フランス東部グラン・テスト地域圏、いわゆるロレーヌ地方のナンシーに位置する世界遺産で、スタニスラス、カリエール、アリアンスという3つの広場と周囲の建造物群が登録されている。フランス王ルイ15世の義父でありロレーヌ公であるスタニスラス・レシチニスキ(ポーランド=リトアニア王スタニスワフ1世レシチニスキ)が建築家エマニュエル・エレの設計で1752~56年に築いたもので、啓蒙主義(理性による合理的な知によって蒙(もう)を啓(ひら)こうという思想)の立場から合理性と機能性に富み、景観的にも卓越した都市空間となった。
なお、本遺産は2016年の軽微な変更でバッファー・ゾーンが設定された。
18世紀はじめ、ポーランド=リトアニア共和国は大国化するスウェーデンに対してロシアやデンマークとともに大北方戦争(1700~21年)を戦った。スタニスワフ1世レシチニスキは敵だったスウェーデン王カール12世の支援を得てポーランド王とリトアニア大公に選出されたが、スウェーデンが1709年のポルタヴァの戦いに敗れたことを機に王位から退いた。1725年には娘のマリー・レクザンスカがフランス王ルイ15世と結婚し、ブルボン家と姻戚関係を締結。ポーランド王アウグスト2世の死に際し、ルイ15世の支持を得て1733年にふたたび王位に就いた。しかし、ロシアやオーストリア、プロイセンなどが反対してポーランド王としてアウグスト3世を立て、フランスやスペインとの間でポーランド継承戦争(1733~1735年)が勃発した。この戦争でフランスはオーストリア・ハプスブルク家の支配下にあったロレーヌ公国を占領した。結局、1735年のウィーン予備条約(正式には1738年のウィーン条約)でスタニスワフ1世レシチニスキは退位する代わりにロレーヌ公国とバル公領を与えられることとなり、彼の死後、両国はフランス領となることが決定した。
ロレーヌ公・バル公となったスタニスラス・レシチニスキ(スタニスワフ1世レシチニスキのフランス語名)は大きな政治的権力を持っていたわけではなかったが、その分、啓蒙主義者らしく芸術や科学を振興し、死亡する1766年までロレーヌの発展に尽力した。一例がナンシー王立図書館やスタニスラス・アカデミー、王立ミッションなどの創設であり、地方への学校や病院・図書館・救貧院などの建設だ。
簡単にロレーヌ公国の首都ナンシーの歴史を振り返ってみよう。町は11世紀にロレーヌ公ゲラルト1世が建設した城砦にはじまるとされ、城下町が発展して城郭都市として整備された。13世紀はじめのシャンパーニュ伯継承戦争中の1218年に神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世によって破壊され、ロレーヌ公フェリー3世によって新しい城郭都市の建設が開始された。この城郭都市を中心に発展するのが旧市街だ。
16世紀には大砲に対応するために周囲に稜堡(城壁や要塞から突き出した堡塁)を設置して星形要塞に改造され、南東に拡張されてカリエール広場が建設された。この広場では騎士道に則った馬術などの競技が行われ、周囲には貴族の宮殿が立ち並んだという。一例がロレーヌ公宮殿だ。「カリエール」は英語の「キャリア」と同源で「経歴」を意味し、ここでキャリアを積んだことから命名されたという。
ロレーヌ公シャルル3世の時代に新市街が計画され、16~17世紀にかけて旧市街の城壁の南に建設された。こうしてナンシーは南北にふたつの星形要塞が連なる堅固な城郭都市となり、旧市街には中世の、城壁で隔てられた新市街にはルネサンス様式の街並みが展開した。しかし、17世紀に三十年戦争(1618~48年)をはじめとする戦争が相次いで町は荒廃。18世紀はじめ、ロレーヌ公レオポルト1世はロレーヌの建築家エマニュエル・エレや彫刻家バルテルミー・ギバル、金具職人ガブリエル=ジェルマン・ボフランといった建築家や芸術家を招聘して町を修復・再興した。
そしてスタニスラスの時代である。ナンシーはポーランド継承戦争で被害を受けていたこともあり、レオポルト1世が進めた修復・再建計画をさらに推し進め、より合理的・機能的で美しい都市の計画を立案した。そしてレオポルド1世の時代から活躍する建築家・芸術家チームを招集し、当初は建築家ジャン=ニコラ・ジェネソン、その後エマニュエル・エレが指揮を執った。
新たな都市計画の目玉は断絶されていた旧市街と新市街を接続する都市空間の創出だ。その中心を担ったのがスタニスラス広場で、新市街の城壁を撤去し、旧市街との間に広場を築いて官公庁を集中させることで機能的かつ景観にすぐれた都市を目指した。建設は1752年にはじまり、多くの建造物を撤去して広場を築き、中央に当時のフランス王ルイ15世の立像を設置した。広場の南にはナンシーの象徴となるオテル・ド・ヴィル(市庁舎)を建て、東にコメディ劇場(現・ロレーヌ国立オペラ座)とパヴィヨン・ラントンダン(現・グラン・オテル・ド・ラ・レーヌ)、西に大学のパビリオン(現・ナンシー美術館)と商業のパビリオン(現・パヴィヨン・ジャケ)、北には旧市街の城壁からの攻撃が通りやすいようにバス・ファスと呼ばれる1階のみの2棟のパビリオンが建設された。広場の北東にはアンフィトリテの噴水、北西にはネプチューンの噴水が設置され、彫刻家バルテルミー・ギバルによるロココ様式の彫刻が配された。また、広場の6箇所の出入口には鉄職人ジャン・ラムールによる黒と金で彩られたロココ様式の鉄柵門が備えられ、「黄金門の町」の異名を取った。さらに、旧市街のカエリエール広場との間にはエレ門(アーク・エレ)が設けられた。この広場は当初、ルイ15世に敬意を表してロイヤル広場と呼ばれていたが、その後、プープル広場(人民広場)、ナポレオン広場などの変遷を経て、1831年にルイ15世像からスタニスラス像に置き換えられたのを機にスタニスラス広場と呼ばれるようになった。
さまざまな建物が入り組んでいたカリエール広場も新古典主義様式の同じ高さの建物でほぼ統一され、一部にオテル・ド・クラオン(現・ナンシー高等裁判所)やロレーヌ官邸などが建設された。もうひとつのアリアンス広場はスタニスラスが公爵家の畑を1751年に広場にしたもので、1756年に長年の宿敵であるフランス・ブルボン家とオーストリア・ハプスブルク家が同盟(アリアンス)を結んだことを記念して命名された。この広場の周囲も新古典主義様式の建物で統一され、中央に彫刻家ポール=ルイス・シフレによるアリアンスの噴水が設置された。また、周辺に貴族や資本家らが邸宅を建設し、高級住宅街に発展した。
こうしてスタニスラス広場とカリエール広場は官邸や役所・裁判所・大学・劇場・美術館といった公共施設、アリアンス広場は邸宅が集まる機能的な都市空間となり、新古典主義様式を中心にバロック様式やロココ様式で彩られた壮麗な都市景観が創出された。そしてこの3つの広場を中心に東西に新しい街並みが誕生し、現在まで続くナンシーの中心部を形成した。
1759年にスタニスラスは一帯を市に寄贈し、純粋な公共空間となった。そして1766年に亡くなると、ロレーヌ公国はフランス王国の版図に組み込まれた。これにより首都としてのナンシーの繁栄は終焉を迎えた。
世界遺産の資産としては、スタニスラス広場、カリエール広場、アリアンス広場と周囲の建造物群がひとつの地域として登録されている。基本的に建築は新古典主義様式で統一されているが、彫刻などの装飾はバロック様式やロココ様式で、両者が融合した独特の効果を引き出している。
スタニスラス広場は124×106mの長方形で、フランス革命まで中央にルイ15世の立像が立っていたが、1831年にスタニスラスの立像に置き換えられた。広場へ通じる6箇所の出入口は黒をベースに金の装飾で彩られたジャン・ラムール作の錬鉄製鉄柵門で囲われている。広場の北西にはネプチューンの噴水、北東にはアンフィトリテの噴水が設置されており、彫刻家バルテルミー・ギバルによるローマ神話の海神ネプトゥヌス(ギリシア神話のポセイドン)やその妻サラーキア(ギリシア神話のアムピトリーテー)らの彫刻が立ち並んでいる。鉄柵門と噴水はいずれも華やかなロココ様式で、両者が見事な調和を見せている。
スタニスラス広場を取り囲む7棟の建物はいずれもエマニュエル・エレが設計したもので、新古典主義様式で統一的にデザインされている。特に東西の4棟、北の2棟はほぼ同じデザインの建物が対称に並んでいる。一部は後の時代に拡張されているが、資産には基本的に拡張部分は含まれていない。
広場の象徴であるオテル・ド・ヴィルは日本語でナンシー市庁舎とも呼ばれる建物で、全長98mのファサード(正面)が広場の南を占めている。中央頂部には大きなペディメント(頂部の三角破風部分)が見られ、市の紋章やスタニスラスの腕などがレリーフに刻まれている。また、ペディメントの下のレリーフは市の象徴であるアザミの花を持つ少女を示している。建物の屋根にはズラリと彫刻作品が並んでいる。バルコニーや階段の錬鉄製の手すりはジャン・ラムールの作品で、鉄柵門と同様に黒と金で彩られている。階段やホールの見事な天井画や壁画はジャン・ジラルデの作品だ。立体感を装ったトロンプ・ルイユ(だまし絵)の作品が多く、室内をより広く見せる効果を出している。グラン・サロンはロレーヌ公のために仕立てられた部屋で、エミール・フリアンやエメ・モロー、ヴィクトール・プルーヴェといった画家の絵や彫刻・スタッコ(化粧漆喰)で覆われている。
広場の北東に位置するロレーヌ国立オペラ座はかつてコメディ劇場と呼ばれていた建物だが、1906年の火災で多くが破壊された。ただ、広場に面するファサードは残されていたため、これを維持して1919年に再建された。再建を指揮した建築家ジョゼフ・ホーネッカーは新古典主義様式にアール・ヌーヴォーを組み合わせた華麗なスタイルを採り入れ、2006年に国立オペラ座の座を獲得した。南東に立つ建物はもともとパヴィヨン・ラントンダンと呼ばれていた建物で、1769年にルイ16世の王妃マリー・アントワネットが訪れたことから「王妃の大邸宅」を意味するグラン・オテル・ド・ラ・レーヌの名が付いた。フランス革命後はオテル・ド・ラントンダンになり、ロシア皇帝の宮殿となった。現在はホテルとして営業をしている。北西のパビリオンは大学の施設として建設され、1936年に拡張されてナポレオン1世が持ち込んだ膨大なコレクションを収蔵するナンシー美術館となった。南西のパビリオンは商業や経済関係の施設だったパヴィヨン・ジャケで、現在もさまざまなテナントが入っている。広場の北にたたずむ2棟のバス・ファスのパビリオンは平屋の建物で、エレ門の北に広がる旧市街との一体感を高めていた。ここも商業施設で、現在も種々のテナントが入っている。
スタニスラス広場とカリエール広場を分けるエレ門の場所にはもともと旧市街に入る城門があり、スタニスラスの時代にこの門が設置された。フランス語で「エレのアーチ "Arc Héré"」と呼ばれており、エマニュエル・エレにちなんで命名された。ローマのフォロ・ロマーノ(世界遺産)にあるセプティミウス・セウェルス凱旋門をモデルとしているといわれる。戦争と平和をテーマに勝利の象徴であるゲッケイジュ(月桂樹)と平和の象徴であるオリーブの文様が刻まれているほか、バルテルミー・ギバルの手によるローマ神話の豊穣の女神ケレスや知恵の女神ミネルウァ、戦の神マルス、英雄ヘラクレスらの彫像、ルイ15世のメダリオン(メダル状の装飾)などが掲げられている。
カリエール広場はスタニスラス広場の北に広がる290×50mほどの広場で、かつては競技場として使用されていた。広場の中央部分は並木が立ち並ぶ通路で、南北はジャン・ラムールの鉄柵門で区分されている。広場の北はロレーヌ官邸、南はエレ門が占めており、東西の建物の多くは2~3階建ての新古典主義様式のファサードで統一されている。ロレーヌ官邸はもともとロレーヌ公宮殿の一部で、周辺のロレーヌ歴史博物館やポルテリー(ゲートハウス)、パレ庭園(宮殿庭園)なども宮殿の施設だった。18世紀はじめにロレーヌ公レオポルト1世がパリのルーヴル宮殿(世界遺産。現・ルーヴル美術館)を目指して建設を開始したがまもなく中止され、スタニスラスの時代の1751年に再開された。デザインはエマニュエル・エレで、ファサードの1階にはイオニア式、2階にはコリント式をアレンジした円柱が配され、バルテルミー・ギバルの彫刻が立ち並んでいる。建物の東西には重厚なコロネード(水平の梁で連結された列柱廊)が伸びており、パヴィヨン・エレと呼ばれる建物と結ばれている。このコロネードが広場と外を分ける門の役割を果たしている。2棟のパヴィヨン・エレもエマニュエル・エレの設計だ。
カリエール広場を囲む建物のうち、特徴的なものとしてオテル・ド・クラオンが挙げられる。広場の南東に位置し、現在ナンシー高等裁判所が入っている建物で、こちらもエマニュエル・エレの設計だ。この正面、広場の南西には商業用のパビリオンがあり、ほぼ同じデザインで対称に立っている。ふたつの建物は小さな門でエレ門と結ばれており、これも広場の境を形成している。
アリアンス広場はスタニスラス広場の東130mほどに位置する80×60mほどの広場で、1751年に建設された。並木に囲まれた広場の中央にはバロック様式のアリアンスの噴水があり、ポール=ルイス・シフレによるライン川、スヘルデ川、マース川を擬人化した三老人の彫像がオベリスク(古代エジプトで神殿の前に立てられた石碑)を支え、頂部にはラッパを吹く天使が立っている。このアイデアとデザインは巨匠ジャン・ロレンツォ・ベルニーニによるローマのナヴォーナ広場(世界遺産)の四大河の噴水から得ている。広場の周囲にははほぼ同じ高さの新古典主義様式の建物が並んでいるが、デザインを統一するためにスタニスラスがファサードの費用を請け負ったといわれている。ファサード以外は大きさも内装も異なっている。
ナンシーの3つの広場は独創的な芸術的成果であり、創造的才能を示す真の傑作である。
ナンシーの広場は啓蒙専制君主が住民のニーズを受け入れて公共の空間と建築について実行した啓蒙時代の卓越した都市計画であり、もっとも古くもっとも特徴的な例を示している。
広場の建造物群は本来の整然とした区画や建築的・装飾的な完全性を維持している。それらの唯一の違いは周囲を囲む特定の建物の目的や用途であり、そうした都市の公共機能も保持されている。加えて広場はその統一性・都市性・中心性を保っている。
スタニスラス広場の地上部分とファサードの全面修復や、カリエール広場のナンシー高等裁判所とパヴィヨン・エレの修復など、資産を保存し、真正性を維持するために、1世紀以上にわたっていくつかの修復作業が実施された。国の管理下で行われた科学的・技術的な事前調査に基づくこれらの整備・修復作業によって保存状態は改善され、スタニスラス広場はかつての壮麗さを取り戻すことができた。