イエスの十二使徒のひとりである(ゼベダイの子のヤコブ/大ヤコブ。フランス語でサン=ジャック)の埋葬地であるスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラ(世界遺産)は中世、ローマ&バチカン(世界遺産)と並ぶヨーロッパ最大の巡礼地であった。ヨーロッパ中から巡礼者を集めたが、スペインに至るためにはフランスを横切る必要があり、そのためトゥールの道、リモージュの道、ル・ピュイの道、トゥールーズの道という主要4ルートを中心に5,000kmを超える巡礼路網が整えられた。ルート上の道や橋が整備されただけでなく、巡礼者に便宜を図る教会堂や礼拝所、病院やオテル=デュー(施療院)、宿泊施設などが設置された。本遺産は代表的な道・橋・教会堂・礼拝所・病院・オテル=デューの78件を構成資産としており、この中でル・ピュイの道の7件のみが巡礼路となっている。
なお、スペインではサンティアゴ・デ・コンポステーラの名を冠する以下2件の世界遺産が登録されている。後者は本遺産と異なり、2,000件近い構成資産のほとんどを巡礼路が占めている。
また、以下については他の世界遺産と重複して登録されている。それぞれの頁も参照のこと。
8世紀にスペインやポルトガルのあるイベリア半島の多くはイスラム王朝であるウマイヤ朝に征服された。半島各地に散ったキリスト教勢力はイベリア半島の解放を目指してレコンキスタ(国土回復運動)を開始する。
そんな中、814年頃にイベリア半島北西部でイエスの十二使徒のひとりに数えられるヤコブの墓が発見された。その場所にはアストゥリアス王アルフォンソ2世によって聖堂(現・サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂。世界遺産)が建設され、聖堂の聖地化と巡礼路(世界遺産)の整備を進めた。聖ヤコブを意味するラテン語 "Sanctus Iacobus" が転化して「サンティアゴ」となり、「よい場所」あるいは「タイルの場所(墓地の婉曲表現)」を意味するラテン語を組み合わせて「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」と呼ばれるようになった。サンティアゴ・デ・コンポステーラはやがてキリスト教とレコンキスタの象徴としてキリスト教徒の精神的支柱となり、半島各地の王が巡礼路を整備した。キリスト教最大の聖地エルサレム(世界遺産)が7世紀にイスラム教勢力の支配下に落ちていたこともあり、ローマ&バチカンと並ぶ巡礼地に成長した。
最初に記録されたイベリア半島外からの巡礼者が951年頃にサンティアゴ・デ・コンポステーラへ巡礼を行ったル・ピュイ=アン=ヴレの司教ゴデスカルクだ。当時は山賊やイスラム教徒が出没する危険な旅路だったが、途上の諸侯や自治体が巡礼路を保護し、修道院や教会堂・礼拝堂は立ち寄ることができるよう改修され、巡礼者に祝福を与えた。また、キリスト教を宣教する過程で生まれた各地の聖人(徳と聖性を認められて列聖された人物)のゆかりの地や、イエスや天使が降臨したと伝わる聖域、キリスト教に関連する聖遺物(イエスやマリア 、使徒や聖人の関連品)を収める教会堂などが巡礼路に組み込まれ、これらへの巡礼もひとつの目的となった。一例が、聖オノラ(聖ホノラトゥス)をはじめ多くの聖人が眠るアルルのサントノラ教会や、大天使ミカエルの降臨伝説が伝わるモン=サン=ミシェル、イエスに洗礼を授けた洗礼者ヨハネの頭蓋骨を収めたアミアン大聖堂(アミアンのノートル=ダム大聖堂)だ。また、聖母マリア信仰のブームが起こると、「ノートル=ダム(我らの貴婦人)」、つまり聖母マリアの名を冠した多くの教会堂が建てられ、これらへの巡礼も行われた。本遺産の構成資産だけでも15の教会堂や礼拝堂がノートル=ダムの名を冠している。
巡礼者が行き交うことで文化の交流が活発化し、経済活動も活性化した。いつしか巡礼者はイタリアやドイツ、イギリス、ハンザ同盟都市といったローマ・カトリック圏全域から訪れるようになり、フランスには5,000kmを超える巡礼路網が張り巡らされた。フランス人の間ではホタテの貝殻が漁師だったヤコブの象徴として認知され、「聖ヤコブの貝(コキーユ・サン=ジャック)」を身に付けて巡礼を行ったが、こうした文化も広がっていった。
1139年には教皇カリクストゥス2世がヤコブの物語をカリクストゥス写本にまとめ、修道士エメリック・ピコーの巡礼体験をベースに初の巡礼路ガイドブックとなる写本第5書「巡礼案内記」を出版した。この写本はUNESCO(ユネスコ=国際連合教育科学文化機関)の「世界の記憶」に登録されている。巡礼案内記はスペインに至るまでの4大巡礼路として、南からヴィア・トロザン "Via Tolosane"、ヴィア・ポディアンシス "Via Podiensis"、ヴィア・レモヴィチェンシス "Via Lemovicensis"、ヴィア・トゥロネンシス "Via Turonensis" の4ルートを紹介しており、それぞれトゥールーズの道、ル・ピュイの道、リモージュの道、トゥールの道に当たる。たとえばイタリアからの巡礼者はアルルからトゥールーズの道に入り、北ヨーロッパからの巡礼者はパリに入ってトゥールの道を行くなど、巡礼者はまずこれらのルートへのアクセスを目標とした。いずれにも共通するのはピレネー山脈でスペインの「フランスの道(カミーノ・フランセス)」と接続し、イベリア半島北部を通ってサンティアゴ・デ・コンポステーラを目指すという点だ。なお、始点と終点には諸説あり、またルートは複雑に分岐しているため、始点・終点・ルートの取り方で距離はかなり前後する
15世紀にはじまる大航海時代にサンティアゴ・デ・コンポステーラは世界的な巡礼地となった。しかし、中世後期から教会への不信が募り、16世紀にはじまる宗教改革においてローマ・カトリックの信仰は揺らいだ。それでもスペインはカトリックの盟主として信仰を守りつづけたが、イギリスとの戦争やオランダの独立などを通して17世紀に急速に衰退した。イギリスやオランダ、ドイツ北部などで普及したプロテスタントは聖書に書かれていることのみを認める聖書主義を掲げ、聖母・使徒・教皇・司祭らの神格化や階級制を認めず、巡礼にも否定的だった。18~19世紀にはスペイン継承戦争(1701~14年)やフランス革命(1789~99年)、ナポレオン戦争(1803~15年)、スペイン独立戦争(1808~14年、半島戦争)といった戦争が相次ぎ、巡礼は衰退した。
サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼は第2次世界大戦後に宗教的・歴史的・文化的・レジャー的観点から再興が進められ、現在に至っている。
本遺産の構成資産は78件で、下の「構成資産」の項目でリストアップしている。その中から代表的な構成資産を一部紹介する。
[トゥールーズの道]
アルルはトゥールーズの道の出発点であり、南フランスやイタリアの巡礼者はここから巡礼を開始した。アルルのアリスカンはかつてヨーロッパ最大級のキリスト教のネクロポリス(死者の町。墓地)で、聖トロフィムスや聖ジェネス、聖オノラ(聖ホノラトゥス)といった聖者たちが眠っていることから巡礼地となった。サントノラ教会は5世紀はじめにアルル大司教を務めた聖オノラに捧げられた教会堂で、11世紀にアリスカンの東端に創設され、12世紀にロマネスク様式で再建された。「+」形のギリシア十字式の教会堂で、中央にクロッシング塔(十字形の交差部に立つ塔)がそびえ、西にナルテックス(拝廊)、東に3基のアプス(後陣)を備えている。八角形のクロッシング塔は四隅からアーチ(スキンチ・アーチ)を架けてドームを載せるスキンチ(入隅迫持)と呼ばれる特徴的な構造が使われている。アリスカンの印象的な景観は人気が高く、ゴーギャンやゴッホがしばしば題材にしたことでも知られる。なお、アルルのサントノラ教会は世界遺産「アルル、ローマ遺跡とロマネスク様式の建造物群」にも含まれている。
エロー峡谷に位置するアニャーヌとサン=ジャン=ド=フォス間のディアブル橋(ポン・デュ・ディアブル/悪魔橋)はエロー川に架けられた橋で、全長65m・幅4m・高さ18mを誇る。トゥールーズの道で最古級の石造アーチ橋で、1030~50年頃に築かれた。アニャーヌとジェローヌの修道院が中心となって建設を進めたが、悪魔が橋の建設を邪魔したことからこの名が付いたとされる。19世紀に架けられたサン=ジャン=ド=フォス橋が隣接しており、ふたつの橋が並ぶ美しい景観から名所となっている。
トゥールーズのサン=セルナン・バシリカはトゥールーズ最初の司教である聖セルナン(聖サトゥルナン)に捧げるために4世紀に創設された歴史ある教会で、8世紀にフランク王カール大帝がヤコブの遺骨の一部をはじめ多数の聖遺物を寄贈したことで南フランス屈指の巡礼地となった。1070年代から1世紀以上を掛け、切石とレンガを組み合わせて全長109m・幅63mというロマネスク様式の巨大な教会堂が築かれた。「†」形のラテン十字式・五廊式(身廊と4つの側廊を持つ様式)で、十字の交差部に鐘楼として特徴的なクロッシング塔が立っている。トゥールーズのランドマークとなっている八角形・5層構造の鐘楼は1270年頃に増築されたもので、15世紀に頂部にスパイア(ゴシック様式の尖塔)が追加されて高さ65mとなった。名高いのが身廊の南に設けられたミエジュヴィル門で、リンテル(まぐさ石。柱と柱、壁と壁の間に水平に渡した石)やティンパヌム(タンパン。門の上の彫刻装飾)、その周囲が見事なロマネスク彫刻で装飾されている。内部でもトランセプト(ラテン十字形の短軸部分)に描かれた12世紀のフレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)をはじめ、数多くの絵画・フレスコ画・彫刻・レリーフ・聖遺物が収められている。
トゥールーズのオテル=デュー・サン=ジャック(サン=ジャック施療院)の「オテル=デュー」は中世初期に教会や修道院が建設した病院や療養所・救貧院・各種保護施設を兼ねた複合施設のことで、「神の家」を意味し、巡礼者の保護も行っていた。1313年にサント=マリー病院とブ=デュ=ポン病院が合併してサン=ジャック病院となり、16世紀にオテル=デューとなった。フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路において中世から現在まで営業を続けるふたつのオテル=デューのひとつで、トゥールーズ最古の病院であるだけでなく、南フランスの市民や巡礼者の医療拠点として重要な役割を果たしつづけてきた。現在の3階建ての建物は多くが17~19世紀に再建されたもので、地下に遺構が残されている。また、かつてはドラード橋に隣接していたが、橋は1608年に倒壊してこちらも遺構が残されている。現在も病院として営業を行っているが、1779年に建設された礼拝堂や医学史博物館などは一般に公開されている。
ガヴァルニのサン=ジャン=バティスト教区教会(ノートル=ダム=デュ=ボン=ポール教会)はスペインとの国境付近に広がるガヴァルニ圏谷に位置する教会堂で、フランス側に標高2,115nのトゥールマレー峠、スペイン側に標高2,270mのブシャロ峠があり、これらからピレネー山脈中央部を越えた。ブシャロ峠の西にコル・デュ・ソンポール(ソンポール峠)があり、ここがスペイン側とフランス側の巡礼路の接続点となっている。聖ヨハネ騎士団やマルタ騎士団が運営していた病院礼拝堂を由来とし、峠を越える巡礼者にさまざまな便宜を図った。また、周辺の墓地には道中で亡くなった巡礼者たちが葬られており、慰霊のための岩なども祀られている。18世紀に荒廃したため多くの建物は19世紀の再建だが、ロマネスク様式の礼拝堂やバロック様式の祭壇画など各時代の装飾を伝えている。なお、本件はスペイン/フランス共通の世界遺産「ピレネー山脈-ペルデュ山」にも含まれており、風光明媚な景観からフランス屈指の観光地としても知られている。
[ル・ピュイの道]
ル・ピュイ=アン=ヴレのノートル=ダム大聖堂はル・ピュイの道の始点であるだけでなく、この大聖堂自体が重要な巡礼地となっている。その切っ掛けは近郊のセサックの町にあった「熱病の石」あるいは「顕現の石」といわれる奇跡の石の伝説だ。3世紀頃、発熱に苦しむ女性の元に聖母マリアが現れて「石の上に横たわりなさい」と告げ、実行してみると病気は見事に治ったという。4世紀にこの石を収めるためにノートル=ダム大聖堂が建立され、石はいまもアプスに収められている。この大聖堂を拠点とするル・ピュイ=アン=ヴレ司教ゴデスカルクが951年頃にサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼を行い、ガリアの地に巡礼文化と聖母信仰をもたらした。大聖堂に収められている「ル・ピュイの聖母」と呼ばれる黒の聖母マリア像は「サン=ルイ(聖ルイ。英語でセント・ルイス)」と呼ばれるフランス王・ルイ9世が13世紀の第7回十字軍でエルサレムから持ち帰ったものとされ、18世紀に大聖堂に持ち込まれた。12世紀に建てられたロマネスク様式の教会堂はラテン十字式・三廊式で、十字の交差部に鐘楼として高さ56mのクロッシング塔がそびえている。西ファサード(ファサードは正面)がユニークで、数多くのアーチと柱で飾られており、頂部に3基の三角破風が並び、紅白の石を交互に重ねたポリクロミア(縞模様)が目を引く。ロマネスク様式やそれ以前のカロリング朝期の様式、スペインのムデハル様式(キリスト教美術にイスラム美術を取り入れた折衷様式)、ビザンツ様式、北イタリアや南フランスの様式など、多くの文化の影響が指摘されている。内部には11世紀までさかのぼるフレスコ画や彫刻をはじめ、数多くの芸術品や聖遺物が収められている。隣接のクロイスター(中庭を取り囲む回廊)も名高く、12世紀の建築で19世紀に修復されている。折衷的であるのは教会堂と同様だ。
ル・ピュイ=アン=ヴレのオテル=デュー・サン=ジャックは大聖堂の北西に建設されたオテル=デューで、病院や薬局・救貧院・巡礼者保護施設を兼ねた総合施設として運営されていた。1687年に隣接して総合病院が建設され、1797年に合併した。ル・ピュイの道で最古の病院施設で、木工装飾で飾られた礼拝堂や薬局は名高い。
コンクのサント=フォワ修道院は聖フォア(アジャンのフォア/聖フィデス)に捧げられた修道院で、9世紀に創設された。聖フォアは4世紀に殉教した聖人で、キリスト教弾圧下で宣教に尽力し、貧民に食事を提供するなど信仰心あつい人物として知られていた。ローマ帝国によって斬首刑に処された後、コンクの修道士が遺骨を聖遺物としてサント=フォワの修道院教会に持ち込むと、病を治すなど数々の奇跡を起こして人気の巡礼地となった。コンクは巡礼者のための宿泊施設が充実しており、トゥールーズへ向かう巡礼路の出発点でもあったので、多くの巡礼者がこの地に滞在した。世界遺産の資産となっているのは11~12世紀に築かれた修道院教会で、フランス・ロマネスクでもっとも重要な教会堂のひとつとされる。ラテン十字式・三廊式でクロッシング塔を有し、西ファサードにも2基の塔がそびえている。西ファサードは4列のバットレス(控え壁)で支えられており、シンプル・重厚なデザインながら、ポータル(玄関)のリンテルとティンパヌムは最後の審判を描いた貴重かつ見事なロマネスク彫刻で飾られている。
コンクのドゥルドゥー橋(ポン・シュル・ドゥルドゥー)はドゥルドゥー川に架かる全長約50mの石造アーチ橋だ。「ローマ橋」とも呼ばれているが、14世紀の建設で、17世紀に再建されたものと考えられている。5基の半円アーチが連なっているが、両岸の高さが異なるため、村に近い東から2番目のアーチがもっとも大きく非対称となっている。
サン=ソヴール・バシリカとサンタマドゥール・クリプトのあるロカマドゥールは「聖アマドゥールの岩」を意味し、アルズー渓谷の高さ150mの断崖に広がる宗教都市として知られる。聖アマドゥール(ケルシーのアマドゥール)はこの断崖の上に聖母マリアに捧げる小さな礼拝堂を築き、山中で修行を行ったと伝えられている。1166年頃に聖アマドゥールの墓所が発見され、ロマネスク様式のサンタマドゥール・クリプト(クリプトは地下聖堂)が建設された。13世紀には聖母マリアと聖アマドゥールに対する信仰からロカマドゥールは重要な巡礼地となり、断崖上にそびえる宗教都市に発展した。11~12世紀にはすでに教会堂が立っていたが、13世紀にクリプトを中心にサン=ソヴール・バシリカが整備され、両者は地下で結ばれ、周囲に司教宮殿や各種礼拝堂が建設された。ロマネスク様式からゴシック様式への移行期に当たり、両スタイルが融合した姿を見ることができる。
モワサックのサン=ピエール修道院はフランク王国メロヴィング朝を打ち立てたクローヴィス1世の創建伝説が伝わる歴史ある修道院だ。7世紀にベネディクト会が修道院を建設し、1048年にクリュニー会に移行すると、12世紀には南フランスの中心的な修道院に発展した。ただ、ボルドーとトゥールーズを結ぶ要衝に位置していたためたびたび侵攻を受け、8世紀にはウマイヤ朝、9世紀にはヴァイキング(北ヨーロッパを拠点とするノルマン人)、10世紀にはマジャール人、12世紀にはイングランド、13世紀にはアルビジョワ十字軍、14~15世紀には百年戦争(1337〜1453年)に苦しめられた。修道院教会は11世紀にロマネスク様式で建設され、12世紀に上部がゴシック様式で改修された後、15世紀にクワイヤ(内陣の一部で聖職者や聖歌隊のためのスペース)やアプスが改装された。バシリカ式(ローマ時代の集会所に起源を持つ長方形の様式)・単廊式(廊下を持たない様式)の教会堂で、西ファサードに鐘楼がそびえている。1110~20年頃に建設された修道院教会の南ポータルは有名で、リンテルやティンパヌム、アーキヴォールト(アーチ部分の迫縁装飾)、柱がロマネスク様式の彫刻やレリーフで覆われている。また、1100年に奉献されたクロイスターも見事なロマネスク建築で知られ、31×27mの中庭が116本の大理石柱で囲まれており、柱や柱頭は使徒らの人物像や動物像・植物文様で飾られている。フランス革命以降の混乱で荒廃したが、建造物修復の第一人者であるウジェーヌ・ヴィオレ=ル=デュクらの尽力で19世紀に修復された。
カオールのサンテティエンヌ大聖堂はカオール司教・聖ディディエが7世紀に創建した教会堂で、1109~40年にロマネスク様式で建て替えられ、13世紀にクワイヤやアプスがゴシック様式で改装されて巨大なウェストワーク(教会堂の顔となる西側の特別な構造物。西構え)が取り付けられた。アプスにゴシック様式の多角形ドーム、身廊にビザンツ様式のふたつのドーム、ウェストワークにゴシック様式の複数の塔を掲げるユニークな外観で、内部はバシリカ式・単廊式となっている。西ファサードはゴシック様式でバラ窓があり、北ファサードはリンテルやティンパヌムが見事なゴシック彫刻で飾られ、南ファサードはシンプルなロマネスク様式と、それぞれ趣が異なっている。身廊のドームやウェストワークには14世紀にさかのぼるフレスコ画が見られ、アプスやウェストワークは美しいステンドグラスで彩られている。クロイスターは13世紀に建設され、16世紀はじめに再建されたものと考えられている。
カオールのヴァラントレ橋(ポン・ヴァラントレ)はディアブル橋(悪魔橋)ともいわれる橋で、建設が難航した結果、魔王サタンとの契約によって完成したとの伝説が伝わっている。1308~85年に建設された全長172m・高さ6mの石造アーチ橋で、ロット川に8基の尖頭アーチを架けて両岸を結んでいる。カオールはボルドー、トゥールーズ、アジャン、フィジャック、リモージュといった都市を結ぶ要衝で、ロット川の水運も盛んだったこともあり、橋は3基の方形の塔や狹間・側防塔・バービカン(楼門や甕城)などで要塞化され、神の加護を願って聖母マリアに捧げられた礼拝堂が設置された。
[リモージュの道]
ヴェズレーのサント=マドレーヌ・バシリカは860年頃に英雄として名高いジラール・ド・ルシヨンが創設したとされる修道院の教会堂で、ベネディクト会の修道士である聖パディロがマグダラのマリアの墓があるとされるサン=マクシマン=ラ=サント=ボームから遺骨の一部を聖遺物として持ち込んだと伝わっている。もともとサン=ペールにあったが、873年頃にノルマン人の襲撃を受けて隣のヴェズレーの丘に再建された。11世紀に修道院長のジョフロワが聖遺物を公開すると数々の奇跡が起こり、以来巡礼地として人気を博したという。やがてヴェズレーはローマ・カトリックの要所となり、12世紀の第2回十字軍ではフランス王ルイ7世や神聖ローマ皇帝コンラート3世らがヴェズレーに集まって結成を確認し、第3回十字軍ではイングランド王リチャード1世とフランス王フィリップ2世がヴェズレーから旅立った。教会堂は12世紀にロマネスク様式で建て直され、13~14世紀に一部がゴシック様式に改装された。ラテン十字式・三廊式で全長約120mを誇る細長い教会堂で、トランセプトに高さ35mのサンタントワーヌ塔、西ファサードに高さ38mのサン=ミシェル塔(南塔)を頂いている。ウェストワークは下部がロマネスク様式、上部がゴシック様式で、中央上部の妻壁にイエスや聖母マリア、マグダラのマリア、ふたりの天使の彫像、その下にはヨハネ、アンドレ、洗礼者ヨハネ、ペトロ、パウロ、聖ベネディクトらの見事な彫像が並んでいる。中央ポータルのティンパヌムは19世紀の彫刻家ミシェル・パスカルが制作した「最後の審判」で、ナルテックスを抜けた身廊の3基のポータルのティンパヌムも見事な彫刻で飾られており、特に中央ポータルは12世紀ロマネスクの傑作「使徒に使命を伝えるイエス」が掲げられている。内部は柱頭彫刻やステンドグラス・彫像などで彩られており、クリプトにはマグダラのマリアの聖遺物を収めたレリカリー(聖遺物箱)が収められている。なお、サント=マドレーヌ・バシリカは世界遺産「ヴェズレーの教会と丘」の構成資産でもある。
サン=ジャン=ピエ=ド=ポルはフランス側のル・ピュイの道、リモージュの道、トゥールの道の終点であり、スペイン側のフランスの道の始点でもある。イベリア半島とガリアを結ぶ要衝であることから12世紀にナバラ王国が城砦を築き、13世紀にその下に要塞都市が建設され、17世紀には軍事建築家のアントワーヌ・ド・ヴィルやセバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバンが近代化を施した。城門はサン=ジャック、ノートル=ダム、ナバラ、フランス、レショゲットの5門があり、サン=ジャック門はフランスからやってきた巡礼者を迎える東門だった。13世紀に創設され、ヴォーバンによって崖上の城砦とともに再構成された。城壁と一体化した堅固な城門で、砂岩の切石を積み上げた石造アーチ門となっており、二重の扉で隔てられている。
[トゥールの道]
パリのサン=ジャックの塔はもともとサン=ジャック=ド=ラ=ブーシュリー教会の鐘楼として建設されたものだ。サン=ジャックの名の通りヤコブに捧げられた教会で、ヤコブやパリのディオニュシウス(サン=ドニ/聖ドニ)の聖遺物が収められた。また、肉屋(ブーシュリー)の同胞団が礼拝堂を持っていたことからこの名となった。北フランスのヤコブ信仰と巡礼の中心地で、トゥールの道を通ってサンティアゴ・デ・コンポステーラに向かう巡礼者や、逆にモン=サン=ミシェルやアミアンなど北や東の巡礼地に向かう巡礼者がこの地に集った。創建は未確認ながらフランク王カール大帝の時代、8世紀後半~9世紀はじめと伝わっており、12世紀と15世紀に再建され、ゴシック様式の鐘楼は1509~23年頃に建設された。教会はフランス革命期に売却され、1797年に解体されたが、鐘楼はデュボワ家に買い取られたため破壊を免れた。その後、パリ市に売却されて修復が進められた。鐘楼の高さは54mで、尖頭アーチ(頂部が尖ったアーチ)やピナクル(ゴシック様式の小尖塔)、ガーゴイル(悪魔や怪物を象った雨樋)、ステンドグラス、彫刻といったゴシック装飾で飾られており、頂部にはヤコブ像を筆頭に、4人の福音記者像(マタイを示す天使像、マルコを示すライオン像、ルカを示す牡牛像、ヨハネを示すワシ像)が四隅に配置されている。壁面にも数多くの彫像が据えられており、下部には19世紀の彫刻家ピエール=ジュール・カヴァリエによるブレーズ・パスカル像がたたずんでいる。彫刻の多くは20世紀のものだが、一部は創建時の16世紀までさかのぼる。なお、サン=ジャックの塔は世界遺産「パリのセーヌ河岸」にも含まれている(世界遺産登録当初は含まれていなかったが、2024年の軽微な変更で追加された)。
ブールジュのサンテティエンヌ大聖堂(ブールジュ大聖堂)はエルサレムで石打ち刑に処せられた最初の殉教者・聖ステファヌス(聖ステファノ。フランス語で聖エティエンヌ)に捧げられた教会堂で、サントル地方やアキテーヌ地方の中心的な大聖堂として知られている。4世紀頃から存在していたと見られるが、ゴシック様式の教会堂は1195年に建設がはじまり、1324年に奉献された。ただ、西ファサードの双塔の建設は遅れ、南塔は強度不足で14世紀中に建設が中止され、北塔は1480年代に完成したが1506年に倒壊し、1508~40年にルネサンス様式を加えて再建された。全長125m・幅55mという巨躯を誇り、バシリカ式・五廊式で、身廊・内側廊・外側廊で3段階に高さが変わるユニークな構造を採っており、3層それぞれにステンドグラスをはめ込むことで明るく華やかな空間を演出している。ステンドグラスは多くが13~17世紀のもので、16世紀に制作されたルネサンスの巨匠ジャン・ルクイエの作品なども含まれている。また、西ファサードの5基のポータルの彫刻群は名高く、特に中央ポータルのティンパヌムの「最後の審判」はゴシック彫刻の傑作とされる。なお、ブールジュのサンテティエンヌ大聖堂は単独で「ブールジュ大聖堂」として世界遺産リストに登載されている。
ヌヴィー=サン=セピュクルのサンテティエンヌ協同教会は、1027年にエルサレム巡礼から戻ったギエンヌ公ウード・ド・デオルがエルサレムの聖墳墓教会を模して建設した教会堂だ。当初はヤコブに捧げられており、サン=ジャック協同教会と呼ばれていた。1042年に直径22m・高さ16mの円形のロトンダ(ロタンダ)が建設され、13世紀に全長19.5mの身廊が取り付けられた。ロトンダの中央の主祭壇は見事な柱頭装飾で飾られた11本の柱に囲まれており、イエスを裏切ったユダを除く十二使徒を象徴している。1257年には第 7 回十字軍から戻った教皇特使ウード・ド・シャトールーがイエスの聖血と墓の断片を持ち帰り、聖遺物として収めた。こうした聖墳墓教会、ヤコブ、聖遺物といった物語が巡礼者を集め、トゥールの道でも人気の巡礼地となった。フランス革命後に協同教会の活動は中止され、1847年に聖ステファヌスに捧げられた教区教会となった。
ポンの旧巡礼者病院は城郭都市ポンの城外に築かれたフランスの巡礼路最古級の病院で、1160年にジェフロワ3世によって創設された。ジェフロワ3世は「イエス・キリストの貧しき人々のため」と称し、城内のサン=ニコラ病院に入ることのできない人々のために、あるいは伝染病の蔓延を防ぐために城外を選び、病院の他に宿泊施設や修道院教会・墓地を併設して貧者や病人・巡礼者にさまざまな便宜を図った。16世紀の宗教改革で荒廃し、18世紀に放棄されると、サン=ルイ(ルイ9世/聖王ルイ)に捧げる礼拝堂となった。フランス革命後に学校や住居などとして使用されたが、1879年に歴史的モニュメントとして保護対象となった。
ボルドーのサン=スラン・バシリカは古代から伝わるネクロポリスにボルドー司教・聖スラン(聖セヴェリン/聖セヴェリヌス)が5世紀に創設した教会で、聖スランや聖フォールをはじめ代々のボルドー司教が埋葬されている。また、リモージュの司教・聖マルシャルが滞在中にボルドー伯を治癒したり、火事を鎮火したり、天気を変えるといった奇跡を起こしたとされ、関連の聖遺物を収めている。他にも、エルサレムでイエスが十字架を背負ってゴルゴダの丘に向かうヴィア・ドロローサ(ヴィア・クルキス/苦難の道行/十字架の道行)において自らのヴェールでイエスの汗をぬぐった聖ヴェロニカの墓や、フランク王カール大帝の聖遺物やその兵士たちの墓をはじめ、数多くの墓や聖遺物を有していたことから南フランスでもっとも重要な巡礼地のひとつとなった。教会堂は多くの巡礼者を収めるため11世紀にロマネスク様式で建て直され、これをベースに12~13世紀にゴシック様式に改装され、15世紀には華やかなステンドグラスで彩られたノートル=ダム=ド=ラ=ローズ礼拝堂が増設された。
ボルドーのサンタンドレ大聖堂(ボルドー大聖堂)は3世紀創建と伝わる南フランス最古級の教会のひとつで、イエスの十二使徒のひとりであるアンデレに捧げられている。教会堂内にアンデレとともに宣教に努めたヤコブの礼拝堂があったことも巡礼者を増やすことにつながった。11世紀にロマネスク様式の大聖堂に建て替えられ、12世紀に身廊、13世紀にアプスや北ファサード、14世紀にクワイヤや南ファサードがゴシック様式で改築され、15世紀に教会堂の東にゴシック様式のペイ・ベルランの塔が建設された。平面140×50mほどのラテン十字式・単廊式の教会堂で、一般的な教会堂が西に正門を置くのに対して北に正門を配しており、西ファサードがきわめてシンプルである一方、南ファサードと北ファサードをゴシック装飾で飾り立てている。もっとも壮麗なのが北ファサードで、高さ81mの2基のスパイアを掲げ、中央をバラ窓が飾り、下部のポータル(王のポータル)のリンテルやティンパヌム、アーキヴォールト、柱は彫刻で埋め尽くされている。南ファサードも双塔だがスパイアはなく、やはり彫刻で飾られたポータル(フレッシュのポータル)やバラ窓が設けられている。内部には中世までさかのぼる貴重な彫刻やフレスコ画・絵画が見られるが、ステンドグラスは数枚を除いてほとんど19世紀に取り付けられたものだ。ペイ・ベルランの塔は1440~1500年に建設された鐘楼で、地盤が脆弱で鐘の揺れが大聖堂を傷めたことから離れた場所にこの鐘楼が建てられた。高さ66mのゴシック建築で、頂部に「アキテーヌの聖母」と呼ばれる高さ6mの黄金の聖母子像を掲げている。ボルドーはサン=スラン・バシリカ、サンタンドレ大聖堂の他にサン=ミシェル・バシリカも本遺産の構成資産となっており、3件はいずれも世界遺産「ボルドー、月の港」にも含まれている。
なお、「トゥールの道」のトゥールは数多くの教会堂や修道院が立ち並ぶ有数の巡礼地だが、本遺産には含まれておらず、世界遺産「シュリー=シュル=ロワールとシャロンヌ間のロワール渓谷」の構成資産となっている。
[その他の巡礼路]
アミアンは3~4世紀に聖フィルマンが宣教を行った土地として知られ、4世紀にはノートル=ダム大聖堂(アミアン大聖堂)が創設されていた。伝説では、トゥールのマルティヌス(聖マルティヌス)がアミアンを訪れた際、城門で物乞いに自らの外套を裂いて片方を差し出したという。この物乞いこそイエスの化身であり、これをきっかけにアミアンで洗礼を受けたと伝わっている。1206年にコンスタンティノープル(現・イスタンブール。世界遺産)からイエスに洗礼を授けた洗礼者ヨハネの頭蓋骨が聖遺物として持ち込まれると、ノートル=ダム大聖堂は北フランス屈指の巡礼地に発展した。1218年に大聖堂が落雷で焼失すると、1220年からゴシック様式の大聖堂の建設が開始され、1288年までにおおよそ完成したが、建設は16世紀まで続けられた。その規模は全長145m・幅70m、南塔は高さ61m、北塔は66m、身廊の高さ42.3mという驚くべきもので、当時フランス最大にして最高を誇った。また、大聖堂を「石の書物」として整備することが計画され、『旧約聖書』や『新約聖書』、ヤコブを含む使徒や聖人らの物語が彫刻やレリーフ、ステンドグラスに刻まれ、宗教的にも芸術的にもきわめて価値の高いものとなった。特に西ファサードの3基のポータルや王のギャラリー、クワイヤを取り囲むクワイヤ・スクリーンの彫刻群は名高く、古いもので13世紀までさかのぼる。また、アプス上部のステンドグラスも13世紀のきわめて貴重かつ重要な作品となっている。なお、ノートル=ダム大聖堂は「アミアン大聖堂」として単独で世界遺産リストに登載されている。
ル・モン=サン=ミシェルのモン=サン=ミシェルは古代のケルト時代からの聖域で、「聖ミカエルの山」の意味を持ち、数々の大天使ミカエル降臨伝説が伝わっている。特に有名なのが聖堂の創建物語だ。708年にアヴランシュの司教オベールは夢の中でミカエルに「この岩山に私を祀る聖堂を建てなさい」と告げられたという。当初、オベールはこれを信じようとしなかったが、ミカエルは三度も夢に現れて、三度目にはオベールの頭に指を突き入れて稲妻を走らせた。翌朝、頭を触ると穴が開いており、これを受けてオベールは聖堂(現・ノートル=ダム=スー=テール礼拝堂)の建設を開始し、翌709年に奉献した。また、オベールはミカエルの聖地として知られるイタリアのガルガーノ山地のモンテ・サンタンジェロ(世界遺産)に使者を送り、ミカエルの足跡が穿たれた聖石とミカエルのベールの一部を聖遺物として持ち帰らせた。966年にベネディクト会が修道院を創設し、11世紀にロマネスク様式、13世紀にゴシック様式で再建された。修道院は北ヨーロッパへの宣教の中心地となり、数多くの修道士が旅立つ一方で、北海周辺で最大の巡礼地となり、多くの巡礼者が訪れた。サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼を目指す北ヨーロッパの巡礼者は、まずモン=サン=ミシェルを訪れ、パリに出てトゥールの道に合流した。なお、モン=サン=ミシェルは単独で「モン=サン=ミシェルとその湾」として世界遺産リストに登載されている。
[アキテーヌ地域圏]
[オーヴェルニュ地域圏]
[バス=ノルマンディー地域圏]
[ブルゴーニュ地域圏]
[サントル=ヴァル・ド・ロワール地域圏]
[シャンパーニュ=アルデンヌ地域圏]
[イル=ド=フランス地域圏]
[ラングドック=ルシヨン地域圏]
[リムーザン地域圏]
[ミディ=ピレネー地域圏]
[ピカルディー地域圏]
[ポワトゥー=シャラント地域圏]
[プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏]
[巡礼路(ル・ピュイの道)]
本遺産は当初、登録基準(i)「人類の創造的傑作」と(iii)「文化・文明の稀有な証拠」でも推薦されており、一方で登録基準(vi)については対象となっていなかった。また、構成資産についても当初は69件で推薦されていた。しかし、遺産の調査・評価を行ったICOMOS(イコモス=国際記念物遺跡会議)の提言を受けて推薦書を練り直し、下記の3項目と78件の構成資産での推薦・登録となった。
サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路は中世後期の宗教・文化の交流と発展にきわめて重要な役割を果たした。こうした内容はフランス国内の巡礼路上に位置する精選されたモニュメント群によって見事に表現されている。
サンティアゴ・デ・コンポステーラへと旅する巡礼者の精神的かつ肉体的な福利のためにいくつかの特別な種類の建築物が開発され、その多くがフランス側のルートで誕生したか発展を遂げた。
サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路は中世ヨーロッパのあらゆる階層と国々に浸透していたキリスト教の信仰の力と影響力を示す際立った証拠である。
構成資産の偉大な建築や建造物群はその多様性においてサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路の意義を忠実に表現している。対象となる巡礼路はほんの一部にすぎないが、こちらも同様である。巡礼路沿いに立つ建造物群は共通して中世フランスで起こり、保護され、現在に引き継がれた巡礼の実践の直接の証拠であり、サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼文化を促進した。ただ、1990年代以降、フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路では継続的な訪問者の増加が問題となっており、道路開発に対応する必要がある。
歴史的資料や保存された建造物群・装飾的要素に示されているように、構成資産の宿泊施設や医療施設は疑いなく巡礼に特化したものである。また、構成資産はサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼に関する儀式や慣習を忠実かつ信頼できる形で提示しており、巡礼路や巡礼教会、ちょっとした聖地、病院や橋などを含んでいる。また、聖人の遺物を収めた教会堂といった各地に点在する聖地を含んでいるが、これらを旅程通りに参拝することが精神的な道のような役割を果たしていた。もっとも見事な建造物は巡礼路の特徴的な通過点であり、巡礼者の往来を管理するための特徴的な建築レイアウトになっていることが見て取れる。主要ルートや副次的なルート上に点在する瞑想や休息のために設置された慎み深い教会堂群は宗教的な場面や聖ヤコブ信仰に関する伝説を描いた彫刻や絵画の装飾によって巡礼路との関連を物語っている。