スペイン北西部カスティリャ・イ・レオン州に位置し、赤い岩山とクリの森が強烈なコントラストをなす奇観が広がっている。ローマ帝国が水の力を利用し鉱山を崩して金を採掘した結果できあがった景観で、産業遺産であり環境破壊の跡ではあるが、1,800年もの時を経て森が広がり、回復した自然と調和した稀有な文化的景観を生み出した。
現在のラス・メドゥラス周辺にあったメドゥリオ山で砂金が採れることは古くから知られており、ローマ時代以前から人々は川で砂金を採取して装飾品に加工していた。共和政ローマは紀元前2~前1世紀にはイベリア半島東部や南部を支配下に収めたが、北西部については攻めあぐね、紀元前29〜前19年の初代皇帝アウグストゥスによる侵攻でようやく平定し、ローマ属州ヒスパニア・タラコネンシスが形成された。ローマ帝国は各地に入植して植民都市を築き、道路や水道といったインフラを整備したが、その過程でこの地で金が採れることを発見し、1世紀後半に金や鉄といった鉱物資源の開発に着手した。当初は州によって管理されたが、70年代に帝国直轄地とされると大規模な開発がはじまった。
この地で採用されたのは水を利用した鉱山開発だ。この地域の行政官だった大プリニウスが1世紀後半に著した『博物誌』によると「ルイナ・モンティウム(山体崩壊)」と呼ばれる採掘法で、目的とする山の鉱脈周辺に穴を掘り、貯水池に貯めた水を一気に流し入れて山を崩した。水が一杯に詰まった樽の口から水に圧力を加えると樽壁全体に垂直の圧力が加わるという「パスカルの樽」と呼ばれる原理を利用したもので、穴の形や位置で破壊する形状や場所をコントロールすることができた。山体を破壊すると鉱石や砂金を採取したが、砂金については水を流して比重の重い金を抽出する水利システムも備えていた。
こうした作業に必要な水はテレノ山やカボ川といった周辺の山や川に貯水池を作って確保し、運河や水路を造って水を引いた。運河や水路の総延長は少なくとも100kmに達し、地形によっては地下水路や水道橋で渡され、0.6~1.0%の勾配を保って重力のみで水を引き入れた。一説によると採掘には6万人が投入され、計1,635tの金が採掘されたという。こうした採掘作業のために町が築かれ、食料にするためローマからクリの木が持ち込まれ、周辺はヒツジやウシを放つ牧草地となった。金はいったんアストルガ(世界遺産)の町に送られたが、こうしてアストルガはヒスパニア・タラコネンシス北西部の主要都市として発展した。
こうした採掘は地形を著しく変え、なだらかだったメドゥリオ山はいつしか消え去り、破壊を免れた切り立った奇岩群が残された。3世紀に入ると金の採掘量は減少し、数十年後には掘り尽くされ放棄された。ラス・メドゥラスの枯渇がローマ帝国崩壊の遠因になったもいわれる。やがて無人の荒地をクリやオークが覆い、森へと姿を変えた。遺跡としては貯水池・運河・水路・地下水路・水道橋・坑道・道路・集落跡などが残されているほか、クリやオークの森もその一部を形成している。
この遺跡が産業遺産であることは論をまたないが、環境破壊の跡であることを踏まえ、すぐれた文化的景観であるという点、また人類の創造的傑作であることを示し、特に美観にすぐれた遺産に適用されることが多い登録基準(i)を適用することについて世界遺産委員会では異論が出された。
ラス・メドゥラスはルイナ・モンティウムや水利施設といった鉱業分野における人類の創造的な才能を示す重要な遺跡を多数有している。その規模や効率、ローマ帝国の経済的重要性においても比類がない。
人間の手による環境変化と自然の回復プロセスによって誕生した稀有な文化的景観である。クリの木は本来、この地に生息しない外来種であるが、ローマ時代以降この地に定着し、中世以降の人々の生活をも支えた。
ローマ文明の伝統と技術を伝えるきわめて独創的な土木遺産である。特に水工学について稀有な使用と結果をもたらした。
考古遺跡と景観の融合の比類ない例であり、1~2世紀のローマ帝国を支えたきわめて重要な遺跡である。ローマ帝国は中世以降の歴史に決定的な影響を及ぼしており、つまり人類史的にも重要である。
資産は産業遺産・文化的景観として顕著な普遍的価値を示す主要な要素をすべて含んでいる。ZAM(ラス・メドゥラス遺跡地帯)は1931年に歴史考古学モニュメントとして文化財に指定されて以降、法的保護を受けており、1992年以降は自然地域としても保護されている。バッファー・ゾーンは設定されていないが、山地で人の居住も少なく、問題にはなっていない。
3世紀初頭に放棄されて以来、ほぼ手付かずであり、ローマの遺跡群や鉱山跡・森を含めて資産の真正性はきわめて高いレベルで維持されている。