ローマ帝国の国境線に沿って築かれた防塞システム=リメスの中で、ローマ属州・下ゲルマニアに属し、ドイツのレニッシュ山塊からオランダの北海沿岸までライン川の左岸(西岸)約400kmに点在する城壁や土塁・城・要塞・砦・堀・堡塁・望楼(物見櫓)・駐屯地・港・艦隊基地・橋頭堡といった軍事施設と、居住地・埋葬地・フォルム(公共広場)・アンフィテアトルム(円形闘技場)・テルマエ(浴場)・神殿・住宅・墓地・上下水道・運河・水路・水道橋といった関連施設の遺跡からなる102の構成資産を登録した世界遺産。
なお、ライン川下流の要塞や砦については一部が世界遺産「オランダの水利防塞線群(オランダ)」と重複している。
また、ローマ帝国のリメスを登録した世界遺産には他に以下がある。
共和政ローマやローマ帝国(紀元前27年以降)は国境線に沿って城壁や要塞・砦を築いて「リメス」と呼ばれる防塞システムを敷いた。一例がハドリアヌスの長城やアントニヌスの長城(いずれも世界遺産)のような長城(国境線に築かれた土塁や壁)だ。最盛期には現在イギリスのあるグレートブリテン島からドイツ、黒海、紅海、中東、北アフリカまで国境線の総延長は7,500kmを超え、要所に城壁や土塁・堀・城・要塞・砦・橋頭堡・堡塁・望楼・駐屯地・居住地・港・道などが建設された。
ライン川においてはカエサル(ガイウス・ユリウス・カエサル/シーザー)によるガリア戦争(紀元前58~前51年)以降、この地に侵攻して前線基地が築かれるようになり、初代皇帝アウグストゥスの治世の紀元前19年頃に拠点となる軍事基地が建設された。ナイメーヘン-フンネルベルグのローマ遺跡がこの時代のリメスだ。アウグストゥスやカリグラ、クラウディウスといった初期の皇帝はライン川を渡って遠征を行い、時に新たな土地を征服して前線基地を建設したが、拠点はやはりライン川に置かれていた。
第11代皇帝ドミティアヌスの時代にゲルマニアの支配が固まり、90年にローマ属州・下ゲルマニア(ゲルマニア・インフェリオル)と上ゲルマニア(ゲルマニア・スペリオル)が成立し、国境に沿ってリメスが建設された。下ゲルマニアは現在のドイツ西部からフランス東部、ルクセンブルク、ベルギー、オランダ辺りの土地で、ライン川を東の国境とし、州都をコロニア・クラウディア・アラ・アグリッピネシウム(コロニア・アグリッピネンシス。現・ケルン)に置いた。なお、世界遺産「ローマ帝国の国境線(イギリス/ドイツ共通)」のドイツのリメスはライン川やドナウ川の上流を含むローマ属州・上ゲルマニアやラエティアのリメス、世界遺産「ローマ帝国の国境線-ドナウ・リメス[西セグメント](オーストリア/スロバキア/ドイツ共通)」はドナウ川沿いのドナウ・リメスを登録したものとなっている。
2世紀、ドナウ川下流におけるダキアとの戦争をはじめドナウ川周辺では多くの戦争が起こったが、ライン川沿いの下ゲルマニアは散発的にゲルマン人が侵入するくらいで比較的安定していた。しかし、3世紀のいわゆる「3世紀の危機」においてゲルマン系諸民族が活動を活発化させ、下ゲルマニアでもゲルマン系のアラマンニ人やフランク人などが圧力を強めて国境が脅かされた。混乱の中で260年には下ゲルマニアを含むガリア地方がガリア帝国として独立し、273年まで独立を保った。ディオクレティアヌスとマクシミアヌスの共同皇帝の時代、300年前後に安定を取り戻し、ライン川一帯の軍事インフラが再編された。4世紀に入ると兵士の削減に伴って要塞や砦の数は減らされ、規模も小型化した。
民族大移動がはじまる4世紀頃からフランク人による絶え間ない攻撃を受け、敵の配置に合わせて大型の砦や望楼が建設された。5世紀には帝国の各地でゲルマン系諸民族の侵入が相次いで対応が追い付かず、フランク人を雇い入れて国境防衛に当たらせた。ライン川左岸に移住するゲルマン人も少なくなく、国境は不安定化した。450年に州都が落ちると下ゲルマニアは崩壊し、ローマ帝国の支配は失われた。
中世に入るとライン川の流路の変化などもあって多くのリメスが崩壊して土中に埋没し、人々の記憶から失われた。1455年にローマ(世界遺産)でタキトゥスの著書『ゲルマニア』が発見されてから下ゲルマニアの研究が進められ、15~16世紀に現在のクサンテンでカストラ・ウェテラ、アスベルクでアシブルギウムの遺構が見つかったのを皮切りに遺跡の発見が相次いだ。ただ、未発見の遺跡が相当数埋もれていると考えられており、発見されている遺跡についても多くは未発掘のまま地下に眠っている。
主な構成資産として、まず植民都市コロニア・クラウディア・アラ・アグリッピネシウムあるいはコロニア・アグリッピネンシスの遺跡が挙げられる。下ゲルマニアの州都で、後に「コロニア」が転じて「ケルン」と呼ばれるようになった。もともとウビイイ人の土地でオッピドゥム・ウビオールムと呼ばれる町があり、共和政ローマが征服すると砦や要塞を築き、50年頃にクラウディウスの皇妃アグリッピナの名にちなんだ植民都市が建設された。90年にローマ属州・下ゲルマニアが成立すると州都となり、やがて人口は2万~3万に達した。主な遺構には、城壁や望楼・総督宮殿などが残る軍事施設プラエトリウムや、コンスタンティヌス1世が整備し城壁や塔に加えて16もの兵舎が立ち並ぶドイツ要塞、ライン河畔で五角形の要塞と水軍の駐屯地を備えたローマ艦隊基地アルテブルクなどがある。
植民都市コロニア・ウルピア・トライアナは紀元前13年頃に建設された要塞カストラ・ウェテラが前身で、ローマ帝国の軍事拠点として整備された。69~70年のゲルマン系バタヴィア人の蜂起で要塞が破壊されると、ライン川の中州に新たな要塞が建設された。100年前後にトラヤヌスによって植民都市に昇格し、フォルムを中心に町が整備されると下ゲルマニア第2の都市に発展した。現在はクサンテンの町が広がっているが、カストラ・ウェテラのふたつの要塞跡や砦に加えて、植民都市のフォルム、アンフィテアトルム、テルマエ、神殿、上下水道、運河、港、ライム道(ライムを結ぶ道)、住宅地、埋葬地などの遺構が発見されている。
ウルピア・ノウィオマグス・バタウォルムの地にはもともとバタヴィア人の町オッピドゥム・バタウォルムがあり、紀元前20~前10年頃にローマ帝国の前線基地となる駐屯地が建設された。やがてライン川河口からブリタニア(現在のイギリス)に至る貿易の拠点となり、ウルピア・ノウィオマグス・バタウォルムと呼ばれるオランダで唯一のローマ植民都市に発展した。現在、ナイメーヘンの町が広がっているが、周辺ではバタヴィア人の集落跡やローマ人による初期の入植地や砦、後期の都市遺跡や要塞などさまざまの時代の遺構が発見されており、城外では埋葬地跡も見られる。また、南には町に上水を運んでいた全長5kmほどのベルグ・エン・ダル水道の跡が伸びている。
ボンももともとゲルマン人の居住地で、カエサルが遠征を行って駐屯地を建設し、第1軍団ゲルマニカと呼ばれる精鋭部隊を結成すると、コロニア・クラウディア・アラ・アグリッピネシウムとともにその拠点となった。アウグストゥスが整備し、ティベリウスが拡張すると1万人以上の兵士を収容するローマ帝国最大級の要塞となり、第1軍団ミネルウァ、第21軍団ラパクスといった強力な軍団の基地となった。周辺にはカナバエやウィクスと呼ばれる城外居住地が広がっており、これらの遺構も発掘されている。
これら以外にも、アシブルギウム(現・アスベルク)、ノウァエシウム(現・ノイス)、フェクティオ(現・フェヒテン)といった要塞や、マティロ (現・ライデン)やトライエクトゥム・アド・レヌム(現・ユトレヒト)といった居住地などの遺構が構成資産となっている。
ローマ帝国の国境線を形成していた下ゲルマニアのリメスの現存する遺跡群はヨーロッパ辺境における帝国の影響力を示す重要な証である。要塞・砦・駐屯地・望楼や関連のインフラ、民間の建築はローマ帝国最盛期の重要な文化交流を示しており、軍事建築を通してローマの建築や管理に関する技術的知識を帝国の末端にまで流布した。これはローマ帝国北西部の社会に複雑な国境システムが稼働していたことを示しており、軍事施設と関連の民間居住地が広範な支援ネットワークで結ばれていたことを表している。国境のリメスは通行不能の障壁としてあったわけではなく、住人や商人を含む人々の移動を管理・承認するものであり、こうした交流を通して一帯の居住形態や建築・景観設計・空間構成に大きな変化と発展をもたらした。
下ゲルマニアのリメスはローマ帝国の防衛システムの一部として北西部の前線を統合することでローマ帝国の影響力を最大限に拡大したことを示す卓越した証拠である。こうした国境線はローマ帝国の政策、あるいは軍事・工学・建築・宗教・経済・政治といったローマの文化と伝統の普及を示す物理的表現を構成している。また、防衛システムと関連した多数の居住地はローマ帝国各地における兵士とその家族の生活の様子の理解に貢献している。
ローマ帝国の国境線の中でも下ゲルマニアのリメスは帝国最初期に築かれた線形の防衛システムで、北方の異国と外交的な解決に至らなかったことの結果として建設された。これらの軍事施設は野戦用の大規模な作戦基地から、張り出した最前線で必要とされる小規模な施設へ進化したことを示している。下ゲルマニアのリメスの一部は湿地帯に位置し、きわめてすぐれた保存状態にあり、帝国の軍司令官の水管理戦略や建築法が反映されている。また、構成資産の素材にはさまざまな自然あるいは人工の原料が含まれており、国境地帯の生活の様子や川船の建造技術のような失われた伝統を知るうえで非常に価値のある情報を含んでいる。
構成要素は国境防衛の初期の発展の様子を示し、防塞線の線的な連続性と特徴を表現するために選抜されている。それらは国境防衛システムにおける軍事施設と関連の建造物を含み、その機能と発展を物語っている。一般的に保存状態は良好あるいは非常に良好といえる。ほとんどの考古学的な遺物と遺構は土中に埋もれたままであり、大きな脅威にはさらされていない。構成資産の範囲とバッファー・ゾーンはおおむね適切だが、一部については小規模の修正が推奨される。
本遺産を構成する考古学的遺跡の真正性は高いレベルで維持されている。ほぼすべての遺跡はローマ時代あるいはその直後に埋没し、その後の開発から保護されてきた。そのためほとんどの構成資産の形状とデザインはローマ時代以降の影響を受けておらず、真正性を保持している。石壁はもちろん木材などの有機物の遺構についてもすぐれた保存状態を保っている。
ライン川の流路や都市化を含む土地利用の変化を受けて、構成資産の位置関係や環境も大きく変わっている。一方で、4件の構成資産の現在の環境はローマ時代のものに近く、当時の景観を彷彿させる。また、5件では復元作業が実施され、他の構成資産でも遺跡を理解しやすいように可視化が行われた。