フランス南西部ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏のヴィエンヌ県サン=サヴァンに位置する修道院教会で、ロマネスク建築をベースにゴシック様式のスパイア(ゴシック様式の尖塔)を加えた優美なシルエットで知られる。特に11~12世紀に描かれたロマネスク様式のフレスコ画はきわめて評価が高く、バチカン(世界遺産)の礼拝堂になぞらえて「ロマネスク様式のシスティーナ礼拝堂」の異名を持つ。
なお、本遺産は1983年に「サン=サヴァン・シュル・ガルタンプの教会 "Church of Saint-Savin-sur-Gartempe"」の名称で世界遺産リストに登載され、2006年に「修道院 "Abbey"」を加えて現在の名称に変更された。
また、2007年の軽微な変更でバッファー・ゾーンが設定され、2015年の軽微な変更では教会堂のみに限定されていた資産を周囲の修道院施設や庭園に拡大して資産面積が0.16haから1.61haに増加、2024年の軽微な変更ではバッファー・ゾーンが大幅に拡大された。
伝説によると5世紀頃、敬虔なキリスト教徒だったスリジエのサヴァン(聖サヴァン)と兄のシプリアン(聖シプリアン)のふたりが迫害を受けて故郷マケドニアを脱出し、フランスの修道院に退避した。修道士として活動を行っていたが、やがてガルタンプ川の川岸で斬首されて殉教し、近郊に埋葬されたという。
約300年後の8世紀、フランク王であるカール大帝の時代にふたりの遺物が発見され、大帝の秘書官で聖職者でもあったバディロスがこれらを聖遺物として収める修道院の設立を決定した。カール大帝はガリア(ライン川からピレネー山脈、イタリア北部に至る地域。おおよそ現在のフランス・ドイツ西部・イタリア北部に当たる)征服に際して人々にキリスト教への改宗を強要し、各地に教会堂や修道院を建設して教会ネットワークを整備して支配体制を固めていた。カール大帝の三男で敬虔なキリスト教徒でもあったルートヴィヒ(後のフランク王ルートヴィヒ1世/ルイ1世/ルイ敬虔王)は「第2のベネディクトゥス」との異名を持つアニアーヌのベネディクトを顧問官としていたが、ルートヴィヒは彼と約20人の修道士をこの新しい修道院に送り込んだ。アニアーヌのベネディクトはベネディクト会を建てたヌルシアのベネディクトゥス(聖ベネディクトゥス)の戒律に従った厳格な修道院生活を実施。修道院はサン=サヴァン・シュル・ガルタンプ(ガルタンプ川沿いの聖サヴァン)と呼ばれ、王家の庇護の下で発展した。
1010年、アキテーヌ公でありポワティエ伯でもあったギヨーム5世の妻であるオーモード夫人が修道院に多額の寄付を行った。これを原資に1040~90年頃にかけて新たな修道院教会が建設された。これが現在見られるロマネスク様式の教会堂だ。さらに完成後の1095~1115年頃には身廊の天井画をはじめとするフレスコ画が描かれた。その後もポワティエ伯アルフォンスの寄進を受けるなど、多くの貴族に愛されたフランス中部の中心的な修道院となった。
その後、フランスとイングランドの間で争われたアンジュー帝国を巡る混乱や百年戦争(1337〜1453年)などで領主がたびたび替わり、一帯は不安定化して徐々に衰退。16世紀の宗教改革ではローマ・カトリックを支持する旧教派とカルヴァン派プロテスタントである新教派=ユグノーの争いが激化し、ユグノー戦争(1562~98年)で旧教派とユグノー双方の攻撃を受けていくつかの建物と資料が焼失した。1547年に修道院長選挙が廃止されて国王が修道院長を任命するようになると、修道院に関心のない修道院長が相次いだ。このため施設の解体・売却が進められ、1611年には修道士が追放された。こうして17世紀前半にはほとんどの建物が姿を消した。
フランス王ルイ13世はこうした事態を憂慮し、修道士を追放した修道院長を罷免し、1640年にヌアイエ=モーペルテュイ修道院からベネディクト会の一会派であるサン=モール会の修道士を送り込んだ。修道士たちは1682~92年にかけて破壊された建物の修復を進め、僧院やチャプター・ハウス(会議室・集会所)、聖具室、食堂などを兼ねた修道院施設や修道院長邸を再建し、修道院としての活力を取り戻した。
しかし、1789年にはじまるフランス革命で非キリスト教化運動が進んでふたたび荒廃し、1792年にはすべての修道士が去って廃院となった。修道院教会は地域の教区教会となり、修道院の施設は憲兵隊の施設などに転用された。1833年にはフレスコ画が塗り直されようとしていたが、歴史的建造物の監察官が警告を発して中止された。1836年には監察官で歴史家でもあるプロスペル・メリメがこの地を訪れて緊急の修復が必要であることを確認し、教育大臣だったフランソワ・ギゾーにその重大性をアピールして保護の必要性を訴えた。この結果、1840~49年にかけて大規模な修復作業が進められた。
世界遺産の資産として、修道院教会と周辺の施設・庭園が地域で登録されている。もともと1983年に世界遺産リストに登載された際は修道院教会に限定されていたが、2015年の軽微な変更で周辺施設と庭園に拡大された。
修道院教会は「†」形のラテン十字式・三廊式(身廊とふたつの側廊を持つ様式)で、全長76m・幅31mを誇るロマネスク様式の教会堂だ。東のアプス(後陣)の半円部分には5基の放射状祭室があり、それぞれ礼拝堂を備えている。トランセプト(ラテン十字形の短軸部分)にも2基のアプスがあり、中央には正方形の平面で頂部にピラミッド形の屋根を持つクロッシング塔(十字形の交差部に立つ塔)が立っている。特徴的なのが西端のウェストワーク(教会堂の顔となる西側の特別な構造物。西構え)で、鐘楼とエントランスを兼ねた鐘楼ポーチがそびえている。その頂部はゴシック様式の尖塔であるスパイアで、高さ77mとひときわ高くサン=サヴァンのランドマークとなっている。修道院教会の多くは11世紀に建設されているが、鐘楼ポーチの基部やトランセプト、クロッシング塔の一部などにカロリング朝期の旧修道院教会の跡が残っており、スパイアについては14世紀の増設で1877年に修復されている。
修道院教会の内部について、身廊は高さ17mと高く、植物文様の柱頭装飾を持つ大理石塗装の円柱が天井を支えている。身廊の筒型ヴォールト(筒を半分に割ったような形の連続アーチ)天井は11~12世紀に描かれたフレスコ画で覆われている。トランセプトから飛び出した南北のアプスには天使と使徒に捧げられたふたつの礼拝堂が設置されている。アプスは至聖所の主祭壇と、周歩廊の外側に5基の放射状祭室が設けられており、円柱やステンドグラスで飾られた華やかな空間となっている。放射状祭室の礼拝堂は聖母マリアやスリジエのサヴァン、シプリアン、モーリエンヌのマリンらに捧げられている。また、地下にはクリプト(地下聖堂)があり、スリジエのサヴァンとシプリアンの聖遺物が収められていたが、現在は行方不明となっている。
フレスコ画について、生乾きの漆喰の上に顔料で絵や模様を描くブオン・フレスコ(湿式フレスコ)や、半乾燥の漆喰の上に描くメッゾ・フレスコ(半湿式フレスコ/セミ・フレスコ)、乾燥した漆喰の上に描くフレスコ・セッコ(乾式フレスコ)といった技法が組み合わされており、漆喰への顔料の浸透具合をコントロールして色彩や明暗を操作した。特に評価が高いのが身廊の天井画だ。地上17mの高さに広がる420平方m(UNESCO資料より。公式サイトでは460平方m)の天井画はロマネスク様式最大を誇る。絵のテーマは『旧約聖書』の「創世記」と「出エジプト記」の物語で、天地創造、アダムとイブ、カインとアベル、ノアの方舟(はこぶね)、バベルの塔、アブラハムとロト、モーセの出エジプトなど約50の場面が描き出されている。鐘楼ポーチにはアニアーヌのベネディクトやカール大帝、ルートヴィヒ1世をはじめ修道院に関係の深い偉人が描かれているほか、聖母子像やイエスの受難、大天使ミカエル、『新約聖書』の「ヨハネの黙示録」の場面などが見られる。また、クリプトにはイエスのほか、スリジエのサヴァンとシプリアンの生涯が描かれている。
修道院教会の南に広がる修道院施設や庭園の多くは1682~92年に再建されたもので、中世の修道院のレイアウトに沿って設計されている。修道院施設は修道院教会の南翼廊と接続されており、修道士たちは直接行き来することができた。施設の1階には食堂やチャプター・ハウス、キッチン、聖具室等があり、2階は僧院となっていた。さらに南には塔を備えた修道院長邸があり、こちらも修道院施設と接続されている。現在、これらの建物は受付やレストラン等として使用されている。
サン=サヴァン・シュル・ガルタンプの修道院教会は11世紀および12世紀の天井画・壁画の傑作を有している。その際立った特徴は中世の西方キリスト教文化における表現と絵画の芸術の証となるその並外れた装飾によるものである。壁面は説話的な物語を描いた絵で覆われ、優雅さと動きに満ちた色彩と構図が用いられている。こうした芸術形態はこの時代にピークに到達したものだ。この記念碑的なスタイルと図像の広範さはサン=サヴァン・シュル・ガルタンプに与えられた「ロマネスク様式のシスティーナ礼拝堂」という異名にふさわしいものである。
サン=サヴァン・シュル・ガルタンプの修道院教会は中世の思考法を反映するものであり、当時、主要教育現場であると考えられていた修道院の建物における図像の重要性を証明するものである。また、壁面に広がる豊富な図像は中世の文化とその表現法・思想の伝播を示す顕著な証である。これらの図像で示された聖書のテーマには西方キリスト教文化の時事的なテーマも含まれている。
修道院教会が誇る並外れた量の天井画や壁画は印象的であり、特に420平方mを誇る天井画は同じキャンパスに描かれた一枚絵としてはロマネスク最大を誇るものであり、独創的な芸術的表現にあふれ、保存状態もすぐれている。14世紀に一部の装飾が改装されており、クワイヤ(内陣の一部で聖職者や聖歌隊のためのスペース)には古い装飾が見られないが、建物のほとんどあらゆる場所に天井画や壁画が見られ、ロマネスク時代の作品の割合が高いことが確認できる。修道院教会の上空にそびえ立つゴシック様式のスパイアはそのシルエットで周辺の景観を際立たせている。隣接する修道院施設は宗教改革で破壊され、17世紀に再建されたものだ。修道院教会は定期的に修復を受けており、修道院教会と修道院施設の現在の保存状態は十分であると判断できる。
周壁に囲まれた修道院は11世紀から12世紀にかけてのロマネスク絵画の真の傑作を保持している。19世紀に行われた柱の塗装やハーフ・ドームの装飾などの修復作業、今日までの退色、ミニウムに見られるような変色、いくつかの場面における背景の消失にもかかわらず、その彩色装飾の大部分は保存されている。17世紀に建てられた修道院の建造物群の中にも保護されている建物や歴史的建造物に指定されている建物があり、クロイスターのように修道院としての特徴を失っている部分はあるものの、真正性は保たれている。