ブルゴーニュ地方のコート=ドール県モンバール郊外に位置するシトー会の修道院コンプレックスで、1119年(UNESCO資料より。公式サイトでは1118年)にクレルヴォーのベルナール(聖ベルナール)によって創設された。労働と学習を重んじるシトー会の戒律に従って厳格な自給自足の生活が行われ、教会堂や僧院・食堂といった宗教施設のほか、中庭や庭園・鍛冶場・製パン所・診療所・鳩舎・学習施設・宿泊施設などがあり、中世のキリスト教コミュニティの姿を伝えている。
なお、本遺産は2007年の軽微な変更でバッファー・ゾーンが設定された。
シトー会は1098年にモレームのロベール(聖ロベール)によって設立された修道会だ。ベネディクト会から派生したクリュニー会からさらに派生し、清貧に過ごしたイエスの生涯を範とし、ベネディクト会の「清貧・貞潔・服従」「祈り、働け」といった会則・理念に戻ることを目標とした。特に農業の開墾と三圃制の普及に尽力し、フランス大開墾時代の先頭に立った。
1090年にフォンテーヌ=レ=ディジョンの騎士の家に生まれたベルナールの一家は敬虔なキリスト教徒で、1112年に兄弟・親族・友人ら約30人とともにサン=ニコラ=レ=シトーに設立されたシトー修道院(ノートル=ダム修道院)の門を叩いた。名門の一族が加わったことでシトー修道院は大いに盛り上がり、多くの修道士が修行を行い、修行を進んだ者は各地に散らばって子院を設立した。
クララ渓谷 "clara vallis" と呼ばれる谷の近くを寄進されたシトー会は1115年に新しい修道院の設立を決定。クララ渓谷が転じてクレルヴォー "Clairvaux" と呼ばれるようになり、初代修道院長としてベルナールが赴任した。クレルヴォーのベルナールはクレルヴォー修道院を拠点に1115年にトロワフォンテーヌ修道院、1119年にフォントネー修道院、1121年にフォワニー修道院という3院を設立した。シトー会は彼が亡くなる1153年までに341院まで修道院を増やしたが、この内の68の子院の設立に貢献したといわれている。この中で、現在までほぼ無傷で伝わる唯一の修道院がフォントネー修道院だ。
クレルヴォーのベルナールはシトー修道院などで行われている修道士の修行生活を不十分と考え、より厳格な生活を要求した。1130年には多くの修道士が共感して加わり、1139年にはイングランドのノリッジの司教が移住して財産を寄進した。この寄進を利用して同年から修道院教会の建設がはじまり、1147年にクレルヴォーのベルナールから教えを受けた教皇エウゲニウス3世によって奉献された。
12世紀中に修道院は300人もの修道士が暮らす大修道院となり、1259年には後に列聖(徳と聖性を認めて聖人の地位を与えること)されてサン=ルイ(聖ルイ。英語でセント・ルイス)と呼ばれることになるフランス王ルイ9世によってあらゆる税が免除され、1269年には王立修道院となった。この後もジャン2世やシャルル8世、ルイ12世らの寄進を授かるなど王の庇護を受けつづけた。ただ、フランスはイングランドとの間で行われたアンジュー帝国を巡る争いや百年戦争(1337〜1453年)などで荒廃し、修道院もイングランド王エドワード3世らによる略奪を受けた。
フランスは百年戦争でイングランドを打ち破って滅亡の危機を乗り越えると、その反動で中央集権化を進め、王権が強化されて絶対王政へ発展していく。貴族や教会・修道院の勢力が削がれていく中で、シトー会では分裂も進んで徐々に衰退した。16世紀の宗教改革では廃院される修道院も出る中で、フォントネー修道院も被害を受けた。1547年には修道院長選挙が廃止され、国王が修道院長を任命することとなり、修道院制度そのものが衰退した。18世紀にはフォントネー修道院の経営が困窮し、1745年には食堂が解体された。
1789年にはじまるフランス革命では非キリスト教化運動が進められ、多くの修道院が廃止された。フォントネー修道院では1790年に最後の8人の修道士が去り、翌年には敷地ごと78,000フランでクロード・ユゴーに売却され、製紙場に改修された。1820年に気球を使った世界初の有人飛行で知られるモンゴルフィエ兄弟の一族のひとりであるエリー・ド・モンゴルフィエが買い取り、1838年にはその義理の息子であり吊り橋や水管式蒸気機関の発明者であるマルク・スガンの手に渡った。1852年には歴史的記念建造物に指定されている。1905年まで製紙場として使用されていたが、改修はボイラー室の煙突を取り付けた程度に留まり、建物の多くは維持された。
モンゴルフィエ家の娘と結婚したリヨン出身の銀行家エドゥアール・アイナールはリヨンの美術館や博物館の運営に携わるなど文化人として知られていた。フォントネー修道院の建造物群の価値を認めると、1906年に製紙場跡を購入。中世の姿を取り戻すために修復プロジェクトを立ち上げ、建物の修復を進めつつ工場用の施設や設備を撤去した。現在も修道院はアイナール家の所有で同家による保全が進められている一方、その多くが一般に公開され、多数の訪問者を集めている。
世界遺産の資産としては、修道院と関連施設が地域として登録されている。
修道院教会は1139~47年に建設されたシトー会最古級の教会堂で、ロマネスク様式のシンプルな造りとなっている。全長66m・幅19mほどの「†」形のラテン十字式の三廊式(身廊とふたつの側廊を持つ様式)で、虚飾を嫌うシトー会らしく装飾はほとんどなく、鐘楼さえもない。身廊は半円アーチや尖頭アーチのヴォールト天井やアーケード、採光窓が見られるのみで、彫刻やレリーフなどの装飾や礼拝堂もない。これは礼拝の最中に自らの全存在を神に向けられるようにと考えられたもので、神であるところの光のみが教会堂を彩っている。唯一の例外が至聖所の主祭壇に設置されたイエスの受難と聖母の物語を描いた13世紀の小さなレリーフだ。トランセプト(ラテン十字形の短軸部分)付近に置かれた「フォントネーの聖母」といわれる聖母子像は隣町のトゥイヨンの墓地に置かれていた彫像で、もともとこの教会堂のものではない。
教会堂の南には12世紀のロマネスク様式で築かれたクロイスター(中庭を取り囲む回廊)が広がっており、38×36mと正方形に近い長方形を描いている。二重の柱や二重アーチのアーケード、植物の葉を模した柱頭装飾が見られ、シンプルながら洗練された空間となている。
クロイスターの東の1階にはチャプター・ハウス(会議室・集会所)と聖具室があり、修道士たちは毎朝チャプター・ハウスに集まって朝礼や会則の確認などを行った。修道院教会のシンプルな天井と異なり、交差四分のリブ・ヴォールト(枠=リブが付いた×形のヴォールト)の天井が広がっている。これらの建物の2階が共同寝室で、シトー会では個室が認められなかったため、このような大部屋が用意された。15世紀に一度焼失しており、その後、現在見られる板張りの筒型ヴォールト(筒を半分に割ったような形の連続アーチ)天井が築かれた。
チャプター・ハウスの南には全長30mに及ぶ修道士部屋が設置されている。学習施設であると同時に作業場でもあり、写本の製作などもここで行われた。ここでも交差四分のリブ・ヴォールト天井が見られる。クロイスターの南東に1室だけ暖房部屋があり、12世紀に築かれた2本の煙突を見ることができる。逆にいえば他の部屋に暖房は存在せず、厳冬期には-20度を下回る環境で厳しい生活を送っていた。クロイスターの西に立つ建物は17世紀に建設された修道院長邸だ。
こうした教会と僧院の南にたたずむ施設が鍛冶場だ。53×13.5mほどの長方形の建物で、近郊の山で採掘された鉄鉱石をふたつの炉で溶かし、農具などの道具類を製作した。建物の南西に巨大な水車があり、フォントネー川の流れを利用して水力で鉄を打っていた。こうした装置の多くは2008年に復元されたレプリカだ。
修道院長邸の西に立っている円筒形と長方形の建物は鳩舎だ。ハトの卵は重要な食料であり、糞は肥料として使用することができた。かつては隣に犬小屋があり、その場所にはイヌの彫刻が設置されている。
修道院教会の東に広がる整形庭園は薬草やハーブ・野菜を栽培していた薬草庭園だ。ここで採れた薬草は脇に立つ診療所で使用された。
ゲートハウス(守衛詰所)付近に立つ大きな建物は13世紀に建設されたゲストハウスで、部外者の立ち入りが禁じられていたため、訪問者のための施設として使用されていた。その一部は製パン所で、当時の石窯も残されている。
こうした施設群はイギリス式庭園(自然を模したイギリスの風景式庭園)で接続されているが、庭園は1996年にイギリスのランドスケープ・アーキテクト(景観設計家)であるピーター・ホームズが設計したもので、新庭園と呼ばれている。古くからある木々や池と施設群を組み合わせてシンプルで自然な空間を演出している。
シトー会修道士による厳格な建築は西洋のキリスト教の宗教共同体の歴史の中でさまざまな時期に繁栄した道徳的および美的な理想を物理的な形に仕上げたものである。そしてフォントネーのシトー会修道院は農業と工業の中心地で、自給自足で生活する小集団の仕事や礼拝の場であり、普遍的価値を持つ重要な歴史的運動を証明している。
フォントネーのシトー会修道院とその敷地はシトー会の施設群を模範的な形で示している。人里離れた場所に築かれているが、水源と農地は至近で、装飾を一切排除しているにもかかわらず際立って学術的価値のある建築を残し、修道会の会則に則った厳粛な生活に適応した殺風景な空間ながら非常に洗練された技術を用いて専門的機能を発達させており、西洋修道院建築の中で独創的な地位を確立した。フォントネーはそのもっとも完全な例のひとつであり、ほぼ確実にもっともよく保存された物件であり、統一的で手付かずのまま維持された希少な遺産である。
その歴史を通してフォントネーの修道院はさまざまな形で近代化と新たな建設(特に17世紀の修道院長邸)および解体(18世紀の食堂等)を経験している。革命と国有資産の売却により産業施設となった後、1906年に修復が開始された。
13世紀・15世紀・16世紀に行われた改修や18世紀・19世紀に発掘された遺跡にかかわらず、フォントネーのシトー会修道院の真正性は今日までほぼ維持されており、1906年に修復されて以降、よい状態で保全されている。