ハットゥシャ:ヒッタイトの首都

Hattusha: the Hittite Capital

  • トルコ
  • 登録年:1986年
  • 登録基準:文化遺産(i)(ii)(iii)(iv)
  • 資産面積:268.46ha
世界遺産「ハットゥシャ:ヒッタイトの首都」、ハットゥシャの城壁とスフィンクス門
世界遺産「ハットゥシャ:ヒッタイトの首都」、ハットゥシャの城壁とスフィンクス門 (C) Carole Raddato
世界遺産「ハットゥシャ:ヒッタイトの首都」、ライオン門
世界遺産「ハットゥシャ:ヒッタイトの首都」、ライオン門 (C) Muhammed Diler
世界遺産「ハットゥシャ:ヒッタイトの首都」、中央奥は復元された城壁、手前は大神殿周辺の遺跡
世界遺産「ハットゥシャ:ヒッタイトの首都」、中央奥は復元された城壁、手前は大神殿周辺の遺跡。甕に穀物を貯蔵していた (C) Carole Raddato
世界遺産「ハットゥシャ:ヒッタイトの首都」、ヒエログリフが刻まれたニシャン・テペの岩場
世界遺産「ハットゥシャ:ヒッタイトの首都」、ヒエログリフが刻まれたニシャン・テペの岩場 (C) Carole Raddato
世界遺産「ハットゥシャ:ヒッタイトの首都」、ヤズルカヤ遺跡の聖域
世界遺産「ハットゥシャ:ヒッタイトの首都」、ヤズルカヤ遺跡の聖域 (C) Bernard Gagnon

■世界遺産概要

アナトリア半島北部に当たる黒海地方のチョルム県ボアズカレ(旧名ボアズキョイ)郊外に位置する古代都市遺跡。この地には紀元前18~前12世紀に栄えたヒッタイトの首都ハットゥシャがあり、その最盛期、ヒッタイトはここを中心に鉄器や戦車を駆使して大国を築き上げ、メソポタミアやエジプトの国々と覇を競った。

○資産の歴史

紀元前2000年以前、ボアズカレ周辺にはハッティ人が都市国家群を築いており、ハットゥシャもそのひとつとして栄えていた。ハッティ人は冶金術に長け、金・銀・銅の製錬をはじめ高度な文化を有しており、アッシリアをはじめメソポタミアの国々と盛んに交易を行った。

紀元前3千年紀の後半にヒッタイト人がアナトリアに入植し、数々の都市国家を建設した。そのひとつがネシャで、紀元前18世紀にネシャ王アニッタがハットゥシャに侵入し、一晩で滅ぼしたと伝えられている。発掘調査でこの時代の地層から大量の灰と焼け跡が発見されており、町を破壊して火を掛けたものと考えられている。

アニッタの後継者のひとりがラバルナ1世で、紀元前17世紀に国王を宣言し、ヒッタイト古王国を打ち立てた。続くラバルナ2世はハットゥシャを占領して再建し、ネシャから遷都すると町の名にちなんでハットゥシリ1世に改名した。以後、紀元前13世紀にタルフンタッサに都を遷したムワタリ2世の治世を除いてハットゥシャは首都としてありつづけた(以上のヒッタイト建国期の物語には異説あり)。

続くムルシリ1世はカナン(地中海とヨルダン川・死海の間の地域)で栄えていたヤムハド王国を攻め、首都ハルペ(アレッポ。世界遺産)を落としてこれを滅ぼした。続いて紀元前1595年頃、メソポタミアに攻め込んで古バビロニア(バビロン第1王朝)の首都でありメソポタミア最大都市であるバビロン(世界遺産)を攻略し、同王朝をも滅ぼしてヒッタイトの名をオリエント(メソポタミア、カナン、アナトリア、コーカサス、ペルシア、エジプト周辺の地域)中に知らしめた。

ヒッタイトの優位性は製鉄技術にあったとされる。後期青銅器時代にあってヒッタイト人ははじめて鉄器を本格的に使用した民族で、主に鉄隕石(鉄とニッケルの合金を主成分とした隕石)を利用して鉄を加工した。鉄製の武器や農具によって武力や生産力は飛躍的に上昇し、鉄を使用した軽戦車(戦闘用馬車/チャリオット)はオリエントを席巻した。こうした冶金術はさまざまな金属の製錬・加工に利用され、金・銀・銅製品の輸出につながった。

ムルシリ1世の死後、古王国は混乱し、勢力を縮小してやがて滅亡。紀元前1500年頃に中王国が成立したが、ミタンニの侵攻を受けて70年ほどで終了し、紀元前1430年頃に新王国が興った。

トゥドハリヤ1世が興したヒッタイト新王国はヒッタイト帝国とも呼ばれ、初期の新王国時代以来の繁栄を取り戻した。特に紀元前14世紀にはシュッピルリウマ1世が当時メソポタミアを広く支配していたミタンニを打ち破り、シリアに進出して版図を拡大した。ヒッタイトの南下に対してエジプト新王国第19王朝のファラオ(国王)であるラムセス2世は北上してシリアのアムルを奪取。時の国王ムワタリ2世は自ら出撃し、紀元前1274年頃、ヒッタイト軍の軽戦車3,000両とエジプト軍の軽戦車2,000両がシリアの都市カデシュの丘で対峙した(カデシュの戦い)。激しい戦闘の後、膠着状態に陥り、両国は最終的に世界初の平和条約=カデシュ条約を締結。戦いは引き分けに終わったが、被害はエジプト側に多く敗戦寸前だったといわれ、アムルもヒッタイトに返還されている。ただ、ラムセス2世は国内に戦勝を報告し、アブ・シンベル大神殿(世界遺産)やカルナック神殿(世界遺産)などに戦勝のレリーフを刻んでいる。

紀元前12世紀にいわゆる「紀元前1200年のカタストロフ」が起こる。これによりヒッタイトやミケーネ文明が滅び、エジプト新王国が衰退するなど、オリエントの勢力図が大きく書き換えられた。原因として、系統不明の海洋民族「海の民」をはじめとする諸民族の移動や気候変動などが挙げられている。ヒッタイトはこの時代、アッシリアやミタンニなどと覇を競っていたが、海の民や遊牧民族の侵入、内紛、気候変動による飢饉などによって混乱し、紀元前1190~前1180年頃にシュッピルリウマ2世がハットゥシャを放棄して滅亡したと考えられている。その後、ヒッタイト人はアナトリア半島南東部やシリア北部に移動してシロ・ヒッタイトと呼ばれる小国群を形成したが、次第にフルリ人などと同化し、紀元前8世紀にはアッシリアによって征服された。

○資産の内容

世界遺産の構成資産は4件で、「ハットゥシャ(及びイビクカムの森)」「ヤズルカヤ遺跡(岩の聖域)」「カヤリ・ボガス(前哨地)」「オスマンカヤシ(岩のネクロポリス)」となっている。ただ、面積的にはほとんどが「ハットゥシャ(及びイビクカムの森)」で、他は小さなエリアに限定されている。

「ハットゥシャ(及びイビクカムの森)」は東西1.3km・南北2.1kmほどのエリアで、新王国時代には全長約8kmで5基を城門を備えた二重の市壁によって囲まれていた。形が残る遺構の多くは新王国時代のものだが、ヒッタイト以前のハッティ人やアッシリア、ヒッタイト以降のフリュギア、ガラテア、ローマ、ビザンツなど多彩な時代の遺跡が確認されている。城郭都市は渓谷の断崖を利用して築かれており、高い場所と低い場所で200m以上の高低差があり、おおよそ北部の下市(下部都市)と南部の上市(上部都市)に分かれている。

下市の主要な建物として、城壁、雷神・天候神テシュプや太陽神へパト(アリンナ)らに捧げられた大神殿、軍事施設であるブユッカレ(大城塞)、新王国の王宮だったニシャン・テペと周辺の集落などが挙げられる。城壁は石造だが、多くの建物は日干しレンガ造でメソポタミアの影響が表れている。一帯は19世紀末に発掘が開始され、1906年に楔形文字で記された粘土板が発見された場所として知られる。ボアズカレ・アーカイブと呼ばれるこうした粘土板は3万枚を超え、楔形文字が解読されるとこの地がハットゥシャであることが特定されただけでなく、アナトリアやメソポタミア、エジプトの歴史の解明に大きく貢献した。また、ニシャン・テペからはアナトリア象形文字(アナトリア・ヒエログリフ)が刻まれた碑文が発見されている。これ以外に下市からは、ヒッタイト以前のアッシリアの交易所であるカルムや、アニッタによる焼き討ちの跡なども発見されている。

上市の南にはハットゥシャの象徴となっているライオン門(獅子門)、スフィンクス門、王の門という3基の城門が西からおよそ700mほどの間隔で並んでいる。その名の通りライオン門はライオン像、スフィンクス門は人間の顔・ライオンの身体・ワシの翼を持つスフィンクス像をエントランスの左右に掲げており、王の門については王あるいは神の像が片側のみに設置されている。都市の真南に位置するスフィンクス門の地下にはイェルカプと呼ばれる地下道が走っており、城壁の下を通って城外に出ることができる。その外に広がっているのがイビクカムの森で、かつては木々で覆われていたが、森林伐採や気候変動によって多くが失われた。上市の南には数多くの神殿跡が点在しており、聖域として祀られていたようだ。

「ヤズルカヤ遺跡(岩の聖域)」はハットゥシャの北東に位置する渓谷の岩場で、谷の入口に大規模な寺院が立っていた。谷には大ギャラリーや小ギャラリーといったレリーフ地帯があり、岩にはテシュプやへパト、戦闘神シャルマをはじめ数多くの神々が描かれている。この聖域を築いたのは13世紀のハットゥシリ3世やその息子トゥドハリヤ4世で、彼らの姿もレリーフに刻まれている。ハットゥシャとは専用の道路で結ばれており、国王は儀式のたびにこの地を訪れて祀っていた。

「カヤリ・ボガス(前哨地)」は王の門の南東1.5kmほどに位置する都市遺跡で、かつてはハットゥシャを守るための要塞都市として機能していたと考えられている。

「オスマンカヤシ(岩のネクロポリス)」はハットゥシャの北、ヤズルカヤ遺跡の西に位置する死者の町=ネクロポリスで、かつての墓地が広がっている。紀元前19~前14世紀のものと見られる91の墓が発見されており、骨壺を収める52の火葬用の墓と天然の洞穴を利用した39の竪穴式の墓が確認されている。

■構成資産

○ハットゥシャ(及びイビクカムの森)

○ヤズルカヤ遺跡(岩の聖域)

○カヤリ・ボガス(前哨地)

○オスマンカヤシ(岩のネクロポリス)

■顕著な普遍的価値

○登録基準(i)=人類の創造的傑作

都市の城塞、ライオン門、王の門、ヤズルカヤ遺跡の遺構とレリーフ群はきわめて独創的な芸術的成果を示している。

○登録基準(ii)=重要な文化交流の跡

ハットゥシャはアナトリアとシリア北部における紀元前2千~1千年紀の文明に支配的な影響を及ぼした。

○登録基準(iii)=文化・文明の稀有な証拠

政治・宗教都市の宮殿・寺院・交易所・ネクロポリスはヒッタイトの首都の全体像を表現し、現在は消滅したヒッタイト文明に関する独自の証拠を提示している。

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

ハットゥシャには王宮・寺院・要塞をはじめ、複数のタイプの建物や建造物群が完全に保存されている。

■完全性

構成資産には顕著な普遍的価値を表現するために必要なすべての要素が含まれている。この土地の立地から産業開発による悪影響や脅威はないと考えられる。また、住宅地は遺跡からかなり離れており、北および北西に限定されているため、現在のところ都市開発も本遺産に対する脅威ではない。周辺の自然も維持されており、その中に位置しているという環境も保たれており、現代的な影響にさらされていない。

■真正性

ドイツ考古学研究所がトルコ当局と緊密に協力して行った考古学調査および長期にわたる修復・保護活動により、寺院・宮殿・住居などのさまざまな建造物に加え、埋没していた大型穀物庫や人工的な池をはじめとする共同施設が発見された。これらの発見により、中近東のもっとも魅力的な古代都市のひとつの研究が可能になった。随時、保護を目的とした修復が行われているが、形状・デザイン・レイアウトの点でほぼ真正性を保っており、訪問者は青銅器時代の大都市を体験し、建物間の関係を理解することができる。これらの条件を満たしつづけるためには、修復の素材や工法を慎重に検討しつづける必要がある。

■関連サイト

■関連記事