デロス島

Delos

  • ギリシア
  • 登録年:1990年
  • 登録基準:文化遺産(ii)(iii)(iv)(vi)
  • 資産面積:350.64ha
世界遺産「デロス島」、ライオンの回廊(ライオン像はレプリカ
世界遺産「デロス島」、ライオンの回廊(ライオン像はレプリカ)(C) Bernard Gagnon
世界遺産「デロス島」、湖の家の波模様のモザイク画
世界遺産「デロス島」、湖の家の波模様のモザイク画 (C) Graham McLellan
世界遺産「デロス島」、テアトルム
世界遺産「デロス島」、テアトルム (C) Bernard Gagnon
世界遺産「デロス島」、イシス神殿
世界遺産「デロス島」、イシス神殿
世界遺産「デロス島」、トラに乗るディオニュソスが描かれたディオニュソスの家のモザイク画
世界遺産「デロス島」、トラに乗るディオニュソスが描かれたディオニュソスの家のモザイク画

■世界遺産概要

エーゲ海中央部、キクラデス諸島のミコノス島とリニア島の間に浮かぶデロス島は太陽の神アポロンと月の女神アルテミスの双子が生まれた場所とされ、「すべての島々の中でもっとも神聖な島」と崇められた。小さな島ながらアポロン神殿を中心に数多くの神殿が立ち並び、1,000年以上にわたって聖地としてありつづけた。また、紀元前2世紀には地中海最大の港湾都市となり、ギリシア・ローマはもちろん西アジアや北アフリカからも多くの商船が訪れた。

○資産の歴史と内容

デロス島は東西1.3km・南北5km、最高峰がキュントス山の高さ112.6mという小さく平坦な島で、紀元前3000年紀から人間の居住の跡があり、紀元前1600~前1200年のミケーネ文明の時代にはすでに聖域として祀られていたようだ。

ギリシア神話によると、女神レトは最高神ゼウスとの間に子を宿す。これに怒ったゼウスの正妻である女神ヘラはあらゆる土地の神々に出産の場所を提供しないように命令する。レトはゼウスの誘いを断ってオルテュギアという岩(浮島)にされてしまった妹のアステリアを訪ね、ヘラに逆らって出産させてもらう代わりに、岩を世界の中心に固定して聖地として奉るという約束を交わす。レトは9日間にわたる陣痛の後、オルテュギアのキュントス山の聖なる湖のシュロの木につかまって最初にアルテミス、続いてアポロンの双子を出産する。アポロンは母の約束を果たしてオルテュギアをエーゲ海の中心に固定し、光輝く(デロス)島と名付けて聖域とした(数多くの異説あり)。紀元前9世紀頃にはデロス島にアポロンの聖域が設置され、アポロン神殿が建設されていたようだ。

紀元前6世紀にアテネ、ナクソス、パロスといったポリスの間でデロス島の領有権が争われ、アテネの僭主(せんしゅ。支配者)であるペイシストラトスが勝利し、聖域を整備して周辺から墓や遺骨を取り去って浄化を進めた。アケメネス朝ペルシアとのペルシア戦争(紀元前499~前449年)で奇跡的な勝利を収めた後、ギリシアの諸ポリスはペルシア軍の再来に備えてアテネを盟主にデロス同盟を結成する。同盟の議会と金庫はデロス島に設置され、この資金を利用してアテネのアクロポリス(世界遺産)の華麗な建造物群が建設された。紀元前426年にはデルフィ(世界遺産)の神託により島全域の浄化が進められ、島での出産や死が禁じられた。さらに紀元前422年には住人の居住が禁止され、アテネによって住民は強制的にアナトリア半島(現在トルコのある半島)のアドラティオに連れ去られた。

アテネが治めた紀元前7~前4世紀が宗教的聖地としてのデロス島の最盛期で、アポロン神殿(アテネ人神殿、デロス人神殿、ポロス石神殿)やアルテミス神殿、レト神殿、ゼウス神殿、アフロディーテ神殿、ヘルメス神殿といった壮大な神殿が立ち並び、周囲をナクソス人が贈ったライオン像が並ぶ回廊が取り囲んでいたという。紀元前426~前316年まで4年に1度のデーリア祭(デロス祭)が開催され、屋外競技場スタディオンや屋内運動施設パライストラ、ローマ劇場テアトルムなどで競技や公演が行われた。こうした祭事や神事は単に宗教行事というだけでなく、アテネの支配権を根拠付けて強化する政治的なイベントでもあった。

アテネを中心とするデロス同盟とスパルタを中心とするペロポネソス同盟が争ったペロポネソス戦争(紀元前431~前404年)でペロポネソス同盟が勝利すると、アテネの勢力は大きく衰えた。紀元前314年にアンティゴノス朝マケドニアの王アンティゴノス2世がデロス島を占領すると、島をアテネの支配から解放した。

紀元前167年、共和政ローマの元老院はデロス人をふたたび島から追放してデロス島を自由港に宣言。エーゲ海はもちろん小アジア(現在トルコのあるアナトリア半島周辺)、黒海、キプロス、フェニキア、エジプト、リビアなど地中海各地から商船が乗り入れて活発に貿易を行った。大商人や貴族・銀行家らは著名な建築家や芸術家を呼び寄せて大邸宅を建て、彫刻やモザイク画(石やガラス・貝殻・磁器・陶器などの小片を貼り合わせて描いた絵や模様)、フレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)で装飾した。ディオニュソスの家やトライデント(三叉槍)の家、仮面の家、イルカの家、クレオパトラの家、湖の家、丘の家といった家々や、イタリア人のアゴラ、デロス人のアゴラ、テオプラストスのアゴラといったアゴラ(公共広場)はこの時代の富豪や地方出身者の組織が築いたものだ。また、各地の神々の神殿や聖域も整備され、エジプトのイシス神殿やセラピス神殿、アヌビス神殿、シリアの神々の聖域、アシュケロン(イスラエルの都市)の神々の家、ユダヤ教の礼拝堂シナゴーグなどが築かれた。デロス島はこうして地中海のあらゆる文化が集まる国際貿易港となり、小さな島の人口は3万に膨れ上がり、「世界最大の商業都市」(ローマの作家セクストゥス・ポンペイウス・フェスタス)と評された。

しかし、紀元前88年にローマと敵対していたポントス王ミトラダテス、紀元前69年にポントスの同盟国であるアテノドロスの海賊に侵略されて荒廃。これ以降、デロス島は急速に衰退し、ビザンツ帝国やスラヴ人、イスラム教徒、ヴェネツィア、聖ヨハネ騎士団、オスマン帝国に占領されるもののすぐに放棄され、廃墟からは神殿の柱や石材が持ち出され、無人の採石場と化した。

デロス島の発掘は1872年に開始され、現在も続けられている。失われた遺構や遺物も少なくないが、数多くの宗教遺跡と港湾都市遺跡が発見され、研究が進められている。

■構成資産

○デロス島

■顕著な普遍的価値

○登録基準(ii)=重要な文化交流の跡

デロス島は広大なギリシアの聖域に見られるように、ギリシア・ローマ時代の建築と芸術の発展に多大な影響を与えた遺跡である。発掘調査を通して彫刻など数多くの偉大な遺物が発見され、デロス島の博物館に収められている。デロス島はまた考古学者や旅行者の注目を集めたギリシアの最初の遺跡のひとつであり、古代ギリシアやローマの研究がルネサンスを促したように、古代ギリシアの芸術の理解を深めるきっかけとなり、多方面に影響を与えた。

○登録基準(iii)=文化・文明の稀有な証拠

デロス島は紀元前3000年紀以来のエーゲ海の文明に関して稀有な証拠を提示している。紀元前7世紀~前69年のアテノドロスによる略奪まで、デロス島はギリシア全域の主要な聖地のひとつだった。体操や馬術・音楽・ダンス・演劇などを競ったデーリア祭は4年に1度、5月に開催されていたが、オリンピア(世界遺産)のオリュンピア大祭やデルフィ(世界遺産)のピュティア大祭と並ぶギリシア世界の主要なイベントのひとつだった。また、初期キリスト教の時代にはキクラデスの司教座が置かれていた。

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

デロス島の考古遺跡は紀元前314年に繁栄を開始し、紀元前2~前1世紀に地中海全域にその名を轟かせた国際港湾都市の様子を伝える遺構でもある。港には倉庫や貿易会社があふれ、大規模な住宅地が造成され、銀行家や商人・船主などの団体によって数多くの公共施設が建設された。また、エジプトのセラピス神殿、イシス神殿、アヌビス神殿、シリアのハーダッド神殿、アタルガティス神殿、ユダヤ教のシナゴーグなど、聖域は外国の宗教にも解放され、数々の神殿や聖域が築かれた。

○登録基準(vi)=価値ある出来事や伝統関連の遺産

デロス島はギリシア文明の主要な神話のひとつと直接かつ密接に関係している。ゼウスの子を妊娠し、ヘラの復讐から逃れたレトが、長く苦しい陣痛の末にアポロンとアルテミスを出産したのはこの乾燥した島でのことだった。ホメロスの叙事詩によると、それまで浮いていたデロス島はこれにより海底に固定されたという。生まれたばかりの太陽神アポロンは全身やその衣服から光を放ち、竪琴と弓を持って歩きはじめた。妊娠したレトが9日間の陣痛に苦しんだとされるのがデロス島のキュントス山の車輪形の湖(聖なる湖)であり、紀元前6~前1世紀のあいだ島の地形と神話の物語を結び付けてアポロンの聖域とし、重要なランドマークとなった。

■完全性

デロス島は7世紀から無人島であり、辺鄙な場所にあったことから何世紀にもわたってほぼ手付かずで保存されてきた。現在では島全体が国の考古遺跡に指定され、法的に保護されている。ギリシアの文化教育宗教省はモニュメントの状態を監視し、つねに保護・保全・支援およびプレゼンテーションを行っている。資産は完全性を維持しているのみならず、その保全のための継続的な作業を通じて世界遺産の顕著な普遍的価値の強化・強調に努めている。デロス島のモニュメントに影響を与える懸念材料としては、海の強い北風や年間10万人以上を数える訪問者の存在が挙げられる。

■真正性

遺跡の修復は発掘調査中に発見された状態での保全を目指しており、修復の際の工法や素材は国際的な基準に沿ったもので、互換性があり個別的かつ可逆的である。このため過去130年の修復・保全作業を通して真正性は保持されている。

周辺の景観についても古代遺跡の上に村や町が建設された歴史はなく、変わらず維持されている。島全域が資産となっており、海がバッファー・ゾーンの役割を果たしている。島にある近代的な建物は博物館・食堂・職員のためのいくつかの小さな施設のみであり、考古遺跡として資産の機能を維持するために必要なものである。

■関連サイト

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