ファールンはスウェーデン中南部ダーラナ県の都市で、13世紀以降に鉱山町として発達し、17世紀には世界の銅の2/3を産出してスウェーデン王国の繁栄を支えた。世界遺産の資産には17世紀半ばに整然とした計画都市として再編されたファールンの町と周辺の鉱山をはじめ、オステラ、ベルクスゴーデン、ホショー、スンドボール、スタベルグといった近郊の鉱山集落や関連の施設・設備も含まれている。
ファールンの大銅山(ストラ・コッパーベリエット)では8~9世紀には銅の採掘が行われていた。当初は農民が表面に露出した鉱石を採掘して農具などに加工していたようだ。銅の生産量が増すと輸出されるようになり、リューベック(世界遺産)などドイツ北部の港湾都市と交易を行い、逆にランメルスベルク鉱山(世界遺産)のあるハルツ山地の先端的な採掘・排水技術が輸入された。14世紀半ばまでに銅はスウェーデンの主要交易品となった。
この時代、鉱山開発はオーナーが資金を出し合って施設や設備を提供して鉱山労働者を雇ったり、自由鉱山労働者が株を買ってオーナー兼労働者として参加した。大銅山を経営していたのが13世紀から活動を続ける鉱山共同体ストラ・コッパーベルグで、国王マグヌス4世は1347年に憲章を布告して特権を与え、土地税や森林税を免除し、新しい集落を設立する権利や遺産を相続する自由を与えた。これによりファールンの市街地は拡大し、周辺に数々の鉱山町が誕生した。ストラ・コッパーベルグはジョイント・ストック・カンパニー(株式会社の起源)のパイオニア、あるいは世界最古の会社組織といわれることもある。自由鉱山労働者は税制や輸入規制の変化で生活状況が大きく変わったため、15世紀にはさまざまな労働争議や暴動が勃発した。
17世紀初頭、カール9世をはじめ国王たちはファールンにさまざまな特権を与え、生産を拡大させた。これにより大銅山はスウェーデン最大の鉱山となり、ファールンはストックホルムに次ぐ都市となった。1650年前後の最盛期には年3,000t超と世界の銅の約70%を生産し、人口は6,000人を超え、約1,000人もの鉱山労働者を抱えていたという。1646年にファールンは方格設計の都市デザインを採用して碁盤の目状に整備され、ファールン・レッド(ファールー・レッド)と呼ばれる赤の塗料で染められた自由鉱山労働者たちのマナー・ハウス(領主の邸宅)が立ち並んだ。周辺の山々は銅生産のために伐採され、牧草地や放牧場として開発されたため、17~18世紀にはファールン法を制定して輪作システムを導入した。渓谷・山、湖や池・ダム・堤防・運河・水路、牧草地や放牧場と、自然と産業遺産が一体化した景観は当時から注目を集め、多くの資本家や建築家が訪れて産業都市の見本とし、やがてスウェーデンの観光名所となった。こうしたファールンの繁栄を背景にスウェーデンは最盛期を迎え、スカンジナビア半島の2/3、フィンランド、エストニア、ラトビア、ドイツ北部の一部と、バルト海沿岸部の多くを支配してバルト帝国を成立させた。この時代、「王国の運命は大銅山と共にある」とまでいわれたという。
1687年6月25日、大銅山で落盤事故が起こり、周囲1.6km・深さ90mに及ぶ巨大な陥没穴ストラ・ステーテン(大坑)が誕生した。たまたま1年に2度ほどしかない休日だったため犠牲者は出なかったものの3つの主要鉱山が破壊された。これ以降、ファールンは衰退期に転じ、生産量も人口も減りつづけた。18世紀には銅の需要が減って年1,000tにまで落ち込んだため鉄の生産に転じ、他にも硫黄・鉛・亜鉛・銀・金・錫などさまざまな金属の生産を行った。19世紀後半に鉄道が開通し、1888年にはストラ・コッパーベルグは現代的な有限会社であるストラ・コッパーベルグ・ベルグスログスに再編された。同社は鉱山を買収して製鉄所を建設したほか、林業に参入して紙や木材の生産を開始した。林業が急成長を遂げる一方で鉱業は衰退が続き、1970年代に鉱山や製鉄所のほとんどを売却あるいは閉鎖し、1992年に採掘は終了した。唯一残ったのが16世紀に開発された赤鉄鉱を用いたファールン・レッドのペンキ塗料の生産で、こちらは現在も継続している。ストラ・コッパーベルグ・ベルグスログスはその後ストラに名前を変え、エンソ社と合併してストラ・エンソとなり、本社をフィンランドのヘルシンキに移している(日本法人名はストゥーラエンソジャパン)。
世界遺産の資産は大銅山と呼ばれる山地と周辺のストラ・コッパーベルグスローゲンと呼ばれるファールン文化圏で構成されている。おおよそファールンのあるルーン湖北岸から北のヴァルパン湖北岸周辺、西のストラ・ヴェルラン湖の北岸周辺、ルーン湖北東のホショー湖からトフタン湖南岸までの地域、ルーン湖東岸のクニヴァーン渓谷周辺が構成資産だ。
ファールンの西に横たわる大銅山は銅生産の中心地で、1687年の落盤でできた350×300m・深さ90mのストラ・ステーテンが口を開けている。周囲にはさまざまな工場や施設・設備が残されており、世界でもっとも高い木造施設といわれる深さ208mを誇るクレイツ・シャフト、博物館となっている自由施設アルメナ・フリーデン館、ファールン・レッドの労働者集落、大きなボタ山(不用な岩石や廃石を捨ててできた山)、数多くの炉といった見所が点在している。
ファールンの町の中心部は1646年に整備されたグリッド構造のままで、ストラ・トルゲット広場が中央広場に当たり、広場の周囲には市役所、クリスティン教会、ストラ・コッパーベルグ・ベルグスログス本社ビルといった歴史的建造物が立っている。ファールン最古の建物とされるのが北東のストラ・コッパーベルグ教会で、14世紀の創建で15世紀に現在の建物に建て替えられた。川を渡ったイェルスボルグもグリッド構造の街で、ファールン・レッドの伝統的な家並みが続いている。同様の街並みはエスタンフォルスやガムラ・ハイゴーデンにもよく残されている。
ファールンの西のイゲルシャンやストラ・ヴェルラン湖周辺ではダムや運河・堤防といった水路のネットワークが見られる。北のオステラやベルクスゴーデンにはふたつの鉱山集落があり、合わせて40基以上の炉やボタ山などが残されている。東のホショーから北東のスンドボールにかけては風光明媚な渓谷地帯で、数々の銅炉や保存状態のよい18~19世紀の鉱山労働者住宅が数多くの残されている。リンネが結婚式を挙げた小屋もそのひとつだ。南東のクニヴァーン渓谷にはスタベルグの精錬所跡やボタ山、バロック庭園が残るガムラ・スタベルグ邸などがある。
ドイツの鉱山技術の影響を受けて発展したファールンの大銅山は17世紀に銅の主要生産地となり、2世紀にわたって世界中の鉱山に多大な技術的影響を与えた。
ファールンの景観は銅の採掘と生産に関する産業遺産に彩られており、早くも9世紀にはじまり、20世紀の終わりまで継続した。
ファールン地域の銅産業の経済的・社会的発展は家内工業から完全な工場制機械工業へと段階を踏んでおり、一連の証拠を見ることができる。
ストラ・ステーテンと関連の建造物群、ファールン旧市街の都市構造の完全性は維持されており、いずれも法的保護下にある。こうした偉大な産業遺産を守ろうという住民の強い意志が後押ししており、資産内の建物・構築物・関連設備はすべて適切に保全されている。
資産内の建物やモニュメントの真正性は高いレベルで維持されており、鉱山経営の長い伝統を伝えている。これは保全・修復に関する厳格な法規制の成果であり、国や自治体によって制定・施行されている。鉱山経営と金属生産の跡は景観と集落の双方に無数の痕跡を残している。こうした特徴はファールンの大銅山地域の文化的景観を形成し、資産の真正性を支えている。
今日でも金属は世界市場で大きな需要があり、ファールンのストラ・ステーテン周辺の鉱床探査も関心を集めている。将来の試掘や採掘が資産の特徴や文化的景観といった真正性に与える潜在的な危険性があり、こうした活動を検討する前に慎重に評価する必要がある。ICMM(国際金属・鉱業評議会)は世界遺産の資産の探査・採掘はしないという立場を表明しており、考慮する必要がある。