ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープル(世界遺産。現・イスタンブール)、ウマイヤ朝の首都ダマスカス(世界遺産)、アッバース朝の首都バグダードといった古都を凌ぐ都市を目指して建設された後ウマイヤ朝の首都コルドバ。10世紀には当時世界最大を誇ったモスク(イスラム教礼拝堂)であるメスキータを中心に、人口約40万人を誇る世界最大の都市にまで発展した。13世紀以降、キリスト教徒の支配下に入り、東洋と西洋、イスラム教とキリスト教が融合した華やかな街並みを生み出した。なお、本遺産は1984年に「コルドバのメスキータ "The Mosque of Cordoba"」の名称で世界遺産リストに登録され、1994年に周辺の歴史地区に拡大されて現在の名称に変更された。
コルドバは紀元前3世紀頃、イベリア人によって設立されたと考えられている。やがてカルタゴ、共和政ローマ、ローマ帝国の支配下に入り、ローマ属州ヒスパニア・バエティカの州都となった。全長331mで16のアーチを持つローマ橋は紀元前1世紀に築かれたもので、他に宮殿跡のセルカディージャ遺跡、神殿跡のローマ寺院などに痕跡を見ることができる。やがて民族大移動を受けて疲弊し、572年にゲルマン系西ゴート人の西ゴート王国の支配下に入った。西ゴート王国は大西洋に通じるグアダルキビール川の要衝を守るために要塞を建設した。これが後のアルカサルだ(アラビア語で城砦を意味する「アル・クサル」に由来する)。
8世紀はじめにイスラム王朝であるウマイヤ朝がイベリア半島に侵入し、711年のグアダレーテ河畔の戦いで西ゴート王国を撃破。首都トレド(世界遺産)が落ちて西ゴート王国は滅亡し、イベリア半島の多くがウマイヤ朝の支配下に入った。750年にウマイヤ朝がアッバース朝に滅ぼされると、ウマイヤ家の生き残りであるアブド・アッラフマーン1世がイベリア半島まで逃亡し、756年にコルドバを首都に後ウマイヤ朝を建国する。アブド・アッラフマーン1世はウマイヤ朝時代の建築家や芸術家・科学者を集め、ダマスカスやバグダードに劣らない都市を目指して町を整備した。その集大成として785年に建設を開始したのがメスキータだ。「メスキータ」はスペイン語でモスクを意味する一般名詞で、当時はアルジャマ・モスクと呼ばれていたが、並ぶものがないということで現在では単にメスキータと呼ばれている。代々の君主が増改築した結果、10世紀には2万~3万人を収容する世界最大のモスクとなった。また、アブド・アッラフマーン1世はアルカサルの要塞を改造して王宮として暮らした。
929年まで後ウマイヤ朝の君主はアミール(総督)を名乗っていたが、同年にアブド・アッラフマーン3世がイスラム教創始者ムハンマドの後継者でありスンニ派最高指導者の称号である「カリフ」を名乗ってアッバース朝に対抗した。アブド・アッラフマーン3世はコルドバの郊外にザフラー宮殿と宮殿城下町を建設しているが、こちらは「カリフ都市メディナ・アサーラ」という世界遺産に登録されている。1000年前後にはコルドバの人口は40万を超え、300のモスク、200のハンマーム(公衆浴場)、50の図書館、20の学校が立ち並び、世界最大の都市となった。
しかし、11世紀に入るとアラゴン王国やカスティリャ王国といったキリスト教勢力のレコンキスタ(国土回復運動)やアフリカのイスラム教勢力の介入、後継者争いが勃発し、1031年のカリフ廃位をもって後ウマイヤ朝は滅亡した。イベリア半島は「タイファ」と呼ばれる小国の乱立状態に陥り、コルドバはコルドバ王国を経て北アフリカのムラービト朝の版図に入った。ローマ橋を守るカラオーラの塔はムラービト朝による建設だ。
1236年、カスティリャ王国のフェルナンド3世がコルドバを占領した。フェルナンド3世はモスクや西ゴート時代の教会跡を修道院や教会堂に改修し、特にメスキータを大聖堂として整備した。しかしメスキータ、特にメッカの方角を表すキブラ壁や聖なる窪みであるミフラーブ(聖龕)、ミフラーブの前に設けられた礼拝室マクスラとそのキューポラ(天蓋)があまりに見事だったためそのまま残され、時代時代に礼拝堂が壁際に築かれたものの、全体の構造は維持された。また、王たちはアルカサルを要塞や宮殿として整備した。特に14世紀、アルフォンソ11世の時代にイスラム教とキリスト教の建築・芸術が融合したムデハル様式の宮殿として改修された。街並みについて、多くは北アフリカから移住してきたムーア人(イベリア半島のイスラム教徒)が築いたもので、迷路のように張り巡らされた石畳の通路と、パティオ(中庭)付きの白壁・オレンジ屋根の家並みを特徴とする。しかし、カスティリャ王国はキリスト教への改宗を強制したためムーア人やユダヤ人の多くは北アフリカに旅立った。代わりにキリスト教徒が入植したが、人々はメスキータ周辺の街並みを維持する形で町づくりを進めた。
1469年、アラゴン王フェルナンド2世とカスティリャ女王イザベル1世が結婚して連合が成立し、1479年に合併して事実上スペイン王国が誕生した。カトリック両王(フェルナンド2世とイザベル1世)はイスラム教勢力の最後の牙城であるナスル朝の首都グラナダ攻略の拠点をコルドバのアルカサルに定めて滞在した。アルカサルではイタリア・ジェノヴァの航海士コロンブスと三者会談を行って支援を決めている。1492年、ナスル朝が滅亡してアルハンブラ宮殿(世界遺産)に入城し、ついにレコンキスタが完了した。
両王の孫であるスペイン王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)は大司教の求めに応じてメスキータの改築を容認。設計を依頼された建築家エルナン・ルイス1世はメスキータを守ることを決意し、全体を壊さず、中央部分をくり抜いてゴシック様式とルネサンス様式の大聖堂をはめ込んだ。後にカルロス1世は、「ありふれた教会を造るために稀有な作品を破壊してしまったのかもしれない」と嘆いたという。息子エルナン・ルイス2世は改築を続け、ヴィジャロネス宮殿(オリヴ宮殿)なども設計している。カルロス1世と息子フェリペ2世の時代に「太陽が沈まぬ帝国」と呼ばれるスペイン黄金世紀がはじまるが、首都は1561年にマドリードに遷され、コルドバは重要性を失った。
世界遺産の資産はメスキータ、アルカサル、ローマ橋と、メスキータの東・西・北およびアルカサルの北に広がる旧市街、その範囲のグアダルキビール川と沿岸部となっている。メスキータは外壁、オレンジのパティオ、礼拝の間からなる。外壁は175×135mで北西にアミナールを備えている。高さ54mのアミナールはもともとイスラム教のミナレット(礼拝を呼び掛けるための塔)で、キリスト教時代に鐘と大天使ラファエル像を設置して鐘楼となった。オレンジのパティオはモスクのサハン(中庭)だった場所で、98本のオレンジが並んでいたことから名付けられた。イスラム教徒が身を清める泉亭(ホウズ)があったが、現在はサンタ・マリア噴水とシナモン噴水が設置されている。礼拝の間はモスクの多柱室だった場所で、中央に大聖堂が組み込まれている。多柱室は「円柱の森」と呼ばれ、かつて1,016本の円柱が立ち並んでいたが、大聖堂のために864本に減った。アーチはメリダのミラグロス水道橋(世界遺産)の技術が参考にされており、紅白のポリクロミア(縞模様)はムーア建築でしばしば用いられるデザインだ。大聖堂は通称コルドバ大聖堂、正式には「コルドバのサンタ・マリア大聖堂」という名称で、内部は祭壇やステンドグラス、ゴシック彫刻で覆われた完全な教会空間となっている。一方、礼拝の間の南端にはキブラ壁、ミフラーブ、キューポラ、マクスラのすばらしいイスラム装飾がコントラストをなしている。周辺には40を超える礼拝堂が備えられており、ムデハル様式の王室礼拝堂、ゴシック様式のヴィリャヴィシオサ礼拝堂やサグラリオ礼拝堂、チュリゲラ様式(スペイン・バロック様式)のサン・アンブロシオ礼拝堂などバリエーション豊富だ。
アルカサルの正式名称は「キリスト教諸王のアルカサル」で、古代から砦や要塞・宮殿として使用され、14世紀にアルフォンソ11世がムデハル様式で改修しておおよそ現在見られる要塞宮殿となった。オマージュの塔、ライオンの塔、異端審問官の塔、ラパロマの塔という4基の塔があり、ムーアのパティオ、女性のパティオといった中庭や、応接室やガレリア(ギャラリー)、モザイクのサロン、王室浴場といった部屋がある。庭園は上中下の3部からなり、諸王の通路が接続している。庭園の噴水や池の水はグアダルキビール川に築かれた水車群と水路によって引き入れられていた。
旧市街にはユダヤ人街を中心に数多くの建物が残されている。資産内の防衛施設にはアルモドヴァル門やセビリア門、ベレンの塔、カラオーラの塔などがある。代表的な王家の施設にはフェリペ2世が築いた王立厩舎、公共施設にはルネサンス様式のサン・セバスティアン病院があり、宗教施設にはムデハル様式が色濃いユダヤ教礼拝堂シナゴーグやサン・バルトロメ礼拝堂、フェルナンド3世が司教に寄進した聖公会宮殿などがある。住宅はメディナ・シドニア公爵宮殿やカルピオ侯爵宮殿、カベサス邸といった貴族の邸宅から一般の住宅まで多彩だ。特徴的なのが色とりどりの花で彩られた宮殿や邸宅のパティオで、毎年5月のパティオ祭りでは各家がパティオの美を競い合う。こちらは「コルドバのパティオ祭り」としてUNESCO(ユネスコ=国際連合教育科学文化機関)の無形文化遺産に登録されている。
他に類のない大きさと高さ・大胆さを持つコルドバのメスキータはきわめて独創的な創造物傑作である。
その独創性にもかかわらずコルドバのメスキータは8世紀から西洋のイスラム美術に多大な貢献をしており、19世紀のネオ・モレスク様式の発展にも大きな影響を与えた。
コルドバは929~1031年の後ウマイヤ朝カリフ時代に最盛期を迎え、300のモスクと数え切れないほどの宮殿を有し、コンスタンティノープルやバグダードに匹敵すると伝えられた。コルドバ歴史地区はその稀有な証拠である。
イスラム教の宗教建築の傑出した例である。
コルドバ歴史地区の完全性は維持されており、それを脅かす要素は存在しない。歴史地区には多数の歴史的な建造物や都市構造があり、適切な条件で保全されている。複数の文化と建築様式が並立しているメスキータはきわめて独創的な形で物理的な完全性を保持している。8世紀に西ゴート王国のサン・ヴィセンテ教会跡に建設され、3世紀にわたって拡張が行われ、1236年にはキリスト教の大聖堂として改修された。1523~99年のルネサンス期に最大の工事が行われ、現在見られるメスキータが誕生した。いまなお継続的に宗教的な用途で使用されており、適切な保全状態が保たれている。
都市についてはほとんど改修が行われておらず、レイアウトや形状といった都市構造や歴史的建造物は真正性を維持している。コルドバは2,000年以上にわたって有機的・継続的に発展した結果、多くの建物はテイストや様式について変化・再建・機能の変更を体験している一方で、街並みについては独自の真正性を保っている。街並み・歴史的建造物・イメージ・公共スペースに反映された建物の伝統や技術・状況・環境についても高いレベルで保全されている。歴史地区に含まれる多数のモニュメントはさまざまな時代・建築様式に属しており、代々の邸宅やパティオ、小屋といった建物は形状・デザイン・素材・使用において真正性はきわめてよく保持されている。
メスキータは形状・デザイン・素材・材料・使用・機能といった点で真正性を完全に保っており、建築様式の並立は議論の余地なく本物で独創的である。メスキータではローマ時代、あるいは西ゴート王国時代の柱などの素材が転用されており、真正性を示すひとつの証拠となっている。