スイスのザンクト・ガレンに位置するザンクト・ガレン修道院は613年の創設から1805年の解散まで約1,200年の歴史を誇る修道院で、図書館のコレクションなどにその歴史を見ることができる。多くの建物は近代のものながら、ザンクト・ガレン大聖堂や修道院図書館はスイスを代表するバロック&ロココ様式の傑作として知られる。
6世紀後半から7世紀はじめにかけてアイルランドの宣教師・聖コルンバヌスはガリア(おおよそ現在のフランス・ドイツ西部・イタリア北部に当たる地域)で広く宣教を行い、後に「ヨーロッパの父」と讃えられた。聖コルンバヌスの12の弟子のひとりでアイルランドから共に宣教に励んでいたのが聖ガルスだ(アルザス出身という異説あり)。一行はスイスのボーデン湖で宣教を行った後、イタリアに向かったが、森で転んだ聖ガルスはこれを神の啓示と捉え(あるいは体調を崩したため)、湖の南西に流れるシュタイナハ川岸に留まった。そして森を切り開き、翌年613年に礼拝堂を創設した。後に聖ガルスは聖コルンバヌスが築いた修道院の修道院長に推されながらも断りつづけ、この地で修道生活を貫いて646年に亡くなった。聖ガルスの遺体は湖畔の町アルボンに葬られたという。
フランク王国の宮宰カール・マルテルはベネディクト会の修道士・聖オスマールに命じて聖ガルスの遺物や遺品の整理を命令する。8世紀半ば、カール・マルテルの息子でカロリング朝を開いた国王ピピン3世(小ピピン)の時代、聖ガルスの礼拝堂の場所に聖(ザンクト)・ガルスの修道院=ザンクト・ガレン修道院が建設され、聖オスマールが修道院長に就任した。そしてカロリング朝の意向を受けて宣教のみならず芸術・文字・科学を奨励した。ピピン3世の息子カール大帝はキリスト教に基づく統治を推進し、キリスト教組織や教会・修道院の整備、古典研究、写本製作やキリスト教美術の推進、教会付属学校の普及に努めた。こうした8~9世紀の古典復興に基づくキリスト教文化の興隆を「カロリング・ルネサンス」という。
ザンクト・ガレン修道院も8世紀後半~9世紀はじめに黄金期を迎えた。特にライヒェナウのヴァルドが修道院長だった時代に写本の製作が活発化し、貴重な蔵書の収拾と古典研究が進み、各地から修道士が訪れた。ヴァルドは修道院に図書館を設立し、その後ライヒェナウ島の修道院長に就くと同様に図書館と学校を開設している(世界遺産「僧院の島ライヒェナウ」)。また、9世紀はじめに修道院長ゴズベルトは修道院教会を建て直し、図書館を充実させるなど修道院の拡張に尽力した。修道院図書館にはこの時代に羊皮紙に描かれた修道院平面図が収蔵されている。
10世紀に修道院の周囲を囲う城壁が建設され、修道院城下町としてザンクト・ガレンの町が発達した。13世紀に町は神聖ローマ帝国の自由都市(大司教や司教の支配を受けず教会に対して義務を免除された都市)として独立し、15世紀には帝国を離れてスイスの原初同盟(盟約者団。旧スイス連邦)に移って修道院からも独立した。一方、修道院も「アッペンツェル」と呼ばれる修道院領を持ち、宗教都市国家として半ば独立していた。16世紀の宗教改革において、スイスではプロテスタントのカルヴァン派が優位に立ち、ザンクト・ガレンもプロテスタント側についた。一方、修道院とアッペンツェルはローマ・カトリックに留まったため、自由と平等を求める農奴の反乱が起き、またカルヴァン派による襲撃を受けた。17世紀、ピウス修道院長の時代に印刷機が導入され、聖書をはじめとする書物の印刷出版がはじまった。しかし、1712年のトッゲンブルク戦争でベルンやチューリヒといったプロテスタント都市の襲撃を受けて略奪された。この後、平和条約が結ばれるが争いは収まらず、修道院長殺害などの事件が続いた。
それでも修道院とアッペンツェルは8万人近い住民を持つスイス最大の宗教都市だった。宗教改革を通じて多くの修道院が閉鎖・破壊される中で、ザンクト・ガレン修道院では1755~68年にかけて新しい修道院教会の建設が進められた。これが現在見られるザンクト・ガレン大聖堂だ。しかし完成まもなくの1798年、ナポレオンのフランスがスイスを侵略し、修道院や都市といったアンシャン・レジーム(旧体制)を破壊した。ザンクト・ガレン修道院でも同年に修道院長の世俗的な権力が取り上げられ、1805年に修道院は廃止され、アッペンツェルも解体された。1823年には新しい教区が設定され、修道院教会は司教座を置く大聖堂となった。
世界遺産「ザンクト・ガレン修道院」は旧修道院の施設群を登録したもので、現在は大聖堂とその付属施設となっている。
中央に立つのはザンクト・ガレン大聖堂(旧修道院教会)で、設計は建築家ペーター・トゥンプでヨハン・ミヒャエル・ビアに引き継がれている。後期バロック様式の傑作で、東ファサード(正面)に高さ68mを誇る2基の鐘楼を持ち、東のクリプト(地下聖堂)には聖ガルスの頭蓋骨を入れたレリカリー(聖遺物箱)が収められている。身廊の中央付近に円形のロトンダ(円形の建物。ロタンダ)が組み込まれており、独特の十字形の平面プランを持つ。内装の淡いターコイズ・ブルーのスタッコ細工や黄色の彫刻・レリーフは彫刻家クリスチャン・ヴェンツィンガーやヨーゼフ ・ アントン ・フォイヒトマイアーによるもので、天井一面に広がる壮大な絵はヨゼフ・ヴァネンマッハーの作品だ。重厚なバロック様式をベースとしながらも、軽快なロココの作風も見られる。
南に隣接する「コ」形のコートハウス(中庭を持つ建物)は修道院図書館を含む僧院で、1758〜62年の建設だ。修道院図書館の歴史は少なくとも8世紀までさかのぼり、中世初期のもっとも重要な図書館のひとつとされ、17万冊の蔵書と2,100点の写本、1,600点のインキュナブラ(初期活字印刷物)を所蔵している。設計はペーター・トゥンプで、特に優雅なロココ装飾とヨゼフ・ヴァネンマッハーの天井画で知られる。大聖堂から東にゲストをもてなすコートヤード・ウイングが延びており、さらに東は司教宮殿となっている。北の建物は州立公文書館(旧兵器庫)とシュツェンゲル礼拝堂(旧神学校)などで、やはり18世紀後半~19世紀前半に建設されている。
9世紀にゴズベルト修道院長が行った修道院の拡張は修道院建築の発展にきわめて大きな影響を及ぼした。そのモデルとなるベネディクト会修道院の理想的なレイアウトは341枚の羊皮紙に描き出されており、その文書は現在、修道院図書館に収蔵されている。こうした修道院図書館の文書遺産はユネスコの「世界の記憶」に登録されている。
豊富な蔵書と写本を有する図書館を備えたザンクト・ガレン修道院は芸術と知性の発信センターとして中心的な役割を果たし、ベネディクト会の大修道院の典型的な形であると考えられる。修道院空間の継続的な再構成はその多様性の中で進行中の宗教的・文化的機能を証明している。
資産は修道院図書館をはじめとする修道院の建造物群の全域に及んでおり、1,200年以上を誇る歴史の中で発展してきたすべての特質をカバーしている。その結果として顕著な普遍的価値を示すために必要なすべての要素が含まれている。
資産は数世紀にわたる建築の発展の記憶を留めており、オリジナルの素材と材料はよく保たれており、継続的な宗教的・文化的・公共的機能を維持している。