サン・ジミニャーノはトスカーナ州シエナ県のコムーネ(基礎自治体)で、標高324mの丘の尾根に位置している。城壁内に展開する中世の街並みから14基の塔が突き出しており、周囲一帯を広く見渡していることから "San Gimignano delle belle Torri"「美しき塔の町サン・ジミニャーノ」と讃えられている。
サン・ジミニャーノはフィレンツェの南56kmに位置し、ローマ時代にフィレンツェを守るために深い森を切り拓いて丘に2基の城が建設された。450年にはモデナの司教である聖ジミニャーノにちなんでサン・ジミニャーノと命名された。998年頃に市壁を巡らせた城郭都市となり、フィレンツェとローマを結ぶフランチジェーナ街道の要衝になると、ローマ・バチカンを訪れる巡礼者の中継地として繁栄した。町は1199年にコムーネとして独立している。
11~13世紀かけて貴族や商人たちは富と権力を競うように三角形のチステルナ広場と大聖堂に隣接したドゥオモ広場の周辺に高い塔を備えたタワー・ハウスを建設する。中世イタリアでは城壁の内側の限られたスペースを活かすためにこうした塔建築が発達したが、サン・ジミニャーノでは権力闘争が激化して要塞のように堅固に築かれるようになり、高いもので70mに達する塔が推定72基も建てられた。
1255年、対立があまりに激しくなったことから議会は商人をはじめとする民間人が高い塔を建てることを禁じ、52mのロニョーサ塔よりも低くすることを要請した。たとえば近隣のサルブッチ塔はロニョーサ塔より高かったため低く改修されている。現在、もっとも高い塔はドゥオモ広場に隣接するポポロ宮殿(現・市庁舎兼市立美術館)のグロッサ塔で高さ54mを誇る。
14世紀半ばになるとペストと飢饉の影響で人口が激減。1351年に町は独立を解消してフィレンツェ共和国(1569年以降はトスカーナ大公国)の下に入った。その後もシエナに対するフィレンツェの防衛拠点となっていたが、1555年にシエナがフィレンツェに降伏し、フランチジェーナ街道も利用されなくなると急速に衰退した。ただ、こうした衰退のため戦争で破壊されたり大規模な再開発は行われず、中世の街並みがよく保存されることとなった。
世界遺産の資産としては、13世紀以降に整備された全長約2.2kmの城壁の内側に展開する歴史地区が地域で登録されている。城壁には5基の門があり、1262年に完成した最大の門である南門のサン・ジョヴァンニ門を筆頭に、時計回りにクエルチェッキオ門、サン・マッテオ門、サン・ヤコポ門、フォルティ門がある。また、西の城壁に設置されたモンテスタッフォリ要塞の跡地はロッカ公園となっており、要塞の遺構が残されている。
塔について、現存しているのは14基で、コッレジャータ鐘楼(大聖堂鐘楼)、アルディンゲッリ塔、ベッチ塔、カンパテッリ塔、チギ塔、クニャネージ塔、ディアヴォロ塔、フィチェレッリ塔、グロッサ塔、パラッツォ・ペッラリ塔(ペッラリ宮殿塔)、ペショリーニ塔、ペッティーニ塔、ロニョーサ塔、サルブッチ塔となっている。
もっとも高い塔が高さ54mを誇るグロッサ塔だ。もともと1288年に築かれたポポロ宮殿(新ポデスタ宮殿)の塔で、1300~11年に建設された。正方形の土台の上に立つ石造塔で、壁は約2mの厚さを持ち、218段の階段を有している。ポポロ宮殿は古くからの市庁舎(パラッツォ・コムナーレ)で、フレスコ画や彫刻で装飾されたホールや会議場、市長室などが残されている。現在は市庁舎兼市立博物館となっている。
グロッサ塔に次ぐのが高さ52mのロニョーサ塔だ。旧ポデスタ宮殿の塔で、1200年頃に建てられた。頂部には鐘が取り付けられており、鐘楼としても機能していた。旧ポデスタ宮殿は12世紀はじめの創建で、1239年に再建されており、ポポロ宮殿が築かれる前はこちらが市庁舎だった。1794年には内部にレジェーリ劇場がオープンし、現在もホールとして使用されている。
サルブッチ塔はサルブッチ家(グエルフ家)が13世紀に建設した双塔で、高さ42mを誇る。もともと50m以上の高さがあったが、高さ規制のためこの高さに改修された。同じように高さを減じた双塔がアルディンゲッリ家のアルディンゲッリ塔で、もともとは現在の倍ほどもあったと伝えられている。
チギ塔はウセッピ家とチギ家が1280年に建設した塔で、3階までは切石、6階の頂部まではレンガで築かれており、ツートーン・カラーの美しい造形を見せる。形的にユニークなのがコルテージ家が築いた高さ35mのディアヴォロ塔で、多くの塔が正方形の断面を持つのに対し、この塔は長方形となっている。また、頂部により小さな塔を据えた2段階のデザインで、特有の外観を生み出している。
塔以外の代表的な建物として、サン・ジミニャーノ大聖堂が挙げられる。通称はドゥオモ(大聖堂)で、正式名称をコッレジャータ・ディ・サンタ・マリア・アッスンタ聖堂という。10世紀の創建で、ロマネスク様式の身廊部は11世紀半ばに建設され、アプス(後陣)やゴシック様式の影響を受けたファサードは12~13世紀の改修と見られる。シエナ派を中心とする芸術作品で名高く、身廊やアプスはリッポ・メンミやバルトロ・ディ・フレディらのフレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)で覆われており、他にも画家ベノッツォ・ゴッツォーリやドメニコ・ギルランダイオ、タッデーオ・ディ・バルトーロらの壁画や天井画、彫刻家ヤコポ・デッラ・クエルチャの彫刻といった著名な作品が散りばめられている。隣接のコッレジャータ鐘楼はもともと貴族のタワー・ハウスの一部だったが、13世紀に鐘楼として改修された。
サンタゴスティーノ教会は1298年頃に建設されたレンガ造のロマネスクおよびゴシック様式のバシリカ式(ローマ時代の集会所に起源を持つ長方形の様式)・単廊式(廊下を持たない身廊のみの様式)の教会堂で、大聖堂と同様にゴッツォーリや セバスティアーノ・マイナルディらのフレスコ画や絵画で彩られている。こうした作品はサン・ジョヴァンニ礼拝堂(ロッジア・デル・バティステロ)やサン・ピエトロ教会、サンタ・フィナ病院(現・考古学博物館)などでも見ることができる。
一帯には時代的にロマネスク様式の重厚な教会堂が多く、サン・バルトロ教会やサン・フランチェスコ教会、サン・ジローラモ教会などその例は多い。そんな中でルネサンス・バロック様式の教会堂が1601年に築かれたマドンナ・デイ・ルミ教会だ。
サンタ・キアラ修道院は1500年頃に創設された女子修道院で、現在はミラノ生まれでサン・ジミニャーノに移り住んだ画家ラファエレ・デ・グラーダの作品を収める近現代美術館などに使用されている。
サン・ジミニャーノ歴史地区には14世紀と15世紀のイタリア芸術の傑作が当時そのままの建築環境の中に収められている。一例が大聖堂や洗礼堂に描かれたタッデーオ・ディ・バルトーロによる『最後の審判』や『天国と地獄』、ベノッツォ・ゴッツォーリによる『聖セバスチャンの受難』、ドメニコ・ギルランダイオによる聖フィナの連作や『受胎告知』といった壮大なフレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)だ。
サン・ジミニャーノでは広場や通り・家・宮殿・井戸・噴水をはじめ都市生活に必要なすべての構造が狭い範囲にまとまっており、中世の文明に関する並外れた証拠となっている。特にポポロ宮殿のポデスタの間に描かれたメモ・ディ・フィリプッチョのフレスコ画は14世紀初頭の日常生活を描き出したもので、当時の文化を知る貴重な資料となっている。
フィレンツェではポデスタ宮殿やシニョーリア宮殿のように町を支配する貴族による公的な宮殿に隣接して高い塔が築かれ、国家が個人よりも優位にあることが示された。1250年以降、こうした塔は高さを減らし、築かれなくなっていった。一方、998年に城郭都市が形成されたサン・ジミニャーノではライバルとの権力闘争に備えて築かれた14基の塔がいまなお誇らしげにそびえ立っており、封建的なトスカーナの都市景観を維持している。こうした塔はその質にかかわらずフィレンツェ、シエナ、ボローニャでは見られなくなったもので、歴史上の重要な時代を示している。
資産は同心円状に築かれたふたつの城壁の内部で、10世紀後半に内側、13世紀に外側の城壁が築かれた。塔やタワー・ハウス、石とテラコッタ装飾で覆われた宮殿、ローマ時代後期の教会堂、街路をはじめとする都市レイアウトなど、城壁内部に展開する中世の都市には顕著な普遍的価値を構成するすべての要素が含まれている。さらに、通りや広場に沿って設置された果樹園が中世の特有の都市レイアウトを物語っている。過去60年間の開発による社会的変化にもかかわらず歴史地区はいまだに伝統を保持しており、町のユニークなスカイライン(山々や木々などの自然や建造物が空に描く輪郭線)を楽しむことができる。
ただ、資産は観光客の増加の影響や、建物の使用目的の変化に伴う開発圧力に対して脆弱であり、サン・ドメニコの刑務所および修道院跡の再開発や、地震や地滑りといったリスクが懸念される。
丘の上に立つサン・ジミニャーノの土地や高い塔は古くから周辺地域の景観を決定付けており、現在も同様である。建造物への人的介入は文化遺産や建築・歴史・芸術の特徴を尊重して行われており、復元に関する規定が厳格に実施されているため真正性は高いレベルで維持されている。歴史的建造物について変更や代替品の使用は厳しく禁止されており、伝統的な素材と工法のみが使用されている。これにより歴史地区の中世のレイアウトは空間・容量・装飾といった点で手付かずのまま維持されている。ただ、時間の経過とともに歴史的建造物の使用目的が変わりつつあり、一部は現在、観光目的で使用されている。