セルビア南西部ラシュカ地方の都市ノヴィ・パザル近郊の山中に位置するスタリ・ラスは中世都市ラスの都市遺跡で、1171~1346年の間、セルビア王国およびセルビア帝国の首都として繁栄した。地域を代表する主教座教会堂が聖ペトル聖堂(聖使徒ペトロ=パウロ聖堂)、王家・皇家であるネマニッチ家が支援した修道院がソポチャニ修道院とジュルジェヴィ・ストゥポヴィ修道院で、1遺跡・1聖堂・2修道院が構成資産となっている。
スタリ・ラスは「旧ラス」といった意味で、中世の古都ラスを示す。ラスの地はアドリア海とバルカン半島内部を接続する要衝に位置し、ローマ帝国やビザンツ帝国(東ローマ帝国)の時代から山上に砦や要塞が築かれていた。7世紀頃からスラヴ人が入植を開始し、9世紀までにラスが成立し、一帯を睥睨する山頂にグラディナ要塞が築かれた。スラヴ人はビザンツ帝国や第1次ブルガリア帝国の影響下で正教会に改宗し、時に支配を受けた。1014年にビザンツ皇帝バシレイオス2世が第1次ブルガリア帝国を滅ぼすとビザンツ帝国の版図に入り、ラスはビザンツ領セルビアの中心都市として発展した。要塞が再整備されたほか、宗教的にはオフリド大主教区の下にラシュカ主教区が編成され、セルビアの首席教会堂としてラスの聖ペトル聖堂に主教座が置かれた。
11~12世紀にセルビアはビザンツ帝国と対立し、たびたび反乱が勃発した。12世紀後半にステファン・ネマニャがセルビアを統一すると、1171年にラスを首都にセルビア王国として独立し、国王ステファン1世としてネマニッチ朝を興した。この時代にラス近郊で鉱山開発が進み、金や銀などを産出して大いに栄え、アドリア海の海洋都市国家ドゥブロヴニク(世界遺産)と盛んに取引を行った。この時代の宮殿は金と絹で華やかに彩られていたというネマニッチ朝はビザンツ帝国とは対立していたが、正教会に対する信仰はあつく、ステファン・ネマニャは12世紀後半にジュルジェヴィ・ストゥポヴィ修道院を建設し、13世紀半ばにはステファン・ウロシュ1世が多額の寄進を行ってソポチャニ修道院が建設された。また、1219年にセルビア大主教区が成立してセルビア正教会として独立し、ジチャのジチャ修道院に大主教座が置かれた。
13世紀後半にはじまるステファン・ウロシュ2世の時代にバルカン半島南部に対する侵攻が活発化し、領土が拡大すると同時にラスの重要性は徐々に失われた。14世紀前半にはステファン・ウロシュ3世が第2次ブルガリア帝国を破ってバルカン半島の盟主に台頭し、14世紀後半にはステファン・ウロシュ4世がマケドニアやアルバニア、ギリシアを侵略してビザンツ帝国の領土を奪った。ステファン・ウロシュ4世は1346年に首都をラスからマケドニアのスコピエに遷し、皇帝位に就いてセルビア帝国が成立した。それまでラスは守備を固める必要から平野から少し離れた山上に要塞都市を築いていたが、領土が南に広がるにつれて中心から外れて要塞は不用となり、山の麓にストロ・トルゴヴィシュテ(旧市場)の集落が誕生した。さらに8kmほど東の平野部にノヴォ・トルゴヴィシュテ(新市場。現・ノヴィ・パザル)が急速に発達し、一方でラスは廃れていった。
ステファン・ウロシュ4世の死後、帝国各地の諸侯が次々と独立し、1371年のマリツァの戦いでオスマン帝国に敗れると国王ステファン・ウロシュ5世も死去してしまう。これによりネマニッチ朝は断絶し、セルビア公が跡を継いでセルビア公国として統治を行うものの、立て続けにオスマン帝国に敗北してその支配下に入り、1459年に滅亡した。ラスは15世紀半ばまでに放棄され、やがて廃墟となった。
世界遺産の構成資産である「中世都市ラス」は現在発掘が進められているラスの遺跡群、スタリ・ラスを示す。主な遺構はグラディナ要塞で、内部に5基の塔を備えた全長約180m・最大幅約60mの城壁が残されている。山を下った麓にはストロ・トルゴヴィシュテの集落跡があり、住宅やさまざまな遺物が発見されている。また、ラシュカ川を挟んだ対岸の山中には15世紀に設立された聖バルバラ修道院遺跡がたたずんでいる。
「ソポチャニ修道院」はステファン・ウロシュ1世が建設を命じた修道院で、1260年頃の建設と考えられている。現存するのは聖三位一体に捧げられた付属教会・至聖三者聖堂で、ラシュカ様式のバシリカ式教会堂(ローマ時代の集会所に起源を持つ長方形の教会堂)となっている。中央やや東にドームを掲げ、東端に至聖所を内包した半円形のアプス(後陣)が飛び出している。西に隣接した正方形のナルテックス(入口に設けられる拝廊)は14世紀はじめに増築されたもので、ナルテックスには鐘楼が付属している。この教会堂の内部は壁も天井も見事なフレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)で覆われており、中世セルビア芸術のみならずビザンツ美術を代表するものとされている。中でも最高傑作と評されるのが生神女マリヤ(聖母マリアの正教会の表現)の死を描いた「生神女の就寝」だ。
「聖ペトル聖堂」の周辺はギリシア、ローマ以前から神殿や墓地として使用されており、数々の遺構や遺物が発見されている。現在の教会堂が建てられたのは6世紀頃と見られ、セルビア最古の教会堂とされる。9世紀まで増改築を繰り返し、ラシュカ主教区の主教座が置かれた11世紀はじめに大規模な改修が行われた。フレスコ画は主に13世紀に描かれたもので、古いものは9世紀までさかのぼるといわれるが年代は明らかではない。周囲は墓地となっており、古代からのネクロポリス(死者の町)でローマやビザンツ時代の墓も含まれている。
「ジュルジェヴィ・ストゥポヴィ修道院」はステファン・ネマニャによって1170年前後に建設された修道院で、ネマニャが捕縛・投獄された際に聖ゲオルギオスの修道院を建設することを約束して祈りを捧げたことに由来すると伝えられており、ジュルジェヴィ・ストゥポヴィで「聖ゲオルギオスの道」を意味する。中央に立っているのが聖ゲオルギオス聖堂で、外観のデザインに見られる西のロマネスク様式と、ドームや集中式(有心式。中心を持つ点対称かそれに近い平面プラン)といった東のビザンツ様式の特徴を融合させた独特のスタイルで、中世セルビア建築ラシュカ様式の嚆矢(こうし)とされる。ナルテックスは13世紀後半に増築されたものだ。かつては多数の装飾やフレスコ画で覆われていたが、現在多くはベオグラードの国立博物館に移されており、一部のみが残されている。セルビア最古級の修道院のひとつであり、現在修道院として再興が進められている。
ソポチャニ修道院はフレスコ画の卓越したクオリティで知られており、特にふたつの礼拝堂へ続くナルテックスのフレスコ画はこの修道院の創設者一族の貴重な歴史的記録を提示している。フレスコ画の多くは13世紀に制作されたもので、コンスタンティノープルが十字軍の手に渡っていた頃のビザンツ美術の活力を物語っている。
ジュルジェヴィ・ストゥポヴィ修道院の聖ゲオルギオス聖堂を彩るフレスコ画の構成は古代の芸術様式からインスピレーションを得ており、イコン(聖像)という形で人物を描いている。
ラシュカ主教区の主教座である聖ペトル聖堂も13世紀を中心とした見事なフレスコ画で装飾されている。
古都ラスは交通の要衝に位置するというメリットを活かし、バルカン半島の東部と西部を結ぶことで繁栄した。数多くのモニュメントはセルビアの首都がラスに置かれていた時代の繁栄を物語っており、きわめて独創的な建造物群が街並みを構成している。これらの建造物の大部分は9~11世紀の間に建設されたもので、そのプランと絵画的な装飾はラシュカ様式の特徴を伝えている。
「スタリ・ラスとソポチャニ」の顕著な普遍的価値を構成するすべての要素が構成資産に含まれており、周囲には広大なバッファー・ゾーンも設定されている。構成資産はその機能とプロセス・重要性を表現するために十分な大きさを備えており、完全性は確保されている。
グラディナ要塞跡やストロ・トルゴヴィシュテの集落跡、繊細な壁画など、すべての構成資産の保存状態は良好で、専門家が状態をつねに監視している。ソポチャニ修道院の至聖三者聖堂とジュルジェヴィ・ストゥポヴィ修道院の聖ゲオルギオス聖堂の外壁の保存修復作業は本来の外観を復元するために徹底した考古学的・建築学的調査を経て行われた。構成資産は開発や逆に放置といった悪影響には直面していない。
形状・デザイン・素材・原料・用途・機能を含む「スタリ・ラスとソポチャニ」の顕著な普遍的価値は完全かつ無傷で伝えられている。すべての保存修復作業は本来の素材と伝統的な技法で行われており、モニュメントの真正性は損なわれていない。構成資産の建築・芸術・考古学・歴史に関する詳細な文書によってこうした選択は正当化され、真正性が保証されている。
資産に対する現状の脅威とリスクとして、近郊のノヴィ・パザルの開発・環境圧力と住民の増加が挙げられる。また、ジュルジェヴィ・ストゥポヴィ修道院について本来の機能を回復させる試みは持続可能な利用という点で積極的な取り組みではあるが、真正性に対する潜在的な脅威でもあると考えられる。