中世から近代にかけてヨーロッパ全域に威を振るったハプスブルク帝国の帝都ウィーン。代々の神聖ローマ皇帝やオーストリア皇帝が築いたゴシック様式やルネサンス様式、バロック様式、新古典主義様式(ギリシア・ローマのスタイルを復興したグリーク・リバイバル様式やローマン・リバイバル様式)、歴史主義様式(ゴシック様式やルネサンス様式、バロック様式といった中世以降のスタイルを復興した様式)、ユーゲントシュティール(ドイツ版アール・ヌーヴォー)、モダニズム等の華麗な建造物群で彩られ、モーツァルトやクリムト、エルラッハなど数多くの芸術家や建築家が活躍した芸術の都でもある。なお、歴史地区のローマ遺跡の一部は世界遺産「ローマ帝国の国境線-ドナウ・リメス[西セグメント](オーストリア/スロバキア/ドイツ共通)」の構成資産となっている。
旧石器時代からウィーンには定住の跡があり、鉄器時代にはケルト人のハルシュタット文化(紀元前800〜前400年)が伝わった。紀元前15年頃にローマ帝国が占領し、ドナウ川西岸にカストルム(軍事拠点)としてウィンドボナの要塞を建設すると、やがて植民都市として発展した。ローマのフォルム(公共広場)は現在のホーアー・マルクト(マルクト広場)に置かれ、おおよその都市レイアウトは現在に引き継がれている。ローマ人は488年までこの地に留まった。
中世、1155年にバーベンベルク家のハインリヒ2世がオーストリア辺境伯領の首都をウィーンへ遷都。翌年には公爵位を得てオーストリア公国に昇格した。ハインリヒ2世が建設したオーストリア最古の修道院がショッテン修道院で、ショッテン教会はその修道院教会にあたる(17世紀にバロック様式で改修)。1221年に都市特権を獲得すると商業が活発化し、ドイツではケルンに次ぐ大都市に成長した。
バーベンベルク家が断絶するとボヘミア王オタカル2世がオーストリアを奪取し、これに反発したハプスブルク家のルドルフ1世と戦争に突入した(1278年、マルヒフェルトの戦い)。当時、ハプスブルク家はスイスの小領主にすぎなかったが、1273年に神聖ローマ皇帝に選出され、勢力拡大を図っていた。そしてハンガリーとともにオタカル2世を討つと公爵位を継いでオーストリア公国を手に入れ、拠点をスイスからオーストリアに移した。オタカル2世が建設し、ルドルフ1世が増改築した宮殿がホーフブルクだ。ホーフブルクは帝国が解体される1918年までハプスブルク家の居城としてありつづけた
14~15世紀に貿易が活発化し、繁栄は続いた。1440年以降はハプスブルク家が神聖ローマ皇帝位を世襲化し、1457年にルドルフ4世が大公となってオーストリア大公国に昇格した。13~15世紀にゴシック様式の数多くの建物が建てられた。ウィーンのランドマークであるシュテファン大聖堂はその最高傑作で、全長107mの身廊の周辺に4基の塔を持ち、南塔の高さは136.4mに及ぶ。その高さは際立っており、建設当時世界でもっとも高い教会堂だった。ゴシック建築には他にマリア・アム・ゲシュターデ教会、聖ミヒャエル教会、ミノリテン教会などがある。
中世末、ヨーロッパは1453年にビザンツ帝国(東ローマ帝国)を滅ぼしたオスマン帝国の圧力を受けていた。スレイマン1世率いるオスマン帝国軍はハンガリーの大部分を占領すると、1529年にウィーンを襲撃(第1次ウィーン包囲)。中世以来の城壁リニエン・ヴァル内への侵入は防いだが、ハンガリーの多くは奪われたままとなった。しかし、1683年の第2次ウィーン包囲でオスマン帝国を打ち破ると、ハンガリーを取り戻して支配下に収めた。
近世、オスマン帝国の脅威が去るとウィーンの人口は増大し、リニエン・ヴァルの外にまで街が広がり、17世紀に人口は10万人を超えた。神聖ローマ皇帝カール6世や、その娘でオーストリア大公・ハンガリー王・ボヘミア王であるマリア・テレジアとその夫である皇帝フランツ1世の下でバロック様式の数多くの建物が建設された。オーストリア・バロックとロココの最高傑作が17~18世紀にかけてウィーン郊外に築かれたシェーンブルン宮殿(世界遺産)だ。また、18世紀はじめにはハプスブルク家に仕えたプリンツ・オイゲンがリニエン・ヴァルの外にベルヴェデーレ宮殿を建設し、1752年にマリア・テレジアに売却された。この時代にホーフブルクも大幅に改装されており、ミヒャエル宮殿や国立図書館・冬季乗馬学校などが築かれている。シェーンブルン宮殿とホーフブルクはヨハン・ベルンハルト・フィッシャー・フォン・エルラッハやニコラウス・フォン・パカッシ、ベルヴェデーレ宮殿はヨハン・ルーカス・フォン・ヒルデブラントと当代随一の建築家が設計を担当した。また、ハイドンやモーツァルト、ベートーベン、ヨハン・シュトラウス、シューベルトらが活躍し、音楽の都としても花開いた。
近代に入り、ナポレオン戦争(1803~15年)を経て神聖ローマ帝国は消滅し、オーストリア帝国に移行する。19世紀半ば、工業化に伴う人口集中に対応するため皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は郊外の34地域を市域に組み込み、ウィーン改造を行った。1857年に城壁リニエン・ヴァルが撤去され、リングシュトラーセと呼ばれる環状道路に改修された。城壁の撤去はハプスブルク家による支配の弱体化や民主化・多民族共生を意味した。これによりオーストリアの栄光は陰りを見せるが、ウィーンは新古典主義様式や歴史主義様式の庁舎や大学・博物館・美術館・劇場といった建造物群で彩られ、芸術・建築方面で最後の輝きを見せた。
1867年には同家がまとめていたいわゆるハプスブルク帝国をオーストリア帝国とハンガリー王国に明確に分割し、同じ王を頂く同君連合としながらもマジャール人によるハンガリーの自治を認めた(オーストリア=ハンガリー帝国の成立)。この時代に宮殿建設は下火となり、ブルジョワジー(有産市民階級)が主導して公共施設や複合施設の建設が進められた。代表的な建物がゴシック・リバイバル様式のウィーン・ラートハウスやネオ・ルネサンス様式のウィーン国立歌劇場、ネオ・バロック様式のブルク劇場で、他にもホーフブルクの新宮殿(ノイエ宮殿)やオーストリア国会議事堂など多くの建物が建てられた。これらはゴシックやルネサンスなど過去の様式を復古した歴史主義様式で、外装から内装まで一貫してデザインを行う総合芸術ゲサムトクンストヴェルクの思想を体現した。
19~20世紀初頭にはガラスや鉄骨・鉄筋コンクリートが開発され、近代建築のムーブメントが起こる。アール・ヌーヴォーの流れを受けたユーゲントシュティールの郵便貯金局、セセッション様式のセセッション館、モダニズム建築のロースハウスなどが一例で、特にアドルフ・ロースの設計で1912年に完成したロースハウスはモダニズム建築の先駆けとなった。
世界遺産の資産はリングシュトラーセ周辺とその内側、ベルヴェデーレ宮殿の周辺で、ひとつの地域として登録されている。郊外のシェーンブルン宮殿については別に「シェーンブルン宮殿と庭園群」として世界遺産リストに登録されている。
代表的な宮殿建築として、まずホーフブルクが挙げられる。"Hofburg" の "Hof" は宮廷や宮殿・中庭を、"burg" は城や城塞を意味し、全体として王宮や王城を示す。13世紀はじめ、バーベンベルク家の時代からの宮殿で、ハプスブルク家のルドルフ1世が拠点として整備した。以来、16世紀のフェルディナント1世を筆頭に時代時代の建設・増改築を受けて数十の建造物が集まる宮殿コンプレックスが形成された。現存最古のウイング(翼廊/翼棟/袖廊。複数の棟が一体化した建造物群の中でひとつの棟をなす建物)がスイス翼で、特に古い王室礼拝堂は15世紀にゴシック様式で築かれている。スイス翼は方形のコートハウス(中庭を持つ建物)で、16世紀にフェルディナント1世がルネサンス様式で改築した。ハプスブルク家の代々当主の肖像画を収めた先祖の間やスイス門は有名だ。シュタール宮殿はマクシミリアン2世が16世紀半ばに築いたルネサンス様式の宮殿で、中庭の3層ロッジア(柱廊装飾)が名高い。後に皇室の厩舎となり、現在はスペイン乗馬学校が入っていて、北東部は冬季乗馬学校となっている。アマーリア宮殿は16世紀にルドルフ2世の住居として建設された宮殿で、18世紀にヨーゼフ1世の皇妃アマーリア・ヴィルヘルミーネが改修して住居とした。レオポルト宮殿はレオポルト1世が17世紀後半にバロック建築家フィリベルト・ルッケーゼを起用して建設した宮殿で、18世紀にマリア・テレジアが改装したヨセフ礼拝堂などで知られる。ミカエル宮殿はヨハン・ベルンハルト・フィッシャー・フォン・エルラッハの息子ヨゼフ・エマニュエル・フィッシャー・フォン・エルラッハ の設計で1726年に建設された宮殿で、弧を描くファサード(正面)はホーフブルクのひとつの顔となっている。ポータル(玄関)を飾る4体のヘラクレス像やコンポジット式(イオニア式とコリント式の特徴を備えた様式)の二本柱、頂部の彫像群とドームが荘厳な空間を演出している。18世紀後半にニコラウス・フォン・パカッシが改修し、ミカエル広場をウィーン随一の広場に仕上げた。帝国宰相官邸は神聖ローマ帝国の行政庁舎で、フィッシャー・フォン・エルラッハ親子によって設計された。オーストリア・バロックの傑作で、特にファサードのロレンツォ・マティエッリの彫像は名高い。ミカエル宮殿よりも大きな弧を描いているのが新宮殿あるいはノイエ宮殿だ。ウィーン改造において城壁や城門が撤去されたスペースを利用して建てられた宮殿で、フランツ・ヨーゼフ1世によって築かれたハプスブルク家によるウィーン最後の宮殿建築だ。ファサードは天使や聖母像、コリント式の二本柱などで飾られ、頂部にはハプスブルク家を示す双頭のワシの像が掲げられている。これら以外に、ヨハン・ベルンハルト・フィッシャー・フォン・エルラッハ設計の王室図書館や、14世紀創設のアウグスチノ修道院・アウグスチノ教会に隣接したアウグスチノ宮殿、数々のホールや劇場を内蔵したレドーテンザール翼、19世紀にルイ・モントワイエによって設計された儀式棟であるゼレモニエンザール翼、20世紀に建設された巨大なボールルームを含むフェスツァール翼、マリア・テレジアの娘と結婚したテシェン公アルベルト・カジミールが建設したアルベルティーナなどがある。
ベルヴェデーレ宮殿は1710~20年代にサヴォイ家のプリンツ・オイゲンがヨハン・ルーカス・フォン・ヒルデブラントに依頼して建設したバロック宮殿で、1752年にマリア・テレジアが買い取って居城として整備した。おおよそ北から下宮、庭園、上宮が直線上に並んでおり、下宮の大半はオランジェリー(オレンジなどの果樹を栽培するための温室)と厩舎で、中央の大理石の間で客を迎える形となっていた。中央の宮殿庭園はフランス・パリ郊外のヴェルサイユ庭園(世界遺産)をデザインしたアンドレ・ル・ノートルの弟子ドミニク・ジラールの設計で、フランス式庭園(フランス・バロック庭園)となっている。庭園は下宮と上宮の高低差23mを接続しており、数々の噴水や花壇が見られ、特に中央のカスケード噴水はカスケード(階段池)を中心にギリシア神話の海神トリトンをはじめ、ヘラクレスやアポロンといった神々や精霊ニンフらの彫像で装飾されている。上宮は居住スペースで、4隅にドームを持つ長方形のタウンハウス(2~4階建ての集合住宅)となっている。壮大なバロック宮殿だが、特に大理石の間のカルロ・インノチェント・カルローネの天井フレスコ画や、宮殿礼拝堂のフランチェスコ・ソリメーナの祭壇画は名高い。
隣接するシュヴァルツェンベルク宮殿はサヴォイ家とライバル関係にあったシュヴァルツェンベルク家の宮殿で、ヒルデブラントの設計でフィッシャー・フォン・エルラッハ親子が仕上げて18世紀はじめに完成した。中央に楕円形のドームを持つバロック様式の宮殿で、ドームにはダニエル・グランのフレスコ画を頂いている。庭園はイタリア式やフランス式の庭園をベースに、数多くの木々を配したより自然なものとなっている。
ウィーンには貴族によって建てられた数多くの宮殿があり、主にバロック様式で築かれた。一例が17世紀に建設されたディートリッヒシュタイン家のロブコヴィッツ宮殿やエステルハージ家のエステルハージ宮殿、18世紀ブラッシカン家からウィルチェク家に移ったブラッシカン=ウィルチェク宮殿だ。
代表的な宗教建築として、まずシュテファン大聖堂が挙げられる。オーストリア辺境伯レオポルト4世が1137~47年頃に創建したと伝わる教区教会で、1230~45年頃にロマネスク様式で拡張された。現在見られる双塔を持つ西ファサードの意匠はおおよそこの時代のものだ。15世紀にルドルフ4世がゴシック様式で改装して南塔を建設し、16世紀に北塔が完成して現在見られる外観がほぼ完成した。ウィーンは1469年に司教区となって教区教会は大聖堂となっている。また、内装については17世紀に多くがバロック様式で改装された。1880年にケルン大聖堂(世界遺産)が完成するまでドイツ・ゴシックを代表する教会堂で、第2次世界大戦では撤退するドイツ軍にシュテファン大聖堂の爆破命令が出されたが、現場の兵士が無視したため破壊を免れた。ラテン十字形・三廊式(身廊とふたつの側廊からなる様式)で全長107m・幅70mを誇る巨大な教会堂で、ファサードに2基、南と北に2基、計4基の塔を有する。ファサードはロマネスク様式をベースに中央のランセット窓やバラ窓、高さ65mの鐘楼頂部のスパイア(ゴシック様式の尖塔)やピナクル(同小尖塔)などゴシック様式を組み合わせており、高さ68.3mの北塔はゴシック様式をベースにルネサンス様式のドームを冠してやはり折衷となっている。大聖堂の象徴といえるゴシック様式の南塔は高さ136.4mと完成当初は世界最高を誇り、四角形の塔身から八角形のスパイアが突き出すロケットのような意匠となっている。屋根には約23万枚の瓦が葺かれており、ジグザグ文様の他に神聖ローマ帝国やオーストリア帝国、ハプスブルク家の紋章である双頭のワシや、オーストリア共和国やウィーン市の紋章である単頭のワシが描かれている。内部には数十の礼拝堂と祭壇があり、バロック様式を中心にあらゆる芸術様式の絵画や彫刻・スタッコ(化粧漆喰)・レリーフ・ステンドグラス・フレスコ画などで装飾されている。特に名高いのは主祭壇で、ヨハン・ジェイコブ、トビアスのポック兄弟による祭壇画や彫刻、ステンドグラスが神々しさを演出している。また、カタコンベと呼ばれる地下墓地にはフリードリヒ3世やルドルフ4世をはじめ代々のオーストリア公の棺が収められている。
ルプレヒト教会は740年の創建と伝わるウィーンの現存最古の教会堂で、シュテファン大聖堂が建設されるまで教区教会を務めた。ロマネスク様式のバシリカ(ローマ時代の集会所に起源を持つ長方形の建物)をベースに14~15世紀にゴシック様式で改修され、ゴシック様式の側廊を加えて二廊式の変則的な教会堂となった。
ペーター教会はウィーンでもっとも長い歴史を誇る教会堂で、創建は4世紀までさかのぼり、ローマ帝国のバシリカがそのまま教会堂に転用された。現在の建物は神聖ローマ皇帝レオポルト1世が主導して1700年頃に改築がはじまったもので、ヨハン・ルーカス・フォン・ヒルデブラントが設計・建設に参加した。曲線や曲面を多様したオーストリア・バロックらしい意匠で、湾曲したファサードや身廊上部の巨大な長球(楕円を回転させた形)ドーム、大きく飛び出したアプス(後陣)などに特徴が表れている。特に楕円形の身廊はユニークで、ドームはイタリアのバロック絵画と彫刻の巨匠アンドレア・ポッツォのフレスコ画で彩られており、アプスのフレスコ画や絵画・レリーフ・彫刻などとともに重厚なバロック空間を演出している。
イエズス会教会はフェルディナント2世の支援を受けてイエズス会創設者イグナチオ・デ・ロヨラとフランシスコ・ザビエルが主導して建設した教会堂で、1623~31年にバロック様式で築かれた。バシリカ式・三廊式の教会堂で、ペーター教会のように外観に曲面やドームは見られないが、内部は楕円アーチやねじり柱、ピンクの大理石柱と金色の柱頭装飾などバロックらしい装飾で覆われている。特に身廊頂部のトロンプ・ルイユ(騙し絵)を駆使して立体感を出したアンドレア・ポッツォの天井フレスコ画は非常に名高い。
ショッテン教会は1155年のウィーン遷都を受けてベネディクト会のショッテン修道院教会として建設がはじまった教会堂で、1276年に焼失して14世紀はじめにゴシック様式で再建された。17世紀に落雷で塔が崩壊したためバロック様式で再建され、内装もバロック様式に改められた。19世紀には新古典主義様式や歴史主義様式による改修を受けている。ラテン十字形・単廊式の教会堂で、ファサードや内装などバロック様式の美しい装飾で知られる。修道院についても18世紀にバロック様式の建物が加えられ、19世紀にはヨゼフ・コルンホイゼルの設計で再建された。
カールス教会はオーストリア・バロックの最高峰のひとつに数えられる教会堂で、ヨハン・ベルンハルト・フィッシャー・フォン・エルラッハの設計で1716~37年に建設された。1713年のペストの大流行に対し、ペストから人々を救って列聖された聖カルロ・ボロメウスに捧げるためにカール6世が建設を命じた教会堂で、以後オーストリア=ハンガリー帝国が滅亡する1918年まで皇帝の庇護を受けた。イスタンブールのアヤソフィア(世界遺産)やローマのパンテオン(世界遺産)が参考にされているとされ、ファサードはギリシア・ローマ神殿を思わせるコリント式のポルティコ(柱廊玄関)を持ち、左右にはローマのトラヤヌス記念柱(世界遺産)を模した2本の柱がそびえている。柱の螺旋状のパネルには彫刻家ロレンツォ・マティエリによるレリーフが刻まれており、聖カルロ・ボロメウスの生涯が描かれている。頂部の長球ドームは楕円形の身廊に架かっているもので、内部はヨハン・ミヒャエル・ロットマイヤーやガエターノ・ファンティのフレスコ画で覆われている。身廊は白と金を基調とした空間で、限定された色彩が壮麗さを演出しており、主祭壇や周辺の6基の祭壇はいずれも見事なフレスコ画や絵画・彫刻・レリーフ・スタッコといったバロック装飾で飾られている。
他にも重要な教会堂は数多く、13世紀の創建でオーストリア最初期のゴシック様式を伝えるミノリーテン教会や、14世紀の創建でウィーンのバロック画家ダニエル・グランの見事な天井フレスコ画で知られるアン教会、19世紀の建築家テオフィル・ハンセンによるビザンツ・リバイバル様式のユニークなたたずまいを見せる聖三位一体ギリシア正教会、テロに狙われたフランツ・ヨーゼフ1世が無事を感謝して建設した建築家ハインリヒ・フォン・フェルステルによるゴシック・リバイバル様式のヴォティーフ教会などが挙げられる。
代表的な公共建築として、まずブルク劇場が挙げられる。ヨーロッパで2番目に古くドイツ語圏最大とされる劇場で、マリア・テレジアがホーフブルクに隣接して1741年にオープンさせた。1888年にリングシュトラーセに移転し、劇場建築家ゴットフリート・ゼンパーとその弟子カール・フォン・ハゼナウアーによって現在見られるネオ・バロック様式の劇場がオープンした。多彩なバロック装飾で飾られた荘厳な劇場で、特に階段ホールはグスタフ・クリムト、弟のエルンスト、弟子のフランツ・マッチュによる天井フレスコ画を中心に彫刻・スタッコ細工・大理石柱などで飾られた華やかな空間が広がっている。モーツァルト『フィガロの結婚』『コジ・ファン・トゥッテ』、ベートーヴェン『交響曲第1番』の初演会場としても知られる。
ウィーン国立歌劇場は世界でもっとも重要なオペラ座のひとつで、建築家アウグスト・ジカルト・フォン・シカルズブルクの設計、エドゥアルト・ファン・デル・ヌルの内装で、ヨセフ・フラフカが1861~69年にネオ・ルネサンス様式で建設した。ウィーン国立歌劇場管弦楽団やウィーン国立バレエ団の本拠地で、毎年2月に行われる舞踏会ヴィーナー・オーパンバルなどで知られる。5,150人を収容するホールにブルク劇場のような豪奢な装飾は見られないが、ルネサンスらしいシンプルで機能的な意匠となっている。
これ以外の代表的な劇場には、1801年に劇作家で劇場支配人でもあるエマヌエル・シカネーダーが建築家フランツ・イェーガーの設計でオープンさせたアン・デア・ウィーン劇場や、1812年の設立でウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の本拠地として知られるウィーン楽友協会、市民のための劇場として1889年に創設されたフォルクス劇場などがある。
リングシュトラーセの西から南にかけての一帯がフランツ・ヨーゼフ1世のウィーン改造の中心を担うエリアで、新古典主義様式や歴史主義様式の数々の公共施設が建設された。ラートハウス庭園の西に位置するウィーン・ラートハウスはウィーン市の市庁舎で、フリードリヒ・フォン・シュミットの設計で1872~83年にゴシック・リバイバル様式で建設された。尖頭アーチやスパイア、ピナクルが立ち並ぶゴシックらしい建物で、中央のスパイアは高さ98mを誇る。正方形に近い長方形の平面プランで、7つの壮大な中庭を持ち、内部も尖頭アーチや交差ヴォールトなどゴシックの構造で魅せている。ラートハウス庭園の南を占めるオーストリア国会議事堂は建築家テオフィル・ハンセンの設計で1874~83年にグリーク・リバイバル様式で建てられた。特に東ファサードは壮大で、コンポジット式のポルティコやギリシア彫刻で飾られたペディメント(三角破風)と屋根、前庭のパラス・アテナの泉の女神アテナやニケを中心とした神像群など、ギリシア世界を再現している。他のファサードにもカリアティード(女性像柱)やポルティコなど多彩な演出が施されている。ウィーン大学は1365年創設とドイツ語圏最古を誇る大学で、ラートハウス庭園の北に位置する大学本館は1877~84年にハインリヒ・フォン・フェルステルの設計でネオ・ルネサンス様式で建設された。ラートハウス庭園の東にはネオ・バロック様式のブルク劇場がたたずんでおり、さらに大学の北にはゴシック・リバイバル様式のヴォティーフ教会、国会議事堂の南にはネオ・ルネサンス様式の自然史博物館と美術史美術館が対で立っており、さらに南のアルベルティーナ、ウィーン国立歌劇場、ウィーン楽友協会、カールス教会などとともにリングシュトラーセのハイライトを構成している。
ウィーンには近現代の建築作品も数多い。新古典主義様式や歴史主義様式の仰々しくて従来的なデザインに対し、ウィーンでは19世紀末から20世紀初頭にかけてフランスのアール・ヌーヴォーの影響を受けたユーゲントシュティール(青春様式)が流行した。自然や動植物の曲線を取り入れた装飾的なデザインで、資産内にはオットー・ワーグナーの郵便貯金局やカールスプラッツ駅旧駅舎などがある。
セセッション館は新しい芸術や建築の在り方を模索したウィーン分離派=セセッションの拠点であり展示施設で、建築家ヨゼフ・マリア・オルブリッヒによって1897~98年に建設された。建築においてセセッション様式は直線的で幾何学的な構造を持つシンプルで機能的かつ美しいデザインを志向した。これに対し、従来の芸術家の集まりであるウィーン美術家同盟の拠点となっていたのがネオ・ルネサンス様式のキュンストラーハウスだ。
ウィーン分離派の方向性をさらに煮詰めたのがアドルフ・ロースの設計で1912年に完成したロースハウスだ。最初期の鉄筋コンクリート建築で、モダニズムの先駆けとなった。完成当初は装飾を廃したミニマルな姿が受け入れられず「眉のない家」と非難され、フランツ・ヨーゼフ1世はロースハウスが見えるホーフブルクの窓を板張りにしたと伝えられる。機能美を追求したシンプルで機能的なデザインながら、ツートンなど現代の目から見れば装飾は十分にあり、大理石など素材にもこだわった造りとなっている。
世界遺産委員会はウィーンの高層建築プロジェクトについて重ねて懸念を表明してきたが、2017年に危機遺産リストへの搭載が決定した。主因はアイススケート・クラブやホテルを含むウィーン中央駅の高層建築プロジェクトで、特にベルヴェデーレ宮殿からのスカイラインを大きく毀損し、資産の顕著な普遍的価値に影響を与えると考えられたためである。ウィーン市は2015年の勧告に従って高さを75mから66.3mに引き下げるなど修正案を示し、音楽の都としての価値を高めるなどと主張したが、受け入れられなかった。
また、カールスプラッツ地区では2棟のビルの拡張計画があり、バロック建築の傑作として名高いカールス教会などの景観に影響を与える可能性が指摘されている。屋根に関する調査研究については評価されたものの、影響評価が終了するまで計画を停止するよう要請した。
ウィーン歴史地区のきわめて高品質な都市レイアウトや建築は2,000年にわたる価値観の継続的な変遷を示すきわめて重要な証拠である。
ヨーロッパの文化的・政治的発展の3つの重要な段階、中世・バロック・グリュンダーツァイト(産業革命後、19世紀後半~20世紀はじめの発展期)の時代の際立った建造物が多く、ウィーン歴史地区の都市・建築はその特徴を見事に体現している。
16世紀以降、ウィーンはヨーロッパにおける「音楽の都」として広く認知されてきた。
ウィーン歴史地区の資産は都市と建築に関して顕著な普遍的価値を構成するすべての要素を含んでおり、中世・バロック・グリュンダーツァイトの時代を余す所なく表現し、オーストリアと中央ヨーロッパの歴史を象徴している。資産は法的保護を受けており、バッファー・ゾーンも適切に設定されている。
資産は位置・構造・デザイン・素材などに関して基本的に本物である。資産は都市の建築や構造・空間の多様で多層な融合を特徴としており、中世・バロック・グリュンダーツァイトの3つの重要な時代の継続的な価値の変遷を実証する建築を高いレベルで保持している。
ウィーン歴史地区の歴史的な都市構造はこのように継続的な変化を反映しており、それは都市の景観を時間とともに発展・成長させ、バッファー・ゾーンの外にまで延びるスカイライン(山々や木々などの自然や建造物が空に描く輪郭線)に示されている。ウィーンの継続的な開発には、特に新しい高層建築に関し、視覚的な影響などについて資産の顕著な普遍的価値を考慮した繊細なアプローチが必要である。