ドイツ語でノイジードラー湖、ハンガリー語でフェルテー湖と呼ばれるオーストリア・ハンガリー国境にまたがる湖で、約76%がオーストリア領に属する。ヨーロッパ最大の塩湖で、流出する川を持たないヨーロッパ最大の湖であり、ユーラシア大陸最西端のステップ(草原)湖でもある。8,000年にわたって人間に利用されてきた土地で、主要産業である牧畜やブドウ栽培は現在に引き継がれており、自然と農業景観とバロック様式や歴史主義様式(ゴシック様式やルネサンス様式、バロック様式といった中世以降のスタイルを復興した様式)の建物が調和した見事な文化的景観が広がっている。
フェルテー湖/ノイジードラー湖は紀元前18,000~前14,000年ほどに誕生したアルカリ塩湖で、海抜115~116mに位置している。塩分やミネラル分は新生代新第三紀(2,300万~258万年前)まで一帯を覆っていたテチス海に由来し、こうした成分が川に溶け込んで流入する一方で流出する川が存在しないため、湖と周辺で濃縮されつづけている。このため現在の塩分濃度は0.2%(海水は約3.4%)だが、わずかずつ増加している。
湖は南北36km×東西14kmと縦に長く、面積はおおよそ32,000haで、最大水深2m・平均水深1m程度と浅く、18,000haはアシ(葦/ヨシ)に覆われたアシ原となっている。もっとも湖の面積は水位によって大きく変動し、湖ができてから数十回・数百回の単位で干上がっており、時代によっては湖ではなく湿地や川として記録されている。
紀元前6000年頃から人間の定住の跡があり、紀元前4000年頃には牧畜が開始された。紀元前7世紀にケルト人によるハルシュタット文化が伝わり、鉄器時代を迎えた。やがてローマ帝国の版図に入り、数多くのヴィッラ(別邸・別荘)や神殿などが築かれた。3世紀頃から民族大移動の時代を迎え、ローマの覇権が4世紀後半に終わるとアヴァール人やフランク人、スラヴ人、ペチェネグ人をはじめ数多くの民族が侵攻を繰り返した。
900年頃に現れたのがマジャール人だ。もともとウラル山脈周辺に住んでいたと見られる遊牧民族で、6世紀頃にドニプロ川(ドニエプル川)やドン川流域、9世紀頃にカルパチア山脈を抜けてハンガリーに到達した。10世紀末にキリスト教化し、1000年にイシュトヴァーン1世が教皇から戴冠されてハンガリー王国が成立した。11世紀にはフェルテー湖の語源となる「スタグナム・フェルテウ」の名前が文献に登場する。
現在に続く町や村と交通網の基礎は12~13世紀に形成された。この時代に貿易が活発化し、ドイツ人の移住がはじまった。1242年にはモンゴル帝国が襲来して町々を破壊したが、ドイツ人たちは町を再建して「ノイジードル」と命名した。この頃の経済基盤は農牧業で、特に牧畜とブドウ栽培が盛んに行われた。
16世紀にオスマン帝国の脅威が増すと町や建物は要塞化され、砦や城壁が築かれた。特に1683年の第2次ウィーン包囲の前後に大きな略奪にあい、多くの町が破壊された。17~19世紀にかけてバロックや歴史主義様式で町が再建され、貴族たちは各地に華やかな城や宮殿を建設した。
ハンガリー王国は長きにわたってハプスブルク帝国に組み込まれていたが、1867年にオーストリア=ハンガリー帝国としてマジャール人の自治を回復。第1次世界大戦後にはハンガリー民主共和国として独立した。この後、オーストリアとハンガリーは別の道を歩み、第2次世界大戦後に両国は東西冷戦の舞台となり、湖の上に鉄のカーテンが走り、1949年には国境に鉄条網が敷かれた。1989年のベルリンの壁崩壊後いち早く交流が進み、いまに至っている。
フェルテー湖/ノイジードラー湖の湖畔には16の町があり、その外輪に20の町が点在している。こうした町は中世からの都市レイアウトと中世~近代の家並みが残されており、周囲には牧草地やブドウ畑などの農業景観が広がっている。
代表的な町のひとつがルスト(オーストリア)だ。ワインの名産地として知られ、16世紀にはハンガリー女王マリアの名を冠するワインを生産していた。同世紀半ばにオスマン帝国に破壊されるが、17世紀に市壁を築いて堅固な城郭都市となった。1681年にハンガリー王から自由都市(大司教や司教の支配を受けず教会に対して義務を免除された都市)の権利が与えられ、エステルハージ家の支配の下でルネサンスやバロック、歴史主義の建物が建設され、美しい街並みを築き上げた。最古の教会であるフィッシャー教会はロマネスク・ゴシック建築と12世紀のフレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)で名高い。長らくハンガリーに属していたが、1921年にオーストリアに移った。
エステルハージ家の居城がフェルトード(ハンガリー)のエステルハージ宮殿だ。ハンガリー・バロック&ロココの最高傑作とされ、「ハンガリーのヴェルサイユ」とも称される。もともと狩猟館があった場所で、1762年に宮殿の建設がはじまった。宮殿には126の部屋があり、18世紀末には作曲家ヨーゼフ・ハイドンが暮らし、数々の交響曲を作曲し、付属のオペラハウスで演奏した。
ナジツェンク(ハンガリー)はハルシュタット文化以来の古都で、ハンガリーの自由化・民主化に大きく貢献したセーチェーニ・イシュトヴァーンを輩出したセーチェーニ家が治めていた。セーチェーニ宮殿は18~19世紀に築かれたバロックと歴史主義様式の建物で、第2次世界大戦で多くが破壊された後、再建された。
フェルテーラーコシュ(ハンガリー)はローマ遺跡で知られる古都で、1866年にブドウ畑でミトラス神殿跡が発見された。採石場としても有名で、古代から近代まで建築素材として良質の石灰岩を各地に供給した。11世紀に司教都市となって繁栄したが、1683年にオスマン帝国によって徹底的に破壊された。戦後、ドイツ人の入植が進み、バロックや歴史主義様式の街並みが誕生した。一例が司教宮殿で、バロック・ロココ様式で改修されている。1989年にはベルリンの壁の崩壊よりも早くこの地の鉄条網が切り裂かれた。
ノイジードル・アム・ゼー(オーストリア)は13世紀後半にドイツ人が「ノイジードル」と命名した町で、1517年に市場権を与えられて繁栄した。しかし17世紀後半~18世紀はじめにオスマン帝国や反ハプスブルク家の武装集団クルツの襲撃を受けて荒廃した。こうした襲撃に備えて築かれた砦がタボール遺跡だ。ノイジードル・アム・ゼー教区教会は13~14世紀の創設で、ゴシック様式の建物がバロック様式で改修されている。
ポダースドルフ・アム・ゼー(オーストリア)の湖畔はほとんど樹木のない草原が広がっており、湿地や池が点在する典型的なステップ湖が見られる。荒涼たる景観はカシの木が伐採されて誕生したもので、ローマ時代にはブドウの栽培がはじまった。ポダースドルフは13世紀にドイツ人が入植して設立した町で、シトー会とともに開拓を行った。オスマン帝国やクルツの襲撃を受けたのはノイジードル・アム・ゼーと同様だ。ポダースドルフ・アム・ゼー教区教会は14世紀の創建で、17世紀にオスマン帝国に破壊された後、バロック様式で再建された。ランドマークであるポダースドルフ風車は1800年頃、ポダースドルフ灯台は1990年代に建てられた。
本遺産は複合遺産として自然遺産の登録基準(vii)「類まれな自然美」、(ix)「生態学的・生物学的に重要な生態系」、(x)「生物多様性に富み絶滅危惧種を有する地域」を満たすものとしても推薦されていた。しかし、自然遺産の調査・評価を行うIUCN(国際自然保護連合)は、(vii)について美しいのは自然美というより文化的景観であり、(ix)についてヨーロッパで生態学的・生物学的に際立った場所ではないうえに湖は人工的な部分が多く、(x)について大きな湿地帯で渡り鳥の通過点であり鳥類の重要な生息地であることは間違いないが世界的に重要なものとまではいえないとして、自然遺産としての顕著な普遍的価値を認めなかった。
フェルテー湖/ノイジードラー湖は8,000年にわたってさまざまな文化が交流した現場である。人間と物理的環境との発展的で象徴的な共生プロセスの結果であり、多様な景観に視覚的に表現されている。
オーストリアとハンガリー国境に位置する本遺産は文化の多様性だけでなく、自然と文化両面の観点から景観や社会経済的・文化的特徴、土地使用形態、数世紀にわたるブドウ栽培と家畜飼育の連続性、土地利用に関連する集落の建築と構造の多様性などを特徴とする。資産の整合性は地質学的・水文学的・地形学的・気候学的・生態学的・地域的および文化的・歴史的特性に基づいている。
フェルテー湖/ノイジードラー湖は農業栽培と家畜育成に適しており、数百年のあいだ土地と湖は同一の用途で使用されてきた。古代から現代に至るまで人間と自然が調和して生きており、そのユニークな関係は文化的景観に表れている。景観を構成する人為的要素には湖周辺の町や農村・18~19世紀の宮殿のレイアウトや建築があり、数世紀にわたるブドウ栽培やアシの管理は継続的な土地利用や建築素材の継続的使用に貢献している。
この地域の価値の多くは伝統的な生活様式に伴うもので、地域特有の建築と景観の保存状態は伝統的で持続可能な資源の利用にかかっている。こうした特徴と完全性を維持するために観光業や都市開発の慎重な管理が必要となる。
資産は1977年から自然と景観の保護地域に指定されており、文化遺産についても文化財保護の法律で守られている。また、自然の主要部分についてオーストリア側はノイジードラー湖=ゼーヴィンケル国立公園、ハンガリー側はフェルテー=ハンザグ国立公園に指定されており、湿地の保存に関する国際条約であるラムサール条約や、UNESCO(ユネスコ=国際連合教育科学文化機関)が進めるユネスコエコパーク=生物圏保存地域の登録地でもある。
町や村のレイアウトと建築は中世以降途切れることのない農業の土地利用と生活様式を表しており、中にはローマ時代以前のレイアウトを引き継いでいる村も存在する。景観や建築の真正性は高いレベルで維持されており、木材や石灰岩といった伝統的な建築素材の利用もこれに貢献している。特に湖の近くで発見され、ローマ時代から20世紀まで生産が続いたライタ石灰岩は近郊で使用されるだけでなく、ショプロンやウィーンなどにも輸出された。きわめて小さな村の農業建築から貴族によるエステルハージ宮殿やセーチェーニ宮殿のような巨大な宮殿建築までさまざまな建築をカバーしており、土地所有や土地利用の方法を伝えている。