ストゥデニツァ修道院は12世紀後半、セルビア王国を建国したステファン・ネマニャによってセルビア南部の山中に建設されたセルビア正教会の修道院であり王家の霊廟で、セルビアを象徴するモニュメントとなっている。
セルビアの地、特に南西部はラシュカと呼ばれていたが、7世紀頃にスラヴ人が入植を開始し、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)や第1次ブルガリア帝国といった大国の下で部族社会を形成していた。11世紀はじめに第1次ブルガリア帝国が滅亡し、12世紀にビザンツ帝国が勢力を弱めると、1168年にステファン・ネマニャが諸部族を統一してセルビア侯となり、1171年にはステファン1世を自称してラス(世界遺産)を首都にセルビア王国を建国した(ネマニッチ朝)。正式な王国の承認はステファン・ネマニャ没後の1217年で、この年に教皇ホノリウス3世から次男で国王位に就いていたステファン・ネマニッチに王冠が贈られている。
ステファン・ネマニャはビザンツ帝国とは対立していても正教会に対する信仰はあつく、正教会を国教としてラスの聖ペトル聖堂(聖使徒ペトロ=パウロ聖堂。世界遺産)やジチャのジチャ修道院を中心に教会組織を体系化した。そして1183年に生神女マリヤ(聖母マリアの正教会の表現)に捧げるストゥデニツァ修道院の建設を開始。1196年に王位を次男に譲ると、妻とともに聖ペトル聖堂で修道士となってシメオンを名乗った。翌1197年に修道院が完成すると約1年間をこの修道院で過ごした。その後はギリシアの聖山であるアトス山(世界遺産)に移って三男のサワとともにヒランダル修道院を建設し、同地で1199年に亡くなった。遺体はアトス山からストゥデニツァ修道院に運ばれ、生神女聖堂のクリプト(地下聖堂)に安置された。以後、ストゥデニツァ修道院はネマニッチ朝の王家の墓所として使用された。
アトス山から戻ったサワはコンスタンティノープル総主教庁に対してセルビアの宗教的独立を要請し、1219年に認められた。セルビア正教会の大主教座や総主教座はジチャ修道院やペーチ総主教修道院(世界遺産)に置かれたが、ストゥデニツァ修道院はセルビア人の文化的・精神的・医学的な中心あるいは象徴として重要な地位を占めつづけた。
セルビア王国は1346年にセルビア帝国に発展して版図を大幅に増やしたが、1371年のマリツァの戦いでイスラム王朝であるオスマン帝国に敗れるとネマニッチ朝は断絶し、セルビア帝国は滅亡した。セルビア公国が跡を継いだがやがてオスマン帝国の支配下に入り、1459年にこちらも滅亡した。この過程でストゥデニツァ修道院はしばしば襲撃されて損傷した。オスマン帝国は修道院の活動を認めたが、戦争の舞台や徴発の対象となり、他にも地震や火事などの影響もあって15~17世紀にかけて数多くの修復を受けた。それでも修道院はありつづけ、現在も宗教活動を継続している。
ストゥデニツァ修道院は手付かずの自然が残るストゥデニツァ川の畔の丘に直径115mの円形の石垣を築き、その中に建設された。西の石垣に沿って僧院が取り巻いており、中央には修道院の中央聖堂=カトリコンである生神女聖堂がたたずんでいる。
生神女聖堂の東側は十字形の平面プランで、外壁は白い大理石パネルで覆われて凜と輝いている。東端に3つのアプス(後陣)を持つ3アプス式で、ナオス(ギリシア十字式平面プランの中心の正方形部分)とイコノスタシス(聖障)で仕切られた東のアプスが主祭壇を備えた至聖所となっている。ナオス上部にはドームが掲げられており、ナオスの西にはナルテックス(入口に設けられる拝廊)が設けられている。ナルテックスを含めると「†」形のラテン十字式の外観となり、ローマ・カトリックのロマネスク様式の教会堂を思わせる。
これらの西側には第3代国王ステファン・ラドスラヴが13世紀前半に増築した正方形のエクソナルテックス(外部ナルテックス)が隣接しており、こちらはオレンジ色の凝灰岩で築かれている。このふたつの建物が一体化して「‡」形の総主教十字のような形状をとっている。これらの内部はいずれもビザンツ美術の最高峰とされる見事なフレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)で覆われており、「ハリストスの磔刑」をはじめ傑作の宝庫となっている。これらを総合して、生神女聖堂は西のロマネスク様式と東のビザンツ様式の折衷であるラシュカ様式の代表作と評されている。
生神女聖堂の南に立つ聖ヨアキム・聖アンナ聖堂は1314年にステファン・ウロシュ2世によって建設された聖堂で、「王の聖堂」と呼ばれる。聖ヨアキムと聖アンナは生神女マリヤの父母と伝わる人物だ。ギリシア十字式の平面プランで主に凝灰岩で築かれており、白漆喰で覆われていて赤く塗られた塔とのコントラストが際立っている。内部は壁も天井も八角形のドームも14世紀の見事なフレスコ画で覆われている。
聖ニコラス聖堂は円形の僧院部分に内蔵されている小さな教会堂で、こちらもやはり全面に見事なフレスコ画が描かれている。僧院部分には他に食堂や鐘楼・宿泊施設・南門・北門などがあり、庭には中世の遺構が見られる。
聖ヨアキム・聖アンナ聖堂の完成後まもなくに描かれた「生神女マリアの生涯」はギリシアの著名なフレスコ画家であるミハイル・アストラパスとエウティキオスによる傑作である。ふたりはオフリドのパナギア・ペリブレプトス聖堂(世界遺産)やジチャ修道院、リェヴィシャの生神女聖堂(世界遺産)、スタロ・ナゴリチャネの聖ゲオルギオス聖堂などで数々の作品を残しているが、ストゥデニツァ修道院のフレスコ画は自分たちのスタイルを貫いたもっとも特色ある独創的な作品群に仕上がっている。フレスコ・セッコ(乾式フレスコ)で実現した鮮やかな色彩と光と闇のコントラスト、密集したデザインや顔の表現法などは類を見ないもので、小さなイコン(聖像)の絵画と同レベルの完成度の高い作品が全面に描かれている。
生神女聖堂はラシュカ派と呼ばれる独特の様式の教会堂のモデルとなった。聖堂はセルビア王家の霊廟でもあり、バニスカ修道院、デチャニ修道院、プリズレンの聖大天使修道院を模倣している。1208~09年に描かれたナオスと至聖所のフレスコ画は、1204年にコンスタンティノープルが第4回十字軍に滅ぼされた後、各地で出現した記念碑的な様式の最初の例のひとつである。新しい空間概念と表現力を特徴とするこれらのフレスコ画はビザンツ美術のみならず西洋美術の歴史を語るうえで欠かせないマイル・ストーンとなっており、チマブーエやドゥッチョ、ジョットといった13世紀後半の画家たちもこの流れの中にいる。
ストゥデニツァ修道院はセルビア正教会の修道院の卓越した傑作である。それは円形の石垣やふたつの楼門で要塞化された内部に連なるすばらしいモニュメント(教会、食堂、13~18世紀までの修道士の宿坊等)の数々だけでなく、幸運にも非常に重要な役割を果たした周辺環境が手付かずで保存されている。そうした保護区内には教会堂や礼拝所、生神女聖堂の石材が切り出された大理石採石場、採石の作業員や石工のための中世の集落跡等が存在する。
ストゥデニツァ修道院はセルビア史の最高点を示している。修道院には初代のセルビア王でありストゥデニツァ修道院の創始者でもある聖シメオン(ステファン・ネマニャ)と王妃アナスタシアの遺骨、そして第2代の国王でありはじめて戴冠式を行ったステファン初代戴冠王(ステファン・ネマニッチ)の遺骨、棺、覆いが収められている。この場所はステファン・ネマニャの末っ子である聖サワがセルビア語で最初の文学作品を書いた場所でもあり、ここでコンスタンティノープル総主教庁からの独立を要請してセルビア正教会の設立を成功に導いた。リラ修道院(世界遺産)がブルガリア文化の象徴であったように、ストゥデニツァ修道院は19世紀までセルビア文化の象徴でありつづけた。
資産は顕著な普遍的価値を伝えるための重要な要素をすべて含んでおり、バッファー・ゾーンも設置されている。その価値を伝えるために必要なサイズや機能を備えており、完全性は維持されている。すべてのモニュメント、特にきわめて繊細なフレスコ画の保存状態は良好であり、つねに専門家による監視を受けている。生神女聖堂の外壁の保存・修復作業は本来の外観を復元するために行われたが、徹底した考古学的・建築学的調査に基づいており、適切に実施されている。現在、資産は開発や放置による悪影響を受けていない。
資産の特徴はほぼ完全かつ無傷で伝えられており、その形状・デザイン・素材・原料・用途・機能といった点で真正性は維持されている。すべての保存・修復作業はオリジナルの素材と伝統的な技術を用い、モニュメントの真正性を損なうことなく実施されている。そしてこうした方法を正当化し、真正性を保証するために詳細な建築的・芸術的・考古学的・歴史的な文書が証拠として提示されている。
資産への既知の脅威とリスクとして、環境圧力と人口の管理の問題が挙げられる。修道院近くに水が貯まっていることも潜在的な脅威と考えられる。