トシェビーチはチェコ南部、モラヴィア南西部に位置する都市で、12世紀にベネディクト会の修道院が創設され、13世紀には修道院教会としてロマネスク様式およびゴシック様式で聖プロコピウス・バシリカが建設された。交易都市として発達する中でユダヤ人商人が定住をはじめ、やがてイフラヴァ川の北岸にモラヴィア最大規模のユダヤ人地区が誕生した。なお、本遺産はより精度の高い地図によって資産とバッファー・ゾーンの範囲が再設定され、2018年に軽微な変更が認められた。
トシェビーチの地には古くから集落があったようだがハッキリしていない。1101年にベネディクト会は交通の要衝であるこの地に修道院を創設し、1104年に修道院教会として聖ベネディクト礼拝堂を奉献した。修道院が一帯を開拓すると町は修道院城下町として発達し、次第にその重要性を増した。ボヘミア王ヴァーツラフ1世の時代、1250年代に新たな修道院教会として聖プロコピウス・バシリカが建設された。「バシリカ」はもともとローマ時代の長方形の集会所を意味し、初期キリスト教徒がバシリカに集まっていたことから教皇庁が認めた教会堂、あるいは中世の長方形の教会堂がバシリカ式教会堂と呼ばれるようになった。ユダヤ人商人は当初から町を訪れていたようで、13世紀には修道院の北東のポドクラーシュテジーに定住をはじめていた。
15世紀後半、ハンガリー王国は最盛期を迎え、国王マーチャーシュ1世はボヘミア王国を侵略してモラヴィアを奪取した。この際、トシェビーチは甚大な被害を受け、市民は町を放棄して逃げ去った。15世紀末から復興がはじまり、幾度かの大火を経て町はルネサンス様式で再建された。16世紀に町はモラヴィアの有力貴族ペルンシュテイン家の所領となり、1525年に修道院は廃止された。町の守りが手薄だったことから修道院跡地にルネサンス様式でトシェビーチ城が建設され、城壁の役割をなす旧僧院・宮殿・城壁で聖プロコピウス・バシリカを取り囲んだ。1666~84年に城はバロック様式で改修され、1726~33年にはバシリカも改修を受けてバロック様式の西ファサードが設置された。
16世紀前半に町はドゥブラヴィツェのオソフスキー家の手に渡り、さらに三十年戦争(1618~48年)を経てヴァレンシュタイン家の領地となった。16世紀前半、プロテスタントをリードするマルティン・ルターがユダヤ人の排斥を提唱したことからユダヤ人迫害運動ポグロムが活発化し、トシェビーチでもユダヤ人の迫害・追放が行われた。しかしヴァレンシュタイン家は宗教的に寛容で、ユダヤ人の定住や、ユダヤ教やプロテスタントの信仰を認めた。
ユダヤ人たちは主に城の北東のポドクラーシュテジーに住んでいたが、大火もあってイフラヴァ川の北岸に沿ってユダヤ人街を築いた。ユダヤ人地区は「ザモスティ」と呼ばれてトシェビーチと区分され、18世紀はじめには自治区となった。この頃、ユダヤ人はトシェビーチに住むことを認められなかった。
「諸国民の春」と呼ばれる1848年革命を経てユダヤ人地区は独自の市長を持つ自治体となったが、1860年代に他の宗教との差別が撤廃され、1870年代にはトシェビーチと分けていた鎖などの境界が撤去された。トシェビーチでの居住も認められたため、ユダヤ人の富裕層の一部は移り住んだ。この頃にはモラヴィア最大規模のユダヤ人地区となり、1890年には約1,500人のユダヤ人が居住していたという。1931年にはトシェビーチ、ポドクラーシュテジー、ユダヤ人地区の合併が実現した。
1938~39年にかけてナチス=ドイツの圧力を受けてチェコスロバキア共和国が崩壊し、事実上併合された。トシェビーチに残ったユダヤ人はゲットー(ユダヤ人強制居住区)となったユダヤ人地区に隔離され、やがて強制収容所、一部はアウシュヴィッツ(世界遺産)に移送された。この過程でユダヤ人は町から姿を消し、戦後戻ったのはわずか数人だったという。その数人も町を離れ、ユダヤ人は消え去った。
戦後、トシェビーチはイフラヴァ川南岸を中心に再興が進められた。ユダヤ人地区には労働者が入り込んだが、開発地から外されたため都市構造やほとんどの建物が手付かずで残された。
世界遺産の構成資産はユダヤ人地区、ユダヤ人墓地、聖プロコピウス・バシリカの3件で、すべてイフラヴァ川北岸に位置している。ユダヤ人墓地以外は文化財の保護区に含まれており、バッファー・ゾーンはすべての構成資産を含んで南岸にも広がっている。
ユダヤ人地区はイフラヴァ川北岸に沿って広がるエリアで、18~20世紀のユダヤ人の住居と施設が120棟ほど立ち並んでおり、一部ルネサンス様式あるいはバロック様式の建造物も見られる。地区を象徴する建物が新旧のユダヤ教礼拝堂シナゴーグだ。旧シナゴーグ(前シナゴーグ)は中世初期の創建といわれる建物で、1639~42年にバロック様式で建設され、1856年の火災を受けてゴシック・リバイバル様式で再建された。現在はチェコスロバキア・フス派の教会堂として使用されている。新シナゴーグ(後シナゴーグ)は1669年にルネサンス様式で建設され、18世紀に改修された。1926年に宗教施設を離れて倉庫や工場の施設となって荒廃したが、1990年代に修復が進められ、現在は博物館として公開されている。これ以外に、17世紀にバロック様式で建設されたユダヤ人地区市庁舎、1654年創建で1850年代に再建されたユダヤ人病院、17世紀のバロック建築でユダヤ教指導者ラビが暮らしていたラビの家、19世紀にオーストリア=ハンガリー帝国の皇室から紋章の使用を認められたスバコフ皮なめし工場、1787年に設立されたユダヤ人学校、18世紀に建設された富裕層の邸宅セリグマナ・バウエラ邸(現・ユダヤ博物館)などがある。
ユダヤ人地区の北に広がるユダヤ人墓地は15世紀後半に建設された。墓石の数は約4,000に及び、貴重な彫刻作品も含まれている。エントランスにたたずむ葬儀場は1903年に建設されたもので、墓地には第1次・第2次世界大戦の犠牲者を追悼する記念碑も立っている。
聖プロコピウス・バシリカはユダヤ人地区を見下ろす西の丘上に立つトシェビーチ城の中心に位置している。もともと1101年に創設されたベネディクト会修道院の修道院教会で、現在の建物は1250年代に建てられた。平面65.7×20.2mの三廊式(身廊とふたつの側廊を持つ様式)のバシリカ式教会堂で、ロマネスク様式と初期ゴシック様式の折衷となっている。たとえばアプス(後陣)はロマネスク様式で、クリプト(地下聖堂)はゴシック様式、身廊はロマネスク様式の重厚な造りと尖頭アーチや交差リブ・ヴォールトといったゴシック様式の意匠が混在している。また、双塔を持つ西ファサードは18世紀にボヘミアの建築家フランティシェク・マクシミリアン・カニカによってバロック様式で改修されたもので、ステンドグラスや尖頭アーチ窓などにゴシック様式の影響を残している。
本遺産は登録基準(i)「人類の創造的傑作」、(iv)「人類史的に重要な建造物や景観」でも推薦されていたが、(i)については西ヨーロッパの教会堂と比較して傑出しているとは見なせず、(iv)についてはユダヤ人地区の個々の建物や聖プロコピウス・バシリカ、あるいはユダヤ人地区の土地形態がひとつの建物・ひとつの都市として際立っているのではなく、ユダヤ人の伝統の表現方法であり文化的影響を与えるものであって当該基準には該当しないとして価値を認めなかった。
トシェビーチのユダヤ人地区と聖プロコピウス・バシリカは何世紀にもわたるユダヤ教とキリスト教というふたつの異なる文化の共存と価値観の交流を示している。
トシェビーチのユダヤ人地区は中央ヨーロッパにおけるユダヤ人のディアスポラ(離散)に関する文化的伝統の際立った証拠である。
資産には顕著な普遍的価値を伝えるすべての重要な要素が含まれており、資産の範囲とサイズも適切である。これまでにユダヤ人地区で行われてきた修復や改修といった作業は建造物の形状や特徴に大きな負の影響を与えてはおらず、都市構造も変化していない。ユダヤ人地区、聖プロコピウス・バシリカおよび資産の外に位置するトシェビーチの歴史地区の空間的・視覚的な関係は適切に維持されており、完全性は脅かされていない。すべての構成資産と歴史地区を含むバッファー・ゾーンでは資産の視覚的完全性を維持するために新たな建築や改築が規制されている。
ユダヤ人地区、ユダヤ人墓地、聖プロコピウス・バシリカを含む建造物群は高いレベルで真正性を保持している。ユダヤ人地区の都市構造は中世末期から20世紀に至るきわめてすぐれた階層構造を示しており、ひとつの建物でさえしばしば複数の時代の痕跡を留めている。もともと存在した121棟の建造物のうち取り壊されたのはわずか5棟で、個々の建造物と街並みの両面において素材・構造・装飾の真正性が保たれており、インテリアについても多くが無傷で真正性のレベルは非常に高い。
修復作業は遺産保護のための国際基準を遵守し、伝統的な素材と技術のみを用いて適切に行われている。聖プロコピウス・バシリカは長い歴史の中でさまざまな修復を体験してきたが、それにもかかわらず歴史的特徴と真正性はよく維持されている。墓地には数世紀前のものから現代のものまで多数の墓石が存在し、ほぼ手付かずで伝えられている。