ギリシアの首都アテネの北西約120kmに位置するデルフィ(デルフォイ/デルポイ)は最高神ゼウスが大地の中心として定めた古代ギリシア最大の聖地。人々は太陽神アポロンを祀るアポロン神殿で下される「デルフィの神託」によって重大事の決定を行った。
デルフィの地には古くから人間の居住の跡があり、紀元前1500~前1100年のものと思われるミケーネ人の遺跡が出土している。この地が聖域として整備され、神託(神のお告げ)の地となったのは紀元前8世紀頃と考えられており、紀元前6世紀にはギリシア全土から巡礼者が訪れていた。
ギリシア神話によると、全知全能の神ゼウスは世界の中心を定めるために世界の両端から2羽のワシを放ったという。この2羽が出会ったのがパルナッソス山中、ファイドリアデスと呼ばれる光り輝く断崖に囲まれたデルフィの地で、ゼウスは目印として「世界のヘソ」を示す聖なる石・オンパロスを置いたという。現在、アポロンの神域にオンパロスのレプリカが設置されており、オリジナルはデルフィ考古学博物館に収められている。
また、デルフィの地は古くから大地の女神ガイアが治めるピュトーと呼ばれる土地で、ピュトンと呼ばれる巨大なヘビあるいはドラゴンがこの地を守護していたという。ピュトンはゼウスとレトの子によって殺害されるという予言を受けたことからレトを殺そうと追い掛け回すが、レトがアポロンを出産すると、アポロンは生後4日目にして弓矢でピュトンを退治して遺体をオンパロスの下に埋葬したという。アポロンはピュトンの魂を鎮めるためにピュティア大祭を開催し、また神託所を作ってピュティアあるいはシビュラと呼ばれる巫女を集め、大地から湧き上がるピュトンの霊気を吸わせて神託を与えたという(異説あり)。こうした伝説からデルフィはアポロンの聖地として崇められ、紀元前8~後4世紀頃までアポロンの神託=デルフィの神託を授かる聖地として数多くの巡礼者を集めた。
デルフィの神託は絶対だった。たとえばアケメネス朝ペルシアが襲来したペルシア戦争(紀元前499~前449年)ではどのように戦えばいいのかその方法が尋ねられた。下された神託は「木の壁を造るべし」というもので、「木の壁」は船であると解釈されて多数の軍船が築かれた。ギリシア連合軍はペルシア軍の数十分の1程度にすぎず、アテネ(世界遺産)をはじめ数々のポリスが滅ぼされたが、紀元前480年のサラミス海戦で奇跡的な勝利を収めた。また、ペストの流行に頭を抱えていたエリス王イフィトスはデルフィを訪ねて対処法を聞き出した。神託は「戦を止め、オリンピアで競技会を開催せよ」というもので、これがオリュンピア大祭(古代オリンピック)の発端(再興)となり、期間中はすべての戦を中止するというエケケイリア(聖なる休戦)の理念の誕生につながった。これ以外にも、「王は息子によって殺され、息子は母と交わるだろう」というオイディプスの神話や、ギリシア最高の知者を問うて下された「ソクラテスより賢い者はいない」という神託、アレクサンドロス3世(アレキサンダー大王)が東征前に訪ねた逸話など、デルフィの神託には数多くの伝説が伝わっている。
アポロンを祀るピュティア大祭は紀元前8世紀頃からはじまった祭りで、当初は8年に1度、紀元前6世紀には4年に1度、開催されていた。同じく4年に1度のオリュンピア大祭と重ならないようオリュンピア大祭の2年後に開かれた。当初は音楽の演奏や演劇の上演、詩歌の発表を中心としていたが、紀元前6世紀には戦車競争やレスリングなどの体育競技が追加されて音楽祭&体育祭となった。勝者にはアポロンの象徴であるゲッケイジュの葉で作られた「月桂冠」が与えられたことでも知られる。また、大会期間中は「聖なるデルフィの平和」が宣言され、大祭参加者の安全が保証された。ピュティア大祭は1,000年以上にわたって続けられたが、ローマ皇帝テオドシウス1世によって異教の祭りであるとして中止された。
デルフィの遺跡は神殿コンプレックスと都市遺跡に大別され、神殿コンプレックスには神殿群とピュティア大祭で使用された劇場や競技場などが含まれている。神殿コンプレックスのエントランスに当たるのがアテナ・プロナイアの神域で、巡礼者はまずここを訪れた。中心となるのは円形神殿トロスで、直径約15mの外縁に20本のドーリア式(ドリス式)の柱、内部に10本のコリント式の柱が同心円状に並べられていた。トロスに隣接してアテナ・プロナイア神殿やローマ人の宝庫、マッシリア人の宝庫などが立ち並んでいた。アテナ・プロナイアの神域の北にはカスタリアの泉があり、巫女や巡礼者たちはここで沐浴を行って西のアポロンの神域へ歩を進めた。
アポロンの神域はデルフィの中枢であり、その中心を担うのがアポロン神殿だ。巫女たちがデルフィの神託を人々に授ける場所であり、紀元前8~前7世紀にはゲッケイジュで造られた木造神殿が立っていたという。神殿は少なくとも4回は再建されており、現在見られるドーリア式石造神殿の遺構は紀元前4世紀に築かれたものと考えられている。60×24mの長方形で長辺に15本、短辺に6本の柱が並び、主祭壇にはアポロンの石像が収められていた。残念ながら390年にローマ皇帝テオドシウス1世によって破壊された。
スタディオンは紀元前4世紀に建設された屋外競技場で、178×26mのトラックで主に陸上競技が行われた。観客席は山側にあり、約6,500人を収容した。一方、ヒッポドロームは戦車や馬車競技場だ。屋内競技場・体育館としてギムナシオンがあり、パライストラ(屋内運動施設・体育学校)やプール・更衣室・浴室などを持つ複合施設で、ボクシングやレスリングなどの室内競技が開催された。
古代劇場は紀元前4世紀に築かれたもので、ローマ時代に皇帝ネロらが改修を行った。35列に4,500人を収容し、中央のアリーナで音楽の演奏や演劇の上演が行われた。現在でもコンサートなどが開催されている。
シフノス人の宝庫、テーベ人の宝庫、コリントス人の宝庫といった宝庫はそれぞれのポリスの住人が奉納した宝物庫だ。特にアテネ人の宝庫はマラソンの起源として知られるマラトンの戦いでの勝利を記念して奉納したものだ。一方、サラミス海戦での勝利を記念して贈った施設がアテネ人のストアで、戦利品が所狭しと収められていたという。
デルフィはギリシア・ローマ時代を通じて聖地としてありつづけたが、4世紀にキリスト教が広がると急速に衰退し、392年にキリスト教以外の宗教を禁じたローマ皇帝テオドシウス1世によってピュティア大祭やオリュンピア大祭が禁じられ、神殿の多くが破壊された。
デルフィのレイアウトはきわめて独創的な芸術的成果である。パルナッソス山の山腹に神殿・宝庫・テラス・劇場・競技場などが組み合わさって神殿コンプレックスを形成しており、全体として見事な調和を見せている。当時の物理的・道徳的・宗教的価値を表現する傑作である。
デルフィは古代世界において絶大な影響力を誇っており、ポリスの代表や各国の王、著名人らのさまざまな奉納品によって確認することができる。その影響力はアレクサンドロス3世によるアジア征服によって中央アジアのバクトリアにまで及び、またローマ時代には皇帝ネロやコンスタンティヌス1世による略奪が行われたが、これらもデルフィの芸術的影響力によるものだった。
デルフィの聖域は偉大な寛大さの象徴であり、さまざまな影響力が交差した十字路であり、その統治システムは各地で模倣された。
デルフィは古代ギリシアの宗教と文明に関する稀有な証拠である。太陽神アポロンが大地の女神ガイアの子である大蛇ピュトンを倒した伝説の場所であり、この物語はカオスやガイアといった始原の神々からゼウスを中心としたオリュンポス12神の時代への移行を象徴している。そしてデルフィの神託はギリシアの政治の中心を担い、またピュティア大祭は文化と交流の場であった。アポロン神殿や古代劇場、スタディオンなどはこれらを象徴する建造物である。
デルフィは手付かずで残る壮大な自然環境の中で卓越した建築アンサンブルを見せており、ギリシア時代の最高の聖域である。
古代ギリシアにおいて、アポロン神殿はオンパロスが置かれた世界のヘソ、地球の中心にあたる。デルフィはこのように普遍的な重要性を持つ信仰と直接的かつ具体的に関連している。
資産には顕著な普遍的な価値を伝えるためのすべての主要な要素が含まれている。この地は何世紀にもわたって手付かずのままであり、実施された修復プロジェクトも限定的かつ小規模で、修復はヴェネツィア憲章(建設当時の形状・デザイン・工法・素材の尊重等、建造物や遺跡の保存・修復の方針を示した憲章)に則って行われている。資産内の近現代建築はデルフィ考古学博物館だけで、遺物の保護や資産の価値の理解に大きく貢献している。
一帯はギリシア中央部を走る断層の周辺に位置しており、古代から地震や地滑り、土壌や堆積物の侵食、定期的な山火事などに直面しており、現在も脅威となっている。
資産内のモニュメントは素材・形状・デザインといった点でオリジナルを尊重した軽度の修復しか行われておらず、真正性は保たれている。復元は崩れていたオリジナルの素材を極力利用して本来の場所に戻すことで行われており、不足部分についてはオリジナルと同じ素材を用いて修復されている。
周辺の自然も当時のまま伝えられており、景観についても真正性が維持されている。訪問者はローマ市場からスタディオンに至る「聖なる道」を通ってアポロンの神域に到達するが、その風景は古代から変化しておらず、古代人と同じ感覚を味わうことができる。