「永遠の都」ローマはヨーロッパ・西アジア・北アフリカにまたがる大帝国を築いたローマ帝国の首都であり、中世にはローマ・カトリックの中心地としてヨーロッパのキリスト教文化をリードし、近世にはルネサンス・バロックの最盛期を築き、近代以降も芸術・建築の規範としてありつづけた。
なお、本遺産はまず1980年にアウレリアヌスの城壁とテベレ川で囲まれたエリアがイタリアの世界遺産「ローマ歴史地区」として登録された。1990年にテベレ川西岸のサンタンジェロ城やカヴール橋、ウンベルト橋などを含むウルバヌス8世の城壁まで拡張され、さらにバチカン市国の管理物件であるサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂やサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂、ジャニコロ地区、ピオ宮、マッファイ宮等の宮殿群に、城壁外にあるサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂を加えてトランスバウンダリー・サイト(国境をまたがる遺産)となり、現在の名称となった。2015年の軽微な変更でレジーナ・マルゲリータ橋などが含まれて若干資産が拡大され、2023年の軽微な変更ではバッファー・ゾーンが若干変更された。
伝説によると、軍神マルス(ギリシア神アレス)の子であるロムルスとレムスの兄弟はテベレ川に捨てられ、オオカミに育てられたという。兄弟は流れ着いた土地に町を築くことにしたが、どちらが統治者になるか決めようと鳥占いを行った。占いの結果はロムルスだったが兄弟間の闘争に発展し、ロムルスは弟を打ち殺し、紀元前753年にロムルスの都=ローマを建設した。なお、レムスの息子たちはこの後シエナ(世界遺産)を築いている。
ローマは当初、王政を敷いていたが(王政ローマ)、紀元前509年にエトルリア人の王を追放して共和政に移行する(共和政ローマ)。共和政は王のような世襲の君主を置かない政体で、ローマでは任期1年の2人の執政官(コンスル)と、執政官の諮問機関である元老院を中心に政治が行われた。政治の中心となっていたのがローマのフォルム(公共広場)であるフォロ・ロマーノ(フォルム・ロマヌム)だ。
そして紀元前3~前2世紀にかけて、ポエニ戦争でカルタゴを破ると北アフリカに進出し、ピュドナの戦いでアンティゴノス朝マケドニアを滅ぼすとギリシアを征服。西ヨーロッパ北部、西アジア、北アフリカに広く進出し、各地に植民都市を造り、あるいは既存の都市をローマ風に造り替えた。こうした属州から大量の奴隷が流入し、貴族は奴隷を使ってラティフンディウムという大農場の経営に乗り出した。農民は仕事を失って没落したが、こうした無産市民に「パンと見世物」を与えて養うことができた。5万人を収容したという円形闘技場コロッセオや1,600人を収容したカラカラ浴場などは市民の娯楽と福祉の目的で築かれた施設だ
「内乱の世紀」と呼ばれた紀元前1世紀の混乱に終止符を打ち、強力な中央集権体制を敷いたのがオクタウィアヌスだ。紀元前27年に皇帝アウグストゥスとして帝位に就き、共和政から帝政に移行してローマ帝国がスタートし、以後200年にわたって「ローマの平和=パックス・ロマーナ」と呼ばれる最盛期を築いた。この時代にスペインのメリダ、フランスのアルル、イギリスのバース、リビアのレプティス・マグナなど各地にローマ都市が築かれ、巨大な水道橋や浴場・闘技場・劇場などが建設された。ローマ帝国に関係する世界遺産は軽く50を超える。
ローマ帝国は当初キリスト教を禁じていたが、313年に皇帝コンスタンティヌス1世がミラノ勅令で公認。380年には国教化され、392年にはキリスト教以外の信仰が禁止された。ローマはコンスタンティノープル(現・イスタンブール。世界遺産)、アレクサンドリア、アンティオキア、エルサレム(世界遺産)と並ぶ5大総主教座(最高位聖職者=総主教が座る椅子)が置かれ、ローマ総主教座は4世紀はじめに建てられたサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂に置かれた。ローマでは早くも4世紀中に、十二使徒のひとりであるペトロの殉教地に立つサン・ピエトロ大聖堂、聖母マリアへの崇敬を表すサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂、聖パウロの墓を祀るサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂のいわゆる「4大バシリカ」が建設された。なお、サン・ピエトロ大聖堂は世界遺産「バチカン市国」、他の3堂は本遺産に含まれている。
3世紀、軍がクーデターに成功すると皇帝が乱立する軍人皇帝時代を迎え、さらにゲルマン人を中心とした民族大移動がはじまって異民族の侵入に悩まされた(3世紀の危機)。もともとローマは紀元前6~前4世紀頃築かれた全長11kmのセルウィウスの城壁の内側に展開していたが、皇帝アウレリアヌスはローマを異民族から守るためにその外側に全長19kmに及ぶアウレリアヌスの城壁を建設した。このときハドリアヌスの霊廟も城塞として城壁に組み込まれ、サンタンジェロ城に改修された。城壁はさらに9世紀にレオ4世、17世紀にウルバヌス8世がテベレ川左岸に拡張している。
しかし、それでも異民族の侵入は防げず、テオドシウス1世は帝国の分割を決意。395年、ふたりの息子にミラノ(後にラヴェンナ)を首都とする西ローマ帝国とコンスタンティノープルを首都とする東ローマ帝国=ビザンツ帝国に分けて与えた。ローマは首都から外れ、さらに476年にゲルマン人の侵入によって西ローマ帝国が滅亡すると急速に衰退した。
5大総主教座のうちビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルは正教会となり、他の3つの総主教座がイスラム教勢力の支配下に入ると、ローマ総主教は「教皇(法王)」を名乗り、イエスの弟子ペトロの後継を自負してローマ・カトリックの頂点に立った。13~16世紀になると「教皇は太陽、皇帝は月」と称されるほど絶大な権力を握り、ふたたびローマは繁栄期に入った。
14~16世紀にイタリアはルネサンス(文芸復興)の時代を迎えた。フィレンツェ(世界遺産)ではじまったルネサンスはミラノやピエンツァ(世界遺産)に伝わり、イタリア戦争(1494~1559年)におけるメディチ家追放や建築家ドナト・ブラマンテらのローマ移住、1513年のジョヴァンニ・デ・メディチ(教皇レオ10世)の教皇就任に伴うメディチ家のローマへの重心移動などを経て、ルネサンスの中心はローマに移動した。ブラマンテは盛期ルネサンスの最高傑作とされるサン・ピエトロ・イン・モントリオ教会のテンピエットやバチカン宮殿(世界遺産「バチカン市国」)、サン・ピエトロ大聖堂、カンチェッレリア宮などを設計してルネサンスをリードした。
16~17世紀にルネサンス様式はマニエリスム様式を経てバロック様式に発展し、サン・ピエトロ大聖堂やサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂などがバロック様式で建て替えられ、バルベリーニ宮やマッティ宮、プロパガンダ・フィーデ宮など多くの宮殿が続いた。
近世に入って各国が中央集権を成し遂げ、絶対君主や啓蒙専制君主が力を増すと教皇の力は衰え、小さな領邦(諸侯や都市による領土・国家)の集まりであるイタリアは衰退した。大国に対抗するためサルデーニャ王国を中心に統一 運動=リソルジメントが進められ、1861年に統一。当初首都はトリノにあったが、1871年にはローマに遷された。統一を成し遂げた初代国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の功績を讃えて築かれたのが新古典主義様式のヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂だ。
後世界遺産の構成資産は2件で、「ローマ歴史地区とバチカン市国の飛び地の資産群」と「サン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂」となっている。そして「ローマ歴史地区とバチカン市国の飛び地の資産群」にはローマ歴史地区と14件の飛び地の資産群が指定されている(サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂、スカラ・サンタ建造物群、トラステヴェレのカリストロ宮、サン・エディジオに面した建物、カンチェッレリア宮、スペイン広場のプロパガンダ・フィーデ宮、マッファイ宮、コンヴェルテンディ宮、南プロピレイ宮、北プロピレイ宮、ピオ宮、ウフィツィオ宮、ジャニコロの資産群)。
ローマ歴史地区はテベレ川東岸のアウレリアヌスの城壁と、テベレ川西岸のジャニコレンシ城壁、いわゆるウルバヌス8世の城壁に囲まれた一帯だ。アウレリアヌスの城壁は皇帝ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌスが271~275年に築いた城壁で、完成当初は全長約19km、平均で厚さ3.5m・高さ8mで18基の大門があり、30mごとに381基の塔が設置されていたという。そのうちの12.5kmが現存しており、水道橋を利用したマッジョーレ門やティブルティーナ門、アッピア街道の出入り口となったサン・セバスティアーノ門やラテラノ門、ミケランジェロが改修したピア門やポポロ門といった数多くの門が残されている。ウルバヌス8世の城壁は1641~43年に教皇ウルバヌス8世によって築かれた城壁で、バチカンの丘を取り囲むレオ4世の城壁の南にジャニコロの丘を囲うように建設された(そのためジャニコレンシ城壁とも呼ばれる)。ただ、1644年に築かれたポルテーゼ門や1854年に再建されたサン・パンクラツィオ門などを除いて多くは撤去されている。
ローマ歴史地区のローマ遺跡は数多いが、代表的なものとしてまずフォロ・ロマーノが挙げられる。王政・共和政・帝政時代を通してローマの政治的・経済的・法的・宗教的・文化的中枢で、紀元前6世紀までさかのぼる50超の建造物の跡が残されている。代表的な公共建築としては、元老院議事堂クリア・ユリア、公文書館タブラリウム、帝国最大のバシリカ(ローマ時代は集会所。後に教会堂)で約100×65mを誇るマクセンティウスのバシリカ、裁判や商取引などが行われたバシリカ・ユリアやバシリカ・アエミリア、王政時代の王宮で以降は公邸となったレギアなどがある。宗教建築としては、アウグストゥスが建設を開始したコンコルディア神殿やカエサル神殿、カストル=ポルックス神殿、ドミティアヌスによるウェスパシアヌスとティトゥス神殿、ハドリアヌスがギリシア風に築いたウェヌスとローマ神殿、アントニヌス・ピウスが築いたアントニヌス・ピウスとファウスティナ神殿、セプティミウス・セウェルスによる円形神殿・ウェスタ神殿、西ローマ帝国滅亡後に再建されたサトゥルヌス神殿などがある。また、サンタ・マリア・アンティクァ教会はローマ最古級の教会堂で、初期キリスト教のフレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)が残されている。記念碑としては、ユダヤ戦争の勝利を記念したティトゥス凱旋門、パルティア遠征の戦勝を記念したセプティミウス・セウェルス凱旋門、東西ローマ帝国による最後の建造物で東ローマ皇帝フォカスが601年に建設したフォカスの記念柱などがある。
フォロ・ロマーノの北に広がるのはフォラ・インペラトルム(皇帝たちのフォルム)で、カエサル(ガイウス・ユリウス・カエサル/シーザー)や初期の皇帝たちがぞれぞれの政治の中心としてフォルムを築いた。残っているのはフォルム・ユリウム(カエサルのフォルム)、フォルム・アウグストゥム(アウグストゥスのフォルム)、フォルム・ウェスパシアニ(ウェスパシアヌスのフォルム)、フォルム・ネルウァエ(ネルウァのフォルム)、フォルム・トライアニ(トラヤヌスのフォルム)で、特にフォルム・トライアニのトラヤヌスの市場や高さ38mのトラヤヌス記念柱は名高い。
フォロ・ロマーノの南はパラティーノの丘で、ロムルスとレムスの兄弟がオオカミに育てられた洞窟があった場所とされ、ロムルス邸との伝説が伝わるカーサ・ロムリがある。共和政・帝政期には貴族の宮殿が立ち並び、宮殿=パラッツォ "Palazzo" の語源となった。宮殿にはアウグストゥスのドムス・アウグスティ(ドムスは家族・邸宅の意)、ティベリウスのドムス・ティベリアナ、ドミティアスのドムス・フラウィアとドムス・アウグスターナ、セプティミウス・セウェルスのドムス・セプティミ・セウェリなどの遺跡がある。また、宮殿以外にも屋外競技場スタディオン、クラウディア水道の水道橋、アポロ神殿、セウェウス浴場などが知られる。
パラティーノの丘の南はチルコ・マッシモ(キルクス・マクシム)で、王政時代からキルクス(多目的競技場)として戦車競技や陸上競技・記念式典などが開催された。チルコ・マッシモの南東に位置するカラカラ浴場はディオクレティアヌス浴場に次ぐ巨大なテルマエ(公衆浴場)で、300m四方を超える敷地に1,600人を収容する220×114mほどの巨大な複合施設が立っていた。冷水・低温・高温・蒸気・サウナといった各種浴室に仮眠室やアトリウム(前庭)、レストラン、バー、ギムナシオン(屋内競技場・体育館)、パライストラ(屋内運動施設・体育学校)、図書館、劇場などを伴う総合娯楽施設だった。
フォロ・ロマーノの東に立つのが帝国最大のアンフィテアトルム(円形闘技場)であるコロッセオで、長径188m・短径156m・周囲527m・高さ48.5mで最大収容人数5万人を誇り。ウェスパシアヌスが70年に建造をはじめてティトゥスの治世である80年に完成した。隣接するコンスタンティヌス凱旋門はコンスタンティヌス1世が西の正帝マクセンティウスを破り、皇帝位を統一してテトラルキア(4分治制)を終わらせた記念に築いたものだ。また、北のオッピオの丘にたたずむトラヤヌス浴場は109年に完成したテルマエの跡で、地下のグロッタ(洞窟)にはネロが築いた黄金宮殿ドムス・アウレアの遺構が残されており、その見事なフレスコ画は18世紀の新古典主義美術に多大な影響を与えた。
ローマ歴史地区北部のカンプス・マルティウスを代表する建物が万神殿パンテオンだ。紀元前25年頃、アウグストゥスの命令で腹心のアグリッパが建設し、125年頃にハドリアヌスが再建した建物で、「奇跡」といわれたドームは直径・高さともに43mを誇り、ルネサンスの時代にフィレンツェでサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のクーポラ(ドーム)が完成するまで1,300年以上にわたって世界最大のドームでありつづけた(クーポラの内径が最大45.5m・最小41.5mであるため、パンテオンの方が大きいとする説もある)。形状は直径43mの真球を半分に割った形に近く、均整の取れた美しいたたずまいを見せる。加えてコリント式の柱との調和もすばらしく、正午にはオクルスから入った陽光が主祭壇の方角を照らす。
パンテオンの近郊にはテアトルム(ローマ劇場)のマルケッルス劇場、スタディオン(屋外競技場)のドミティアヌス競技場跡があり、テベレ川の対岸にはサンタンジェロ城がたたずんでいる。サンタンジェロ城はもともと135~139年にハドリアヌスが自らの廟として建設した建物で、5世紀はじめにアウレリアヌスの城壁に組み込まれて城塞化された。伝説では590年頃、大天使ミカエルが城の上に現れてペストを終息させたことから天使の名が付いたという(サンタンジェロ "Sant'Angelo"=聖天使 )。16世紀に頂部に彫刻家ラファエッロ・ダ・モンテルーポによる大理石製のミカエル像が立てられ、18世紀にフランドルの彫刻家ピエール・ヴァン・ヴェルシャフェルトの青銅像に差し替えられた。サンタンジェロ橋の10体の天使像はジャン・ロレンツォ・ベルニーニやジローラモ・ルセンティらのバロック彫刻となっている。
ローマは長らく教皇の在所であり、ローマ・カトリックの中心地でありつづけ、各教派の本部や支部も多く、数多くの教会堂が建てられた。最たる例が「4大バシリカ」で、サン・ピエトロ大聖堂、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂、サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂を示す。サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂は318年あるいは324年の創建とされ、9世紀にバチカンのサン・ピエトロ大聖堂に遷されるまで教皇の座所である教皇聖座が置かれており、教皇は隣接するラテラノ宮殿で暮らしていた。敷地内の礼拝堂に設置されたスカラ・サンタは4世紀にエルサレムから運ばれた聖なる階段で、処刑宣告を受けるイエスが上った階段と伝えられている。1309年にフランス王フィリップ4世が教皇をアヴィニョンに連れ去ったアヴィニョン捕囚(教皇のバビロン捕囚)により教皇聖座はアヴィニョンの教皇庁宮殿(世界遺産)に遷された。1377年にアヴィニョンからローマに戻った際、一時的に教皇聖座が置かれたのがサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂で、聖母マリア信仰が強いローマ・カトリックにあってマリアに捧げられた最高位の教会堂とされる。サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂と並ぶバロック様式の傑作で、いずれも4世紀の創建で18世紀にバロック様式で改築されている。現在、教皇聖座が置かれているのはサン・ピエトロ大聖堂だが、こちらは世界遺産「バチカン市国」の構成資産となっている。サン・ピエトロ大聖堂がイエスの十二使徒のひとりであるペトロの墓の上に立つとされるのに対し、サン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂はやはりローマで殉教した聖パウロの墓の上に築かれたと伝わっており、アウレリアヌスの城壁外に位置することから「城壁外の聖パウロ・バシリカ」の名が付いた。創建は4世紀で、18世紀にネオ・ルネサンス様式で再建されている。
4大バシリカ以外に重要な教会堂として、まずサン・ピエトロ・イン・モントリオ教会が挙げられる。ジャニコロ地区に築かれた9世紀創建の教会堂で、ペトロが逆さ磔の刑に処された殉教地とされることから「サン・ピエトロ」の名を冠している。ジョルジョ・ヴァザーリのフレスコ画をはじめ16~18世紀の数多くの芸術作品が収められているほか、中庭に設置されたブラマンテ作のマルティリウム(記念礼拝堂)であるテンピエットは盛期ルネサンス建築の最高傑作と名高く、サン・ピエトロ大聖堂をはじめルネサンス・バロック期の多くのドーム建築に模倣された。これ以外に、建築家カルロ・マデルノとジョヴァンニ・バティスタ・ソリアによるバロック建築の傑作でベルニーニの彫刻「聖テレジアの法悦」のあるサンタ・マリア・デッラ・ヴィットーリア教会、建築家ジャコモ・デッラ・ポルタとドメニコ・フォンターナの設計で豪奢なバロック装飾とカラヴァッジオやドメニキーノの見事なフレスコ画や絵画で知られるサン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会、旧イエズス会本部として使用されたマニエリスム様式の教会堂・ジェズ教会、中世でもっとも高い鐘楼や映画『ローマの休日』に登場した「真実の口」で知られるサンタ・マリア・イン・コスメディン聖堂、ディオクレティアヌス浴場跡にミケランジェロらの設計によって築かれたサンタ・マリア・デッリ・アンジェリ・エ・デイ・マルティーリ聖堂などが名高い。
ローマにはまた数多くの宮殿建築が存在し、多くは庁舎や議事堂・大使館・博物館・美術館といった公共施設として利用されている。一例がミケランジェロやジャコモ・デッラ・ポルタが設計したカンピドリオ広場を中心とした宮殿群で、ルネサンスからバロックへの移行期(マニエリスム)の見事な空間が広がっている。広場の東に立ち長年ローマ市庁舎として使用されたセナトリオ宮、南にカピトリーノ美術館となっているコンセルヴァトリ宮、北にほぼ対称にヌオーヴォ宮が立ち並んでいる。ドーリア式の柱が立ち並ぶルネサンス様式のファサードで名高いマッシモ宮(現・ローマ国立博物館)はバルダッサーレ・ペルッツィの設計で、ディオクレティアヌス浴場の跡地を利用して築かれており、ローマ帝国時代のフレスコ画が残っている。バチカン市国の飛び地となっているカンチェッレリア宮は1489~1513年建設の最初期のルネサンス建築で、枢機卿ラファエレ・リアリオが贅を凝らした宮殿だ。中庭のあるコートハウスで、ブラマンテが設計したロッジア(柱廊装飾)で囲まれたクロイスター(中庭を取り囲む回廊)で知られている。ファルネーゼ宮は盛期ルネサンス建築の最高傑作のひとつとされ、ミケランジェロやラファエロ、アントニオ・ダ・サンガロ、ジャコモ・デッラ・ポルタなど16世紀の代表的な芸術家や建築家が設計・内装を手掛けている。バルベリーニ宮はカルロ・マデルノ、ベルニーニ、フランチェスコ・ボッロミーニといった17世紀を代表するバロック建築家が手掛けたバロック建築で、楕円形の螺旋階段やピエトロ・ダ・コルトーナの壮大な天井画などで知られる。現在は国立古典絵画館として営業しており、ルネサンス・バロックを中心に著名な作品を展示している。クイリナーレの丘に立つクイリナーレ宮は1573~83年にグレゴリウス13世が夏の離宮として築いた宮殿だが、戦後、イタリア共和国の大統領官邸となった。これら以外にも、コロンナ美術館となっているコロンナ宮、ヴェネツィア宮殿国立博物館となっているヴェネツィア宮、ローマ国立博物館として公開されているアルテンプス宮など名高い宮殿は数多い。
古代のモニュメント(コロッセオやパンテオン、フォロ・ロマーノの建造物群など)や数世紀にわたって築かれた防衛システム(城壁やサンタンジェロ城など)、ルネサンス・バロック期から現在に至る都市開発で生まれた空間(ナヴォーナ広場、シクストゥス5世が整備したポポロ広場やスペイン広場を含むトライデント(ポポロ広場を頂点とする3つの通り一帯)など)、豪華絢爛たる絵画やモザイク画・彫刻装飾で彩られた市民や宗教のための建造物群(カピトリーノの丘の建造物群やファルネーゼ宮、クイリナーレ宮、アラ・パチス、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂、サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂など)等々、これらはすべて史上もっともすぐれた芸術家たちによる作品群であり、ほぼ3,000年にわたる歴史が生み出した比類ない芸術的価値を証明している。
ローマで見られる芸術作品群は何世紀にもわたって世界中の都市計画や建築・科学技術・芸術の発展に決定的な役割を果たしてきた。特に古代ローマの建築・絵画・彫刻における際立った業績は、古代のみならず近世のルネサンス、バロックから近代の新古典主義/歴史主義の時代でも普遍的なモデルとしてありつづけた。ローマの古典的な建物や教会堂・宮殿・広場群はそれらを彩る絵画や彫刻とともに、後世に疑いの余地のない確たる基準を提供している。特に際立っているのがローマで誕生し、ヨーロッパ全域ならびに他の大陸に拡散したバロック美術である。
西洋文明の基礎を築いたローマ文明の核となる都市遺跡であり、その価値は広く認識されている。非常に多数の記念碑的な古代遺跡を保持しており、多くは目に見える形で残されていて保存状態も良好である。さまざまな時代における芸術・建築・都市デザインの発展や様式を証明しており、これらは1,000年以上にわたってローマを特徴付けている。
ローマ歴史地区の全体とその建造物群は3,000年に及ぶ途切れることのない歴史を証明している。この遺産の明確な特徴は、建築言語の多層化、建築類型の広域化、都市計画における独自の開発にあり、都市の複雑な形態の中で統合され調和している。特筆すべきはフォルムや浴場・市壁・宮殿・宗教建築・水利施設(排水施設や水道、ルネサンス・バロック噴水、洪水を防ぐためにテベレ川沿いに設置された19世紀の擁壁護岸など)といった市民のための重要なモニュメントで、スタイルの多様性が複雑に融合してきわめてユニークなアンサンブルを形成し、時間とともに進化しつづけている。
2,000年以上にわたってローマは世俗的かつ宗教的な都としてありつづけている。ローマ帝国の中心として当時ヨーロッパで知られていた世界の全域に力を拡大したこの都は、法律・言語・文学の分野で最高度の発展を見せ、広範な文明の心臓部となり、西洋文化の基盤を形成した。ローマはまたその起源からキリスト教信仰の歴史と直接結び付いており、使徒や聖人・殉教者の墓があり現教皇が所在する「永遠の都」ローマは何世紀にもわたって巡礼のもっとも神聖なゴールであり象徴でありつづけている。
世界遺産リストの構成資産であるローマ歴史地区とローマに点在するバチカン市国の管理物件ならびにサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂には顕著な普遍的価値を表現するために必要なすべての要素が含まれている。本遺産は1980年にローマ歴史地区が世界遺産リストに登録され、1990年にウルバヌス8世の城壁まで拡張され、バチカン市国の管理物件や城壁外にあるサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂が加えられた。これにより遺産の完全性が強化された。資産はさまざまな時代の文化が折り重なって多層化し、考古学地域、キリスト教のバジリカ、ルネサンス・バロック美術の傑作など、人類史の中でも最重要といえる芸術的成果を含んでいる。
資産は開発・環境の圧力、歴史的建造物の劣化、自然災害、訪問者と観光圧力、都市中心部の社会的・経済的な構造変化といった脅威にさらされており、バンダリズム(芸術・文化の破壊行為)やテロのリスクに直面している。現状、これらは管理者によって対処されている。
ローマは何世紀にもわたって絶えず変化してきた歴史的な都市であり、多面的で特有のイメージを有している。19世紀以降、その記念碑的・考古学的な遺産を保護するために慎重かつ徹底した政策が実施され、コロッセオやティトゥス凱旋門の修復などでテストされた方法が学術的議論を通して原則と法律に昇華され、懸命な修復活動を促した。ローマの保全活動は個々のモニュメントから都市の歴史的構造全体に徐々に移行し、都市部の保護規定が制定され、広大な歴史地区の完全性の維持が可能になった。
ローマにはヴェネツィア憲章(建設当時の形状・デザイン・工法・素材の尊重等、建造物や遺跡の保存・修復の方針を示した憲章)の起草に重要な役割を果たし、保全の方法論と道具類を確立した国際研究センター・国立中央修復研究所(現・国立保存修復高等研究所)がある。古くから文明の中心地であるこの都市は巡礼者や観光客の主要な目的地であるだけでなく、豊かな文化的・社会的・経済的生活があり、今日においてもきわめて活発な会議や交流の拠点となっている。ローマはすべての活動を通してそのすぐれた文化遺産を保存し、真正性を効果的に保護することを優先事項と考えている。