エーゲ海東部に浮かぶドデカネス諸島のパトモス島はイエスの十二使徒のひとりである聖ヨハネが神から啓示を受けて洞窟で『新約聖書』の「ヨハネの黙示録」と「ヨハネによる福音書」を著したことで知られる。11世紀後半に洞窟の近くにホシオス・クリストドゥロスによって正教会の修道院が創設され、周辺にはコーラと呼ばれる修道院城下町が形成された。
聖ヨハネは神学者聖ヨハネ/使徒ヨハネ/ゼベダイの子ヨハネ/福音記者ヨハネなどと呼ばれる人物で、ガリラヤ湖畔で兄ヤコブとともにイエスの最初の弟子となった。エルサレム(世界遺産)でイエスが十字架に架けられて処刑された際、生神女マリア(ローマ・カトリックの聖母マリア)とともに十字架の下にいた「愛する弟子(イエスの愛しておられた弟子)」が聖ヨハネであるといわれている。ヨハネはマリアとともにトルコのエフェソス(世界遺産)で生活を送っていたが、95年頃にローマ皇帝ドミティアヌスのユダヤ教・キリスト教弾圧によってパトモス島に幽閉され、洞窟の中で黙示録と福音書を口述したという。黙示録はこの世の終わりについて記した一種の預言書で、神と悪魔の最後の戦いが行われた後、すべての人間が神の裁きを受けること(最後の審判)などを記している。ヨハネによる福音書はマタイ、マルコ、ルカによる福音書に並ぶ4福音書のひとつで、洗礼者ヨハネによるイエスの洗礼からイエスの復活までが描かれている(以上、多くの異説あり)。
黙示録の洞窟があるパトモス島の丘の頂にはもともと女神アルテミスに捧げられたアルテミス神殿があり、キリスト教が普及した後は初期キリスト教の教会堂が立っていた。しかし7世紀にイスラム教徒の襲撃を受けて荒廃し、パトモス島は放棄されて無人島になったようだ。
1088年、ビティニアの修道士ホシオス・クリストドゥロスはビザンツ皇帝アレクシオス1世コムネノスからパトモス島の管理を任され、黙示録の洞窟のある丘の頂に「愛する弟子」に捧げた神学者聖ヨハネ修道院(アギオス・イオアニス・テオロゴス修道院)を創設する。この頃、ビザンツ帝国はエーゲ海の島々や周辺の沿岸に要塞修道院と修道院城下町を築いて入植を進めており、その一環として利用された。同様の例が世界遺産「ダフニ修道院群、オシオス・ルカス修道院群及びヒオス島のネア・モニ修道院群」の修道院群だ。
城壁と塔に守られた修道院の中心は1090年頃に完成した中央聖堂カトリコンだ。主に白とグレーの大理石製で、中期ビザンツの内接十字式(クロス・イン・スクエア式。四角形の内部にギリシア十字形を埋め込んだ様式)のクロス・ドーム・バシリカとなっている。内部のフレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)は17世紀の作品で、クリストドゥロスの墓を収めている。カトリコンに隣接して立っているパナギア礼拝堂は12世紀の建設で、大天使ミカエルやガブリエル、生神女マリアらを描いた12世紀のフレスコ画や、美しい彫刻とクレタ様式の聖画像イコンで彩られた17世紀の木造イコノスタシス(身廊と至聖所を区切る聖障)で知られる。食堂も11世紀に築かれたもので、12~13世紀のフレスコ画が見られる。2階建てのタザファラと呼ばれるアーケードは1698年に建てられたものだ。また、修道院の図書館にはクリストドゥロスが持ち込んだ1,000冊以上の写本と約2,000冊の蔵書が収蔵されており、聖具室にはイエスが張り付けられた十字架の聖遺物やクリストドゥロスの聖遺物、イコン、法衣といった貴重な宝物が収められている。これらのおかげで修道院は何世紀にもわたって地域の神学研究の中心となり、正教会の精神的支柱となった。
修道院から直線距離で600mほど離れた場所にある黙示録の洞窟にも小さな教会・僧院・礼拝堂が築かれた。かつて洞窟の壁は壁画で覆われていたが、現在は12世紀に描かれた口述する聖ヨハネ像などごく一部のみが残されている。
修道院の城壁外には城下町であるコーラが広がっている。1453年にイスラム王朝であるオスマン帝国がビザンツ帝国を滅ぼすと、およそ100の家族が保護を求めて要塞修道院の外に移住し、町をアロティーナと呼んだ。パトモス島は16世紀初頭にオスマン帝国の支配下に入るが修道院はありつづけ、北にあるスカラと呼ばれる港を貿易港として整備すると、海運が伸びてかえって町は発展した。16~17世紀、コーラにもドームを冠した数々の教会堂が築かれた。一例がアギイ・アポストリ聖堂、アギア・レスヴィア聖堂、アギイ・ヴァイレイオス聖堂、アギオス・スピリドン聖堂、アギオス・ディミトリオス聖堂だ。また、この時代に活躍した商人たちの邸宅も残されており、ソフォリスとナタリスの家、パゴスタスの家、ムースーダキスの家、シミランティスの家、シンファントスの家、シュクリニスの家などが知られている。これらは基本的に周辺の採石場で採取された石灰岩や花崗岩で築かれており、ヒノキで陸屋根(平面状の屋根)を張って粘土や海藻・アシ(葦/ヨシ)などを葺いていた。
コーラは1659年にヴェネツィア(世界遺産)の略奪を受けて衰退する。ヴェネツィアの人々はクレティカという新しい町を造って移住したが、町は小さなものだった。18世紀後半から19世紀にかけてパトモス島はふたたびオスマン帝国下の貿易港として発展し、19世紀にはコーラに新古典主義様式の新しい家々が建てられた。カリガス家、テメリス家、コンソリス家、レオシス家などがその典型だ。
1912年にパトモス島はトルコからギリシアの版図に移っている。現在、島の人口は約2,500人で、中心はコーラながら、最大の町は港のあるスカラとなっている。
パトモス島のコーラは12世紀から途切れることなく発展したギリシアでも数少ない集落のひとつである。ビザンツ様式で行われる洗足式(イエスが使徒らの足を洗った伝説を再現する儀式)に見られるように初期キリスト教時代にまでさかのぼる宗教儀式がいまも変わらず行われている世界でもほとんど類を見ない場所である。
パトモス島の神学者聖ヨハネ修道院と黙示録の洞窟、中世の集落であるコーラは卓越した建築を有する正教会の伝統的な巡礼地の際立った例である。
神学者聖ヨハネ修道院と黙示録の洞窟は「愛する弟子」である聖ヨハネがキリスト教のもっとも神聖な作品であるヨハネの黙示録と福音書を著した場所を記念した聖地である。
資産には顕著な普遍的価値を示す要素がすべて含まれており、価値を維持するために必要な十分な広さを備えている。神学者聖ヨハネ修道院、黙示録の洞窟、そしてコーラは当時の形状のままであり、基本的な構造を変えずに維持されている。修道院周辺で発達したコーラには現在も人が居住しているが、開発の範囲が定められており、当局の厳しい管理と規制の下に置かれている。歴史的な環境変化によって町に加えられた変更は時代の変遷を物語っており、訪問者は時代ごとの影響を確認することができる。
資産に対する主要なリスクとしてオーバー・ツーリズムとスカラ港の過剰な開発による影響が挙げられる。また、パトモス島は地震の頻発地帯であり、その影響も懸念される。
修道院の芸術的・知的財産を保護することとは別に、パトモス島で活発な活動を続ける修道会は聖週間の毎週水曜日に行われる、イエスの受難のはじまりを示す劇的で象徴的な出来事を再現したビザンツ様式の洗足式のような古い伝統と儀式を守りつづけている。また、ギリシアを代表する神学校のひとつである1713年創立のパトミアーダ学校の活動は真正性の維持に大きく貢献している。
重要部分の構造・素材・デザインの特徴、組織パターンはよく維持されており、資産の様式や類型モデルは本物で信頼できる。集落の真正性はまた伝統的なものとできる限り同一あるいは類似の工法や素材を用いて修復・建設を行って形態的特徴を保つことで保証されている。