アルスランテペの墳丘は東アナトリア地方のマラティヤ平原にたたずむ古代都市遺跡で、ユーフラテス川の南西約15kmにあり、上メソポタミアに位置している。アルスランテペは「ライオン(アルスラン)のテル」を意味し、ヒッタイトの古代都市メリドの遺構から発見されたライオン像に由来する。「テル」は集落や都市の遺跡が積み重なった丘のような層状遺跡のことで、日本語で遺丘、トルコ語でテペと呼ばれる。アルスランテペはおおよそ高さ30m・長径250m・短径150mほどの楕円形の墳丘で、少なくとも紀元前6千年紀から中世のビザンツ時代までの遺構や遺物が発掘されている。ハラフやウバイド、ウルク、ジェムデト・ナスル、古アッシリア、ミタンニといったメソポタミアの諸文化や、ヒッタイトをはじめとするアナトリアやコーカサス地方、エジプトの文化まで、多彩な文化の影響を受けた古代都市の遺構が同じ墳丘に積み重なっている。特に貴重なのは後期銅器時代(金石併用時代)に当たる紀元前4千年紀のアドベ(泥にワラを混ぜて作った日干しレンガ)建築で、遺構からは世界最古級の宮殿跡や剣・ろくろなどが出土している。
アルスランテペは大きくI~VIII期に分けられており、各期がさらに細分化されている。以下が期・時代・年代・同地の有力国のおおよその区分けだ。
この中には含まれていないが、近年墳丘の西斜面下部でハラフ文化(紀元前6000~前5000年前頃。諸説あり)やウバイド文化(紀元前6500~前3000年頃。諸説あり)の遺構が発見されており、古い部分は少なくとも紀元前6000年紀までさかのぼることが明らかになっている。この場所で集落が発達した理由として、メソポタミアの文化圏にある交通の要衝で、ユーフラテス川の恩恵を受けて水量は十分で土壌は豊穣、それでいて洪水域の外に位置し、農業にきわめて適した土地であったことが挙げられる。十分に調査・研究された遺跡としては紀元前5000年紀の終わり、VIII期のものが最古級で、住居跡からはキッチンやオーブン・土器・石臼などが発掘されており、土器にはウバイド文化の影響が見られる。
VII期の集落はアルスランテペでもっとも長期にわたって繁栄したもので、アドベの一般的な住居が並ぶ北東部、上流階級の住居や公共施設で構成された西部、北東部の集落が後に拡大した南部と、3つのエリアでそれぞれ特徴が見られる。一般的な住居は1~3部屋からなり、壁や柱はアドベで築かれ、白い土塗りで仕上げられており、一部の壁には白と黒の三角形のような幾何学図形が見られる。西部の神殿( 神殿D)は儀式用であろう広場を伴っており、その道具類も出土している。VII期末に築かれた神殿(神殿C)は石や泥・アドベ・木材で西端付近に築かれており、墳丘の周辺一帯から見上げることができた。
アルスランテペはVI A期に中央集権化が進められ、最盛期を迎えたた。この時代の終盤にはVII期の集落の上に宮殿と見られる壮大で整然とした建築コンプレックスが築かれ、豪壮な住居や神殿(神殿B)が立ち並んだ。公共エリアも広く、オーディエンス・ビルと呼ばれる大型の建物には広い中庭が備わっており、人々が集会を開いたものと思われる。時間の経過とともに宮殿は規模を増し、倉庫や神殿(神殿A)が増築された。土塗壁には赤や黒・白の複雑な幾何学文様が見られるようになり、食糧は土器の壺やボウルに入れてクレトゥラ(容器の蓋として使われた粘土や漆喰などの塊)で蓋をした。クレトゥラには刻印が刻まれており、政府が食糧を管理していた様子がうかがえる。剣・槍といった武器や工芸品には銅やヒ素銅・鉛・銀なども使用されており、金属の使用も確認できる。このような土器や金属はすぐれた陶芸や冶金の芸術があったことを示しており、武器については5,000年前の世界最古級の剣、陶器についても最古級のろくろ(土器を作るための回転台)が使用されていた。この時代の墳丘は貴族などエリート層のエリアで、ここを中心に君主や神官を中心としたメソポタミア型の原始都市国家が成立し、上メソポタミアの都市ネットワークの一部として重要な役割を果たした。しかし、紀元前4000年紀の終わりになんらかの危機を迎えたようで、町を囲う巨大な城壁が築かれ、武器が調えられた。紀元前3100年頃に大規模な火災が起こって灰燼に帰し、銅器時代の繁栄は終了した。
初期青銅器時代のVI B1期に別の場所に新たな街が築かれたが、質的にも量的にも小さく簡易的なもので、移牧(季節で牧場を変える放牧)を行う牧畜農家の集落と見られる。メソポタミアよりもコーカサス地方や東アナトリアとの結び付きが強く、小舞壁(こまいかべ。格子状の木枠に土やワラ、動物の糞などを塗って作った壁)や家畜のための木造小屋、光沢のある赤や黒で彩色された赤彩・黒彩土器などにそうした文化的特徴を伝えている。
VI B2期にふたたび中央集権が進み、新しい政治システムによる都市が形成された。周囲には石の土台を持つ厚さ4mのアドベ造の城壁が張り巡らされ、城内には公共広場や冶金や食肉加工などの工房が立ち並んだ。特筆すべきは城壁の外に築かれた「王家の墓」と呼ばれる紀元前3000~前2900年頃の墓で、5mの竪穴の底に埋められていた石棺には膝を抱えた35~45歳の男性の遺体が収められており、金・銀・水晶・カーネリアなどの装飾品や船の模型、金・銀・銅製の武器、壺・箱といった副葬品が発見された。石棺の上には10代の少女4人の遺体が並んでおり、殉死者と見られる。土器について、この時代にはVI A期の遺構から大量に発掘されている大型の壺やボウル、クレトゥラがほとんど出土しておらず、ろくろを使った形跡もなく、メソポタミア諸文化との違いが見て取れる。最終的にこの都市も焼け落ちており、その後放棄されたようだ。
VI C期には遊牧民が暮らしていており、土と柱で作った円形の小さな小屋や多数の竪穴の跡が発見されている。こうした穴は食糧貯蔵庫やゴミ捨て場として使用していたようだ。この時代の後半になると定住が進められ、複数の部屋を持ち、キッチンに調理台や洗面台・オーブン、部屋の中央に馬蹄形の囲炉裏のような炉を備えた住居に変化している。また、大型の建物は共有の食糧倉庫と見られ、この地を遊牧の拠点としていたと見られる。特徴的なのが土器で、初期には光沢のある赤彩や黒彩の土器が用いられていたが、後には黄彩土器に赤や褐色の文様を施した独特のものに変化した。これらはおおむねコーカサス地方の文化圏の影響と見られる。
VI D期に集落は徐々に広がり、墳丘の多くの斜面を住居が埋め、グリッド状に道路・水路・広場などが整備され、やがて墳丘を取り囲む城壁や城門・塔が設置された。強力な政権の存在を裏付ける巨大な宮殿や神殿は発見されていないが、マラティヤ平原の最大都市に発展したようだ。土器は前の時代の赤彩・黒彩・黄彩土器が継承されており、描かれている文様や絵はより精密で複雑なものとなった。これは専業化が進められたことを示し、陶芸や鋳物・機織りの工房と見られる小屋の存在がそれを裏付けている。
V A期はVI期の文化を引き継いでおり、竪穴や炉・土器などにその様子を見ることができる。この中期青銅器時代に古アッシリアが栄えて交易ネットワークを整備したが、アルスランテペもその一角を担った。
V B期はメソポタミアの古アッシリアに代わってアナトリアのヒッタイト古王国が勢力を広げた時代で、アルスランテペの都市は「メリド」と呼ばれた。群雄割拠する中で墳丘は城壁に囲まれたが、その城壁は動物を象った2体の像に守られた門塔をはじめヒッタイトの首都ハットゥシャ(世界遺産)の建築と類似しており、土器などとともにヒッタイトの文化の影響が見られる。一方で、馬蹄形の炉など、これまでのアルスランテペの文化も引き継いでいる。
IV期はヒッタイト古王国→中王国→新王国と推移する時代で、その最盛期である新王国の紀元前14世紀にはアナトリア高原(現在トルコのあるアナトリア半島の高原部)の多くとレヴァント地方(現在のシリア・ヨルダン・レバノン・イスラエル周辺)北部を版図に収め、多くの国を従える帝国となった。メリドはヒッタイトとミタンニという二大国の間に位置していたが、紀元前1350年頃にヒッタイトの支配下に入り、城壁をはじめとする防衛システムを一新した。帝国門と呼ばれる門が築かれたのはこの頃だ。また、水路跡と見られるコーベル・アーチ(持送りアーチ/疑似アーチ。壁の石を内側に少しずつ張り出させて中央付近で接続する構造)を用いた地下トンネルが発掘されており、これもヒッタイトの建築技術によるものとされる。
III期のはじめに謎の民族「海の民」が地中海沿岸部を席巻したいわゆる「紀元前1200年のカタストロフ」が起こってヒッタイト新王国も滅亡し、人々は東アナトリアやシリア北部に移動してシロ・ヒッタイトと呼ばれる小国群を形成した。メリドはカンマヌと呼ばれる小国の首都となり、「マリジ」と呼ばれて城郭都市としてありつづけた。
II期の有名な遺構がライオン像を掲げたライオン門で、門は狩猟などを描いたレリーフで飾られた。これ以外にもこの時代に神々や国王を描いた数々の彫刻やレリーフ・壁画が制作されている。また、コロネード(水平の梁で連結された列柱廊)も特徴的な建造物として挙げられる。この時代はメソポタミア、アナトリアはもちろん、エーゲ文明やギリシア文明の影響も受けて多用に進化した。しかし、712年に新アッシリアのサルゴン2世の攻撃を受け、町は徹底的に破壊されてその繁栄に終止符を打った。
シロ・ヒッタイト諸国が消滅すると、アルスランテペは完全に放棄された。ローマ帝国が襲来すると墳丘は駐屯地として整備され、ユーフラテス川沿岸に要塞が建設された。やがて要塞の周辺には「メリテネ」と呼ばれる集落ができ、これが後に「マラティヤ」として発展した。アルスランテペでも小さな集落が起こったが、マラティヤと違って交易路から外れたこともあって発達せず、後にはキリスト教の墓地にもなった。ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の版図に入った4~6世紀に人の居住の跡が見られるが、その後まもなく放棄された。
本遺産は登録基準(ii)「重要な文化交流の跡」、(iv)「人類史的に重要な建造物や景観」でも推薦されていた。しかし、ICOMOS(イコモス=国際記念物遺跡会議)は(ii)について、多様な時代と文化の途切れない交流の跡であるという主張に対し、遺跡が国境付近にあってさまざまな国々と交流していたのは事実だが、それは時間の経過に伴う重要な価値交換というよりも、ある時代から別の時代への根本的な変化によって特徴付けられるものであり、資産内のどの遺跡がどのように異文化と交流して影響を受けたのか十分に証明されていないとした。また(iv)について、紀元前4千年紀の近東のコミュニティを代表する伝統的な建築システムであり、特に宮殿は最古の例であるという主張に対し、アドベを用いた建築は他の遺跡と大幅かつ明確に異なるものとは認められず、宮殿が最初期のものであることも証明されていないとした。
アルスランテペは近東における最初期の国家社会の誕生を示す並外れた証拠であり、特に紀元前4千年紀のウルク文化に関連した独自の形態を伝えている。他のウルク文化の遺跡と比較した場合、その独創性は同地の広範な遺構や遺物にあり、それらがこの文化の特徴である最初期の人々の生活、彼らの活動、他地域の住民との関係などを他にない詳細さで再構築することを可能にしている。同時に、都市のない地域に中央集権的な政権が誕生し、経済を押さえて周辺住民を支配したその過程を物語っており、後期銅器時代の社会と日常生活について完全で鮮明な姿を明らかにしている。
発掘され保存・展示されている広い領域はアルスランテペの重要性、すなわち人類史に著しい変化をもたらした国家と新しい形の社会の誕生を証明する特徴や過程を完全に内包している。特に紀元前4千年紀の巨大な宮殿群は広く公開され、完全な形で一体的に保存されており、独自のアドベや土塗りの壁や床、数々の部屋の特徴や壁画などが40年以上の歳月を掛けて明らかにされて以来、ほとんど手付かずの状態で伝えられている。ヒッタイトやシロ・ヒッタイトの時代に関する研究が徐々に規模を拡大しながら進められているが、近い将来、この墳丘で歴史的・文化的にきわめて価値の高い新しい遺跡が発見される可能性を秘めている。資産は墳丘の全区画と表面、集落の年代を示す遺物が発掘された北側の隣接する小区画を含んでおり、顕著な普遍的価値を有するすべての要素を備えている。これまでのところ資産についてもバッファー・ゾーンについても新たな開発や不適切な介入による悪影響を受けていない。
アルスランテペで公開されている建造物群、特に野外博物館に展示されている宮殿の遺構はすべてオリジナルで、修復等はなされていない。アドベの壁をはじめ、内部に見られるの土の技術、土塗り・壁画・床といった紀元前4千年紀の建築の全体が発見当初と同じ状態で維持されており、必要がある場合に限って泥やワラといったオリジナルと同じ素材を用いて最小限の修復が施されている。発掘後の屋根は金属のポールで支えられているが、ポールは壁に接しておらず、穴を穿ったりせずフロアから直接立ち上がっているため、地下に眠る考古遺跡も含めて遺構に影響を与えていない。宮殿コンプレックス全体についても一切手が加えられておらず、真正性は完全に保たれており、遺跡を含む景観についても非常によく保存されている。