フランス北東部、ベルギー国境沿いに位置するオー=ド=フランス地域圏のノール県とパ=ド=カレー県にまたがって伸びる全長約120kmの炭田地帯で、18~20世紀の石炭採掘によってフランスの近代化・工業化を支えた。
構成資産は108件に及び、採掘用の坑道、ボタ山(テリル。不用な岩石や廃石を捨ててできた山)や陥没池、ヘッドフレーム(竪坑櫓)や巻上機室・ボイラー室・送風室・選炭室・事務棟といった採掘施設、炭鉱会社のオフィス、発電・電力施設、鉄道・運河・水路・橋・駅といった輸送施設、労働者の集合住宅や戸建住宅・管理者の邸宅やシャトー(宮殿・城館)といった居住施設、教会堂や礼拝堂などの宗教施設、庁舎や病院・診療所・薬局・学校・スポーツ施設・文化施設といった公共施設、これらを含んだ都市や集落、畑や林・森をはじめとする農牧林業施設、周辺の自然環境と一体化した文化的景観など、多岐にわたる。
ノール=パ・ド・カレーで最初に石炭(長い年月を経て植物が炭化した化石燃料)が発見されたのは1660年頃で、現在のパ=ド=カレー県のレティで農民が耕作中に露頭を発見したのがはじまりとされる。17世紀後半に採掘がはじまったが、石炭に対する需要は小さく、開発は小規模に留まった。
イギリスでは18世紀に産業革命が進み、燃料としての需要は薪や木炭(木材を蒸し焼きにして作った炭燃料)からより多くのエネルギーを生み出す石炭やコークス(石炭を蒸し焼きにして抽出した炭素を主成分とする固体燃料)に移行した。
フランスでも1830年代に産業革命がはじまり、1852年にはじまるナポレオン3世の第2帝政(1852~70年)期に一気に進展した。当初は主に木炭が使用されていたが、やがて大量の石炭が必要になり、ノール=パ・ド・カレーの開発が急速に進められた。1850年代からクリエールやランス、ベテューヌ、リエヴァン、アンザンといった多くの炭鉱会社が参入し、鉱山労働者が集まって数々の鉱山町が切り拓かれた。
1880年に一帯の石炭生産量は800万tに達し、第1次世界大戦(1914~18年)前にはフランスにおける総生産量の1/3を占めた。この頃の労働者の生活はエミール・ゾラの小説『ジェルミナール 』 に描かれているように過酷で、事故も絶えなかった。1906年にはクリエール炭鉱で世界最悪の炭鉱事故「クリエールの惨事」が起こり、爆発とそれに伴う落盤や酸欠によって1,099人の犠牲者を出した。この事故を機に安全性や労働条件の改善を求めてストライキが頻発し、炭鉱の採掘システムの見直しが行われた。同時に、資本家との間で対立が進み、社会主義運動が進展した。
第1次世界大戦ではドイツの侵攻を受け、3次にわたるアルトワ会戦などの戦場となり、ランス、リエヴァン、ベテューヌをはじめ東部の炭鉱群が占領された。その後、解放されたものの、ドイツ軍は撤退前に坑道を水没させたり施設を爆破するなどしたため甚大な被害を受けた。
戦後はフランス再興を目指して急速に修復・再建が進められ、近代的な施設・設備への転換が図られた。その結果、1930年にはピークとなる石炭生産量3,500万tを記録した。不足した労働力を補うためにポーランドやイタリア、チェコスロバキア、アルジェリア、中国などから移民を受け入れ、約75,000人もの外国人労働者が鉱山労働に従事した。町によっては人口の半数を占めるほどで、それぞれの文化の影響を受けた特徴的な街並みが築かれた。
1929年にはじまる世界恐慌が1930年代にフランスを直撃し、石炭の需要は急減した。価格の下落による生産調整が進み、労働者の削減や賃金カットが相次ぐ一方で、採掘の近代化・効率化が推進された。炭鉱会社では合併やグループ化による大規模化が図られ、業界が再編された。この時代、18の炭鉱会社が操業していたが、上位8社が総生産量の3/4を占めた。1939年には石炭生産量は3,200万tまで回復し、フランスの総生産量の60%を占めた。
第2次世界大戦が起こると電撃的に占領されたものの、ナチス=ドイツは生産を続けさせたため大きな破壊からは免れた。ただ、占領者に対する抵抗の意味で生産は意図的に遅延され、しばしばストライキが行われた。特に1941年4月にドゥルジュ炭鉱で起こったストライキは瞬く間に拡散し、10万人を超える炭鉱労働者が参加した。ナチス=ドイツは首謀者を逮捕し、一部をザクセンハウゼン強制収容所などに送り、集会を禁じるなどして対応したが、戦中を通してストライキは起こりつづけた。これにより石炭生産量は大幅に減少した。
1945年にナチス=ドイツから解放されたが、フランスは深刻なエネルギー不足に悩まされていた。当時、エネルギーの95%は石炭によって賄われており、発電所のほとんどが石炭火力発電を行っていたため、石炭戦争と呼ばれるほどの石炭争奪戦が勃発した。これを受けてノール=パ・ド・カレーでは大規模化・近代化・効率化を目指してすべての炭鉱が国有化され、1946年にフランス石炭公社が創設された。この後、フランス全土で行われた炭鉱開発によって石炭生産量は3年で20%増加し、34万人が炭鉱労働に従事した。
1952年にはフランス、ドイツ、イタリア、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクの6か国でECSC(欧州石炭鉄鋼共同体)を設立し、石炭と鉄鋼の生産と移動について共同管理を開始した。これにより共同市場が発達して生産量と取引額が急増し、1945~75年のフランスの「栄光の30年間」と呼ばれる経済成長を後押しした。1952年には石炭生産量は3,000万tに回復している。
1960年代に入ると各地の炭鉱で石炭の枯渇がはじまった。新しい坑道の開発も進められたが、生産量が停滞したためコストが上がり、次第に赤字化していった。加えてエネルギーの天然ガスや石油・水力などへの転換が進み、石炭についても海外からの輸入が増加して国内の石炭市場そのものが縮小した。それでも1966年時点で約65,000人が炭鉱労働に従事していたが、翌年から財政状況はさらに悪化し、雇用環境も急変した。
この頃、専門家によって1980~85年に操業停止に陥る可能性が指摘され、段階的な閉山が決定された。そして1990年12月にオワニー炭鉱が閉鎖され、ノール=パ・ド・カレーにおける石炭採掘に終止符を打った。最終的に一帯では852の坑道が掘られ、24億tの石炭を産出し、326のボタ山が残された。
閉鎖された炭鉱では施設・設備の解体・廃棄も検討されたが、多くは産業遺産としての保存が進められた。一例が1971年に閉鎖されたルワルドのデロワ坑で、1984年に炭鉱歴史センターとして公開がはじまった。
ノール県とパ・ド・カレー県にまたがる炭田地帯に点在する108件が構成資産となっている。東西に伸びる炭田地帯はおおよそ東端のコンデ=シュル=レスコーから西端のリニー=レ=エールまで全長約120kmで、その間にヴァランシエンヌ、ドゥナン、ドゥエー、オワニー、リエヴァン、ランス、ビュリ=レ=ミーヌ、ブリュエ=ラ=ビュイシエール、ベテューヌをはじめ多数のコミューン(自治体)が含まれている。
炭鉱の主要坑道については以下17坑が登録されている(坑道名:構成資産名)。
これらには坑道をはじめ、地上と地下を結んで石炭や労働者を上げ下げするヘッドフレームや、地下に動力を伝える巻上機を備えた巻上機室、巻上機を動かすためのエンジン・ハウス、採掘した石炭を分類する選炭室、地下に空気を送る送風室といった施設が含まれており、周囲には鉱山町が広がっていた。特に重要な炭鉱とされるのがアレンベルク、デロワ、オワニー、ランスの4件だ。
アレンベルクは1903~89年に稼働していた近代的な炭鉱で、1~4番の竪坑を持ち、最深部は地下700m近くに達した。最盛期は年45万tを超える石炭を採掘し、閉山するまでに約3,200万tを産出した。周辺の鉱山町も洗練されており、ボタ山や鉄道をはじめとする各種施設、シテ・ダレンベルクをはじめとする住宅街、教会堂(サント=バルブ教会)や学校・役所・薬局など多彩な施設・設備が残されている。
デロワも近代的な炭鉱で、田園地帯の真ん中に1~2番の竪坑が開発された。両坑では800~1,000人の鉱山労働者が従事し、1931~71年の40年間で毎日約1,000tの石炭を採掘した。1984年に炭鉱歴史センターがオープンし、施設・設備が公開されているだけでなく、書籍や書類・写真・音声・動画といった炭鉱関連の史資料が収集・展示されている。
オワニーの炭鉱の主力は9番坑と9-2番坑で、9番坑が排水・排気、9-2番坑が採掘用の竪坑となっている。1934年に採掘がはじまり、ノール=パ・ド・カレーで最後まで稼働していたが、1990年12月21日に閉山を迎えた。レンガ造に加えて鉄筋コンクリート造の建造物群が特徴で、周辺にはボタ山や、シテ・デクレークやシテ・デ・ボニネといった住宅街が並んでいる。1870年に操業を開始した2番坑も有力で、9番坑・9-2番坑の北に炭鉱と住宅街が広がっている。
ランスは1850年頃に石炭層が発見されたことから発展した町で、数多くの坑道が開発された。周辺でもオシー=レ=ミーヌやル=アン=ゴエルといった鉱山町が成立し、一大炭鉱地区が形成された。中でも主力坑といえるのがル=アン=ゴエルの11番・19番坑で、1894年に採掘が開始され、1986年に閉山した。第1次世界大戦で徹底的に破壊された後、1920年代初頭に11番坑が戦前のスタイルで再建された。一方、19番坑は1960年に操業を開始した新しい竪坑で、ランドマークである19番坑ヘッドフレームは1958~60年に建設された鉄筋コンクリート造の現代建築で、高さ66mを誇る。ふたつの竪坑によって毎日約8,000tの石炭を採掘し、閉山までに5,400万tを産出した。エンジン・ルームやコンプレッサー・ルーム、給水塔、診療所、ボタ山など多数の施設・設備が残るほか、周辺には9番シテやシテ・ジャンヌ・ダルクといった住宅街やサン=テオドール教会、各種学校・病院をはじめさまざまな関連施設を備えている。一帯には他にも6番坑や12番坑といった大規模な竪坑が点在している。
本遺産には21基のヘッドフレームが登録されている。これにより坑道の内部に巻上機やシャフトを通して力を伝えたり、石炭の運び出しや労働者の送り迎えを行った。多くはレンガ造や石造の建物に金属製のヘッドフレームを冠していたが、20世紀に入ると鉄筋コンクリート造の塔状の建物が増えた。
廃石によってできたボタ山は51座が登録されている。広大な平野に円錐形のボタ山がそびえる様はノール=パ・ド・カレーの特徴的な文化的景観のひとつといえる。最大のボタ山はル=アン=ゴエルの74番テリルと74a番テリルで、標高186mで高低差は140mを超える。逆に、地盤が沈降して池となった陥没池が5件含まれている。
輸送インフラは14件が登録されており、鉱山鉄道の総延長は54kmに達する。こうした鉄道や運河によって石炭が輸送された。また、鉄道駅については3件、ランス駅、フレンヌ=シュル=エスコー駅、ドゥヴラン駅が登録されている。ランス駅はパ・ド・カレーの石炭輸送の中枢を担った駅で、第1次世界大戦で破壊された後、1927年に建築家ユルバン・カッソンの設計でアール・デコ様式で再建された。直線と半円で構成された特徴的なデザインは機関車を模しており、全長86mで高さ23mの時計塔を有している。
シテと呼ばれる鉱山町や住宅街は124か所あり、基本的には方格設計(碁盤の目状の都市設計)の整然とした街並みが広がっている。主にレンガ造の戸建住宅や集合住宅が並んでおり、資本家や管理職の邸宅が点在している。イギリスのパターナリズム(父子主義。親子関係のように主人が従者の面倒を見ること)の影響を受け、緑豊かな公園や広い庭園を有するなど、住人の福祉を考えたものとなっている。
地主や管理職のシャトーとしては、シャトー・デ・ドワニエやシャトー・ド・レルミタージュ、シャトー・ダンピエール、シャトー・メルシエをはじめ18棟が登録されている。いずれも炭鉱と町の中心部から少し離れた閑静な場所に築かれており、広い公園の内部に豪邸を有し、オフィスや会議室・サロン(居間・応接室)などを併設していた。特に華麗な姿で知られるのがクロイ公爵家のシャトーであるシャトー・ド・レルミタージュで、建築家ピエール・コンスタント・ディヴリーとジャン=バティスト・ショサールの設計で1748~72年に建設された。新古典主義様式(ギリシア・ローマのスタイルを復興したグリーク・リバイバル様式やローマン・リバイバル様式)あるいはネオ・パッラーディオ様式で築かれた豪邸の周囲には広大な狩猟用の公園が広がっている。また、シャトー・メルシエはアンザン炭鉱会社のエンジニアからベテューヌ炭鉱の総支配人にまで上り詰めたルイ・メルシエの私邸で、1901~20年に新古典主義様式で建てられた。
学校は46校あり、小中高校の他に職業訓練センターや女性のための家事専門学校、キリスト教系の神学校などを含んでいる。
宗教施設は26堂あり、ローマ=カトリックやプロテスタントの教会堂や礼拝堂が含まれている。多くは炭鉱会社が建設したもので、町の象徴として著名な建築家に依頼して立派な建物が築かれたが、移民が自分たちの信仰に合わせて建設することもあった。一時期、鉱山では社会主義や共産主義の運動が広がったが、教会活動はこうした活動を牽制するものでもあった。著名な教会堂として、まずランスのプロテスタント寺院(ランス統一プロテスタント教会)が挙げられる。1886年の創建で、第1次世界大戦で破壊された後、1923~25年に再建された。ゴシック・リバイバル様式の建物で、プロテスタントの教会堂としては珍しく「+」のギリシア十字形を取っている。ワジエのポロネーズ・ノートル=ダム・デ・ミナー教会はポーランド人鉱山労働者のためにルイ=マリ・コルドニエの設計で1925~27年に築かれた教会堂だ。歴史主義様式(中世以降のスタイルを復興したゴシック・リバイバル様式やネオ・ルネサンス様式、ネオ・バロック様式等)のバシリカ式(ローマ時代の集会所に起源を持つ長方形の様式)教会堂で、西ファサードには中央に鐘楼を備えた鐘楼ポーチを掲げている。ステンドグラスはアール・デコ様式で、暖色の温かい光で内部を照らしている。ルイ=マリ・コルドニエは他にもモンティニー=アン=オストレヴァンのサン=シャルル教会やランスのサンテドワール教会、サン=テオドール教会をはじめ、一帯の数多くの建物を手掛けている。リベルクールのサン=アンリ教会もポーランド人鉱山労働者のために1960年に建てられた教会堂だ。建築家ジャン=フレデリック・バテュとモーリス・ワルネソンによるモダニズム建築で、ふたつのギリシア十字形をつなぎ合わせたような平面プランを持ち、サイドは6基の巨大な切妻破風が並んだユニークなデザインとなっている。グルネのサン=ルイ教会は1905年創建の教会堂を建築家ギュスターヴ・ウンブデンストックが1922~23年に再建した建物だ。「†」形のラテン十字式でロマネスク・リバイバル様式とアール・デコ様式を折衷させたデザインで、レンガに切石・コンクリートを組み合わせて築かれている。
医療施設は24棟あり、病院や小規模の診療所・産院・薬局などが含まれている。また、体育館や球戯場、コミュニティ・ホール、文化センターといった文化施設は6か所含まれている。
記念碑は10か所で、クリエールの惨事記念碑や戦争記念碑のように歴史的事件を記念するものや、エンジニアのシャルル・マチュー、石炭層発見に貢献したマダム・デクレルク、鉱山労働者の福祉の向上に貢献したエミール・バリーといった功労者の功績を記念するものなどがある。
炭鉱会社の主要なオフィスや労働組合等の施設として5棟が登録されている。ランス炭鉱会社のグラン・ビューローはフランス式庭園(フランス・バロック庭園)を備えた凸形のコートハウス(中庭を持つ建物)で、王宮並みの絢爛さを誇る。第1次世界大戦で破壊された後、1928~30年に建築家ルイ=マリ・コルドニエと息子のルイ=スタニスラス・コルドニエの設計でネオ・ルネサンス様式で再建された。アール・デコ様式の内装も非常に評価が高い。
市庁舎としてはカルヴァンとブリュエ=ラ=ビュイシエールのオテル・ド・ヴィルが登録されている。カルヴァン炭鉱の鉱山町に築かれたオテル・ド・ヴィル・ド・カルヴァンは建築家エミール・ブノワの設計で1930~32年に建設された新古典主義様式の建物で、中央と南北のウイングの3棟で構成されている。オテル・ド・ヴィル・ド・ブリュエ=ラ=ビュイシエールはレネ・アノテとポール・アノテの設計で1927~31年に建設された歴史主義様式の建物で、町を象徴する巨大な鐘楼を特徴としている。いずれも鉱山労働者を描いた彫像やステンドグラスで飾られており、労働者を代表する機関であることを物語っている。
これらに加えて3件の鉄道の停留場、信号扱所、倉庫が含まれている。
※構成資産名中のアンサンブルは建造物群の集合体、シャトーは宮殿や城館、シテは町や住宅街、コロンは入植地、テリルはボタ山、オテル・ド・ヴィルは市庁舎を示す
ノール=パ・ド・カレーの炭田地帯は地下石炭層の採掘方法、労働者住宅の設計や都市計画、ヨーロッパの工業化に伴う国際的な労働力の移動に関するアイデアや影響の交流を示す際立った証拠を示している。
ノール=パ・ド・カレーの炭田地帯に現存する鉱山景観は一帯が発展する様子を留めたものであり、特に大企業と多大な労働力によってなされた19~20世紀にかけての大規模な炭鉱の発展を示す卓越した実例である。そして本遺産は都市計画や特有の産業構造、石炭採掘の物理的痕跡(ボタ山や陥没地)により構成されている。
炭田地帯の歴史に関連する社会的・技術的・文化的な出来事は国際的な影響をもたらした。特に鉱山労働の危険性とクリエールの惨事に代表される災害の歴史に関して類を見ない顕著な例を示し、また石炭採掘の社会的・技術的発展を実証しており、加えて1850年代から1990年にかけての労働者の環境や連帯を象徴する重要な場所であり、労働組合や社会主義の思想の普及に関する証拠を提示している。
本遺産の構成資産の数の多さと多様性、それらによって形成される景観は、技術的・地域的・建築的・都市的な完全性を高いレベルで満たしている。しかしながら石炭採掘に関する産業的証拠の完全性は非常に脆弱である。このように構成資産の物理的な完全性は非均質ではあるが、本遺産の経済的・社会的価値は十分に表現されている。実際、完全性は3つのレベル――個々の技術的な構築物や建築物、次いで採炭坑や労働施設・地域の土地、最後に地平線にまで達する目にできる限りの広大な景観――で完全性を十分に読み取ることができる。
本遺産の真正性は108件の構成資産とそれらに関連する景観の両面で判断されるべきであるが、構成資産の厳密な選択の結果、真正性の状況はおおむね良好であるといえる。ただ、住宅にしばしば現れる亀裂や経済開発による景観に対する脅威は改善される必要がある。