サン=テミリオン地域はヌーヴェル=アキテーヌ地域圏ジロンド県の都市サン=テミリオンとその周辺7つのコミューン(自治体)に広がる一帯で、ブドウ栽培に適した土壌や気候を活かしてローマ時代からワイン生産で名を馳せた。一帯はブドウ栽培とワイン生産に関する産業遺産や、ワイン産業で発達した畑や都市・村落を中心とした文化的景観、あるいはサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路(世界遺産)の「トゥールの道」の途上であったことから巡礼地としての景観が折り重なり、その長い歴史と卓越した文化を物語っている。
世界遺産名の "Jurisdiction" は12世紀以降のイングランド統治時代に設置されたサン=テミリオンの統治機関でありワインの生産管理機構でもあるジュラード "Jurade" の管区を意味する。このジュラードの厳しい管理体制がサン=テミリオンの赤ワインを世界レベルに引き上げた(詳細は「資産の歴史」参照)。
なお、資産に含まれている8つのコミューンは以下となっている。
サン=テミリオン周辺では紀元前35000~前10000年前までさかのぼる後期旧石器時代の人類の居住の跡が残されている。また、一帯では紀元前5千~3千年紀のメガリス(巨石記念物)が発掘されており、特に高さ5.2m・推定重量50tを誇るピエルフィットのメンヒル(立石)はフランス南西部最大のメンヒルとして知られている。
紀元前3世紀頃にサン=テミリオンの西30kmほどに港湾都市ブルティガラ(現・ボルドー。世界遺産)が成立し、アルモリカ(フランス北西部のセーヌ川とロワール川に挟まれた地域)やブリタンニア(グレートブリテン島南部)などとの交易で繁栄した。紀元前56年の共和政ローマによるアキテーヌ征服でその支配下に入り、この時代に最初のブドウがガロンヌ川河畔に植えられたと伝えられている。ガロンヌ川はピレネー山脈に水源を持つ大河で、ボルドーでドルドーニュ川と合流してジロンド川に名を変える。現在、ガロンヌ川とジロンド川の左岸(西岸)は一般的にボルドー左岸、サン=テミリオンのあるドルドーニュ川流域を含む右岸(東岸)はボルドー右岸と呼ばれ、いずれもワインの世界的な名産地として知られている。
ドルドーニュ川右岸に位置するサン=テミリオンの地にも紀元前1世紀にはケルト系ガリア人のオッピドゥム(城郭都市)が成立していた。その後、共和政ローマの版図に入り、ブルティガラの衛星都市として栄えた。ただ、1世紀後半に皇帝ドミティアヌスがイタリア外でのワイン生産を制限したため、サン=テミリオンでのブドウ栽培は2~3世紀に持ち越されたようだ。一説では軍人皇帝時代(各地の軍団が皇帝を擁立した235~285年の皇帝乱立時代)の皇帝マルクス・アウレリウス・プロブスが自身の軍団を使って丘の上の森を伐採し、ヴィティス・ビトゥリカという種にアナトリアのポカイアのブドウを接ぎ木して大規模なブドウ園を造園したのがはじまりであるという(異説あり)。この時代から風光明媚な土地柄だったようでローマ人のヴィッラ(別荘・別邸)が盛んに築かれ、4世紀にはブルティガラ出身の詩人デキムス・マグヌス・アウソニウスがこの地に隠居している。アウソニウスはワインを愛し、自ら畑も持っていたと伝わっており、ボルドーのワインを讃える数々の詩を残している。一説では彼の畑があった場所に広がるブドウ園がシャトー・オーゾンヌとされるが、確証はない。
ローマ時代にキリスト教が伝わり、7世紀に最初の修道院が建設された。聖餐(せいさん。最後の晩餐)でイエスが「私の血である」とワインを十二使徒に分け与えたという『新約聖書』の物語もあって、キリスト教の広がりとともにワイン生産も増し、修道院も修道院ワインの生産を通してワイン産業の拡大に貢献した。
8世紀はじめ、フランス北西部ブルターニュ地方のヴァンヌでエミリオンが誕生する。エミリオンは伯爵家に仕えていたが、同家のパンを貧しい農民に配るなど正義と慈愛に満ちた行いで知られていた。ある日、いつものようにマントの内側にパンを持って出掛けるエミリオンだったが、伯爵に見つかって隠しているものを出すよう追求されてしまう。伯爵がマントを取り去るとパンは薪に姿を変えており、薪は農村でパンに変化して人々の飢えを救ったという。農民たちはエミリオンを崇めるが、修道院の怒りを買って同地を去らざるをえなかった。エミリオンはボルドーの北に位置するソジョンのベネディクト会修道院で修道士となり、パン職人として時を過ごした。修道院でも釜の中に入って無傷で出てくるなど数々の奇跡を起こすが、巡礼者が相次いだことから同地を去り、アスクンバス郊外のコンブの断崖の洞窟を庵として隠遁生活に入った。エミリオンは数少ない弟子たちと自然の中で静かに過ごしつつ、盲目の女性の視力を回復したり、不妊の女性に子を授けるなど数々の奇跡を起こしたという。エミリオンが767年に亡くなると弟子たちは断崖に穴を掘って墓を築いた。庵があった場所がサン=テミリオンのトリニテ礼拝堂(三位一体礼拝堂)のエルミタージュで、墓の上に築かれた教会堂がモノリス教会だ。エミリオンは後に列聖されてコンブの聖エミリオンと呼ばれたが、聖エミリオンはフランス語でサン=テミリオンとなる。
10世紀後半からガリア(ライン川からピレネー山脈、イタリア北部に至る地域。おおよそ現在のフランス・ドイツ西部・イタリア北部に当たる)でもサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼が開始され、11世紀にはガリア全域に巡礼路が整備された。聖エミリオン臨終の地となったアスクンバスはパリ(世界遺産)とサン=ジャン=ピエ=ド=ポルを結ぶトゥールの道の巡礼地のひとつとなり、いつしかサン=テミリオンの名で呼ばれるようになった。周辺の道や橋が整備され、町では修道院や教会堂・礼拝堂、宿泊施設や病院が建設されて多くの巡礼者でにぎわった。11~13世紀には町の規模に似つかわしくない立派な建物が多く建てられたが、一帯で建材に適した石灰岩が産出することが大きく寄与した。資産にはこの時代のロマネスク様式の教会堂が数多く含まれている。
フランス西部は5世紀に西ゴート王国、6世紀にフランク王国、9世紀に西フランク王国の版図となった。987年にカロリング朝が断絶してカペー朝に移行してから西フランク王国は一般的にフランス王国と呼ばれるが、カペー家の支配域はパリ周辺のイル=ド=フランス地方に限られており、地方は諸侯によって統治されていた。この頃、アキテーヌ地方を治めていたのはアキテーヌ公国だが、1152年にアキテーヌ公であるアリエノール・ダキテーヌがアンジュー伯・ノルマンディー公・メーヌ伯を兼ねるアンジュー家のアンリと結婚したことからアンジュー家の勢力が拡大。アンリが1154年にヘンリー2世としてイングランド王位に就くとイングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランドをも得てアンジュー帝国を打ち立てた。この過程でアキテーヌ地方をはじめノルマンディー、ブルターニュ、ロワールといった地方がイングランド領に組み込まれたためフランスとの関係は悪化の一途をたどり、この時代から百年戦争(1337〜1453年)の終わりまで戦争を繰り返すこととなった。
1199年にイングランド王ジョンはサン=テミリオンを自由都市として市民に管理権を与え、1289年にはエドワード1世によって権利が拡張された。サン=テミリオンの統治機関は「ジュラード "Jurade"」と呼ばれ、行政・司法・経済機関として機能しただけでなく、ワインの生産量や品質の管理をも担い、基準をクリアしたワインにジュラードの称号を与えた。そしてサン=テミリオンからもたらされる高品質のワインはイングランドの貴族を魅了し、王や重要人物への贈り物として珍重され、「王家のワイン」「名誉のワイン」などと讃えられた。13世紀にはイングランドとのワイン交易が大いに盛り上がり、サン=テミリオンも立派な市壁に囲われた城郭都市となった。
百年戦争でサン=テミリオンはイングランドとフランスの間を行き来したが、ボルドー地方の領有権を巡って戦われた1453年のカスティヨンの戦いでフランスが勝利し、百年戦争に終止符が打たれた。カスティヨンの戦いの降伏の調印が行われた場所がサンテティエンヌ=ド=リスのシャトー・ド・プレサックだ。これをもって一帯は正式にフランス領となり、フランス王シャルル7世が町の再建を支援した。フランス領となってもジュラードは維持されたが、以降はワインの生産管理を主要業務とし、品質管理や詐称・低品質ワインの取り締まり、春祭りや「バン・ド・ヴァンダンジュ」と呼ばれる収穫宣言などを取り仕切った。
16世紀後半、宗教改革の波が押し寄せ、カルヴァン派プロテスタントである新教派=ユグノーと旧教派=ローマ・カトリックとの争いが激化した。ユグノー戦争(1562~98年)でサン=テミリオンは両派の攻撃と支配を受けて荒廃した。特に修道院や教会堂・礼拝堂といった歴史的建造物はユグノーの的となり、多くが破壊された。これにより一帯の中心は近郊のリブルヌに移った。ただ、17世紀後半になるとルイ14世によってミディ運河(世界遺産)が開通し、運河とガロンヌ川によって太平洋と地中海が結ばれた。これを利用してサン=テミリオンを含むボルドーのワインが地中海各地へ輸出され、ワイン産業が盛り返した。しかし、1789年にはじまるフランス革命でふたたび町は荒廃し、市壁をはじめ多くの建物が解体された。この頃、ジュラードも解散された。
サン=テミリオンがふたたび飛躍するのは1852年にはじまるナポレオン3世の第2帝政の時代だ。この時代に産業革命が一気に進展し、1853年にパリとボルドーを結ぶ鉄道が開通して流通が大幅に改善された。フランス北部やフランドル地方、イギリスなどでそれまで一般的だった白ワインに代わって赤ワインが大いに人気を博し、高く評価された。ナポレオン3世の勅令で開催された1867年のパリ万国博覧会(以下、万博)ではサン=テミリオンのワインがゴールド・メダルを獲得し、1889年のパリ万博では最高賞のグラン・プリ・コレクティフを受賞した。ナポレオン3世の積極的な売り込みもあり、サン=テミリオンの名は最高品質のワイン生産地として世界に響き渡った。
19世紀末のフィロキセラ(ブドウネアブラムシ)の大流行でヨーロッパのブドウは大打撃を受け、アメリカのブドウ品種の接木によってなんとか回復した。そんな中でもサン=テミリオンのワイン生産者の意識は高く、高い品質を維持しつづけた。1884年にサン=テミリオンのワイン生産者は組合を設立し、1931年にはボルドーで最初のワイン栽培協同組合となった。1948年にはジュラードを復活させて厳しい管理を再開した。原産地統制呼称制度A.O.C.によるサン=テミリオン・ワインの格付けは1954年に開始され、リュサック・サン=テミリオン、ピュイスガン・サン=テミリオン、サン=テミリオン、サン=テミリオン・グラン・クリュという4つの等級が定義され、1984年に後者2つに縮小された。現在は上級のプルミエ・グラン・クリュ・クラッセとその下のグラン・クリュ・クラッセの2等級で、プルミエ・グラン・クリュ・クラッセはAとBに分かれているため実質的に3等級にクラス分けされている。
現在、サン=テミリオンには5,450haのブドウ園に約700のワイン生産者がおり、年間約23,000,000lのワインが生産されている。特徴はそのほとんどが赤ワインであるという点で、それも単独の品種ではなく、複数の黒ブドウ品種がブレンドされている。特に重要な品種が、果物のような豊穣さを持つメルロー(同地のブドウ品種の約60%)と、スパイシーで香り高いカベルネ・フラン(同約30%)、重厚で濃厚なタンニンを持つカベルネ・ソーヴィニヨン(同約10%)の3品種で、これらに加えてマルベック、カルメネール、プティ・ヴェルドが栽培されている。
こうしたブドウ品種の多様性は土壌と気候の特性に由来する。聖エミリオンが石灰岩の洞窟で過ごしたように、一帯の地層は水に溶けやすく侵食されやすい石灰岩層を主とするが、砂岩層も見られ、これらの岩石が風化して生まれた微細な砂からなる粘土石灰質と粘土砂利質の土壌が混在している。粘土石灰質の土壌はサン=テミリオンの町を含む南の丘陵地帯に多く、「コート」と呼ばれている。一方、粘土砂利質の土壌は北の盆地に多く、こちらは「グラーヴ」といわれる。水はけのよいコートはメルローに適しているのに対し、グラーヴはカベルネ・フランやカベルネ・ソーヴィニヨンに適しているとされる。
気候は暖流のメキシコ湾流の影響を受けた穏やかな海洋性気候ながら、海から離れていることもあって内陸性気候の特徴も併せ持ち、乾燥した暑い夏と雨が多く穏やかな冬、ブドウの成熟を促す晴れやかな秋、昼夜の大きな気温差を特徴としている。
こうしたテロワール(耕作における環境的特性)がもたらすサン=テミリオンの赤ワインはボルドー左岸のカベルネ・ソーヴィニヨン主体の重厚なワインと比較して滑らかで柔らかく豊穣で、こうした唯一無二の特徴が世界中のワイン・マニアを魅了している。
世界遺産の資産は7,847haで、12世紀にイングランド王ジョンが定めたジュラードの管区に対応しており、8自治体(サン=テミリオン、サン=クリストフ=デ=バルド、サン=ローラン=デ=コンブ、サンティポリット、サンテティエンヌ=ド=リス 、サン=ペ=ダルマン、サン=シュルピス=ド=ファレラン、ヴィニョネ)にまたがって地域で登録されている。
まず代表的なシャトーを紹介するが、「シャトー "château"」はもともと城や要塞・砦といった軍事施設を示すラテン語の「カステルム "castellum"」に由来する。やがて地方に築かれた貴族の居城や要塞化されたカントリーハウス(貴族や富農が地方に築いた豪邸)がシャトーと呼ばれるようになり、一般的に貴族が住む離宮を意味するようになった。なお、主要都市に築かれた宮殿はフランス語で「パレ "Palais"」と呼ばれて区別されている。そして郊外に築かれたシャトーは広大な土地を利用してブドウ栽培を行っていたため、ボルドー地方では権威あるブドウ農園も同様にシャトーを呼ばれるようになった。
こうした農園は一般的に石壁で仕切られた内側にブドウ園を持ち、一角に醸造所や熟成のためのワイン・カーヴ(貯蔵庫/セラー)、人をもてなしたり商談を行うための城館が設けられている。サン=テミリオンでは石灰岩を掘り抜いた地下室や、地元の石灰岩を組み上げてタイル張りの木造屋根を架けた長方形の倉庫を利用するのが一般的で、城館は19世紀に築かれた新古典主義様式(ギリシア・ローマのスタイルを復興したグリーク・リバイバル様式やローマン・リバイバル様式)や歴史主義様式(中世以降のスタイルを復興したゴシック・リバイバル様式やネオ・ルネサンス様式、ネオ・バロック様式等)の建物が多い。一方、醸造施設については最先端の設備が導入されており、伝統的な手摘みや有機農法と科学的な醸造法を両立させている。
サン=クリストフ=デ=バルドのシャトー・ラロックは「ラロック」が「岩」を意味するように、サン=テミリオンを見下ろす石灰岩の丘陵地に建てられた広大なシャトーだ。中世封建貴族の城が原型で、華麗な宮殿から「プティ・ヴェルサイユ(小ヴェルサイユ)」と呼ばれていた。17世紀に侵略を受けて多くの建物が破壊されたが、12世紀の塔がほぼ無傷で残されているほか、ロシュフォール・ラヴィ侯によって多くが建て直された。1929年の世界恐慌で同家の手を離れてブドウ栽培も中止されたが、1935年にボーマルタン家が購入して事業を再生した。粘土石灰質の土壌を活かしたメルローの名産地で、生産量の9割弱をメルローが占め、一部でカベルネ・フランを栽培している。
サンテティエンヌ=ド=リスのシャトー・ド・プレサックは14世紀からの歴史を持つ伝統あるシャトーで、1453年7月20日にカスティヨンの戦いにおけるイングランドの降伏が調印された場所として知られている。かつては城壁に囲われており、中世から近世にかけて城壁に沿って築かれた27基の塔が残されている。1737~47年にオーセロワと呼ばれるブドウ品種を持ち込むと「ノワール・ド・プレサック(プレサックの黒)」と呼ばれるようになり、これをマルベック氏がボルドー一帯に広めたことでマルベックとして知られるようになった。1860年にコンスタンティン家からジョゼリン家に所有権が移行すると、現在見られるゴシック・リバイバル様式の邸宅が建設された。1997年にカンタン家が取得してブドウ園を大幅に改良・拡張したことで高品質のワインが量産されるようになった。シャトーには粘土石灰質と粘土砂利質の土壌がどちらも見られることからメルローやマルベックを中心に6品種のすべてが栽培されている。
サンティポリットのシャトー・フェランはドルドーニュ渓谷を見下ろす丘陵地に位置し、1702年にエリー・ド・ベトゥローによって創設された。エリー・ド・ベトゥローは弁護士だったが文学や芸術を愛し、詩人や画家・建築家としても知られ、シャトーの邸宅や庭園もこだわり抜いて造営した。特に名高いのが山腹に穿たれたグロッタ(洞窟)で、ローマの神々の彫像を配して飾り立てたという。1977年に男爵家であるビック家が購入すると畑の改革に乗り出し、土地の整備と近代化を進めた。粘土石灰質の丘に位置するが、砂岩の砂利質の土壌も多く、水はけが非常によいのが特徴で、ほとんどがメルローの畑となっており、一部でカベルネ・フランやカベルネ・ソーヴィニヨンを栽培している。
サン=テミリオンのシャトー・オーゾンヌはボルドー8大シャトーのひとつに数えられる名シャトーで、ワインの生産量が少ないことから「幻のワイン」として有名だ。シャトーのある丘は良質な石灰岩が採れることから古くから採石場となっており、職人たちのために礼拝堂やクリプト(地下聖堂)が建設された。丘の中腹は粘土石灰質の土壌で中世からブドウが栽培されており、16世紀にブルティガラの詩人アウソニウスにちなんでシャトー・オーゾンヌの名が使われるようになった。採石場の地下施設などもカーヴとして改装され、使用された。1867年のパリ万博でサン=テミリオンのワインの名声はヨーロッパ中に轟いたが、特にシャトー・オーゾンヌの評価はきわめて高かった。栽培量の半分以上はカベルネ・フランで、メルローも多く栽培されているのに対し、カベルネ・ソーヴィニヨンはわずかに留まっている。
サン=テミリオンのシャトー・シュヴァル・ブランは「白馬の城のシャトー」を意味し、こちらもボルドー8大シャトーのひとつに数えられている。遅くとも15~16世紀にはブドウの栽培が確認されており、シャトー・フィジャックの管理下に入っていた。この土地を1832年に裁判官ジャン=ジャック・デュカスが購入し、娘のアンリエットとその夫であるワイン商人ジャン・ローサック=フルコーが引き継いだ。夫妻は排水システムの導入による土地の改良や栽培の近代化を推し進め、ブドウ品種についても砂利質や粘土砂利質の土壌を活かしてカベルネ・フランとメルローをほぼ1:1で生産した。当初はシャトー・フィジャックの名前でワインを生産したが、1852年にシュヴァル・ブランの名がはじめて冠された。1878年のパリ万博でゴールド・メダルを獲得して大きく飛躍し、名門として認知された。
サン=テミリオンのシャトー・カノンは1760年に私掠船(自国の許可を得て他国の船を襲う権利を与えられた武装船)の船長ジャック・カノンが築いたシャトーだ。ジャック・カノンは船で世界中を巡る生活を行っていたが、この生活を続けるか、陸上に居を定めるか迷った挙げ句、この地を購入して定住生活を選んだという。カノンはすばらしい土壌であることを確信し、邸宅やブドウ園を造って石壁で取り囲み、ワインの生産を開始した。南西に石灰岩の丘、周辺に粘土石灰質の土壌が広がっており、当初はメルローのみを生産していたが、現在は1/5~1/4ほどがカベルネ・フランに当てられている。1996年にシャネルのオーナーであるヴェルテメール家がシャトーを購入したことはよく知られている。サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路の途上でもあり、礼拝堂の遺構などが残されている。
サン=テミリオンのシャトー・トロロン・モンドのあるモンドの地はもともとシャトー・パヴィのブドウ園の一部で、1745年にセーズの司祭レイモンがシャトーとして確立し、1850年に町の有力者だったレイモン・トロロンが完成させた。一帯はサン=テミリオンの最高所に位置しているため日当たりと排水性にすぐれ、石灰岩と粘土石灰質の土壌がメルローの味わいを際立たせている。カベルネ・ソーヴィニヨンやカベルネ・フランも作られているがその量はわずかだ。シャトーの邸宅を利用したレストラン、レ・ベル・ペルドリも非常に評価が高く、ミシュランの常連として知られている。
サン=テミリオンのシャトー・ラローズの地では1610年からグーシー家によってブドウが栽培されていた。1882年にジョルジュ・グーシーの元にメラン家のペトロニーユ・エメ・ネリー・ショレが嫁入りしてグーシー・メラン家となり、夫婦でシャトー・ラローズを切り拓いた。特に当時ほとんど存在しなかった女性実業家として活躍したペトロニーユの功績は大きく、女性的でソフトかつエレガントなワインの性格は彼女に由来するといわれている。丘の中腹のシャトーで、粘土石灰質と珪質の土壌を利用して主としてメルロー、次いでカベルネ・フランを栽培しており、他にカベルネ・ソーヴィニヨン、マルベック、プティ・ヴェルドを少量生産している。選別や熟成に先端的な機器や技術を使用しつつ、収穫を手作業で行うなど、伝統と科学の融合が図られている。
サン=テミリオンのシャトー・ラ・ガフリエールはローマ時代からブドウ園があったとされる歴史あるシャトーで、15世紀頃までハンセン病患者を収容する施設があり、患者の持つ鉤付きの杖(ガフ)からその名が付いたとされる。一方、マレ・ロックフォール家は1066年のヘイスティングスの戦いの功績でイングランド王ウィリアム1世によって貴族として取り立てられ、代々のフランス王に仕えた名家として知られる。一帯は1654年にマレ・ロックフォール家の土地となり、シャトー・ラ・ガフリエールの歴史がはじまった。南に面した山腹に位置する粘土石灰質の土壌を持ち、栽培量のおよそ3/4がメルロー、残りがカベルネ・ソーヴィニヨンとなっている。早くから有機農法や手作業による収穫を実施しており、質の高いワインで人気を博している。
サン=テミリオンの代表的な建造物として、まず聖エミリオンの聖域に建設されたエルミタージュ、トリニテ礼拝堂、モノリス教会、サン=テミリオン聖堂参事会教会が挙げられる。エルミタージュは聖エミリオンが庵としていた洞窟がある場所で、地下にその空間が広がっている。礼拝堂や聖エミリオンの像、石造の机や椅子などが置かれているが、多くは後世に設置されたものだ。流れている泉は数々の奇跡で知られ、病気が治ったなどという伝説が伝えられている。三位一体の名を冠するトリニテ礼拝堂はこの洞窟の上に13世紀に建設された建物で、ロマネスク様式をベースに一部ゴシック様式で改修されている。聖エミリオンが亡くなると弟子たちは近くの断崖を掘って遺体を埋葬した。12世紀に墓の上に築かれたロマネスク様式の教会堂がモノリス教会で、ゴシック様式などで改修されて現在の形となった。一説ではトルコのカッパドキア(世界遺産)の岩窟教会や、エルサレム(世界遺産)の聖墳墓教会が参考にされているという。教会堂は全長38m・高さ12mほどだが、12世紀に高さ68mの鐘楼が増築され、14世紀にゴシック様式の窓とポータル(玄関)、16世紀に頂部のスパイア(ゴシック様式の尖塔)が追加された。地下には数々の墓の他に、イエスの磔刑や最後の審判をはじめ聖書の場面を描いた壁画や彫刻が残されている。聖エミリオンに捧げられたこうした建造物群の北にベネディクト会の修道院が建設されたが、その修道院教会として12世紀に築かれたのがサン=テミリオン聖堂参事会教会だ。全長79m・幅28mの教会堂は「†」形のラテン十字式・単廊式(廊下を持たない様式)で、ロマネスク様式のシンプルな造りだったが、13~16世紀に改修が進められてクワイヤ(内陣の一部で聖職者や聖歌隊のためのスペース)やアプス(後陣)が拡張されてゴシック様式となった。美しいステンドグラスが設置されたのもこの頃だ。隣接のクロイスター(中庭を取り囲む回廊)はかつての修道院の施設で、1辺16mほどの正方形の中庭を二重の柱と尖頭アーチが取り囲んでおり、やはりロマネスク様式とゴシック様式が混在している。1789年にはじまるフランス革命で修道院は廃院となり、教会堂とクロイスターを除いて多くの施設が撤去された。現在、教会堂は地域の教区教会として使用されている。
コルドリエのクロイスターは13世紀創設と伝わるフランシスコ会のコルドリエ修道院の施設だったもので、14世紀の建設と見られている。ロマネスク様式をベースに一部にゴシック様式が採用されており、折衷となっている。フランス革命で放棄されて廃墟となったが、その美しい姿から作家モーリス・グラトロールらに愛され、維持されることとなった。1892年から修道院の跡地を利用してレ・コルドリエのブランド名でスパークリング・ワインの生産がはじまり、クロイスターを利用したレストラン・バーや、修道院の地下室を転用したカーヴ、修道院教会を改装したショップなどが利用客を迎え入れている。
王の塔はロマネスク様式のドンジョン(キープ。中世の城の主要部分となる主塔あるいは天守)で、西に睨みを利かせるサン=テミリオンの丘の西端頂部に13世紀はじめに建てられた。かつては市庁舎やウルシュリーヌ修道院が隣接しており、機能的に町の中心を成していた。塔の平面は一辺9.5mの正方形で高さ14.5mだが、基壇を含めると高さ32mを誇る。石灰岩の丘の頂に位置するため景色がよく、現在も塔を上って絶景を眺めることができる。塔の名となった王はフランス王ルイ8世ともイングランド王ヘンリー3世ともいわれるが定かではない。ただ、争っていた両軍のいずれかが軍事目的で建設したようで、百年戦争では宗主国が変わるたびにフランスやイングランドの旗がはためいていたという。
パレ・カーディナルは1302年に教皇クレメンス5世の甥である枢機卿ガイヤール・ド・ラ・モットが創設したと伝わる宮殿の遺構で、日本語ではしばしば枢機卿宮殿と訳されている。中世のサン=テミリオンの宮殿・邸宅ではもっとも豪華かつ保存状態のよいもので、廃墟ながらロマネスク様式の宮殿建築の特徴を伝えつつ、栄枯盛衰を感じさせる風情ある遺跡となっている。また、周辺には城郭都市だった時代の城壁跡も残されている。
サン=マルタン・ド・マゼラ教会はサン=テミリオンの城外に築かれた教会堂で、もともとサン=マルタン・ド・マゼラ教区の教区教会だったが、1790年にサン=テミリオン教区と合併して教区教会から外された。11~12世紀に建設されたバシリカ式(ローマ時代の集会所に起源を持つ長方形の様式)・単廊式で全長38mほどのロマネスク様式のシンプルな教会堂で、クワイヤの上に正方形の平面を持つ2階建ての鐘楼がそびえている。鐘楼は軍事施設と見なされて15世紀に破壊されたが16世紀に再建されており、西ファサードやアプスなどは18~19世紀に改修されている。この教会堂は特に柱頭やモディリオン(屋根や梁を支える腕木)に刻まれた彫刻で知られており、人物像や動物像・悪魔や怪物像・植物文様・幾何学文様などが刻まれている。
サン=クリストフ=デ=バルドのサン=クリストフ教会は12世紀に建設されたロマネスク様式の教会堂だ。バシリカ式・単廊式で西ファサードに鐘楼を冠した鐘楼ポーチを持ち、柱頭やモディリオンの彫刻が有名だ。シンプルで重厚なロマネスク様式ながら、アプスの7つの窓は20世紀のガラス職人ベルナール・フルニエによるイエスや使徒を描いた鮮やかなステンドグラスで彩られている。
サンテティエンヌ=ド=リスのサンテティエンヌ教会は12世紀建設のロマネスク建築で、もともと修道院の修道院教会だったと見られるが、その後教区教会に改装された。ラテン十字式・単廊式で、十字の交差部にクロッシング塔(十字形の交差部に立つ塔)を掲げている。この塔やバットレス(控え壁)の多くは16世紀に再建されたものだ。この教会堂の柱頭やモディリオンの彫刻も特徴的で、ステンドグラスは19世紀後半~20世紀初頭に活躍したガラス職人ギュスターヴ・ピエール・ダグランの作品となっている。
サンティポリットのサンティポリット教会も12世紀に築かれたバシリカ式・単廊式の教会堂で、重厚な壁とバットレスに囲まれたロマネスク様式の荘厳なたたずまいを見せている。15世紀にクワイヤやアプスが改修されてゴシック様式のステンドグラスが設けられ、19世紀に内装が改装された。西ファサードの上層にロッジア(柱廊装飾)のような柱とアーチの装飾が見られ、身廊の南に鐘楼がそびえている。やはり柱頭やモディリオンの彫刻が見られる。
サン=ローラン=デ=コンブ教会のサン=ローラン教会は13世紀建設の教会堂で、こちらもバシリカ式・単廊式となっている。西ファサード頂部には鐘楼を兼ねた切妻壁がそびえており、ラテン十字の十字架が頂部を飾っている。特徴的な洗礼盤や装飾に覆われた柱などが残されている。
サン=シュルピス=ド=ファレランのサン=シュルピス教会は12世紀に建設された教会堂で、19世紀に大幅な改修を受けた。バシリカ式・三廊式のロマネスク様式で、身廊の南に鐘楼を有し、19世紀に増設されたゴシック・リバイバル様式のスパイアを掲げている。柱頭やモディリオンの彫刻の質が高いことで知られる。
サン=シュルピス=ド=ファレランにあるピエルフィットのメンヒルは高さ5.2m・幅3.0m・厚さ1.5m・推定重量50tを誇る石灰岩の立石で、後期旧石器時代の紀元前5千~4千年紀に立てられたものと考えられている。古くからの聖域やネクロポリス(死者の町)だったと見られ、リウマチをはじめとする病気が治ったなどという奇跡の伝説が伝わっている。
本遺産は登録基準(v)「伝統集落や環境利用の顕著な例」でも推薦されていたが、ICOMOS(イコモス=国際記念物遺跡会議)はその価値を認めなかった。
サン=テミリオン地域は歴史的なブドウ園の景観の卓越した例であり、現在に至るまで無傷で活動的に維持されている。
サン=テミリオンのジュラード管区はワイン生産のための集中的なブドウ栽培を正確に区画された地域で際立った方法で示している。
景観の完全性と資産全域の調和はワイン文化の永続性と敷地における生産体制によってもたらされている。建造物群や村の全体性は単一の建築デザインによって成るものではなく、サン=テミリオン歴史地区の中心部が証明しているように、7世紀以降の数世紀および19~21世紀にわたる長期の進化の結果として生まれたものである。
当地のコミュニティはそれぞれの土地の特性を最大限に活かし、それを損なうことなく自分たちの活動や生活スタイルを発展させてきた。そして土地の文化、採石場の開拓、都市の設立と開発、宗教施設や住居の建設といった要素が地形や資源と完全に調和した景観を生み出している。
今日のサン=テミリオン地域は人口の減少や採石による地盤の弱体化に直面しているが、未来を見据えてワイン生産の伝統を総合的に保全しており、ダイナミックな生活域でありつづけている。