南グリーンランドを意味する「グヤダー」はもともと「エストリビズ」と呼ばれた地域で、グリーンランド南端に近い亜北極圏にノース人(ノルウェーを中心とする古代・中世スカンジナビア人。ヴァイキング)によって東入植地が切り拓かれた。ノルマン系ノース人による10世紀後半から15世紀半ばのノース・グリーンランド文化と、先住民族イヌイットによる15世紀以降、特に18世紀後半から現在に至るイヌイット文化の痕跡を留めている。
グリーンランドには紀元前10,000~前8,000年までさかのぼるパレオ・イヌイット(古イヌイット/パレオ・エスキモー/古エスキモー)による古代遺跡が存在し、グヤダーには紀元前2400年頃の遺跡が発掘されている。イヌイットはもともとカナダやアラスカといった北アメリカの寒冷地に住む民族で、ヨーロッパのコーカソイド(白色人種)とは異なるモンゴロイド(黄色人種)となっている。紀元前の時代からイヌイットはしばしばカナダ北東部からグリーンランドへ渡っており、こうした古代のイヌイットがパレオ・イヌイットと呼ばれている。
グリーンランドがヨーロッパ人によって発見されたのは10世紀後半で、アイスランド生まれのノース人、赤毛のエイリーク(エイリーク・ソルヴァルドソン)によると考えられている。伝説によると、殺人を犯してアイスランドを追放されたエイリークは家族や賛同者・奴隷とともに25隻の船に乗って北西に浮かぶという伝説の島を探す旅に漕ぎ出し、氷に覆われた巨大な島を発見したという。しかし、氷で上陸することができなかったため南に移動し、氷のないフィヨルド(氷河が山をU字形に削ったU字谷に海水が流れ込んでできた氷河地形)を発見して上陸した。無事たどり着いたのはわずか14隻で、その地が草原で緑豊かだったことから「緑の地(グリーンランド)」と命名したという。この場所がエーリクスフィヨルド(トゥヌリアフィクフィヨルド)で、最初の入植地がブラッタフリズ(現・カッシアースク)だ。人々は集落を築き、農業や放牧、海洋哺乳類や魚介類の狩猟などによって生活を支えた。
息子のレイフ・エリクソンは西への探検を継続し、11世紀初頭に大西洋を渡ってヴィンランドに到達した。この地がカナダのニューファンドランド島のランス・オー・メドー(世界遺産)で、中世ヨーロッパ人による初のアメリカ大陸到達と考えられている。この後、レイフはブラッタフリズに戻り、キリスト教に改宗してチョニーズ教会と呼ばれる私設教会堂を建設した。
ノース人による入植は加速し、エイリークが切り拓いた東入植地に加えて西入植地や中部入植地が建設された。グヤダーでは13世紀までに行政機構や貿易ネットワークが整備され、司祭がいる教会堂が5棟ほど運営されていた。ヒツジやヤギの他にウシやトナカイの放牧が行われ、ヒツジやアザラシの肉、セイウチの牙、タラの干物などがアイスランドやノルウェーに輸出された。
1261年にグリーンランドはノルウェーの支配下に入ったが、基本的には自治が行われた。1380年にノルウェーがデンマークの支配を受け、1397年にはスウェーデンを加えて3国による、しかし事実上はデンマークを盟主とするカルマル同盟が結成された。同盟は1523年のスウェーデンの離脱で終了したが、デンマークとノルウェーは同君連合(同じ君主を掲げる連合国)デンマーク=ノルウェー二重王国となり、デンマークによる支配が続いた(以下、二重王国もデンマークと表記)。グリーンランドもデンマークの版図に入ったが、14世紀頃から衰退がはじまり、15世紀後半にはノース人の集落は消滅したと考えられている。原因は寒冷化や貿易の衰退など諸説あるがハッキリしていない。
1100年頃、カナダやアラスカから新たなイヌイットのグループ=チューレ・イヌイットがグリーンランドへ移動し、チューレ文化を築いた。チューレ・イヌイットはクジラやアザラシ、魚介類の狩猟を中心とした狩猟民族で、犬ぞりを最初に使った民族とされる。夏には動物の骨や革で作ったテント、冬には雪を固めた圧雪ブロックを積み上げて「イグルー」と呼ばれる氷上住居を建て、犬ぞりやそり、船を利用して遊牧生活を行った。15世紀までにグヤダーに入ると集落を築き、チューレ文化を伝えた。16世紀になるとヨーロッパの商人や宣教師・探検家らと貿易を行い、1721年にはデンマークの交易所がグリーンランド西部に設立され、1775年にはグヤダーのカコルトックにも設置された。1780年頃にはカコトゥックルークとイガリクでノルウェー人アンデルス・オルセンとイヌイットの女性トゥペルナの夫妻によって農業が持ち込まれ、ウシとヤギの放牧が開始された。やがてノース人と同様に狩猟・農業・放牧を行うコミュニティが確立され、一帯に広がった。狩猟を中心としたチューレ文化は14~19世紀まで続いた小氷期の末期、1650~1850年の寒冷期に衰退したが、グヤダーではこれを機に近代的な農業に移行した。
20世紀初頭にはカッシアースクでヒツジの放牧が盛んになり、この頃、イヌイットの遊牧生活が姿を消した。現在50家族ほどが同地で生活を行っているが、そのほとんどはチューレ・イヌイットとアンデルス・オルセンの子孫となっている。
世界遺産の構成資産は5件で、いずれも範囲で登録されている。
「カッシアースク」はもっとも北の構成資産で、エイリークが切り拓いた入植地ブラッタフリズのあった場所で、地域の中心となっている。ノース人の38の遺跡が確認されており、住宅や教会・納屋・灌漑設備のほか、周辺にはヒツジの放牧地や畑など24の農場跡が広がっている。グリーンランド初の近代的牧羊農家であるオットー・フレデリクセンの邸宅と牧場があり、1920~30年代に築かれた近代的な建物も含まれている。一帯にはパレオ・イヌイットやチューレ・イヌイットの遺跡も点在しており、古代から現在に至る多彩な農場跡や遺跡、農業や放牧の変遷を見ることができる。
カッシアースクからエーリクスフィヨルドを挟んで南東に位置する「イガリク」はヒツジの放牧を中心とした集落で、5つの牧場が存在する。12~14世紀にかけてのノース人の17の遺跡が点在しており、特にガーザーと呼ばれる司教邸と大聖堂を中心とした集落はノース人の集落としては最大を誇る。肥沃な大地を利用したグリーンランド最大級の農場跡があり、17世紀後半に持ち込まれた近代的な農場も残されている。また、チューレ・イヌイットの4つの遺跡があり、彼らの最初の農場と住宅跡が残されている。埋葬跡も特徴的で、ノース人、チューレ・イヌイット、現代の埋葬を比較することができる。また、19世紀以降に建造された53の文化財があり、イガリクの名産である赤砂岩を利用した石造住宅が特徴的だ。
イガリクの南に位置する「シサールトック」は非常に小さな構成資産で、ノース人の牧場と住宅をはじめ40を超える建造物で構成されている。周辺には牧草地が広がっており、干し草の産地となっていた。チューレ・イヌイットの影響が見られないノース人の純粋な文化が保存されている。
シサールトックの東の対岸に位置する「タッシクルーリック(ヴァトナヴェルフィ)」はノース人の19の遺跡、6の農場、1946年建設の歴史的建造物からなり、チューレ・イヌイットの遺跡は見られない。ヒツジやヤギの牧場が中心で、イガリク・クジャレク(フーフザ)は教会農場だ。ノース人の地名であるヴァトナヴェルフィは「湖水地方」を意味し、氷河やフィヨルドの美しい自然景観に由来する。
シサールトックの南に位置する「カコトゥックルーク(ヴェルセイ)」にはノース人の11の遺跡とふたつのチューレ・イヌイットの遺跡がある。放牧地としてすぐれた場所だが、牧草が生えにくいため牧場のサイズは限られている。ノース人の集落の保存状態は良好で、16の文化財が登録されており、大きな石造教会堂や住宅群などが含まれている。アンデルス・オルセンとトゥペルナの夫妻がイガリクに移る前に農場を切り拓いた場所であり、彼らの住宅や農場の跡を確認することができる。また、チューレ・イヌイットの埋葬地や20世紀の農場などもあり、農場の時代的変化が確認できる。
グヤダーは人間の入植地の際立った例である。農業には北限があるが、グリーンランド南部の比較的温暖な気候はふたつの主要な歴史的文化、10~15世紀のノース・グリーンランドの農業文化と、1780年代から現在までのヨーロッパ・イヌイットの農業文化という、農業と狩猟によって支えられたふたつの入植文化を伝えている。こうしたノース人とイヌイットの農業集落は海洋哺乳類の狩猟など地域の生態学的特異性を利用して農業・牧畜の補完を行い、結果的に他に類を見ないユニークで繊細な文化的景観を生み出した。ふたつの異なる文化的伝統が極端な環境、特殊な気候条件の中で土地利用・定住・自給自足の文化を発展させたが、とりわけイヌイットの土地利用が卓越した方法で初期のノース人の入植を明確化し、視覚化させている。
5件の構成資産にはノース人とイヌイットの農業システムに関する重要な要素をはじめ、顕著な普遍的価値を伝えるために必要なすべての要素が含まれており、農場の種類、土地利用のパターン、地形など、文化・歴史のさまざまな側面を示している。現在、ノース人の農場を利用したイヌイットの農場がある一方で、放棄されたノース人の農場跡地が残る考古学的景観も存在し、農業文化の変遷を物語っている。一帯の文化的景観はこうして自然の風景と農業・集落パターン、考古学的属性を包含している。
構成資産の状態は満足のいくものであり、適切に管理されている。バッファー・ゾーンの法的保護を確立するという政府の公約は資産の完全性の向上に貢献すると思われる。潜在的な脅威として、グリーンランド南部の周辺領域で計画されている鉱業、エネルギー、 インフラ等の開発プロジェクトが挙げられる。
文化的景観の真正性は10世紀から導入がはじまった牧歌的な農業景観に基づいている。ノース・グリーンランドの集落と農業の考古学的証拠は構成資産内に数多く発見されており、農場の関連建造物や記念碑的な建築物の形状・素材・デザインは時代背景を表現しており、ノース人の入植方法は個々の遺跡や遺跡間の比較によって確認することができる。
こうした建築的特徴の保全は構造的安定性を確保することを目的としており、ほとんどの遺跡は放棄されて以来、手付かずで伝えられている。詳細な歴史的文書がこれらの真正性を担保しており、狩猟資源や遺跡のマッピングを含むパレオ・イヌイット、チューレ・イヌイット、18世紀以降の農業景観のさらなる文書化は文化的景観のいっそうの理解に貢献するものと考えられる。