ガムジグラードはブルガリアとの国境に近いセルビア東部に位置する町で、近郊にはローマ皇帝ガレリウスが3~4世紀に建設した要塞宮殿遺跡フェリクス・ロムリアーナがたたずんでいる。
ローマ皇帝ディオクレティアヌスは西ヨーロッパ全域と地中海をぐるりと取り囲む広大な領土を誇るローマ帝国領を分割して統治することを決め、286年に東西に二分してマクシミアヌスと共同統治を行った。293年にはさらに二分して四分統治=テトラルキアに移行し、4つの領土それぞれに担当の正帝(アウグストゥス)あるいは副帝(カエサル)を置き、東方正帝ディオクレティアヌス、東方副帝ガレリウス、西方正帝マクシミアヌス、西方副帝コンスタンティウス・クロルスの4人で帝国を治めた。
ガレリウスはもともと軍人の出身で、ササン朝ペルシアとの戦いで首都クテシフォンを落とすなど戦功を挙げ、メソポタミアの地に大きく版図を広げた。293年に東方副帝に任命されるとバルカン半島を中心とするイリュリアを担当し、305年にディオクレティアヌスとマクシミアヌスが退位すると東方正帝に任じられた。ガレリウスは西方正帝に就いたコンスタンティウス・クロルスの死後を見据え、皇帝位を統一するために副帝を身内で固めるなど政略を巡らせた。しかし、306年にコンスタンティウス・クロルスが急死すると息子コンスタンティヌス1世がガレリウスを無視して西方正帝位に就き、さらにマクシミアヌスの息子マクセンティウスも自分が西方正帝に据えたセウェルス2世を追い落として正帝位に就いてしまう。307年にマクセンティウスがセウェルス2世を殺害するとガレリウスは報復としてイタリア遠征に乗り出すが、結局戦闘に敗れて撤退を余儀なくされた。西方はコンスタンティヌス1世、マクセンティウス、さらにはマクシミアヌスという3人の正帝が並び立つ事態となる一方で、ガレリウスは統一皇帝の野望を断念し、代わりに297年に建設を開始していた宮殿の建設を本格化させた。
偉大な皇帝ディオクレティアヌスは病気を患うとアッサリと引退し、故郷に宮殿(世界遺産)を建てて余生を過ごしたが、ガレリウスもこれにならって出身地近くの町に母ロムリアに捧げる要塞宮殿を建設し、フェリクス・ロムリアーナと命名した。308年には長年の戦友リキニウスに正帝の仕事を任せて半ば引退し、フェリクス・ロムリアーナで生活を行った。311年にガレリウスが病死した後も宮殿として使用されたが徐々に衰退し、やがて宮殿はキリスト教の教会堂に改築された。5世紀にはフン帝国と見られる勢力による襲撃を受けて略奪され、6世紀にビザンツ皇帝ユスティニアヌス1世らによって再興されたがサイズも建築技術も到底ローマ時代のものには及ばなかった。ビザンツ帝国の勢力が衰え、スラヴ人によるバルカン半島への入植が本格化する7世紀頃には放棄されて廃墟となった。
297~311年に建設されたフェリクス・ロムリアーナは240×190mほどの二重の城壁に囲まれた五角形の要塞だ。内側の古い城壁には16基、外側の新しい城壁には20基の側防塔を有し、東西に城門を備えている。古い城壁の多くがレンガ造で、新しい城壁は砂岩の切石などが使用されている。
宮殿は要塞の北西部に位置し、数多くの部屋やホール、アトリウム(前庭)、噴水の跡があり、王の部屋やトリクリニウム(ダイニング・ルーム)と見られる部屋も発見されている。大理石や斑岩といった貴重な石がふんだんに使用されており、床はモザイク画(石やガラス・貝殻・磁器・陶器などの小片を貼り合わせて描いた絵や模様)で飾られている。ここで斑岩製のガレリウス像が発見されたことから建設者の特定に至った。宮殿に残る三廊式(身廊とふたつの側廊を持つ様式)のバシリカ(集会所)は6世紀に建設された初期キリスト教の教会堂と見られ、南にペリスタイル(列柱廊で囲まれた中庭)が隣接している。公衆浴場は冷水・温水・サウナ・更衣室を備えた古典的なローマン・バス(ローマ浴場)跡だ。
南には大神殿跡があり、ナオスと呼ばれる内陣(神々を祀るエリア)の前に柱を並べたプロステュロス様式の神殿が確認されており、かつては二重の列柱廊で囲われていた。ローマの最高神ユピテル(ジュピター)や半神半人の英雄ヘラクレスの石像が発見されており、こうした神々を祀っていたものと思われる。北には女神リベラを祀っていた同様式の小神殿跡も発掘されている。
要塞の東約1kmに位置するマグラの丘にはふたつのマウンド(墳丘・墳丘墓)があり、ガレリウスと母ロムリアに捧げられたマウソレウム(廟)と考えられている。ガレリウスのマウンドは直径約40mで311年の建設、ロムリアのマウンドは直径約30mで305年の建設と見られ、この場所でふたりを神とする儀式が行われたようだ。また、マウンドと要塞を結ぶ線上には4つの柱を持つテトラピロンが聖俗を結ぶ記念碑として設置されている。
宮殿や神殿・公衆浴場・ホールなどはモザイク画で彩られており、幾何学文様や草花文様、酒の神バッカスや狩猟の神ディアナ、毒蛇の髪を持つメドゥーサといったローマ神話の神々や怪物、あるいは狩猟シーンといった日常生活までさまざまな図案が見られる。これらはローマ時代後期の貴重な作品群である。
本遺産は登録基準(i)「人類の創造的傑作」、(ii)「重要な文化交流の跡」、(vi)「価値ある出来事や伝統関連の遺産」でも推薦されていた。しかしICOMOS(イコモス=国際記念物遺跡会議)は、(i)について世界遺産「ヴィッラ・ロマーナ・デル・カサーレ(イタリア)」のモザイク画のような傑出した芸術作品は存在せず、「スプリットの史跡群とディオクレティアヌス宮殿(クロアチア)」も(i)を満たしていないがそれ以上とも証明されておらず、(ii)についてはローマ遺跡の中でこの遺跡でのみ見られる価値観の交流が証明されておらず、(vi)についてはこの遺跡はテトラルキアの時代に築かれた建築者が特定されている唯一の宮殿ではあるが、この点で世界遺産ではないスプリットの皇帝のヴィッラの方がすぐれているため整合性が取れないという理由で価値は認められなかった。
本遺産は要塞・宮殿・記念碑コンプレックスであり、テトラキアと創設者ガレリウスのイデオロギー戦略が刻み込まれたローマ伝統建築のきわめて独創的な証拠である。
皇帝ガレリウスの建築コンプレックスには儀式的・記念碑的な事業が含まれているという点できわめて独創的である。宮殿とマウソレウムというふたつの対照的な建造物の関係は、世俗的な要塞宮殿と神聖なマウソレウムとの間にテトラピロンを配することによって強調されている。
資産には顕著な普遍的価値を構成する主要な要素がすべて含まれており、法的保護を受けている。周辺の渓谷が広くバッファー・ゾーンに指定されており、宮殿を含む景観や宮殿からの景観も毀損されておらず、それ自体が貴重な文化的景観として保護されている。完全性は高いレベルで維持されている。
資産はほとんど発掘調査が進められておらず、遺跡を再建するような試みも行われていない。設置されているのは保全に必要な構築物に限られており、真正性は保持されている。資産に対する主要な脅威は発掘作業であり、非破壊的な探査プログラムによるデータ収集と分析を先行させ、発掘はピンポイントで行われることが望ましい。また、来訪者の増加に対する対策も講じられる必要がある。