イタリア半島の付け根にあたるエミリア・ロマーニャ州の古都モデナの中央広場であるピアッツァ・グランデ(グランデ広場/大広場)と、ロマネスクおよびゴシック様式の傑作として名高いモデナ大聖堂と鐘楼トッレ・チヴィカ(市民の塔/ギルランディーナ)を中心とした世界遺産。
時は中世、イエスが誕生して1ミレニアム(千年紀)を迎えた11世紀、民族大移動が終わったヨーロッパは落ち着きを取り戻し、新たなミレニアムを迎えるにあたって神に感謝を込めて大聖堂と中央広場を建て替える動きが広がっていた。大聖堂はローマ時代の偉大な建築を復活させたローマ風(ロマネスク)のバシリカ(もともとローマ時代の長方形の集会所を示すが、ローマ時代末期にキリスト教の教会堂として使用されるようになり、長方形の教会堂の意味を持つようになった)が好まれた。
モデナのピアッツァ・グランデは、4世紀にローマ皇帝ヨウィアヌスの娘を助け、フン帝国のアッティラを追い払った奇跡で知られるモデナ司教・聖ジミニャーノの墓を収める聖地となっていた。11世紀、モデナは教皇派(ゲルフ)と皇帝派(ギベリン)の間で揺れ動き、特に教皇の任命を受けた司教が徴税権を持つなど大きな力を持っていた。11世紀後半、市民は司教が破門されて不在の間にモデナ大聖堂の建設を決定し、1099年に着工する。ピアッツァ・グランデは市民の自由と独立心の表現でもあったのである。
大聖堂の設計はイタリアの建築家ランフランコで、ローマ時代の名建築家ウィトルウィウスの影響を受けてローマの三廊式(身廊とふたつの側廊からなる様式)のバシリカを模して設計を行い、主要部分にはローマ遺跡から持ち込まれた大理石やトラヴァーチン(石灰質の岩石の一種)が再利用された。ファサード(正面)や外壁の中程には柱とアーチを並べたイタリア特有のロッジア(柱廊装飾)が見られ、単なるローマ復興スタイルではなく特有の展開を見せている。身廊はコリント式の柱が並ぶ重厚な空間で、東のアプス(後陣。半球形に突き出した部分)の至聖所に主祭壇が置かれ、聖ジミニャーノの遺体を収めた棺はクリプト(地下聖堂)に収められた。また、装飾には彫刻家ヴィリジェルモが起用され、ファサードの創世記の物語や柱の十二使徒像など数多くの彫刻やレリーフが刻まれた。ランフランコはまたトッレ・チヴィカの設計も行い、ロマネスク様式の角楼の建設を開始した。
大聖堂とトッレ・チヴィカは12~13世紀にかけてマエストリ・カンピオネージと呼ばれるカンピオーネ・ディターリア地方の石工の職人集団による改修を受け、ゴシック様式が持ち込まれた。ファサードに巨大なバラ窓が設けられ、天井は石造のヴォールト天井となった。トッレ・チヴィカにはゴシック様式・八角形のスパイア(ゴシック様式の尖塔)を増設し、内部をフレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)や彫刻で装飾した。
1135年にモデナの自治は終了し、司教が復帰。1249年にはフォッサルタの戦いで皇帝派のモデナが教皇派のボローニャに敗れて司教の力が増し、1288年にはフェッラーラ(世界遺産)のエステ家の支配下に入った。1598年にエステ家はモデナに拠点を移してフェッラーラ公国はモデナ=レッジョ公国となるが、以降の時代にもピアッツァ・グランデが変わることはほとんどなかった。
世界遺産の資産はピアッツァ・グランデと隣接するピアッツァ・デッラ・トッレ(トッレ広場/塔広場)の周辺で、建物としてはモデナ大聖堂、トッレ・チヴィカを中心に、北の司祭館(現・大聖堂博物館)、東のムニチパーレ宮殿(現・モデナ市庁舎)、南のジュスティツァ宮殿(旧裁判所)、西の旧大司教宮殿といくつかの建造物が含まれている。
モデナ大聖堂は正式名称をメトロポリターナ・ディ・サンタ・マリア・アッスンタ・イン・シエロ・エ・サン・ジミニャーノ大聖堂という。もともとは4世紀に生きたモデナの守護聖人・聖ジミニャーノの遺骨を収め祀るために築かれた礼拝堂がベースで、1099年にランフランコの設計で現在の教会堂の建設が開始され、おおよそ1106年に完成した。12世紀後半にはマエストリ・カンピオネージと呼ばれる石工の職人集団が召集され、ゴシック様式が加えられた。1184年に正式に奉献され、外観について現在見られる全長66.9m・幅24.7mの教会堂が完成した。バシリカ式・三廊式のロマネスク建築で、ファサードは大理石パネル製、中央下部のポータル(玄関)にライオン像が2体据えられており、中段にはいくつかのレリーフとロッジアが見られで、上段に巨大なバラ窓のステンドグラスを掲げている。ロマネスク美術の傑作とされるファサードのレリーフはヴィリジェルモの作品で、アダムの創造や楽園追放、カインとアベル、ノアの方舟(はこぶね)など『旧約聖書』の創世記の物語を描き出している。ポータルの柱の預言者像もヴィリジェルモの作品で、工房の弟子たちがプリンシピ門やペスケリア門などさまざまな場所にレリーフを残している。内部はレンガ造で、尖頭アーチ(先の尖ったアーチ)や交差リブ・ヴォールト(枠=リブが付いた×形のヴォールト)がゴシックらしさを表現している。マエストリ・カンピオネージは内装にも関与し、講壇のレリーフは彫刻家アンセルモ・ダ・カンピオーネの作品となっている。クリプトは11世紀はじめに完成して以来のもので、聖ジミニャーノの遺骨を収めた骨壺は水晶の箱の中に保管されている。また、15世紀に彫刻家グイド・マッツォーニが制作したイエス降誕の彫刻が収められている。
隣接の大聖堂博物館はかつて司祭館だった建物で、19~20世紀に行われた大聖堂の修復中に発見された物品を収めるために博物館として整備された。その後、大聖堂の史資料のいくつかを収めるようになり、文書や写本類、聖ジミニャーノの祭壇、ヴィリジェルモ工房作品のオリジナル、フランドル製のタペストリーといった作品が収蔵されている。
トッレ・チヴィカは「市民の塔」を意味し、花冠状の装飾(ギルランダ)が見られることから「ギルランディーナ」とも呼ばれている。こちらもランフランコの設計で、1179年までにロマネスク様式で5階まで建設された。1319年にマエストリ・カンピオネージがスパイアを増設し、塔の高さは86.12mに達した。内部にはセッキアの間の15世紀のフレスコ画やマエストリ・カンピオネージの彫刻、19世紀のアレッサンドロ・カヴァッツァの彫刻など、見事な装飾で飾られている。
ムニチパーレ宮殿、現・モデナ市庁舎(パラッツォ・コムナーレ・ディ・モデナ)はピアッツァ・グランデに面した部分のみが世界遺産の資産となっている。もともと11世紀に建てられたロマネスク様式の建物で、時計塔は15世紀に増設されたが、1671年の地震で大きな被害を受けて再建されている。16~18世紀に多くの建物が増築されて複合的な建物となっている。1階のアーケード(屋根付きの柱廊)が特徴的で、フオコの間(火の間)のニコロ・デッラバーテのフレスコ画が名高い。正面に置かれた「プレーダ・リンガドーラ」と呼ばれる大理石は集会所や死刑場として使用されていた。
旧大司教宮殿はかつてのモデナ大司教の邸宅で、レンガ造のタウンハウス(2~4階建ての集合住宅)となっており、現在は店舗が入っている。こちらもさまざまな建物が連なっており、一部は古文書館や聖母教会となっている。ジュスティツァ宮殿は旧裁判所で、やはり広場に面した部分のみが資産となっている。1階のアーケードが特徴的だ。
建築家ランフランコと彫刻家ヴィリジェルモのコラボレーションは建築と装飾が融合した総合芸術の嚆矢であり、人類の創造的な才能を示すロマネスク様式の傑作である。
12~13世紀にかけて新しい建築様式を生み出し、ポー渓谷におけるロマネスク様式の発展に大きく貢献した。特にヴィリジェルモの革新的な作品群はイタリア中世後期の彫刻に決定的な影響を与えた。ヨーロッパ全体で見ても際立っており、モデナ大聖堂の彫刻群はローマ時代以来となる彫刻文化の復活をもたらした文化的背景を理解する鍵となっている。この点で同等にきわめて重要であるといえるのはフランスのトゥールーズやモワサックのような記念碑的建造物群のみである。
ピアッツァ・グランデを中心とした建造物群は12世紀の北イタリア都市社会の文化的伝統を伝える際立った例であり、その組織・宗教的特徴・信念・価値観が反映されている。
大聖堂・鐘楼・広場で構成された記念碑的な建造物群は宗教的にも政治的にも中世キリスト教都市の中心であり、モデナはその最良の一例である。経済・宗教・政治・社会が複雑に交錯する場所であり、市民の価値観がよく表れている。
モデナの記念碑的な建造物群はその顕著な普遍的価値を構成する歴史的・社会的・芸術的特徴をいまなお保持している。これらは建物の効率性と有用性を維持し、基本的な空間や容量を保ち、本来の特性と機能を変えることなく何世紀にもわたって引き継がれてきた。ピアッツァ・グランデ周辺の教会とも伝統的な関係を保ち、その結果、比較的無傷で伝えられている。軽微な変更としては屋根の8つのメトープ(梁に取り付けられた浮彫石板)のコピーへの交換があり、オリジナルは博物館に展示されている。
資産に対する脅威としては、ポー川の東西に延びる断層による地震リスクが挙げられる。1996年の地震に伴って建造物群の修復が行われた結果、エミリア地区で発生した2012年5月の地震では重大な損傷を免れ、大聖堂にわずかな亀裂が走るに留まった。これ以外の脅威としては環境汚染、大聖堂前のトロリーバス路線の影響、ピアッツァ・グランデで開催される不適切な文化・商業活動などがある。
資産はそのデザイン・形状・素材・機能に関して紛れもなく本物である。大聖堂ではこれまでに数多くの改修が行われてきたが、本来の用途を保持しており、保存に関する記録はその真正性を裏付けている。修復と保全の観点からモデナ大聖堂は模範的な例であり、1世紀にわたるその取り組みはイタリアの文化財保護の歴史において重要な時代を証言している。たとえば第2次世界大戦の爆撃による被害に対して戦後すぐに控え目な修復が行われた。1950年代のクリプトの復元ではもともとのロマネスク様式を回復するために後の時代のルネサンス様式の要素が取り去られたが。このアプローチはその後のプロジェクトで中止された。石垣の劣化に対処するための1970年代後半から1980年代初頭にかけての修復は広範な研究と調査に基づいて行われた。