レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ会修道院

Church and Dominican Convent of Santa Maria delle Grazie with “The Last Supper” by Leonardo da Vinci

  • イタリア
  • 登録年:1980年
  • 登録基準:文化遺産(i)(ii)
  • 資産面積:1.5ha
世界遺産「レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ会修道院」、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会
世界遺産「レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ会修道院」、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 (C) Giovanni Dall'Orto
世界遺産「レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ会修道院」、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会、身廊からアプスの眺め
世界遺産「レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ会修道院」、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会、身廊からアプスの眺め (C) Ștefan Jurcă
世界遺産「レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ会修道院」、修道院食堂
世界遺産「レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ会修道院」、修道院食堂。『最後の晩餐』はイエスと使徒の部分だけでなく、上のアーチ部分もレオナルドが描いている
世界遺産「レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ会修道院」、『最後の晩餐』
世界遺産「レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ会修道院」、『最後の晩餐』。人物は、左からバルトロマイ、小ヤコブ、アンデレ、ペテロ、ユダ、ヨハネ、イエス、トマス、大ヤコブ、ピリポ、マタイ、タダイ、シモン
世界遺産「レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ会修道院」、ジョヴァンニ・ドナート・モントルファノ『イエスの磔刑図』1497年、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会
世界遺産「レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ会修道院」、ジョヴァンニ・ドナート・モントルファノ『イエスの磔刑図』1497年、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会

■世界遺産概要

イタリア北部ロンバルディア州の州都ミラノに位置するサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドミニコ会の修道院を中心とした建造物群を登録した世界遺産で、教会堂と修道院の他にブラマンテ聖具室や修道院食堂などを含む。修道院食堂の壁に描かれたレオナルド・ダ・ヴィンチ作『最後の晩餐』は世界でもっとも有名な壁画のひとつとされる。なお、「ドメニコ会」は日本では一般的に英語読みの「ドミニコ会」と呼ばれているため、世界遺産名以外はドミニコ会で統一している。

○資産の歴史

15世紀のルネサンス期、ミラノのスフォルツァ家はフィレンツェのメディチ家やフェッラーラのエステ家などと競うように芸術や科学を奨励し、芸術家を庇護していた。ドミニコ会の修道院とサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の改修の依頼を受けると、1463年、建築家ジョヴァンニ・ソラーリの設計でゴシック様式で建設が開始された。15世紀の終わりになるとより荘厳で目新しい教会堂に改修するためにドナト・ブラマンテに増築を依頼。これによりルネサンス様式の巨大なドームや半円形のアプス(後陣)、食堂や聖具室などが追加された。

さらにスフォルツァ家は1495年、付属する修道院食堂の壁画をレオナルドに依頼する。レオナルドは芸術家ヴェロッキオが主催するフィレンツェの工房で学んでいたが、彼の絵があまりにすばらしかったためヴェロッキオは筆を折ったといわれるほどの腕を誇っていた。

『最後の晩餐』はイエスが処刑される前夜、過越(すぎこし)の祭りの食事を摂る様子を描いたものだ。イエスはパンを持って言う。「これは私の身体である」。さらにブドウ酒を取ってこう告げる。「これは私の血であり、私の血で立てられる新しい契約の証である」。これによりエジプトのシナイ山(世界遺産)で神と預言者モーゼの間で結ばれた契約=旧約は刷新され、新たな契約=新約が結ばれた。旧約と新約をつなぐ非常に重要な物語である。続けてイエスは語る。「あなた方のうち、ひとりが私を裏切るだろう」。イエスの口が閉じきっていないように、『最後の晩餐』はイエスが語り終えた瞬間の様子を描いたもので、この言葉を受けて驚愕する十二使徒の生々しい姿が描き出されている。

『最後の晩餐』は構図的にも技法的にもそれまでの絵画とはまったく異なるものだった。中世の絵画や彫刻は抑揚のないのっぺりとしたものが多く、構図も適当で『旧約聖書』や『新約聖書』の出来事を淡々と伝えるものにすぎなかった。しかし、レオナルドはきわめてリアルな描写で十二使徒をダイナミックに表現し、それでいながら中央のイエスが静かに全体を統制して圧倒的な存在感を見せつけるというドラマティックな演出を施した。

『最後の晩餐』はこのように鑑賞者に衝撃を与えるきわめてリアルで感覚的・感情的な作品だが、レオナルド自身は感情的に絵を描いたわけではなく、自然を徹底的に観察・研究してつかみ取った科学的技法の組み合わせによって実現した。たとえば四隅から糸を伸ばして対角線の中央の消失点に釘を打ち込み、ここにイエスを配置した(一点透視図法)。この糸によって全体は4つの三角形に分割され、イエスも正三角形の中に描くなど、安定した三角形の組み合わせで構図を完成させた(三角構図)。また、近くの物を大きく・ハッキリ・鮮やかに描き、遠くの物を小さく・ぼかして・淡く(空気遠近法)、青みがからせることで(色彩遠近法)遠近感を際立たせた。加えて色の濃淡を強調して立体感を浮き出させ(キアロスクーロ)、物の輪郭線を描かずグラデーションによって周囲の空間となじませることで(スフマート)、自然で立体的な外観を獲得した。

また、『最後の晩餐』は壁画で広く用いられていたフレスコではなく、テンペラで描かれている。フレスコは生乾きの漆喰に顔料で描く技法だが、顔料が漆喰に浸透するため汚れや傷に強い半面、短時間で仕上げなければならず、色も淡くなる欠点を持つ。一方、テンペラは色を出す顔料に接着剤となるバインダーを混ぜた塗料で描く技法で、重ね塗りできて発色もよい代わりに、壁に塗料を塗り付けるだけなのでカビやすく剥落しやすい欠点があった。レオナルドは作品性を重視して後者を採用し、これが中世の壁画では類を見ない鮮やかな質感をもたらした。

壁画は1495~97年に制作されたが、完成直後からカビが発生し、10~20年後には剥落がはじまった。このため16~19世紀の間に何度もの修復を受けなければならなかった。しかも、17世紀には食堂に扉を設置するためにイエスの足の部分が取り壊され、19世紀には大洪水が襲って水没し、またミラノに入ったナポレオンが馬小屋として使用したため汚れが広がった。さらに第2次世界大戦中の1943年には食堂の屋根が空爆され、3年間再建されず野ざらしとなった。このような状態で壁画が残っているのは奇跡に近かった。

イタリア政府は壁画を修復し、レオナルドが描いた当時の絵を復活させるため、1977~99年まで20年以上にわたって修復作業を行った。塗料を原子レベルまで分析して時代と素材を特定し、レオナルドのオリジナルを除く後世の加筆部分が丁寧に除去された。これが現在の『最後の晩餐』の姿だ。

○資産の内容

世界遺産の資産はサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドミニコ会の修道院、およびその関連の施設で構成されている。

サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会は1497年竣工で、バシリカ式(ローマ時代の集会所に起源を持つ長方形の様式)・三廊式(身廊とふたつの側廊を持つ様式)の教会堂で、バラ窓やコリント式の柱、尖頭アーチ、交差リブ・ヴォールトなどが見られる身廊はゴシック様式、半円アーチが並ぶドーム部分はルネサンス様式で築かれている。身廊はソラーリ、ドームと周辺のトリビューン(高所に設けられた列柱窓や階上廊。ギャラリー)はブラマンテの設計だ。外壁は赤レンガで覆われているが内部は石造で、重要部分には大理石が使用されている。身廊の左右には片側7堂ずつ礼拝堂が配されており、それぞれ見事なフレスコ画やレリーフ、彫刻などで飾られている。

カエルのクロイスター(小クロイスター。クロイスターは中庭を取り囲む回廊)は教会堂の北東に位置するルネサンス様式の回廊で、正方形の中庭の噴水にカエルのブロンズ像が見られることから名付けられた。

カエルのクロイスターの北に位置するブラマンテ聖具室(旧聖具室)はその名の通りブラマンテ設計と伝わるが、その確証はない。長方形のホールの内部はアーチが整然と並び、絵画やフレスコ装飾で覆われたルネサンスらしい空間で、周囲には聖具を収めるための木造キャビネットが並んでいる。

教会堂の北は僧院で、ふたつの中庭を中心としたコートハウス(中庭を持つ建物)となっている。中庭の周囲は回廊が巡っており、教会堂の北に隣接する回廊は死者のクロイスター、さらに北の回廊は大クロイスターと呼ばれている。僧院の施設の中でもソラーリが設計した図書室は名高い。

死者のクロイスターの西に隣接するのが修道院食堂だ。『最後の晩餐』のほか、対面には最後の晩餐の翌日、十字架刑に処せられるイエスの姿を描いたジョヴァンニ・ドナート・モントルファノの『イエスの磔刑図』が見られる。

■構成資産

○レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ会修道院

■顕著な普遍的価値

○登録基準(i)=人類の創造的傑作

『最後の晩餐』は時代を超越した独創的な芸術作品であり、疑いなく顕著な普遍的価値を有している。

○登録基準(ii)=重要な文化交流の跡

『最後の晩餐』はひとつの図像的なテーマを発明しただけでなく、絵画全般に多大な影響を与えた。ハイデンライヒはスペースと人体に関する「超次元」について記している。この作品は正確さにこだわり、瞬間に焦点を当てた最初の古典絵画のひとつでもある。また、『最後の晩餐』はもっとも模写・複製された絵画であり、1495~97年にかけての創造は美術史に新しい段階を刻んだ。

■完全性

資産にはその独創的な価値を示すすべての要素、特に教会・修道院・『最後の晩餐』によって構成されるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエの宗教コンプレックスを含んでいる。第2次世界大戦中の損傷にもかかわらず、このコンプレックスはもともとの建築構造と『最後の晩餐』を含む内観の両方を維持している。これらはドミニコ会によって継続的に使用されており、資産の機能的完全性の保護に貢献している。ただ、レオナルドの作品はテンペラ技法など技術的な面で保存に相当の問題を抱えている。一例として環境上の問題と観光客によるオーバーユースの問題が挙げられるが、後者についてはアクセス制限によって制御されている。

■真正性

資産は1943年の連合軍による爆撃でひどく損傷したが、『最後の晩餐』は奇跡的に爆撃を免れ、損壊箇所も完全に修復された。『最後の晩餐』はレオナルドの実験的技術を駆使したものであり、それらを要因とする長年にわたる保全問題に悩まされてきた。18世紀から現在に至る修復の記録はそうした継続的な懸念の証といえる。

1990年代末に完了した修復作業は特に重要なもので、後世に加筆された劣化塗料の層を注意深く処理すると作品の本来の色が回復した。1990年代以降は統一された保全戦略に基づいてクロイスターなど教会と修道院の建物の継続的な修復が進められている。現在も定期的な修復作業が進行中で、不動産の価値をさらに高める新たな発見がもたらされている。

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