ブルガリア北東部ラズグラト州イスペリフ郊外のスヴェシュタリ村に位置する墳墓で、トラキア人によって紀元前3世紀はじめに建設された。被葬者はトラキア人の一派であるゲタイ人の王・ドロミカイテスとその王妃と見られている。特異なのが内部の装飾で、壁面に刻まれた10体の半人半植物のカリアティード(女性像柱)は類を見ないもので、主人と女神を描いたレリーフやイオニア式のピラスター(付柱。壁と一体化した柱)、多彩色の壁面装飾とともにトラキアとゲタイの文化を伝える貴重な史料となっている。
なお、世界遺産リストに登載されているトラキア人の墳墓には他に「カザンラクのトラキア人の墳墓」がある。
トラキア人はバルカン半島南東部のトラキア地方に紀元前4000~前3000年頃に定住をはじめた民族だ。ただ、トラキア人に関する史料は非常に少なく、詳細はわかっていない。多くの部族に分かれていたようだが、紀元前480~前460年頃に国王テレス1世が初の統一国家となるオドリュサイ王国を建国した。
紀元前4世紀にマケドニア王フィリッポス2世がギリシアを統一し、紀元前350年頃にトラキアに攻め込んで大部分を支配した。紀元前336年に暗殺されるとアレクサンドロス3世(アレキサンダー大王)が王位を継ぎ、紀元前323年の没後はディアドコイ(後継者)のひとりであるリュシマコスがトラキアや小アジア(現在トルコのあるアナトリア半島周辺)を版図に収めた。
オドリュサイ王国が衰退する一方で、ドナウ川下流ではトラキア人の一派であるゲタイ人が勢力を伸ばしていた。当初はオドリュサイ王国と連合していたが、この頃には王国としてほとんど独立していたようだ。
紀元前300~前280年頃のゲタイの王ドロミカイテスはリュシマコスを打ち破り、これを捕縛することに成功した。ドロミカイテスはリュシマコスを丁重にもてなすと、奪われたゲタイの土地を返還させた後、娘を嫁にもらい受けるなどして関係を深め、和解したと伝えられている。そして現在のブルガリアやルーマニアに勢力を広げ、ヘリスと呼ばれる要塞都市に王宮を築いて首都とした。
そしてドロミカイテスが自身と王妃(リュシマコスの娘)のためにヘリス郊外に築いた墳墓がスヴェシュタリの墳墓と見られている。現在、スボリアノヴォ考古学保護区に位置しているが、一帯では40以上のトラキア人の墳墓が発見されており、またスヴェシュタリの墳墓の周辺でも数多くの墓が見つかっていることから、ネクロポリス(死者の町)となっていたようだ。
この後、紀元前1世紀にブレビスタがゲタイを統一し、共和政ローマに対抗する大勢力となった。しかし、共和政ローマのカエサル(ガイウス・ユリウス・カエサル/シーザー)やローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスらに鎮圧され、その支配下に入った。やがてトラキア人はローマ人やギリシア人、ブルガール人、スラヴ人らと同化して消滅した。
時代は下って1982年、別の墳墓の発掘中にこの墳墓が発見された。その内部装飾は唯一無二のもので、大きなセンセーションを巻き起こした。
世界遺産の資産はスボリアノヴォ考古学保護区内に位置しており、保護区は他に40以上の墳墓を含んでいる。
スヴェシュタリの墳墓のマウンド(墳丘・墳丘墓)は直径約70m・高さ11.5mで、内部に羨道・前室・玄室を備えている。ただ、マウンド自体は発掘のために一度撤去されており、発掘後に鉄筋コンクリートのシェルで保護したうえに土で覆って再構築されている。内部は「カザンラクのトラキア人の墳墓(ブルガリア)」のようなトラキアの墳墓でしばしば見られるコーベル・アーチ(持送りアーチ/疑似アーチ。壁の石を内側に少しずつ張り出させて中央付近で接続する構造)を利用した蜂窩状墳墓(ほうかじょうふんぼ。コーベル・ドームを使用した玄室を持つ蜂の巣状の墳墓)ではなく、石灰岩の切石でアーチを築いた筒型ヴォールト(筒を半分に割ったような形の連続アーチ)で空間を確保している。こうした構造・配置はトラキアの文化に加え、マケドニアや小アジアで見られるヘレニズム文化の影響を受けたものと見られる。
羨道や前室に装飾的要素は少ないが、前室への入口上のリンテル(まぐさ石。柱と柱、壁と壁の間に水平に渡した石)にウシの頭と花輪・草花文様の彫刻が見られる。
玄室には2基の石棺が安置されており、ドロミカイテスと王妃のものと見られている。遺骨の他にウマやイヌの骨・青銅製の彫像・陶器・留め金といった副葬品が発見されているが、宝飾品の類いは早い段階で盗掘されたものと考えられている。
特筆すべきは玄室の壁面装飾だ。三方の壁面を5本のイオニア式のピラスターと10体のカリアティードが取り巻いている。カリアティードの女性像はチュニック(一種の上着)のような衣装を身に付けており、下半身には花のがく片を逆さにしたような物体が付いている。半人半植物像といわれるが、像には足があるようにも見える。いずれにしてもこのようなデザインは他に例がない。女性像は手を挙げてエンタブラチュア(ギリシア・ローマ建築の梁構造)を支えており、玄室全体としてペリスタイル(列柱廊で囲まれた中庭)を模したものと思われる。
最奥部である北西の壁面上部にはレリーフが刻まれており、従者を従えた馬上の人物(おそらくドロミカイテス)が女神から花輪を授かる様子が描かれている。女神の従者たちは他にも贈り物を持っており、死後の旅路の様子を表現したものとされる。
もともと壁面は華やかに彩色されていたが、現在はかなり退色している。カリアティードなどの装飾には粗雑な部分があり、未完成のまま封印されたようだ。このことから王の急死に伴って王妃が後を追い、急遽埋葬された可能性が指摘されている。
スヴェシュタリ近郊のトラキア人の墳墓はチュニックをまとった女性に逆さの植物を組み合わせたような半人半植物のカリアティードを特徴とする独創的な芸術的成果である。黄土色・茶・青・赤・薄紫といった元々の多彩色が残されている表情豊かな絵柄は魅惑的であり、また儀式の舞踊の姿勢を抽象化・擬人化させたと見られる女性像柱は会葬者たちの演奏風景を彷彿させる。
この墳墓はヘムス(現在のバルカン山脈/スタラ・プラニナ)の北に居住しており、古代の地理学者によればギリシアやヒュペルボレイオス世界と関わりを持っていたというトラキア人の一派・ゲタイ人の文化を示す際立った証拠である。墳墓はまたヘレニズムの影響を受けた地方芸術を表現しているという点で注目に値し、創作過程が中断された稀有な例でもあり、特有の特徴を備えている。このモニュメントはその建築装飾と、発掘調査によって明らかになった葬送儀礼の明確な特徴において独創的である。
遺跡の特徴と周辺環境は変化しておらず、完全性は首尾一貫している。本モニュメントは40以上のトラキア人の墳墓、種々の聖域、古代および中世の集落・建物・要塞・マウソレウム(廟)・オスマン帝国時代のミナレット(イスラム教で礼拝を呼び掛けるための塔)を有する「スボリアノヴォ」と呼ばれる考古学保護区内に位置しており、資産は範囲内に顕著な普遍的価値を伝えるために必要なすべての構成要素を含んでいる。
発掘後、墳墓の外殻が復元された際に防湿性の高い保護シェルで覆われたことで本来の環境が保持されており、資産の真正性は保たれている。また、周囲の堤も周辺景観を特徴付ける独創的な要素となっている。建造物におけるオリジナルの彫刻や絵的要素の全般的な状態は良好で、墳墓の空間構成は変わらず維持されている。保全作業は最小限かつ個別的に行われ、大規模で継続的な干渉を受けることなく完了した。墳墓は技術的な保全要件を満たしたうえで訪問者に開放されている。