ヨーロッパに残る数少ないブナ林を登録した世界遺産。ブナは温帯性落葉広葉樹の一種であるブナ科の植物の総称で、本遺産ではヨーロッパのみに生息するヨーロッパブナの森林を中心としている。
本遺産は2007年にウクライナとスロバキアの世界遺産「カルパチア山脈の原生ブナ林」として登録され、2011年にドイツのブナ林を加えて「カルパチア山脈のブナ原生林とドイツの古代ブナ林」として拡大され、2011年には9か国のブナ林を加えて12か国78の構成資産を有するトランスナショナル・サイト(複数国に資産を持つ遺産)となって現在の名称に変更された。さらに、2021年には6か国のブナ林と混合林を加え、一部既存の構成資産の分割や範囲変更が行われて18か国94件にまで拡大された。これにより世界遺産リストの中でもっとも多くの国にまたがる世界遺産となった。このときセルビアとモンテネグロの物件も推薦されていたが、こちらは認められなかった。2023年には軽微な変更で資産とバッファー・ゾーンが若干変更され、構成資産の統合により93件に減少した。
新生代第四紀(約258万年前~現在)は寒冷期である氷期と寒さが緩む間氷期を繰り返しているが、7万前にはじまった最新の氷期=最終氷期が約1万年前に終わると、氷河に覆われていたヨーロッパに森林が広がり、6,500年前にはヨーロッパの40%をブナ林が占めた。ヨーロッパの典型的な植生ながら人類の文明が発達するとそのほとんどは人間によって伐採・改変され、農地や都市などに転用された。特に人の手が入っていない原生林はきわめてまれで、残されているブナ林も多くは貴族の狩猟場や保護区となっていたものだ。世界遺産名の「古代ブナ林」は狩猟場や牧草地・資源採掘場など人に利用された歴史を持つブナ林で、手付かずのブナ林を示す「原生ブナ林」と区別されている。
ヨーロッパのみに生育するヨーロッパブナ "Fagus sylvatica" は世界の樹種の中でもきわめてユニークな生存戦略を示している。さまざまな環境に適応できるが、条件に恵まれると他の樹種を排除して優勢となる。広い葉と大きく広がった枝を持ち、葉が空を覆うため森の中は暗く、他の樹種は育ちにくく単一種による優占林を形成する。
しかしながら葉が薄いため広葉樹林の中では比較的明るく、草花やコケ類・地衣類・キノコなどはよく育つ。樹種は少なくても植物相・動物相ともに厚く、維管束植物(維管束を持つシダ植物や種子植物)については1,000種を超え、IUCN(国際自然保護連合)レッドリスト記載の絶滅危惧種も80種を超える。動物も多様で、ヒグマやヨーロッパバイソン、オオカミ、オオヤマネコ、ヘラジカといった大型哺乳動物の貴重なすみかとなっている。
93もの構成資産を有するが、カルパチア山脈の原生林が非常に古いのに対し、ドイツのブナ林は比較的新しいなど同じブナ林でもさまざまな森林タイプが混在している。また、標高についても0~2,000m超まで幅広く、標高の低い場所ではヨーロッパナラ、高い場所ではオウシュウトウヒなどの森も見られる。岩盤については結晶片岩・石灰岩・フリッシュ・安山岩等々、土壌については酸性土壌から高石灰質土壌まで多彩で、結果的にヨーロッパブナ林のほぼすべてのタイプがそろっている。
本遺産は登録基準(vii)「類まれな自然美」、(x)「生物多様性に富み絶滅危惧種を有する地域」でも推薦されていたが、(vii)についてはヨーロッパでは類まれであるものの世界的ではない、(x)については他の世界遺産や森林で見られる種が多いことからIUCN(国際自然保護連合)は顕著な普遍的価値を認めなかった。
北半球に広く分布し、生態学的に重要なヨーロッパブナの歴史と進化を理解するために不可欠な森林群である。人の手がほとんど加わっていない複雑な温帯林の顕著な例であり、海岸から森林限界に至るすべての高度のさまざまな環境条件に置かれたヨーロッパブナのもっとも完全で包括的な生態学的パターンとプロセスを示している。温帯広葉樹林のバイオーム(生物群系)のもっとも重要なもののひとつで、最終氷期以降の陸上生態系の発展を表現する際立った例であり、現在もなお進行中である。これらはブナ林の長期保全に不可欠なプロセスの重要な側面を表しており、さまざまな環境パラメーターにわたって単一の樹種がどのように支配権を獲得したかを示している。
ブナの原生林あるいは古代林で、構成資産はすべて国立公園や生物圏保存地域などとして法の保護下にあり、保護の状態もよい。バッファー・ゾーンもほとんど法的保護を受けており、資産の2倍以上の面積を有している。ただ、中には完全性を満たすには小さすぎる構成資産もあり、そうした物件については資産とバッファー・ゾーンの拡大や周辺部の保護が考慮されるべきである。
ただし、2017年の拡大についてIUCNは登録延期勧告を下している。その理由は、過去かなりの割合で人間に使用され回復した物件が含まれており、また資産とバッファー・ゾーンの平均サイズが大幅に縮小している点を挙げている。それまでに登録されている構成資産と比べて低水準で、また遺産のコンセプトを毀損しているため、構成資産を減らし、より大きく自然でコンセプトに沿った同水準の推薦を提案した。