パリのセーヌ河岸

Paris, Banks of the Seine

  • フランス
  • 登録年:1991年、2024年軽微な変更
  • 登録基準:文化遺産(i)(ii)(iv)
  • 資産面積:531ha
  • バッファー・ゾーン:3,194ha
世界遺産「パリのセーヌ河岸」、パリの夜景。左がエッフェル塔、シャン・ド・マルス公園を経た手前の建物がエコール・ミリテール、右のドーム建築はアンヴァリッド、その奥で光っているのはエトワール凱旋門
世界遺産「パリのセーヌ河岸」、パリの夜景。左がエッフェル塔、シャン・ド・マルス公園を経た手前の建物がエコール・ミリテール、右のドーム建築はアンヴァリッド、その奥で光っているのはエトワール凱旋門
世界遺産「パリのセーヌ河岸」、ルーヴル美術館。左奥の建物がドゥノン・ウイングで、右にグラン・ギャラリーが伸びており、末端にパヴィヨン・ド・フロールがそびえている。左の広場がナポレオン広場で、ガラスの建物はルーヴル・ピラミッド、右の円形の緑はカルーゼル広場、右奥の門がカルーゼル凱旋門
世界遺産「パリのセーヌ河岸」、ルーヴル美術館。左奥の建物がドゥノン・ウイングで、右にグラン・ギャラリーが伸びており、末端にパヴィヨン・ド・フロールがそびえている。左の広場がナポレオン広場で、ガラスの建物はルーヴル・ピラミッド、右の円形の緑はカルーゼル広場、右奥の門がカルーゼル凱旋門
世界遺産「パリのセーヌ河岸」、グラン・パレの東ファサード
世界遺産「パリのセーヌ河岸」、グラン・パレの東ファサード。ギリシア建築のような柱廊、バロック的なエントランス、アール・ヌーヴォーの金属装飾と、さまざまなスタイルが融合している (C) Ștefan Jurcă
世界遺産「パリのセーヌ河岸」、シャイヨー宮殿。湾曲した右の建物がパリ・ウイング、左がパッシー・ウイング、手前の緑がトロカデロ庭園、建物の奥の広場がトロカデロ広場
世界遺産「パリのセーヌ河岸」、シャイヨー宮殿。湾曲した右の建物がパリ・ウイング、左がパッシー・ウイング、手前の緑がトロカデロ庭園、建物の奥の広場がトロカデロ広場
世界遺産「パリのセーヌ河岸」、パリ市庁舎=オテル・ド・ヴィル・ド・パリ
世界遺産「パリのセーヌ河岸」、パリ・コミューンやパリ解放をはじめ幾度となくフランス史の舞台となったパリ市庁舎=オテル・ド・ヴィル・ド・パリ
世界遺産「パリのセーヌ河岸」、ナポレオン1世の棺が収められているオテル・デ・ザンヴァリッド、通称アンヴァリッドのル・ドーム
世界遺産「パリのセーヌ河岸」、ナポレオン1世の棺が収められているオテル・デ・ザンヴァリッド、通称アンヴァリッドのル・ドーム。ヴェルサイユ宮殿の設計で知られる建築家マンサールの作品
世界遺産「パリのセーヌ河岸」、左のドーム建築がフランス学士院、セーヌ川に架かる右の橋はアール橋
世界遺産「パリのセーヌ河岸」、左のドーム建築がフランス学士院で、こちらもヴェルサイユ宮殿の設計で知られるルイ・ル・ヴォーの作品。セーヌ川に架かる右の橋はナポレオン1世が建設を命じたアール橋 (C) DXR
世界遺産「パリのセーヌ河岸」、パリのノートル=ダム大聖堂の西ファサード
世界遺産「パリのセーヌ河岸」、パリのノートル=ダム大聖堂の西ファサード。上層に双塔、中層にバラ窓とその前に聖母像を中心とした聖母のギャラリー、左右にランセット窓、その下にイスラエルの28人の王が並ぶ王のギャラリーを経て、下層に3基のポータルが設けられている
世界遺産「パリのセーヌ河岸」、レイヨナン様式のステンドグラスに覆われたサント・シャペルの上部礼拝堂
世界遺産「パリのセーヌ河岸」、レイヨナン様式のステンドグラスに覆われたサント・シャペルの上部礼拝堂。中央が天井、左が西ファサードのバラ窓、右がアプスのランセット窓 (C) denfr
世界遺産「パリのセーヌ河岸」、アレクサンドル3世橋とアンヴァリッド
世界遺産「パリのセーヌ河岸」、アレクサンドル3世橋とアンヴァリッド(右奥)。右の柱の上にそびえる黄金の彫刻はレオポルド・シュタイナー『戦争の名声』、橋の中央の彫刻はジョルジュ・レシポン『セーヌ川のニンフ』、街灯などにアール・ヌーヴォーの装飾が見られる

■世界遺産概要

フランス北部イル=ド=フランス地域圏に位置するフランスの首都パリの歴史地区を登録した世界遺産で、1991年の登録当初は上流にあたる東のシュリー橋とサン=ルイ島から、イエナ橋を越えて西のビル・アケム橋とシーニュ島(白鳥島)の手前までのセーヌ河岸を資産とした。2024年の軽微な変更で若干拡大され、シーニュ島やパリ植物園、ロン・ポワン・デ・シャンゼリゼ、サン=ジャックの塔などが含まれた。

一帯はフランスの政治的・文化的・経済的中心地で、中世から現在まで長らくフランス王国・帝国・共和国の首都でありつづけ、近代においてナポレオン3世とジョルジュ=ウジェーヌ・オスマンの指揮下で行われた「パリ改造」は世界の近代都市計画のモデルとなった。

各時代・各様式を代表する建造物が集中しており、ゴシック様式のノートル=ダム大聖堂やサント・シャペル、ルネサンス様式のヌフ橋(ポン・ヌフ)やルーヴル美術館シュリー・ウイング、バロック様式のアンヴァリッド(オテル・デ・ザンヴァリッド)やエコール・ミリテール、新古典主義様式(ギリシア・ローマのスタイルを復興したグリーク・リバイバル様式やローマン・リバイバル様式)のマドレーヌ寺院(マドレーヌ教会)やブルボン宮殿(パレ・ブルボン)、歴史主義様式(中世以降のスタイルを復興したゴシック・リバイバル様式やネオ・ルネサンス様式、ネオ・バロック様式等)のオテル・ド・ヴィル・ド・パリ (パリ市庁舎)やルーヴル美術館ドゥノン・ウイングおよびリシュリュー・ウイング、アール・ヌーヴォーのグラン・パレやプティ・パレ、モダニズムのエッフェル塔やアレクサンドル3世橋等、枚挙にいとまがない。

なお、2024年の軽微な変更で、資産は365ha→531haとなり、3,194haのバッファー・ゾーンが設定された。

また、サン=ジャックの塔は世界遺産「フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」の構成資産にもなっている。

○資産の歴史

パリには紀元前8000年ほどまでさかのぼる中石器時代の人間の居住の跡が発見されている。紀元前250~前200年頃にケルト系のパリシイ人がオッピドゥム(城郭都市)を築いて定住をはじめ、オッピドゥム・パリシオルム(パリシイ人のオッピドゥム)に発展した。「パリ」という名称はこの「パリシイ」「パリシオルム」に由来するといわれている。町の場所についてはシテ島、サン=ルイ島、ナンテールと諸説あって定かではない。

パリはセーヌ川を使った河川舟運や種々の街道の要衝となり、交易都市として発展した。紀元前1世紀、北上を進める共和政ローマに対し、ケルト系のパリシイ人やガリア人がこれを阻止。しかし、ケルト連合軍は紀元前52年のルテティアの戦いでカエサル(ガイウス・ユリウス・カエサル/シーザー)に敗北してその版図に入った。共和政ローマはシテ島と周辺のセーヌ川左岸(南岸)を整備し、ルテティア・パリシオルム(パリシイ人の沼沢地)、ルテティア、ルコテキアなどと呼ばれる植民都市を建設した。紀元前27年にローマ帝国が成立し、3世紀頃から「パリ」という名称が使われるようになったようだ。ただ、この頃はまだローマ属州ガリア・ルグドゥネンシスの首都ルグドゥヌム(現・リヨン。世界遺産)と比較して小都市にすぎなかった。

3世紀にキリスト教が伝わり、パリのディオニュシウス(サン=ドニ/聖ドニ)が最初の司教となった。その尽力もあってルテティアにキリスト教が広まったが、ディオニュシウスは異教徒によって斬首刑に処されてしまった。伝説では、モンマルトルで首を落とされたディオニュシウスは自分の首を持って歩き出し、郊外で絶命したという。その場所に建てられたのがサン=ドニ修道院で、修道院教会(現・サン=ドニ大聖堂。資産外)は後に代々の国王が埋葬される王室墓所となった。

ローマ帝国が軍人皇帝の乱立とゲルマン人の侵入によって混乱した「3世紀の危機」を迎えると、多くの市民がルテティアを脱出し、町の中心は市壁に囲われたシテ島に移動した。4世紀半ば、コンスタンティヌス1世の甥であるユリアヌスが長として赴任し、361年に皇帝位に就くとルテティアが帝国の中心都市となった。結局、ゲルマン人の圧力に抗しきれず、ローマ帝国は395年に東西に分裂。451年には遊牧民族であるフン人(フン帝国)の君主アッティラがルテティアに迫ったが、必死の抵抗で町は救われた。伝説では、敬虔なキリスト教徒であるジュヌヴィエーヴが人々を鼓舞し、男性には戦うことを、女性には祈ることを説得した。こうした背景もあって460年代にゲルマン系フランク人であるキルデリク1世による包囲戦を退けたという。彼女は死後まもなく列聖(徳と聖性を認めて聖人の地位を与えること)され、聖ジュヌヴィエーヴと呼ばれてパリの守護聖人となった。聖ジュヌヴィエーヴと当時の司教オセールのゲルマヌス(サン=ジェルマン・ロクセロワ)のために5世紀に築かれた礼拝堂を起源とする教会堂がサン=ジェルマン・ロクセロワ教会だ。

しかし、ゲルマン人の圧力はいかんともしがたく、476年に西ローマ帝国が滅亡。キルデリク1世の息子クローヴィスはフランク諸国を統一し、481年にクローヴィス1世としてフランク王国メロヴィング朝を打ち立てた。486年にはルテティアを落として入城し、シテ島に王宮を築いて首都のひとつとして整備した。妻にめとったクロティルダがキリスト教ローマ・カトリックのアタナシウス派だったこともあり、ゲルマン人の君主としてはじめてローマ・カトリックに改宗した。このとき洗礼を受けた場所がランス大聖堂(ランスのノートル=ダム大聖堂。世界遺産)だ。クローヴィス1世は507年のヴイエの戦いでガリア(ライン川からピレネー山脈、イタリア北部に至る地域。おおよそ現在のフランス・ドイツ西部・イタリア北部に当たる)最大勢力だった西ゴート王国を打ち破って駆逐。王国が栄えるとともにパリも繁栄し、町はシテ島を中心にセーヌ川の両岸に広がった。

8世紀、イスラム教国であるウマイヤ朝(イスラム帝国)が中央アジアから西アジア、北アフリカにまたがる大帝国を打ち立てて、東西からヨーロッパを挟み込んでキリスト教諸国に圧力を掛けた。711年にイベリア半島に進出し、ピレネー山脈を越えてガリアに侵入したが、732年にフランク王国の宮宰カール・マルテルがトゥール・ポワティエ間の戦いでこれを撃破して阻止した。フランク王国はキリスト教諸国の救世主として立場を固め、751年にはカール・マルテルの息子ピピン3世(小ピピン)が王位に就いてカロリング朝が成立した。その息子カールは教皇レオ3世からローマ帝国の帝冠を授かり、ローマ皇帝が復活した(カールの戴冠)。皇帝となったカール大帝は拠点をパリからアーヘンに遷し、フランク王国の中心はドイツに移動した。

843年のヴェルダン条約でフランク王国は西フランク王国、中部フランク王国、東フランク王国に分割され、中部フランク王国は855年のプリュム条約でロタリンギア、プロヴァンス、イタリアに再分割され、さらに870年のメルセン条約でロタリンギアとプロヴァンスが西フランク王国と東フランク王国に吸収された。これでフランス、ドイツ、イタリアという3国の原型が出そろい、パリ伯が治めるパリが西フランク王国の首都となった。この時期、9世紀半ばから10世紀初頭にかけて度重なるヴァイキング(北ヨーロッパを拠点とするノルマン人)の襲来に苦しめられた。シテ宮殿が置かれたシテ島はセーヌ川と市壁に守られて落ちることはなかったが、一時は完全に包囲されて両岸は壊滅的な被害を受けた。

987年にルイ5世が死去してカロリング家が途絶えると、ロベール家でパリ伯であるユーグ・カペーが王位を継いでカペー朝を打ち立てた。一般的にこの時代からフランス王国と呼ばれている。ただ、フランス王といってもカペー家はパリ伯としてパリを中心としたイル=ド=フランス地区を治めるのみで、大きな力を持たなかった。このため息子のロベール2世らの国王は勢力拡大に努めた。しかし、フランスの北西でノルマンディー公、南西でアンジュー伯が勢力を強め、囲まれる形となった。1066年にノルマンディー公ギヨーム2世がウィリアム1世としてイングランドの王位に就くと、フランスの目前にイングランド領が誕生した。1151年にはアンジュー伯のアンリがノルマンディー公とメーヌ伯を兼ね、さらに妻のアリエノール・ダキテーヌはアキテーヌ公でもあったため、フランス北部から西部を経て南部に至る大勢力となった。さらにアンリは1154年にヘンリー2世としてイングランドの王位に就き、イングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランドを得てアンジュー帝国を打ち立てた。これに対し、フランス王フィリップ2世はアンジュー伯が大陸に持つノルマンディー公国以外の領地を没収。怒ったイングランド王ジョンはフランスに戦争を仕掛けるが、大陸の諸侯はまとまりを見せて対抗し、ノルマンディー地方を奪取した。また、フランス南部ではフィリップ2世と、続くルイ8世・9世の時代に南部で信者を増やしていたキリスト教の異端・カタリ派(アルビジョワ派)に対するアルビジョワ十字軍に参加し、南フランスの諸侯を手なずけて版図を広げた。

フランク王国やフランス王国の初期、明確な首都は存在せず、複数の都市に王宮が置かれており、ユーグ・カペーなどはほとんどパリに滞在しなかったという。しかし、12世紀になるとパリはアルプス山脈以北で最大規模の都市となり、明確に中心都市となった。この頃、イル=ド=フランス地方ではゴシック建築が発達し、パリ郊外のサン=ドニ修道院教会などで体系化された。パリ中心部にはロマネスク様式のサンテティエンヌ大聖堂があったが、フランスを代表するゴシック様式の巨大な大聖堂が待望された。こうして1163年に起工されたのがノートル=ダム大聖堂だ。また、フィリップ2世はパリの左岸・右岸を囲む新たな市壁(フィリップ2世オーギュストの市壁)を築き、右岸の城壁内にルーヴル城を建設した。現在のルーヴル美術館シュリー・ウイングの場所に当たり、遺構の一部が残されている。この後もパリの整備は続けられ、フィリップ2世の孫で後に列聖されて「サン=ルイ(聖ルイ。英語でセント・ルイス)」と呼ばれることになるルイ9世は、イエスが処刑当日にかぶっていた荊冠(けいかん。イバラの冠)や、磔刑に処せられた際の聖十字架(サント=クロワ)の断片といった聖遺物のコレクションを収めるためにシテ宮殿にサント・シャペルを建設した。

14世紀はじめにパリの人口は20万人に達し、ヨーロッパ最大の都市となった。しかし、14世紀半ばのペストの大流行で人口の1/4が死亡。1328年のカペー朝の断絶・ヴァロワ朝の成立に際してイングランド王エドワード3世が王位を要求したことから起こった百年戦争(1337〜1453年)でパリは幾度となく攻撃されて人口の半数が退去したという。貴族らはパリを離れてトゥールをはじめロワール渓谷(世界遺産)に退避し、パリが陥落してフランスは窮地に陥ったが、ジャンヌ・ダルクの活躍もあって戦争に勝利した。1436年にシャルル7世がパリを奪還したが、1594年にアンリ4世がパリに戻るまでトゥールが実質的な首都となった。戦争中、パリの発展に貢献したのがシャルル5世だ。百年戦争に加え、ジャックリーの乱をはじめとする反乱に苦しんだが、王政の建て直しを図り、パリを守るために右岸の市壁を拡張し、バスティーユ城塞(資産外)を建設した。また、シャルル5世はルーヴル城を王宮として改築し、新たな王宮としてオテル・サン=ポール(資産外)を建設したことでも知られる。一方、シテ宮殿は次第に宮殿としての機能を失い、立法・司法機関が残されてパレ・ド・ジュスティス(司法宮/裁判所)として発展していく。

百年戦争の勝利でフランスはイングランドを大陸から一掃し、大国として名を馳せた。パリは繁栄を取り戻し、人口は25万人を超えた。また、地方の諸侯が没落し、中央集権が進んで国王の力が伸長した。15世紀末からフランスはイタリアに進出して神聖ローマ帝国とイタリア戦争(1494~1559年)を戦って敗れたが、直接イタリア文化に触れたフランソワ1世はルネサンス文化を持ち帰り、ルーヴル宮殿やオテル・ド・ヴィル・ド・パリをルネサンス様式で改築した。息子アンリ2世もこの路線を引き継いで町を整備し、その王妃カトリーヌ・ド・メディシスは夫の死後、ルーヴル宮殿の西にルネサンス様式のテュイルリー宮殿と庭園の建設を開始した。また、1583年にはさらに西にそびえるシャイヨーの丘を購入し、シャイヨー城を建設した。

16世紀後半になるとカルヴァン派プロテスタントである新教派=ユグノーと旧教派=ローマ・カトリックの争いが激化してユグノー戦争(1562~98年)が勃発。1572年8月24日にはユグノー約4,000人がパリで虐殺されるという事件が起こった(サン・バルテルミの虐殺)。1589年にアンリ3世が暗殺されてヴァロワ家が断絶すると、ブルボン家のアンリ4世が即位してブルボン朝が成立するが、アンリ4世がユグノーだったため旧教派はこれを認めずパリを封鎖。アンリ4世は1593年にサン=ドニ修道院教会でローマ・カトリックに改宗し、翌年シャルトル大聖堂(シャルトルのノートル=ダム大聖堂。世界遺産)で戴冠式を行った。そしてローマ・カトリックをフランスの国家宗教であると宣言しつつ、信仰の自由を認めるナントの王令を発布し、ユグノー戦争に終止符を打った。アンリ4世はルーヴル宮殿を大幅に拡張してシュリー・ウイングの原型を造り、ルーヴル宮殿とテュイルリー宮殿を結ぶグラン・ギャラリー(大回廊)の建設を開始した。また、シテ島を経由して両岸を結ぶヌフ橋やサン=ルイ病院(資産外)の建設などを進めた。

アンリ4世はローマ・カトリックの狂信者によって暗殺されたため、ルイ13世がわずか8歳で即位し、アンリ4世の王妃マリー・ド・メディシスが摂政となった。その後、リシュリューを宰相に任じ、三部会を閉鎖して貴族を政治から遠ざけ、重商主義を推進して貿易を独占し、常備軍を強化した。王権を強化していく中でルイ13世とリシュリューはパリを整備し、右岸の市壁の拡張や、マリー橋をはじめ5本の橋やパレ・ロワイヤル(資産外)、サン=ジェルヴェ=サン=プロテ教会(資産外)、サン=ポール・サン=ルイ教会(資産外)の建設、フランス王立アカデミー(現・フランス学士院)のアカデミー・フランセーズの設立、ルーヴル宮殿の改築などを行った。また、母マリー・ド・メディシスはリュクサンブール宮殿(資産外)、王妃アンヌ・ドートリッシュはヴァル=ド=グラース教会(資産外)などを建設した。これらはルネサンスからバロックへの移行期に当たる建築物で、フランス・バロックの方向性を決定付けた。17世紀前半にパリの人口は40万人に達したという。

1643年にルイ13世が死去すると、ルイ14歳はわずか4歳で王位に就き、母である摂政アンヌ・ドートリッシュと宰相マザランが政治を行った。中央集権が進む王政に対して貴族らがフロンドの乱(1648~53年)を起こすと、パリを脱出してサン=ジェルマン=アン=レー城(資産外)へ退避したが、これを鎮圧すると王権はさらに強化され、絶対王政は完成を迎えた。一説ではルイ14世はこの体験から王宮をヴェルサイユへ移すことを決意したという。ヴェルサイユ宮殿(世界遺産)の完成後、ルイ14世はパリにはあまり戻らなかったが、それでもパリの整備を進め、市壁を取り壊してより開かれた町に改造した。ルイ14世が新たに整備した地域が左岸のフォーブール・サン=ジェルマンで、高級住宅街やオフィス街として発展した。教育・福祉施設を中心に新たに建てられた建造物も数多く、パリ天文台(資産外)やサルペトリエール病院(資産外)、大学のコレージュ・マザラン(資産外)、傷病兵のための療養施設であるオテル・デ・ザンヴァリッド=通称アンヴァリッド、当時はパリ大学のキャンパスだったフランス学士院、ロワイヤル橋、サン=マルタン門(資産外)、サン=ドニ門(資産外)などを築き、ルーヴル宮殿やテュイルリー宮殿の改装や拡張などを行った。この頃、人口は50万人に及んだという。

ルイ14世の死後、相次ぐ戦争と宮殿建設等によって財政は悪化し、またナントの王令の廃止等によって国は不安定化し、フランスは衰退期に向かった。ルイ15世はルイ14世のような財力はなかったが、それでも町を整備し、多くの建造物の建設・増改築を進めた。一例がテュイルリー宮殿の西に広がる広場で、ルイ15世の騎馬像が設置されたことからルイ15世広場(現・コンコルド広場)と呼ばれた。さらに、この広場から西にシャンゼリゼ通りを建設し、林や畑を整地して町を拡張した。この時代の最高傑作とされる建物が新古典主義様式のサント=ジュヌヴィエーヴ修道院教会、現在のパリのパンテオン(資産外)だ。また、軍事力を増強するため王立軍事学校の設立に尽力し、軍事高等教育機関エコール・ミリテールを創設した。エコール・ミリテールのバロック様式の建造物群は巨匠アンジュ=ジャック・ガブリエルによるもので、城塞のような豪壮な建物となった。また、長い歴史を持つモネ・ド・パリ(パリ造幣局)の拠点として新たにオテル・ド・ラ・モネが建設された。この頃、貴族が建てた新古典主義様式の宮殿として、ブルボン公爵夫人ルイーズ=フランソワーズ・ド・ブルボンのために築かれたブルボン宮殿や、ザルム=キルブルク侯フリードリヒ3世の私邸であるオテル・ド・ザルム(現・レジオン・ドヌール宮殿)が挙げられる。

ルイ16世の時代に不作が続き、フランス各地で飢饉が頻発した。パリでも食糧危機が起き、輸出入の統制を行った。それ以前にルイ16世はパリに入る物品の関税を徴収するためにフェルミエー・ジェネロー(徴税請負人)の市壁(資産外)を建設し、門に税関を設置して徴税を行ったが、問題は解決しなかった。1789年7月14日、暴徒化したパリ市民がアンヴァリッドの武器庫を襲撃し、武器を奪って圧政の象徴であるバスティーユ牢獄(資産外)を襲撃した。フランス革命のはじまりである。10月5日には女性を中心としたパリ市民が「パンをよこせ」とヴェルサイユ宮殿に押し寄せ、ルイ16世と王妃マリー・アントワネットにパリ帰還を要求し、テュイルリー宮殿へ連行した(ヴェルサイユ行進)。どうやら事実ではないようだが、マリー・アントワネットが言ったとされる「パンがなければお菓子(ブリオッシュ)を食べればいいじゃない」という言葉もこのときのものとされる。市民はブルボン宮殿を拠点に最初の国会である国民議会(まもなく憲法制定国民議会)を設立し、民主政治を推し進めた。また、革命裁判所がシテ島のパレ・ド・ジュスティス・ド・パリに設置された。結局、王政は廃止されて共和政(第1共和政)に移行し、ルイ16世とマリー・アントワネットは1793年にルイ15世広場で斬首刑に処された。広場からルイ15世騎馬像が撤去されて革命広場に改名され、その後コンコルド広場に改められた。

圧倒的な民衆の支持を背景にナポレオン・ボナパルトが政権を奪取すると、1804年にノートル=ダム大聖堂で戴冠式を行ってナポレオン1世として皇帝に就任した(第1帝政)。ローマ帝国に憧れを抱いていたナポレオン1世は「新ローマ」を目指してパリを改修し、ギリシア・ローマ建築を模した多くの建造物を建設した。この時代のフランスの新古典主義様式は「アンピール様式(帝政様式)」と呼ばれている。代表的な建造物には、アウステルリッツの戦いの戦勝を記念しローマのコンスタンティヌス凱旋門(世界遺産)を模して築かれたエトワール凱旋門(資産外)や、対仏大同盟に対する勝利を記念しローマのセプティミウス・セウェルス凱旋門(世界遺産)を模したカルーゼル凱旋門、イエナの戦いでの勝利を記念して命名されたイエナ橋、ルイ15世が建設を開始しナポレオン1世がフランス軍を讃える神殿として完成させたマドレーヌ寺院、ローマのトラヤヌス記念柱(世界遺産)を模して築かれたパルミエ(椰子)噴水の記念柱のあるシャトレ広場などがあり、モダニズム建築ではアール橋(ポン・デ・ザール/芸術橋)がある。これ以外にも運河や道路・下水道・墓地・港をはじめインフラ整備に尽力した。

ナポレオン1世の失脚後、1814年にルイ18世が王位に就いてブルボン朝が復活した(復古王政)。一時、ナポレオン1世がパリに帰還して復活するが(百日天下)、ふたたび追放されて復古王政が認められた。ナポレオン1世は南大西洋の孤島セントヘレナへ流され、1821年に死去した後、遺体は1840年に本国に戻されてアンヴァリッドに安置された。

1830年の七月革命でルイ18世の跡を継いだシャルル10世が退位し、自由主義者で知られるルイ・フィリップ1世が即位(七月王政)。1848年の二月革命ではルイ・フィリップ1世がイギリスに亡命した(第2共和政)。第2共和政憲法に従って大統領選挙が実施され、ナポレオン1世の甥にあたるルイ・ナポレオンが当選。1851年、軍に命じて議会を包囲させると、議会を解散して国民投票を行い、絶大な支持を得てクーデターを成功させた(1851年12月2日のクーデター)。翌年の国民投票でも圧倒的な賛成票を集め、ナポレオン3世として皇帝位に就いた(第2帝政)。

1830年代にフランスでも産業革命がはじまり、フランス経済は著しく発展した。ナポレオン3世はこの富を背景に都市や鉄道網を整備し、保護貿易から自由貿易に転換して産業の自由化を促した。その一環として実施されたのが「パリ改造」だ。1853年にジョルジュ=ウジェーヌ・オスマンをセーヌ県知事に任命すると、18世紀に進められたボルドー(世界遺産)の近代化を参考に、ナポレオン3世の構想に従って近代都市を目指して都市改造を実施。道路の直線化や同心円状の大型道路を整備して合理的な道路網を築き、広場や橋・運河・公園・病院・娯楽施設・公衆トイレ・上下水道・街灯などを設置して都市景観や福祉・衛生・安全にも配慮した。一例がエトワール凱旋門から放射状に伸びる12本の大通りの敷設であり、第2帝政の象徴的な建物であるガルニエ宮殿(パリ・オペラ座。資産外)の建設、パリ最古の病院であるシテ島のオテル=デュー・ド・パリの再建、ルーヴル宮殿のドゥノン・ウイングとリシュリュー・ウイングの増設だ。パリ改造は都市改造のモデルとなり、リヨンやマルセイユ、バルセロナ、ストックホルム、ウィーンなど多くの都市に影響を与えた。また、ナポレオン3世治世下の1855年にはじめてパリで万国博覧会(以下、万博)が開催され、1867年に再度パリ万博が開かれた。

ナポレオン3世は1870~71年のプロイセン=フランス戦争(普仏戦争)に敗れ、捕らえられて失脚。プロイセン軍はヴェルサイユ宮殿を占領すると、1871年1月にヴィルヘルム1世の皇帝戴冠式を行い(ドイツ帝国の成立)、3月にはパリに入城した。こうした数々の屈辱に対して労働者が立ち上がって労働者政権パリ・コミューンを結成。ナポレオン3世後に政権を取った臨時政府との間で「血の週間」と呼ばれる凄惨な戦いを行った末に、パリ・コミューンは鎮圧されて第3共和政が成立した。この戦いでテュイルリー宮殿やオテル・ド・ヴィル・ド・パリ、オルセー宮殿などが焼失し、オテル・ド・ヴィル・ド・パリについては1874~82年にネオ・ルネサンス様式で再建された。また、戦後の復興を記念して1878年にパリ万博が開催され、トロカデロ宮殿が建設された。この万博の前にジャポニスムのブームが起こっていたこともあって日本が初参加している。

第2帝政から第3共和政にかけて政治は安定しなかったものの、自由主義・産業革命が進展し、海外領土についてもフランス領北アフリカ・西アフリカ・赤道アフリカ・ソマリランド・インドシナと大領域を獲得してフランス第2植民地帝国を形成し、帝国主義の時代を迎えた(アメリカやインドに植民地を保有していた時代をフランス第1植民地帝国という)。こうした文化的・経済的発展を背景にパリは19世紀後半から第1次世界大戦まで「ベル・エポック(すばらしき時代)」を謳歌した。この時代を象徴するのが1889年と1900年のパリ万博だ。1889年のパリ万博に合わせて完成したエッフェル塔は鉄骨造の画期的なモダニズム建築で、19世紀後半に140~160m台で争われていた世界でもっとも高い建造物の記録をあっさり追い抜いて312mという高さを実現し、それをわずか2年2か月で完成させて見せた。また、機械館という鉄とガラスのパビリオンも大いに注目を集めた。1900年のパリ万博ではエッフェル塔と機械館がふたたび活躍したほか、新古典主義・歴史主義様式に鉄やガラスといったモダニズムの要素とアール・ヌーヴォーの装飾を融合させたグラン・パレ、プティ・パレといったパビリオンや、アレクサンドル3世橋などのモダニズム建築が登場した。アール・ヌーヴォーはこの万博を機にブームを迎えたことから「パリ1900年式」とも呼ばれている。また、この万博に合わせてメトロが開通し、パリ・オルレアン鉄道では世界初の電化ターミナル駅であるオルセー駅(現・オルセー美術館)が開業した。この時代に市民生活も豊かになり、カフェやデパート・レコードなどが普及して大衆文化が花開いた。

第1次世界大戦(1914~18年)ではドイツ軍がパリの25km北まで迫ったが、戦線を押し戻し、いくらかの空爆や砲撃を除いて戦火を免れた。1925年・1937年にはまたもパリ万博が開催された。1925年のパリ万博はアール・デコ博覧会とも呼ばれ、装飾過多に陥ったアール・ヌーヴォーの反動から直線的・幾何学的・合理的な装飾を特徴とするアール・デコ(パリ1925年式)や、複数の視点を同時に表現したキュビズムのような新しい芸術・建築スタイルがブームを呼んだ。1937年のパリ万博でもモダンな生活・文化に焦点が当てられ、パビリオンとしてトロカデロ宮殿がシャイヨー宮殿(パレ・ド・シャイヨー)に建て替えられたほか、トーキョー宮殿(パレ・ド・トーキョー)やデクヴェルト宮殿(パレ・ド・ラ・デクヴェルト/発見の殿堂)などが建設された。

第2次世界大戦(1939~45年)では1940年6月にナチス=ドイツがパリに侵攻し、1944年8月まで占領を続けた。パリは電撃的に占領され、ナチス=ドイツの敗退が決定的だった時期に解放されたため、ヒトラーによるパリ破壊命令も実行されず、大きな被害を被ることはなかった。8月25日にパリのドイツ防衛軍が降伏し、連合国軍が入城。亡命政権を率いていたシャルル・ド・ゴールがオテル・ド・ヴィル・ド・パリで政府の帰還とパリ解放を宣言し、連合国軍のパレードが行われた。エッフェル塔にはフランス三色旗=トリコロールがはためき、シャンゼリゼは歓迎する人々であふれかえり、ノートル=ダム大聖堂の鐘が打ち鳴らされた。

1981年にはミッテラン大統領による都市再生プロジェクト「グラン・プロジェ」でパリ大改造計画が打ち出され、現代的な都市開発と文化施設の改修・建設が進められた。この中の大ルーヴル計画によりルーヴル宮殿全域が美術館に改装され、ルーヴル・ピラミッドや逆ピラミッド、地下施設カルーゼル・デュ・ルーヴルなどが設置された。また、オルセー駅はオルセー美術館に改修され、1986年にオープンした。

○資産の内容

世界遺産の資産としては、東のシュリー橋とサン=ルイ島からイエナ橋を越えて西のビル・アケム橋とシーニュ島(白鳥島)の手前まで、セーヌ川と左右の河岸が地域として登録されている。ただ、セーヌ河岸に近くても資産に含まれていない建造物もあり、サン=ジャックの塔やアール・ド・パリ、パレ・ロワイヤル、ガルニエ宮殿、エリゼ宮殿、エトワール凱旋門、リュクサンブール宮殿、パリ大学、パリのパンテオン、バスティーユ広場などは含まれていない。

代表的な宮殿建築として、まずルーヴル美術館が挙げられる。大英博物館と並んで世界でもっとも有名な美術館・博物館のひとつであり、絵画作品であるレオナルド・ダ・ヴィンチ『モナリザ』やウジェーヌ・ドラクロワ『民衆を導く自由の女神』、大理石彫刻の『ミロのヴィーナス』『サモトラケのニケ』、宝飾品では140.64カラットのダイヤモンド『リージェント』や『ルイ14世の宝石箱』等々、著名な作品を数多く収蔵している。フィリップ2世が12世紀に築いたルーヴル城がはじまりで、シャルル5世が14世紀に王宮として改修し、フランソワ1世が大々的に改築してからはフランス王室の中心的な王宮となった。アンリ4世の時代、16~17世紀にグラン・ギャラリーと呼ばれる大回廊を介してテュイルリー宮殿と結ばれた。17世紀にルイ14世がヴェルサイユ宮殿を建設してから王家のコレクションを収蔵・展示する場所として整備され、芸術家や建築家のアトリエとしても使用された。フランス革命で接収されると国民議会は美術館として使用することを決定し、1793年に中央美術館としてオープンした。19世紀、ナポレオン1世の時代にロアン・ウイングやカルーゼル凱旋門、ナポレオン3世の時代にドゥノン・ウイングとリシュリュー・ウイングが増設され、1871年のパリ・コミューンと臨時政府の戦いでテュイルリー宮殿が焼失しておおよそ現在の形となった。1981年にはじまるミッテラン大統領の「グラン・プロジェ」で大ルーヴル計画が推進され、ナポレオン広場にルーヴル・ピラミッド、カルーゼル広場に逆ピラミッド、その地下にカルーゼル・デュ・ルーヴルが設置された。現在、ルーヴル美術館の敷地はかつてテュイルリー宮殿が立っていた西のジェネラル・ルモニエ通りから東のルーヴル広場までの約750m・6haで、その中に38万点以上の収蔵品と35,000点の展示品を有している。東に「□」形のコートハウス(中庭を持つ建物)であるシュリー・ウイングが立っており、中庭であるクール・カレを囲んでいる。美術館でもっとも古いエリアで、地下にはルーヴル城の時代の遺構が残されており、南西にはフランソワ1世が築いたルネサンス様式の建物も見られるが、多くはルイ13世・14世の時代にバロック様式で建設されたものだ。ここから両手を突き出したように南にドゥノン・ウイング、北にリシュリュー・ウイングが伸びており、間にルーヴル・ピラミッドが立つナポレオン広場を挟んでいる。両ウイングとも3つの中庭を持つコートハウスで、ほとんどはナポレオン3世の時代にネオ・バロック様式で築かれた。ナポレオン広場の西に逆ピラミッドのあるカルーゼル広場、さらに西にカルーゼル凱旋門の立つカルーゼル庭園が広がっている。カルーゼル広場と庭園の南にはドゥノン・ウイングからグラン・ギャラリーが伸びており、ライオン門(ポルト・デ・リオン)やパヴィヨン・ド・ラ・トレモワイユ、パヴィヨン・ド・フロールといった建物が並んでいる。一方、北にはロアン・ウイングが伸びており、パヴィヨン・ド・マルサンやパリ装飾美術館などがある。

ジェネラル・ルモニエ通りを隔ててルーヴル美術館の西に広がっている庭園がテュイルリー庭園だ。1871年に焼失したテュイルリー宮殿の庭園で、16世紀にアンリ2世の王妃カトリーヌ・ド・メディシスがイタリア式庭園(イタリア・ルネサンス庭園)として建設し、17世紀にルイ14世がヴェルサイユ庭園(世界遺産)を設計した造園家アンドレ・ル・ノートルに依頼してフランス式庭園(フランス・バロック庭園)に改装した。庭園の西端の南北に立つネオ・バロック様式の建物は南がオランジュリー美術館、北がジュ・ド・ポーム国立美術館で、前者は1852年、後者は1861年に庭園のオランジェリー(オレンジなどの果樹を栽培するための果樹園)などとして建設された。オランジュリー美術館はクロード・モネの連作『睡蓮』を収蔵するために1927年に改装され、ジュ・ド・ポーム国立美術館はジュ・ド・ポーム(球戯場)に改修された後、1909年に展示場となり、1947年に美術館としてオープンした。

テュイルリー庭園の西に広がるコンコルド広場はルイ15世の時代にフランス随一の建築家アンジュ=ジャック・ガブリエルが設計した広場で、当時はルイ15世広場と呼ばれていた。1793年にルイ16世とマリー・アントワネットの処刑が行われた場所としても知られている。19世紀に建築家ジャック・イニャス・イトルフが改装を行い、中央にエジプトのルクソール神殿(世界遺産)から運ばれたオベリスク(古代エジプトで神殿の前に立てられた石碑)を立て、両脇に川の噴水と海の噴水を設置した。

パレ・ド・ジュスティス・ド・パリはパリの司法宮あるいは裁判所と訳されることが多い施設で、シテ宮殿の司法・立法・行政機関が置かれていた。シャルル5世が王宮をオテル・サン=ポールに移した際も高等法院や会計院・大法官府などの機関はここに残され、独自に発展した。1776年の大火で大きな被害を受け、1783~86年にかけて新古典主義様式で修復・再建された。フランス革命後の1793~95年には革命裁判所が置かれ、多くの政治犯や反革命容疑者を収容・斬首したことから恐怖政治の象徴となった。ルイ・フィリップ1世やナポレオン3世によって修復・増築が進められ、カール大帝やフィリップ2世の彫像が設置された。現在でもフランスの司法機関の中心地であり、最高司法裁判所である破毀院や控訴院・検察庁などが入っている。コンシェルジュリーは牢獄や門衛所などとして使用された場所で、マリー・アントワネットが収容された独房も残されている。

ブルボン宮殿あるいはパレ・ブルボンはルイ14世とモンテスパン侯爵夫人の娘ルイーズ=フランソワーズ・ド・ブルボンのために1722~28年に建設された新古典主義様式の宮殿だ。高級住宅街であるフォーブール・サン=ジェルマンの嚆矢となった宮殿で、以後、周辺には多くの宮殿や大邸宅が建設された。隣接するオテル・ド・ラッセイ(ラッセイ公邸)はブルボン宮殿の一部として建設されたもので、ルイーズ=フランソワーズ・ド・ブルボンが恋人だったラッセイ公爵に贈与した。ブルボン宮殿はフランス革命後、1791年に国に接収されて国民議会あるいは憲法制定国民議会の議場となり、現在も下院に相当する国民議会の議事堂として使用されている。

レジオン・ドヌール宮殿はザルム=キルブルク侯フリードリヒ3世の私邸として1782年に建設がはじまった新古典主義様式の宮殿で、建築家ピエール・ルソーが設計を担当した。当初はオテル・ド・ザルムと呼ばれていたが、フランス革命後の1804年に接収されてレジオン・ドヌール宮殿に改名され、ナポレオン1世が1802年に創設したフランスの最高勲章レジオン・ドヌールの本部となった。

グラン・パレとプティ・パレは1900年のパリ万博のパビリオンとして築かれた建物だ。「パレ "Palais"」が「宮殿」を意味するため、それぞれ大宮殿・小宮殿を示している。ファサード(正面)や中庭は古代・中世の宮殿建築を模した新古典主義様式や歴史主義様式の重厚な石造建築であるのに対し、内部には鉄とガラスを使った明るいギャラリーが広がっており、アール・ヌーヴォーの装飾で彩られている。これはフランス・パリの国立美術学校エコール・デ・ボザールで花開いた折衷的なスタイルでボザール様式と呼ばれている。中心的な建築家はシャルル・ジローで、これ以外にも建築家アルベール・ルヴェや彫刻家アルフレッド・ブーシェら多くの建築家や芸術家が参加した。グラン・パレのメイン・ギャラリーは全長250m・高さ45mの十字形で、曲線とアール・ヌーヴォーの装飾で飾られた大階段は名高い。プティ・パレは六角形を半分に切ったような平面プランで、中心に半円形の中庭があり、円周上にギャラリーが配されている。グラン・パレの西に立つデクヴェルト宮殿あるいはパレ・ド・ラ・デクヴェルト/発見の殿堂は1937年のパリ万博に合わせて物理学者ジャン・ペランが創設したパビリオンで、科学博物館として使用されている。

シャイヨー宮殿あるいはパレ・ド・シャイヨーが立っている場所には、フランス軍がスペインの革命軍を打ち破った1824年のトロカデロの戦いにおける勝利を記念して建てられたトロカデロ宮殿が立っていたが、1937年のパリ万博でシャイヨー宮殿に建て替えられた。エコール・ミリテール-シャン=ド=マルス公園-エッフェル塔-イエナ橋-トロカデロ庭園-シャイヨー宮殿-トロカデロ広場が一直線上に並ぶ景観はパリを象徴するもののひとつで、1940年にアドルフ・ヒトラーがパリに入城した際に訪れて記念撮影をしたことで知られる。2翼からなる建物で、北翼(東翼)がパリ・ウイング、南翼(西翼)がパッシー・ウイング、その前の緑地がトロカデロ庭園、宮殿の背後の広場がトロカデロ広場となっている。パリ・ウイングとパッシー・ウイングはギリシア建築を模した新古典主義様式で、いずれにも数々の博物館や文化施設が入っており、特にパリ・ウイングのシャイヨー国立劇場はよく知られている。トロカデロ庭園では中央のトロカデロ噴水やカスケード(階段状の連滝)の左右にイギリス式庭園(自然を模したイギリスの風景式庭園)が広がっており、水族館やメリーゴーランドなどのアトラクションも用意されている。

トーキョー宮殿あるいはパレ・ド・トーキョーの「トーキョー」は日本の首都・東京のことで、第1次世界大戦で日本がフランスと同じ連合国側で参戦したことからセーヌ川沿いの道がトーキョー通り(現・ニューヨーク通り)に改名され、通りに面していたことからこの名が付いた。シャイヨー宮殿と同様、1937年のパリ万博のために建設されたパビリオンで、近現代の美術品を展示することを目的としており、当時は国と市の近代美術館が展示を行った。東ウイングと西ウイングのふたつの建物を列柱廊が結ぶ構造で、中央には大きな噴水が設けられている。いくつかの彫刻とレリーフを除いてほとんど装飾のない直線的・幾何学的なシンプルかつモダンなデザインで、パリを代表するアール・デコの作品となっている。現在も東ウイングにはパリ市立近代美術館が入っている。

オテル・ド・ヴィル・ド・パリの「オテル」はフランス語で大型の公共建築、「ヴィル」は町を示し、「オテル・ド・ヴィル」は多くの場合、主要都市の歴史的な市庁舎を示す。そのためオテル・ド・ヴィル・ド・パリは「パリ市庁舎」と訳されることが多い。この場所にはもともと「柱の家」と呼ばれる建物が立っており、1357年に市が購入して行政機関が入った。1533年にフランソワ1世がシャンボール城(世界遺産)の設計で知られるイタリア人建築家ドメニコ・ダ・コルトーナに依頼して建設がはじまり、1628年にルネサンス様式の建物が完成した。フランス革命期にはパリ・コミューンの拠点となったが、1871年に臨時政府との戦闘で追い詰められた支持者が火を放って焼失した。しかし、1874年には建築家テオドール・バリューとエドゥアール・デペルトの設計で再建が開始され、1882年にネオ・ルネサンス様式の建物が完成した。1944年8月25日のパリ解放でシャルル・ド・ゴールがバルコニーから解放宣言を行ったことでも知られている。全長143mとヨーロッパ最大規模の市庁舎で、ファサードには作家ヴォルテールや画家ウジェーヌ・ドラクロワ、室内装飾家シャルル・ル・ブラン、造園家アンドレ・ル・ノートル、物理学者レオン・フーコーなど、パリで活躍した偉人の彫像が並んでいる。内部には市長室やパリ評議会議場、豪壮な装飾で彩られたサル・デ・フェット(祝祭の間)をはじめ多数の部屋があり、数多くの機関が入っている。

フランス学士院はフランス王立アカデミーを前身とする組織で、アカデミー・フランセーズとフランス文学院・科学院・芸術院・人文院の5つのアカデミーで構成されている。最初に発足したのはアカデミー・フランセーズで、フランス語を国語として純化・統一して普及させ、科学や芸術の発展を促すためにルイ13世と宰相リシュリューが1635年に正式に設立した。現在見られるバロック様式の建物はルイ14世の時代に宰相マザランがパリ大学のキャンパスとして築いたもので、ヴェルサイユ宮殿の建築家として名高いルイ・ル・ヴォーの設計で1662~88年に建設された。フランス王立アカデミーはフランス革命後の1793年に廃止されたが、1795年に5つのアカデミーを擁するフランス学士院として復活。1805年に現在の建物に移動した。

オテル・デ・ザンヴァリッド、通称アンヴァリッドはルイ14世が1670年の勅令で建設を命じた施設で、傷病兵や退役軍人のための病院や廃兵院(戦傷による後遺障害や後遺症を負った軍人や退役軍人を収容する施設)・工場・教会堂・修道院をはじめ、軍事総督の司令室や兵舎・武器庫なども備えた総合軍事施設として建設された。1789年7月14日のバスティーユ牢獄の襲撃の前にパリ市民がアンヴァリッドの武器庫を襲撃して武器を奪ったことはよく知られている。兵士との関係を重視したナポレオン1世はしばしばアンヴァリッドを訪れ、オテル・ロワイヤル・デ・ザンヴァリッドとして改修を行った。その死後はルイ・フィリップ1世によってドーム教会の地下に棺が収められ、周囲には兄のジョゼフ・ボナパルトをはじめとする親族や、軍事建築家セバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバンやフランス国歌ラ・マルセイエーズの作者ルージェ・ド・リールといったフランス軍関係者の棺が置かれている。全体の設計は建築家ギャルリー・リベラル・ブリュアンによるもので、「□」形のコートハウス(中庭を持つ建物)が左右対称に並んでおり、中央にサン=ルイ・デ・ザンヴァリッド大聖堂がたたずんでいる。大聖堂はもともとバシリカ式(ローマ時代の集会所に起源を持つ長方形の様式)のソルダ教会(兵士の教会)と、ギリシア十字式(縦横の長さが等しい十字形)のドーム教会という縦に並んだふたつの教会堂からなっていたが、ドーム教会は現在、教会堂として機能していないため、ル・ドームと呼ばれることが多い。高さ107mを誇るル・ドームはヴェルサイユ宮殿の設計でも知られるジュール・アルドゥアン=マンサールの設計で、アンヴァリッドの象徴であるだけでなく、パリのスカイライン(山々や木々などの自然や建造物が空に描く輪郭線)の主役のひとつであり、フランス・バロックを代表する建築となっている。現在でも軍事務所や軍病院・廃兵院・教会堂として機能しているほか、一部は軍事博物館として公開されている。

エコール・ミリテールはオーストリア継承戦争(1740~48年)を機にルイ15世によって1751年に創設された軍事高等教育機関だ。ルイ15世は曾祖父であるルイ14世が築いたアンヴァリッドを超えることを目指してアンジュ=ジャック・ガブリエルに依頼し、1780年に完成を迎えた。そして1784年には後に皇帝ナポレオン1世となるナポレオン・ボナパルトが入学している。アンヴァリッドと同様、数々のコートハウスをまとめたバロック様式の壮大な建造物群で、サン=ルイ礼拝堂やロトンダ・ガブリエル、図書館など数多くの施設があり、現在も多数の教育・研究機関が入っている。

モネ・ド・パリは「パリ造幣局」と訳されることが多い国立の金融機関で、西フランク王シャルル2世のピトル勅令によって864年に創設された現存最古の造幣局として知られる。オテル・ド・ラ・モネと呼ばれる新古典主義様式の建物はルイ15世の時代に建築家ジャックス・ドゥニ・アントワーヌの設計で1771~75年に建設された。現在も造幣局としてユーロ硬貨などを生産しており、一部はパリ造幣局博物館として公開されている。

オテル=デュー・ド・パリは「パリの神の家」を意味する。中世初期、教会や修道院は病院や療養所・救貧院・各種保護施設を兼ねたオテル=デュー(施療院)を各地に築いて地域福祉に貢献した。シテ宮殿に隣接して築かれたオテル=デュー・ド・パリはパリ最古の病院で、651年にパリ司教であるパリのランドリー(聖ランドリー)によって創設されたと伝わっており、事実であれば現在まで営業を続ける世界最古の病院となる。何度か再建や増改築されており、貧富の差が拡大した17世紀には貧困層のための病院や救貧院・無料食堂を兼ねたチャリティー病院が併設され、19世紀まで活動を続けた。ただ、18世紀に入ると貧困率が高まって過密状態に陥り、衛生状態も治療内容も悪化した。1772年の火災で大部分が焼失し、ナポレオン1世が一部を再建。ナポレオン3世がパリ改造の一環でシテ島の改修を行い、建築家エミール・ジルベールやアルトゥール=スタニスラス・ディエットらの設計で1868~78年にネオ・ルネサンス様式で再建された。

オルセー美術館の場所にはかつてオルセー宮殿が立っていたが、1871年のパリ・コミューンと臨時政府の戦闘で焼失した。現在のボザール様式の建物は1900年のパリ万博に合わせてオルセー駅として建設されたもので、建築家ヴィクトル・ラルーによって設計された。1970年代に地下に新駅が建設され、駅の撤去も検討されたが、その歴史的価値が評価されて美術館への転用が決定。1986年に印象派を中心に19世紀の美術品を収蔵するオルセー美術館としてオープンした。アングル『泉』、ミレー『落穂拾い』、マネ『草上の昼食』、セザンヌ『リンゴとオレンジ』、ルノワール『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』、ゴッホ『ローヌ川の星月夜』、ゴーギャン『タヒチの女』、ドガ『踊りの花形』等々、名高い作品が非常に多い。

代表的な宗教建築として、まずパリのノートル=ダム大聖堂が挙げられる。ローマ時代、シテ島のこの辺りには神殿が立っており、4~5世紀にキリスト教が広がるとサンテティエンヌ大聖堂が建設された。パリが都市として飛躍した12世紀にイル=ド=フランスでゴシック様式が確立され、同様式による巨大な大聖堂が待望された。1163年に国王ルイ7世と教皇アレクサンドル3世が礎石を敷設してノートル=ダム(我らの貴婦人)、つまり聖母マリアに捧げる大聖堂の建設が開始され、1182年に奉献された。ただ、完成は1345年まで長引き、その間もトランセプト(ラテン十字形の短軸部分)へのレイヨナン様式の採用や、外壁へのフライング・バットレス(飛び梁。横に飛び出したアーチ状の支え)の設置、身廊の4層構造から3層構造への改築と窓の拡張など、時代時代のスタイルや技術が導入された。完成した大聖堂は当時ヨーロッパ最大級を誇り、フランス・ゴシックを代表する作品となった。フランス革命で略奪・破壊を受け、1793年にローマ・カトリックの信仰が禁止されると無宗教の「理性の神殿」となった。1801年にローマ・カトリックの大聖堂に戻されると、1804年には教皇ピウス7世を呼び寄せてナポレオン1世の戴冠式が行われた。1830年の七月革命でふたたび略奪を受けて破損。こうした長年の損傷に対し、1845年にモニュメント修復の第一人者である建築家ウジェーヌ・ヴィオレ=ル=デュクとジャン=バティスト= アントワーヌ・ラシュスによる修復が進められ、中世のゴシック様式を尊重しつつもゴシック・リバイバル様式を加えて改修された。このとき破壊された彫刻やステンドグラス等が修復されたほか、18世紀後半に失われた高さ96mのフレッシュ(屋根に設置されたゴシック様式の尖塔。スパイアの一種)が再建された。このフレッシュは西ファサードの双塔とともにノートル=ダム大聖堂の象徴となったが、2019年4月15日の火災で焼失した。大聖堂は「†」形のラテン十字式・五廊式(身廊と4つの側廊を持つ様式)で、全長127m・幅48m、西ファサードの双塔の高さ69mを誇る。エントランスは西・北・南ファサードに設けられているが、特に豪壮なのが西ファサードだ。上層に高さ69mの双塔、中層に直径9.6mのバラ窓とその前に聖母とふたりの天使像がたたずむ聖母のギャラリー、その左右にランセット窓(細長い連続窓)、イスラエル王国やユダ王国の28人の王が並ぶ王のギャラリーを経て、下層に3基のポータル(玄関)が設けられている。ポータルは北から聖母のポータル、最後の審判のポータル、聖アンナのポータルで、それぞれおびただしい数の彫刻で装飾されている。北・南ファサードの装飾はそれと比較して控え目だが、バラ窓についてはいずれも直径13.1mと西ファサードより大きい。外装で特徴的なのは悪魔や怪物を象った雨樋であるガーゴイルと、雨樋機能のない彫刻であるグロテスク(キメラ/キマイラとも)で、フクロウやコウモリに似た悪魔やライオンの身体とヤギの頭を持つ怪物などの彫像が多数見られる。また、フライング・バットレスが上下に連なった二重フライング・バットレスも特徴的だ。内部について、身廊・トランセプト・アプス(後陣)はそれぞれ見事なステンドグラスで覆われており、29の礼拝堂は時代時代のスタイルで装飾されている。主祭壇の彫刻は17~18世紀の彫刻家ニコラ・クストゥ作『ピエタ(処刑されたイエスを抱くマリア像)』で、両脇にはルイ13世・14世の像が並んでいる。大聖堂の西に設置されたシテ島考古学クリプト(クリプトは地下聖堂)にはローマ時代の神殿や浴場、サンテティエンヌ大聖堂の遺構、オテル=デュー・ド・パリの旧礼拝堂地下室などが保存されている。

「聖なるチャペル(礼拝堂)」を意味するサント・シャペルは聖王・ルイ9世が荊冠や聖十字架の断片、聖墳墓の石といった聖遺物を収めるために1240年代にシテ宮殿に築いた王室礼拝堂で、1248年に奉献された。アーヘンのアーヘン大聖堂(世界遺産)やイスタンブールのハギア・ソフィア大聖堂(現・アヤソフィア。世界遺産)が参考にされており、かつては宮殿と接続されていた。フランス革命で略奪を受けて多くの彫刻が破壊されたが、ステンドグラスについては1/3程度が破損するに留まった。1840年代~50年代にかけてジャン=バティスト= アントワーヌ・ラシュスやエミール・ボズウィルワルドによって修復が進められ、ウジェーヌ・ヴィオレ=ル=デュクも助手として参加した。このとき後世に追加された他の様式のステンドグラスは取り外され、ゴシック様式で統一された。単廊式(廊下を持たない様式)・バシリカ式のシンプルな礼拝堂で、全長36m・幅17m・高さ42.5mで、西ファサードに2基のスパイア(ゴシック様式の尖塔)、身廊の中央にフレッシュを有し、フレッシュは地上高75.75mを誇る。身廊とアプスの周囲に浅く飛び出したバットレス(控え壁)が取り囲んでおり、バットレスの頂部にはピナクル(ゴシック様式の小尖塔)やガーゴイルが突き出している。西と南にポータルが設けられており、彫刻やレリーフで飾られている。これらの多くは19世紀に作られたものだ。西ファサードの下層に下部礼拝堂のポータル、その上に上部礼拝堂のポータル、さらにバラ窓、屋根の破風と続いて頂部に2基のスパイアがそそり立っている。内部は2層で、下部礼拝堂と上部礼拝堂に分かれている。聖母マリアやルイ9世に捧げられた下部礼拝堂は17世紀の洪水やフランス革命等で破壊され、19世紀にゴシック・リバイバル様式で改装された。低い天井は交差リブ・ヴォールト(枠=リブが付いた×形のヴォールト)で覆われており、赤や金・黄といった暖色をベースにカラフルなステンドグラスや夜空を思わせる青と金の星々の天井が色鮮やかで荘厳な空間を演出している。一方、上部礼拝堂は360度をステンドグラスに囲われた壮麗な空間で、西に直径9mのバラ窓、身廊の南北に高さ15.5mのランセット窓が4基ずつ計8基、アプスに高さ13.7mのランセット窓が7基備えられている。ランセット窓の多くはレイヨナン様式で、13世紀に制作されたものが引き継がれている。柱の存在が感じられないほど細いが、柱を外に張り出させてバットレスで強化し、細長い金属の柱や金属製のトレーサリー(窓の骨組状の飾り)で補強することで維持している。ステンドグラスの内容は『旧約聖書』や『新約聖書』の物語が中心で、バラ窓は「ヨハネの黙示録」の様子を描いている。壁面に設置された十二使徒像をはじめ、上部礼拝堂には各所に13世紀のゴシック彫刻やレリーフが残されている。

ルーヴル美術館の東にたたずむサン=ジェルマン・ロクセロワ教会はパリの守護聖人・聖ジュヌヴィエーヴと4~5世紀に西ローマ帝国で活躍した司教オセールのゲルマヌス(聖ゲルマヌス)の出会いを記念して5世紀に創建されたと伝わる教会堂だ。現在見られるゴシック様式の建物の多くは12~15世紀にかけて築かれた。約80×40mのラテン十字式・五廊式の教会堂で、中央付近に鐘楼がそびえている。フランス革命による略奪・破壊や19世紀の修復で装飾は大幅に変更されたが、12世紀のロマネスク様式の鐘楼下層部や、ポータルやガーゴイル等に残る15世紀のゴシック様式の彫刻、16世紀のルネサンス様式のステンドグラスをはじめ、貴重な建築・装飾が数多く引き継がれている。

マドレーヌ寺院あるいはマドレーヌ教会の歴史はルイ15世がコンコルド広場の北にマグダラのマリア(聖マリー・マドレーヌ)に捧げる教会堂の建設を開始したことにはじまる。建設はまもなく中止されたが、1806年にナポレオン1世が復活させ、フランス軍の栄光を讃える神殿とすることを決定した。それまでの計画は破棄され、建築家ピエール=アレクサンドル・ヴィニョンに依頼して新古典主義様式の教会堂が設計され、1842年に完成した。建物はギリシア神殿を思わせる異教的なデザインで、ルイ18世はルイ16世やマリー・アントワネットを記念する記念館とすることを命じたが、ルイ・フィリップ1世によって教会堂としての使用が承認された。高さ20mのコリント式の円柱52本に囲まれた108×43mの周柱式神殿で、南ファサードのペディメント(頂部の三角破風部分)には彫刻家アンリ・ルメールによる最後の審判に臨むイエスや天使たちの像が刻まれている。他にも画家アベル・デ・プジョルやポール・ドラローシュ、彫刻家カルロ・マロケッティやジェームス・プラディエをはじめ19世紀を代表するフランスの芸術家が召集され、彫刻やレリーフ・絵画・フレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)を制作して隙間なく装飾された。

代表的な土木施設として、まずエッフェル塔が挙げられる。1884年にフランス革命百周年を記念する1889年のパリ万博の開催が決定し、世界でもっとも高い鉄塔の計画が立案された。この頃、世界最高の建造物は150m前後で争われており、1884年にはアメリカのワシントン記念塔が完成して169mを記録したが、それより倍近く高い300m級の塔の建設が検討された。これに対して鉄橋などで鉄骨造建築の経験のあるギュスターヴ・エッフェルが計画案を提出し、1886年のコンペティションで承認された。建設は1887年1月26日に開始され、5か月で基礎が築かれ、金属部分の組み立ては21か月で終了し、1889年3月31日に竣工を迎えた。工事期間わずか2年2か月5日で、高さ312mという驚異的な鉄塔が完成した。この高さは1930年にニューヨークのクライスラー・ビルディング(高さ319m)に抜かれるまで40年以上も維持された。工期の短さと高さの理由のひとつが鉄骨とトラス構造で、鉄骨や細い鉄材をリベット接合した三角形を組み合わせることで全体を形成し、手軽さと強さ・軽さを実現した。使用した鉄材の数は18,038点に及び、金属フレームの重量7,300t、総重量10,100tを記録した。展望台は3基あり、第1展望台は高さ57m、第2展望台は115m、第3展望台は276mに位置している。構造を剥き出しにした鉄塔がアンヴァリッドやサン=ジャックの塔、エトワール凱旋門といった歴史的建造物の上に君臨するということで当初は多くの芸術家たちから不評で、撤去も検討された。しかし、あまりに圧倒的なスケールと、モダニズム建築のモデルとされたことで沈静化し、やがてパリの象徴として認められた。

セーヌ河岸には多数の橋があり、資産内にも東のシュリー橋から西のイエナ橋まで23本の橋が河岸を彩っている。橋はフランス語で「ポン "Pont"」で、「ポン・ヌフ」「ポン・デ・ザール」はそれぞれ「ヌフ橋」「アール橋」を意味し、「アレクサンドル3世橋」は「ポン・アレクサンドル・トロワ」と呼ばれている。こうした名称について本稿では「○○橋」で統一している。23本の橋の中でもっとも古い橋が「新しい橋」を意味するヌフ橋だ。アンリ3世の命で1578~1607年に建設された全長238m・幅20mの石造アーチ橋で、12のアーチを連ねてシテ島の西を貫くように架けられている。歴史的な石造アーチ橋はこれ以外に、サン=ルイ島の北に架かる17世紀建設のマリー橋、同じく17世紀の建設でジュール・アルドゥアン=マンサールが設計したロワイヤル橋、18世紀の建設でコルベールやリシュリューなど時代を支えた宰相や軍人らの12体の彫像が掲げられたコンコルド橋、19世紀はじめにナポレオン1世の命令で建設されたイエナ橋などがある。また鉄橋としては、ナポレオン1世の命令で1801~04年に建設されたパリ初の鋼鉄製アーチ橋で20世紀に再建されたアール橋、フランスと友好関係を結んだアレクサンドル3世に捧げてロシア皇帝ニコライ2世が建設して寄贈した鋼鉄製アーチ橋でペガサス像などが立つ4つの塔が特徴的なアレクサンドル3世橋、1900年のパリ万博のために築かれた歩行者用の橋でアーチが上下に架かる中路アーチ橋・ドゥビイ人道橋、全長256mを誇り鋳鉄製アーチ橋と石造アーチ橋を組み合わせたシュリー橋などがある。

■構成資産

○構成資産名

■顕著な普遍的価値

○登録基準(i)=人類の創造的傑作

セーヌ河岸にはノートル=ダム大聖堂やサント・シャペル、ルーヴル美術館、フランス学士院、アンヴァリッド、コンコルド広場、エコール・ミリテール、モネ・ド・パリ、シャンゼリゼのグラン・パレ、エッフェル塔、シャイヨー宮殿をはじめ中世から20世紀にかけて築かれた一連の建築的・都市的な傑作の数々が点在している。

○登録基準(ii)=重要な文化交流の跡

ノートル=ダム大聖堂やサント・シャペルといったセーヌ川沿いの建物はゴシック建築普及の要因となり、コンコルド広場やアンヴァリッドの眺望はヨーロッパの首都における都市開発に影響を及ぼした。また、ジョルジュ=ウジェーヌ・オスマンによる町の西側一帯の都市計画は新大陸、特にラテン・アメリカの大都市建設に刺激を与えた。そして最後にエッフェル塔、グラン・パレ、プティ・パレ、アレクサンドル3世橋、シャイヨー宮殿は19~20世紀にかけて非常に重要な役割を果たした万国博覧会の生きた証といえる。

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

パリのセーヌ河岸は壮大な河川景観によって記念碑や建築・代表的な建物を統合し、8世紀を超える歴史の中で採用されたほとんどの様式・装飾芸術および建築方法を完璧に表現している。

■完全性

パリは川の町である。人類がはじめて定住して以来、先史時代からパリシイ人の時代まで、セーヌ川は防衛と経済の両面で重要な役割を果たしてきた。16世紀から20世紀にかけて発展した現在の歴史都市は川と都市の関係の進化を物語っている。シュリー橋とイエナ橋の間の明確に区分されたエリアは古来の上流と下流の区分に基づいており、上流の港と河川舟運、下流の王侯貴族のパリに分けられている。首都機能が発達したのはセーヌ川の後者のエリアであり、資産にはその姿が刻まれている。そして功績と法令を通した国家のプレゼンスによって資産の完全性の保護が可能となった。

■真正性

トーキョー宮殿とシャイヨー宮殿の完成に見るパリの河岸・都市・記念碑的景観の完成と統合は20世紀前半に達成された。河岸からの眺望を含む遺産の都市的・視覚的完全性は都市開発・交通公害・観光の圧力に脆弱であり、顕著な普遍的価値を無傷で維持するために厳格な管理が必要である。

■関連サイト

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