフが並んでいる。もともとアヴィニョン司教のための宮殿が立っていた場所で、1310~20年代にヨハネス22世が一部を改築してパレ・ヴィユーの建設を開始した。これを大幅に拡張したのがベネディクトゥス12世で、1330~40年代に建築家ピエール・ポアソンの設計で建設された。ベネディクトゥス12世礼拝堂、コンシストワ・ウイング(ウイングは翼廊/翼棟/袖廊。複数の棟が一体化した建造物群の中でひとつの棟をなす建物)、コンクラーヴェ・ウイング、ファミリエ・ウイングという4つのウイングに囲まれたコートハウスで、カンパーン塔、トルイヤ塔、ラトリネス塔、クイジーヌ塔、サン=ジャン塔という5基の塔がそびえており、中心にクロイスターの中庭(クロイスターは中庭を取り囲む回廊)が広がっている。このうちコンクラーヴェ・ウイングのコンクラーヴェのサル(サルは部屋・広間)は迎賓館として使用されていた場所で、各地の国王や諸侯がここに滞在した。この下層階がパネテリーで、教皇や司祭、貧民らに食事を提供した。コンシストワ・ウイングのグラン・ティネルはコンクラーヴェに際して枢機卿と呼ばれる高位聖職者が集った48×10mほどの部屋で、かつてはタペストリーやフレスコ画で覆われていたが、こうした装飾は14世紀の火災で焼失した。フレスコ画で名高いのがサン=ジャン塔のサン=ジャン礼拝堂とサン=マルシアル礼拝堂だ。いずれもマッテオ・ジョヴァネッティのフレスコ画で覆われており、前者はイエスに洗礼を授けた洗礼者ヨハネとイエスの十二使徒のひとりである使徒ヨハネ(神学者聖ヨハネ/ゼベダイの子ヨハネ/福音記者ヨハネ)の物語、後者はリモージュのマルシアル(聖マルシアル)の生涯が描き出されている。
パレ・ヴィユーの南に位置するコートハウスがパレ・ヌフだ。主にクレメンス6世が1340~50年代に拡張した部分で、設計は建築家ジャン・ド・ルーヴルが担当した。パレ・ヴィユーとはコンクラーヴェ・ウイングを共有し、教皇のプライベート・アパルトマン(アパルトマンは居住区画)やシャンブル(寝室)、高官や侍従のウイング、クレメンス6世大礼拝堂などからなり、中央には大中庭(名誉の中庭)が広がっている。また、エチュード塔、アンジュ塔(パプ塔)、ジャルダン塔、ガルドゥ=ロブ塔、サン=ローラン塔、ガーシュ塔、アングレ塔の7基の塔があり、西に正門であるシャンポー門、東に教皇庭園に通じるペイロレリー門が設置されている。北はまさに教皇が生活を行ったウイングで、西は高官や侍従のためのウイング、正門のある西ファサードは教皇庁宮殿の顔となっている。クレメンス6世大礼拝堂は全長52m・幅15m・高さ20mほどの巨大なゴシック建築で、使徒のペトロとパウロに捧げられている。隣接する名誉の階段と呼ばれる螺旋状の階段はジャン・ド・ルーヴルの傑作として名高い。大謁見のサルもゴシック様式の大部屋で、全長52m・幅16.8m・高さ11mを誇る。かつてはマッテオ・ジョヴァネッティのフレスコ画『最後の審判』が描かれていたが、19世紀に破壊された。祭日には教皇がここから大中庭に顔を出し、聴衆に祝福を与えた。クレメンス6世のストゥディウムは狩猟の様子を描いた自然主義的なフレスコ画で知られ、牡鹿が描かれていることから牡鹿のシャンブルとも呼ばれている。画家の名前は明らかではないが、シエナ派の影響とルネサンスの萌芽を感じさせる作品で、国際ゴシックの象徴的な作品となっている。
教皇庁宮殿の東には教皇庭園群が広がっており、ベネディクトゥス12世庭園、クレメンス6世庭園、教皇庭園、司祭庭園といった庭園の中にボスコ(樹林)・花壇・菜園・噴水・水路・井戸などが点在している。
プティ・パレはもともとクレメンス5世の甥に当たる枢機卿ベランジェ・フレドールによって1320年頃に建設されたロマネスク様式の建物で、何人かの家主が拡張を行った。これをベネディクトゥス12世が購入し、司教宮殿として整備した。15世紀には大司教ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ(後の教皇ユリウス2世)が南・西ファサードをルネサンス様式で改築し、塔(後に倒壊)を増設した。フランス革命後は各種学校として使用されたが、現在は博物館として公開されている。13世紀シエナ派の作品から、シモーネ・マルティーニをはじめとする14世紀の国際ゴシックの絵画や彫刻、ボッティチェリなど15~16世紀のルネサンス様式の作品まで、教皇の時代と前後の時代の多くの作品を収蔵している。
アヴィニョンのノートル=ダム・デ・ドン大聖堂、通称アヴィニョン大聖堂はアヴィニョン司教区・大司教区の司教座聖堂だ。10世紀頃からこの場所には教会堂が立っていたようで、1150年頃にロマネスク様式で建て替えられた。バシリカ式(ローマ時代の集会所に起源を持つ長方形の様式)・単廊式(廊下を持たない様式)の教会堂で、ウェストワーク(教会堂の顔となる西側の特別な構造物。西構え)として1基の鐘楼を掲げたナルテックス(拝廊)が設けられている。この鐘楼は15世紀の再建で、頂部を飾る黄金の聖母マリア像は1859年に設置された。内部は時代時代の改修を受けており、アプス(後陣)については17世紀の再建で、ヨハネス22世やベネディクトゥス12世の墓廟はゴシック様式、身廊やクワイヤ(内陣の一部で聖職者や聖歌隊のためのスペース)はバロック様式で改装されている。装飾としては「三人の生者と三人の死者」をテーマとしたフレスコ画や、シモーネ・マルティーニの作品と見られるシノピエ(フレスコ画の下絵)がよく知られている。大聖堂に隣接して4基の礼拝堂と2基の墓廟、1基の聖具室があり、墓廟はヨハネス22世とベネディクトゥス12世のものとなっている。
サン=ベネゼ橋はアヴィニョン橋とも呼ばれる橋で、最初の橋は1177~85年に建設された。当時、ローヌ川の流れが速いため架橋は不可能とされていたが、神の加護を受けたという羊飼いのベネゼが現れて橋の建設を呼び掛け、アヴィニョン司教が着工したという。数々の奇跡が起きたことで橋は竣工を迎え、ベネゼは後に列聖(徳と聖性を認めて聖人の地位を与えること)されている。この橋が1226年にルイ8世率いるアルビジョワ十字軍によって破壊されると、1234年に再建がはじまり、全長900m・幅5mほどで22のアーチを持つ石造アーチ橋が完成した。フランスと教皇領を結んでいたため検問所や税関が設置され、国境のチェックや関税の徴収が行われた。有名な『アヴィニョンの橋の上で』という歌に出てくるアヴィニョンの橋がサン=ベネゼ橋で、15世紀頃の作曲と伝えられている。1603年・1605年・1633年と洪水が相次いで状態が悪化し、1669年の洪水で多くが流されて放棄された。現在は4基のアーチが残るのみで、バルトゥラス島に橋脚の遺構が残されている。アーチは半円よりも浅い弓形で、それがスタイリッシュな姿を演出している。橋の途中にはロマネスク様式のサン=ニコラ礼拝堂がたたずんでおり、川岸ではゲートハウスでもあるシャトレ塔が橋と市壁を接続している。
ローヌ川に面したロシェ・デ・ドンは「ドーム岩」を意味する岩場の丘で、一帯を見下ろすことができる。市壁と断崖に守られており、城砦の役割を果たしていた。新石器時代や青銅器~鉄器時代の遺物が出土することでも知られる。19世紀に公園として整備され、その後イギリス式庭園(自然を模したイギリスの風景式庭園)に改装され、池や噴水・樹木・畑・記念碑・彫像などが調えられた。
本遺産は登録基準(vi)「価値ある出来事や伝統関連の遺産」でも推薦されていたが、その価値は認められなかった。
アヴィニョン歴史地区の建造物群は中世の宗教・行政・軍事建築の卓越した例を提示している。
アヴィニョン歴史地区は14世紀から15世紀にかけて特に芸術と建築の分野においてヨーロッパの広範囲に影響を及ぼした重要な交流があったことを立証している。
アヴィニョン歴史地区は教皇庁の歴史における重要なエピソードと関連した中世後期の際立った建造物グループを構成している。
歴史都市の中心に位置するこの記念碑的な都市建造物群は、その栄枯盛衰の歴史にもかかわらず完全性を保っている。教皇庁宮殿はやがて特使や使節の宮殿となり、フランス革命後は兵舎に改装されたが、20世紀初頭にはその威厳と歴史にふさわしい用途に復帰した。ノートル=ダム・デ・ドン大聖堂もその機能と完全性を保持している。また、その歴史が川の特徴と密接に関連したサン=ベネゼ橋はゲートハウスへのアクセスや4基のアーチがいまも維持されており、その保存状態のよさも手伝ってその歴史と重要性を証言している。
全体的に、歴史的な変遷にもかかわらずアヴィニョン歴史地区を構成する建造物群は建築の一貫性の評価を可能とし、それが示す顕著な普遍的価値を表現するのに十分な真正性を保持している。
教皇庁宮殿は幾度もの改築にもかかわらず、教皇の居室とサン=マルシアル礼拝堂の貴重な絵画装飾の保護を可能にするさまざまな修復キャンペーンにより一定の真正性を回復した。司教宮殿も同様で、大聖堂はバロック期の改築にもかかわらずその建築的完全性を保っている。