「サクリ・モンティ」は「サクロ・モンテ」の複数形で、サクロは「聖なる」、モンテは「山」で「聖なる山々」を意味する。エルサレムに代わる巡礼地として15~18世紀に整備された聖域群で、スイス国境に近いイタリア北部、ピエモンテ州とロンバルディア州の9件のサクロ・モンテを構成資産としている。
1453年にイスラム教を奉じるオスマン帝国によってビザンツ帝国が滅亡し、イスラム教勢力はヨーロッパにまで版図を広げ、ベツレヘム(世界遺産)やエルサレム(世界遺産)といった聖地への巡礼はほとんど不可能になった。また、宗教改革が進んでローマ・カトリックとプロテスタントの対立が深刻化し、ローマ・カトリックは1545~63年のトリエント公会議で教会の引き締めを図り、イエスの奇跡を伝えるために巡礼地の充実を図った。こうして対イスラム教、対プロテスタントの拠点として整備された聖地がイタリア北部のヴァラッロ、イタリア中部のモンタイオーネ、ポルトガル北部のブラガ(世界遺産)だ。
1481年、フランシスコ会の修道士ベルナルディーノ・カイミは地形的によく似たヴァラッロの岸壁のセジアの谷にエルサレムを模した “Nuova Gerusalemme”(ヌオーヴァ・ジェルザレンム/新エルサレム)の建設を開始する。イエスが処刑されて復活・昇天したエルサレムのみならず、誕生したベツレヘムや育ったナザレの要所が礼拝堂で示され、画家ガウデンツィオ・フェッラーリらのフレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)や彫刻によって物語が描き出された。45の礼拝堂が伝わっているが、礼拝堂の名称やテーマは「原罪」「受胎告知」「最後の晩餐」「磔刑」「イエスの死」「聖墳墓(イエスの埋葬地)」等とイエスと聖書の物語に準じたものとなっており、巡礼者はこうした礼拝堂を順番に回ることでイエスの生涯を追体験する。1614~1713年頃にはプロテスタントに対抗するために聖母崇敬を強調するサンタ・マリア・アッスンタ聖堂が第45礼拝堂として建設され、ローマ・カトリックの教義が強調された(プロテスタントでは聖母マリアの崇拝は忌避される)。バロック様式のバシリカ式(ローマ時代の集会所に起源を持つ長方形の様式)教会堂で、特にアプス(後陣)は彫刻やスタッコ(化粧漆喰)、フレスコ画といったバロック装飾で覆われている。
16世紀以降、このヴァラッロのサクロ・モンテをモデルに他のサクロ・モンテの建設がはじまった。
クレア(現・セッラルンガ・ディ・クレア)にあるサンタ・マリア・アッスンタのサクロ・モンテはその名の通り聖母マリアに捧げられた聖域だ。「サンタ・マリア・アッスンタ」は「聖母マリア被昇天」の意味で、神であるイエスは自力で天に昇ったのに対し、人である聖母マリアは神の力で昇天したため被昇天といわれる。ローマ以前にはケルトの女神信仰の地で、4世紀に教会堂が築かれて聖母マリア信仰に置き換わり、中世には巡礼地となった。1589年にサクロ・モンテの造営がはじまり、40前後の礼拝堂と多数の住居が建てられた。現在残っているのは16~19世紀に建設された23の礼拝堂と5軒の庵だ。礼拝堂はヴァラッロと同様、イエスに関係したものが多いが、「聖母誕生」「聖母被昇天」「聖母戴冠」など聖母マリア関連のものも少なくない。礼拝堂のひとつであるサンタ・マリア聖堂は1735年にファサード(正面)がバロック様式に改築された。内部はクレアのマエストロと呼ばれる匿名画家やグリエルモ・カッチャのフレスコ画、ヤンとニコラスのウェスピン兄弟の彫刻などで美しく装飾されている。
オルタ(現・オルタ・サン・ジュリオ)にあるサン・フランチェスコのサクロ・モンテはフランシスコ会を開いたアッシジの聖フランチェスコに捧げられた聖域だ。建設は1590~1630年、17世紀後半、18世紀の3段階で行われ、初期はマニエリスム様式、中期はバロック様式、後期はバロック様式を中心により自由に築かれている。21の礼拝堂と庭園が現存するが、「聖フランチェスコの誕生」「聖フランチェスコのアッシジ帰還」「聖フランチェスコの墓の奇跡」などと聖フランチェスコに関係したものとなっている。聖ニコラス=聖フランチェスコ教会は1600年頃に建設されたバシリカ式の教会堂で、聖フランチェスコに関する数多くの絵画や彫刻を収めている。
ヴァレーゼにあるロザリオのサクロ・モンテの「ロザリオ」は、アヴェ・マリアを唱えてイエスの生涯を瞑想する祈り、あるいはその際に使用する数珠状の用具を示す。オロナ山は古くからの聖域で、4世紀にはすでに礼拝堂が築かれていたと見られる。11世紀にはロマネスク様式の礼拝堂が建設されて巡礼地となり、15世紀には修道院が築かれるなど聖域として整備された。1604年に建築家ジュゼッペ・ベルナスコーネの設計でサクロ・モンテの建設がはじまり、1698年までに15の礼拝堂を備えた現在の形が完成した。15はロザリオの祈りでいうイエスの生涯の15の大きな出来事を示し、巡礼が祈りに直結している。
オロパにあるベアータ・ヴェルジネのサクロ・モンテの「ベアータ・ヴェルジネ」は「祝福の処女」で聖母マリアを示す。この地のムクローネ山はケルト人の時代からの聖域で、ローマ時代の神殿を経て4世紀には礼拝堂が建設された。その4世紀にヴェルチェッリの聖エウセビウスがエルサレム(世界遺産)から聖ルカが彫った黒の聖母マリア像を持ち込み、この地を聖母マリアの聖域として整備したという。以降は巡礼地として繁栄し、15世紀以降はサヴォイア家の庇護下に入って拡張された。1617年にサヴォイア公カルロ・エマヌエーレ1世の支援を受けて建築家・彫刻家ジョヴァンニ・デンリコらを召集し、18世紀まで聖域の西の丘にサクロ・モンテの建設がはじまった。27の礼拝堂が現存するが、このうち12の礼拝堂が聖母マリアの生涯を描いている。聖域の中心的な教会堂がアンティカ聖堂(ラ・バシリカ・アンティカ/旧バシリカ)だ。1620年に完成したバロック様式のバシリカ式・三廊式の教会堂で、バロック装飾で覆われた黒い主祭壇には至宝・黒の聖母マリア像が収められている。スペリオーレ聖堂(ラ・バシリカ・スペリオーレ/新バシリカ)は1885年に建設が開始され、ふたつの世界大戦による中断を経て1960年にようやく奉献された。バロック様式の教会堂でナルテックス(拝廊)-八角形の身廊-円形のアプスというユニークな平面プランを持ち、頂部まで高さ80mを超える巨大なドームを冠している。
オッスッチョにあるベアータ・ヴェルジネ・デル・ソッコルソのサクロ・モンテは「救済の祝福の処女のサクロ・モンテ」を意味し、やはり聖母マリアの聖山を示している。コモ湖の西岸、標高400mの山の斜面に位置し、ローマ時代には神殿やヴィッラ(別邸・別荘)、オリーブ畑が築かれていた。1537年にはロザリオの祈りを象徴する礼拝堂が建設され、1635~1710年にヴァレーゼのサクロ・モンテを模してロザリオに捧げる14の礼拝堂がバロック様式で建設された。
ギッファのサクロ・モンテは別名を「サンタ・トリニータ(聖三位一体)のサクロ・モンテ」といい、父なる神、子なるイエス、および聖霊が同一であることを示している。マッジョーレ湖西岸の標高360mの斜面に位置し、4世紀にはすでにキリスト教の礼拝堂が築かれていた。16世紀末~17世紀半ばに聖三位一体に捧げるサクロ・モンテの整備が進められ、3棟の礼拝堂が建設された。1646~49年に大幅に拡張され、バロック様式の6礼拝堂が立ち並ぶ現在の形となった。主な礼拝堂は預言者アブラハム、洗礼者ヨハネ、聖母戴冠に捧げられた3堂で、陶器の彫刻でさまざまなシーンを描き出している。また、一帯はサクロ・モンテ・ディ・ギッファ自然公園と呼ばれる特別自然保護区に指定されており、美しい自然景観を望むことができる。
ドモドッソラのサクロ・モンテは「サクロ・モンテ・カルヴァリオ」とも呼ばれ、「カルヴァリオ」は頭蓋骨を意味し、イエスが処刑されたゴルゴダの丘を示している。1656年にカプチン・フランシスコ修道会のふたりの修道士がサクロ・モンテの開発を決め、15の礼拝堂を建設した。15礼拝堂はイエスが処刑を言い渡されてから十字架を背負って歩いたというエルサレムのヴィア・ドロローサ(ヴィア・クルキス/苦難の道行/十字架の道行)に対応しており、14の出来事を示す14留と、復活を示す第15留を示している。各礼拝堂は彫刻やフレスコ画でヴィア・ドロローサを表現しているが、特にディオニージ・ブッソラの彫刻は名高い。
カナヴェーゼのヴァルペルガにあるベルモンテのサクロ・モンテの場所には11~17世紀までベネディクト会の修道院があった。フランシスコ会のミケランジェロ・ダモンティリオは聖地エルサレムで何年も過ごした経験を活かし、聖地を模したサクロ・モンテの建設を決意。地元の人々の支援を受けながら18世紀に建設を開始し、聖書の物語を表す13の礼拝堂を完成させた。これらの礼拝堂もやはりヴィア・ドロローサをテーマとしており、処刑を宣告される第1留から処刑されて十字架から下ろされマリアに抱かれる第13留までが等身大の彫像や絵画で表現されている。
建築・芸術と自然が調和した見事な景観はキリスト教の教えや神秘性を伝えるもので、イタリア北部のこのサクリ・モンティで卓越した表現を達成し、ヨーロッパ全域に多大な影響を与えた。
イタリア北部のサクリ・モンティは建築・芸術と景観の見事な統一を示しており、ローマ・カトリックの歴史の重要な時代を表現している。
構成資産は礼拝堂をはじめとする建物に加えて自然の地形や景観を含んでおり、顕著な普遍的価値を表現するために必要なすべての要素を含んでいる。サクリ・モンティの重要な特徴のひとつである近隣コミュニティとの密接な関係も維持されている。資産の多くは自然保護区に指定され、広大なバッファー・ゾーンも設定されており、遺産への脅威は確認されていない。
自然の中にたたずむ礼拝堂の本来の象徴的なレイアウトは形状・デザイン・配置といった点で真正性を保持しており、変更されていない。9件の構成資産はすべて本来の創建目的であるキリスト教の巡礼・祈り・内省の地として保護されており、そうした伝統と機能的真正性は維持されている。
17~18世紀にいくつかの建造物群や個々の建物に修正が加えられたが、礼拝堂は素材や工法の面で完全性をほぼ維持している。1980年にはじまったこれらモニュメントの体系的な保全作業は現代の保全・修復理論の基準に完全に適合しており、特にインテリアや絵画・彫刻の修復には細心の注意が払われた。