ペルガモンはトルコ北西部ミュシア地方のイズミル県ベルガマに位置する古代遺跡。紀元前3世紀にアッタロス朝の首都ペルガモンとして建設され、ローマ時代に人口は最大15万に達し、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)、オスマン帝国の時代まで繁栄を続けた。アナトリアの女神信仰を引き継ぐアテナ神殿や帝国屈指の医療センター・アスクレペイオン、古代3大図書館のひとつに数えられるペルガモン図書館、アジアの7教会のひとつである聖ヨハネ教会をはじめ、重要な遺構が点在している。
ペルガモンには紀元前8世紀ほどまでさかのぼる居住の跡があり、古くから集落が成立していた。ギリシア時代、アケメネス朝ペルシア時代にも都市が成立していたが、こうした都市はアケメネス朝討伐に乗り出したマケドニア王アレクサンドロス3世(アレキサンダー大王)の遠征後の都市再建で破壊されたため、ほとんど残されていない。アレクサンドロス3世はヨーロッパからエジプト、中央アジア、インドの手前に至る大帝国(アレクサンドロス帝国)を成立させるが、紀元前323年に後継者(ディアドコイ)を決めずに急死したため帝国は分裂し、ディアドコイ戦争が勃発した。
ディアドコイ戦争ではマケドニア人による数々のヘレニズム国家が誕生したが、アナトリアについてはアンティゴノス朝マケドニアやリュシマコス朝トラキア、セレウコス朝シリアなどが領有権を争った。紀元前281年、セレウコス朝とリュシマコス朝の間で戦われたコルペディオンの戦いでリュシマコスが戦死すると、その部下であるフィレタイロスがセレウコス朝の下でアッタロス朝ペルガモン(ペルガモン王国。紀元前282~前133年頃)を打ち立てた。
リュシマコス朝の財産を引き継いだフィレタイロスは紀元前282~前263年頃にかけてバクルサイ平野を見下ろすケールの丘に首都ペルガモンを建設した。リュシマコスこの場所に要塞を築いており、ペルガモンは要塞を意味する "perg" にちなむ。伝説ではギリシア神話の英雄テレポスやグリノスの創建、あるいは英雄ペルガモンが町を占領して命名したと伝わっている。
ペルガモンの中心は標高335mのケールの丘の頂部のアクロポリスとその周辺で、上アゴラ(公共広場)やアテナ神殿、デメテル神殿、宮殿などが築かれた。また、ペルガモンの北西に位置するキュベレの聖域はギリシア時代のアルカイック期(紀元前8~前5世紀)にはすでにアナトリアの大地の女神キュベレの聖域として神聖視されていた。フィレタイロスはこの地を整備してペルガモンと結び、キュベレをアテナと同一視して祀った。また、イグマ・テペ・トゥムルスやイキリ・トゥムリといったマウンド(墳丘・墳丘墓)群が築かれたのもこの頃だ。
フィレタイロスは子供がいなかったため養子であるエウメネス1世が跡を継いだ。エウメネス1世は宗主国であるセレウコス朝に反乱を起こし、紀元前261年にこれを打ち破って版図を広げた。次のアッタロス1世はセレウコス朝と戦って一時はアナトリア西部の多くを平定し(後に奪還された)、共和政ローマとアンティゴノス朝の間で戦われたマケドニア戦争では共和政ローマと同盟を組んで戦った。アッタロス1世は学問や芸術・建築を奨励し、ペルガモンには壮麗な建物が立ち並んだという。
続くエウメネス2世は共和政ローマと結んでアンティゴノス朝とセレウコス朝のアナトリアやエーゲ海への侵出を阻止し、アナトリアの多くを解放して版図に収めた。エウメネス2世は全長約4kmの壮大な市壁を築いてアクロポリスの下部まで囲い、大祭壇や下アゴラ、ギムナシオン(屋内競技場・体育館)などを建設・整備した。また、エウメネス2世が建設したペルガモン図書館はエジプトのアレクサンドリア図書館、エフェソスのセルシウス図書館(ケルスス図書館。世界遺産)と並んで古代の3大図書館に数えられるほどのものとなった。また、出版や羊皮紙の生産もペルガモンの産業となり、羊皮紙を示すイタリア語の "pergamena"、スペイン語の "pergamino"、英語の "parchment" などはペルガモンに由来する。続く弟のアッタロス2世の治世は共和政ローマとの同盟もあって安定し、ペルガモンは大いに繁栄した。一説ではこの頃の人口は20万に達したという。
しかし、次のアッタロス3世は学者肌で医学や生物学に没頭してほとんど政治を行わず、後継者もいなかったことから国を共和政ローマに遺贈した。紀元前133年の死去に伴ってアッタロス朝は滅亡して国は細分化され、ペルガモンは紀元前129年頃に共和政ローマのアシア属州の首都となった。
紀元前27年にはじまるローマ帝国の時代、特に五賢帝に数えられる皇帝トラヤヌスとハドリアヌスの時代にアクロポリスの麓に新たな都市が建設された。フォルム(公共広場)やテアトルム(ローマ劇場)、アンフィテアトルム(円形闘技場)、スタディオン(屋外競技場)、セラピス神殿といった施設が築かれ、人口は15万人に達してアナトリア最大級の都市に発展した。特に医学の神アスクレピオスに捧げられた病院複合施設アスクレペイオン(アスクレピオスの聖域)は帝国でも屈指のものとなった。カラカラの時代に都市はさらに拡張されたが、3世紀以降は衰退し、262年の地震やゲルマン系ゴート人の侵略を受けて破壊された。
4世紀に入ってキリスト教が広がると、セラピス神殿が聖ヨハネ教会(キジル・アヴル)に改修された。『新約聖書』の「ヨハネの黙示録」でも言及されている教会堂で、アナトリア西部にはじめて築かれた教会堂群であるアジアの7教会(黙示録の7教会)のひとつに数えられている。395年に東西ローマ帝国が分裂するとペルガモンはビザンツ帝国(東ローマ帝国)領に組み込まれた。
7~8世紀にイスラム王朝であるウマイヤ朝(アラブ帝国)やアッバース朝(イスラム帝国)の圧力を受けて市壁が強化された。12世紀頃からテュルク系(トルコ系)のアナトリア進出がはじまり、1345年頃にオルハンによってオスマン帝国に吸収された。この頃にはアクロポリスはすでに廃墟で、町も地方の集落にすぎなかった。
世界遺産の構成資産はアクロポリス(都市の中心となる丘)を中心に形成された都市遺跡と、近郊の聖域、トゥムルス(複数形はトゥムリ)と呼ばれる7件のマウンド群の計9件からなる。
「重層都市ペルガモン」の中心は西のセリノス川と東のケイトス川に挟まれたケールの丘に立つアクロポリスで、資産にはその北に展開する水利施設や南の平野に広がる都市遺跡群が含まれており、南の聖ヨハネ教会やセリノス川を越えた西のアスクレペイオンまで広がっている。
アクロポリスは上部と下部に分けられる。上部アクロポリスはアテナ神殿を中心にトラヤヌス神殿、ディオニュソス神殿、大祭壇、ペルガモン図書館、上アゴラ、テアトロン(ギリシア劇場)、宮殿、武器庫などが立ち並んでいる。最古の神殿がアテナ神殿で、21.8×12.7mのイオニア式の周柱式神殿となっている。トラヤヌス神殿はトラヤヌスとハドリアヌスの時代に丘の頂に築かれたコリント式の神殿で、アクロポリス最大の神殿だった。ディオニュソス神殿も同時代のものだが、アッタロス朝期の神殿をローマ時代に再建したものと見られる。大祭壇はゼウス祭壇あるいはペルガモン祭壇とも呼ばれる祭壇で、最高神ゼウスに捧げられている。35.64×33.40mの多柱式の建物で、全長100m以上にわたってオリンポスの神々と巨人族の戦いを描いたペルガモン様式のレリーフで飾られていた。1860年代にドイツ人のカール・フーマンが発見して持ち帰ったため、現在オリジナルはドイツの世界遺産「ベルリンのムゼウムスインゼル[博物館島]」のペルガモン博物館に復元された大祭壇に飾られている。紀元前3世紀に築かれたテアトロンは10,000人以上を収容する円形劇場で、古代劇場の中でも特に急勾配で知られる。ペルガモン図書館はアテナ神殿と隣接しており、かつては4部屋に20万冊を収蔵していたという。
下部アクロポリスはデメテルの聖域、ヘラの聖域、キュベレ神殿、ギムナシオン、下アゴラ、プロピュライア(前門)、市壁、食堂、商店、住居などからなる。デメテルの聖域はギリシア神話の豊穣の女神デメテルに捧げられた聖域で、110×50mほどのエリアにイオニア式のデメテル神殿をはじめ、数々の神殿や祭壇が立っていた。ヘラの聖域はゼウスの妻で結婚と貞節の女神ヘラを祀る聖域で、ヘラ神殿を中心としている。キュベレ神殿はアナトリアの大地の女神キュベレを祀る神殿で、デメテル、ヘラ、キュベレのいずれも女神となっている。これはアナトリアの女神信仰がギリシアやローマ神話の女神信仰に発展したことを意味している。ギムナシオンは体育館で、大・小・子供用の3館があり、周辺にも各種競技場が点在していた。
ベルガマ市中の平野部には数々の遺跡が点在している。アクロポリスの南にたたずむのが聖ヨハネ教会で、トルコ語でキジル・アヴル、英語でレッド・バシリカやレッド・ホールと呼ばれている。セリノス川の真上に位置し、2世紀はじめのハドリアヌスの治世に築かれた196×9mを誇るペルガモン橋によって支えられており、もともとは古代エジプトの神セラピスを祀るセラピス神殿を中心とした聖域=セラペウム(セラペイオン)だった。270×100mほどの石壁内に60×26mのバシリカ(ローマ時代の集会所に起源を持つ長方形の教会堂)があり、これが神殿あるいは教会堂となっていた。バシリカの前には南北にふたつのロトンダ(円形の建物。ロタンダ)が並んでおり、ビザンツ時代にひとつはユダヤ教の礼拝堂シナゴーグとして使用され、オスマン時代にはイスラム教の礼拝堂モスクに改修された。
平野の北西端に広がるのがアスクレピオスの聖域=アスクレペイオンだ。アスクレピオスはギリシア神話の医学の神で、現代においてもWHO(世界保健機関)の旗章や各国の医療機関などでしばしば用いられているクスシヘビを巻いた杖、いわゆる「アスクレピオスの杖」は医学のシンボルとなっている。ギリシア・ローマ時代に各地にアスクレピオス神殿が築かれたが、周辺に医療施設や療養施設・宿泊施設・運動施設・公衆浴場・劇場などを備えてアスクレペイオンが整備された。典型的なのがギリシア・エピダウロスのアスクレペイオン(世界遺産)だ。ペルガモンのアスクレペイオンも同様で、アスクレピオス神殿とテレスフォラス神殿(テレスフォラスはアスクレピオスの息子)を中心に、ローマ劇場テアトルムや円形闘技場アンフィテアトルム、噴水などを備えた複合施設となっていた。
注目すべきインフラに水利施設がある。ペルガモンには2つの川があったが、約50km北にある標高約1,200mのマドラ山から貯水槽やペルガモン水道橋、陶器あるいは鉛製のパイプラインを駆使して飲用の水を引き込んだ。特にアクロポリスは周辺から150mほども駆け上がっていたが、3kmほど北にあるアクロポリスより25mほど高い山腹に最後の貯水槽を築き、その高低差で圧力をかけて水を引き上げた。
オスマン帝国時代の建造物としては、アラスタやベデステンといった屋根付きのバザール(市場)、ハン(キャラバンサライ=隊商宿を利用したバザール)、各種モスク、マドラサ(モスク付属の高等教育機関)、ハマム(浴場)、噴水、住居などがある。
「カピカヤのキュベレの聖域」はセリノス川を見下ろす山中に位置し、南東5.5kmほどの位置にあるアクロポリスを見下ろしている。アッタロス朝以前からの聖地で、こうした視覚的なつながりが、キュベレとアテナという女神信仰の移行・同一化と関係していると見られる。石窟のほか、山頂などで祭祀が行われていた。
「イリヤス・テペ・トゥムルス」はアクロポリスの東に位置するマウンドで、2010年に発見されたが盗掘されていた。マウンド内には玄室(棺を納める部屋)があり、石棺には40歳ほどの男性の遺骨が収められていた。墓碑などから紀元前3世紀後半に埋葬されたアッタロス朝の貴族と見られる。なお、「テペ」はトルコ語でマウンド、つまり墳丘や墳丘墓を、「トゥルムス」もラテン語でマウンドを意味する。現地では「イリヤス・テペ」と呼ばれている。
「イグマ・テペ・トゥムルス」はアクロポリスの南2.5kmほどに位置するペルガモン最大級のマウンドで、直径158m・高さ35mを誇る。玄室や石棺は発見されていないが、アッタロス朝初期のフィレタイロスの時代のマウンドと考えられている。
「イキリ・トゥムリ」はイグマ・テペの西に位置する3基のマウンドの集合体で、「トゥムルス」の複数形で「トゥムリ」となっている。1906年にドイツの考古学研究所によってマウンドが取り壊されて、円形の土台のみが残されている。それぞれから石棺が発見されており、副葬品として花輪や鉄剣、アレクサンドロス3世が描かれたコインなどが見つかった。年代的には紀元前275~前250年頃、フィレタイロスの時代のものと見られる。
「タヴサン・テペ・トゥムルス」はアクロポリスの南東に位置するマウンドで、直径約100mと3番目の大きさを誇る。未発掘のマウンドだが、アッタロス朝期に築かれたものと思われる。
「X・テペ・トゥムルス」はイキリ・トゥムリの南西に位置する直径80mのマウンドだ。アッタロス朝期のものと見られるが、玄室は未発見となっている。
「A・テペ・トゥムルス」はタヴサン・テペの北西に位置する直径20m・高さ4mのマウンドで、アッタロス朝期のものと考えられている。盗掘されているため一部が破壊されており、玄室も見つかっていない。
「マル・テペ・トゥムルス」はイキリ・トゥムリの北に位置し、直径180m・高さ28mとイグマ・テペと並んで最大級を誇る。マウンドの縁は切石で成形されており、頂部には石が載せられていた。内部には東西・南北の回廊があり、玄室の壁に十字架が刻まれていた。2世紀頃のローマ時代のマウンドと見られ、ローマ都市のレイアウトに沿う形で築かれている。
ケールの丘の頂部斜面に築かれたペルガモンは人工のテラスと壮大なモニュメント群を中心とした古代都市遺跡で、周囲の平野部を一望する支配の象徴でもあった。こうした土地利用はヘレニズム時代(紀元前323~前30年)とローマ時代の都市計画・都市設計の卓越した例であり、人類の創造的傑作といえる。アクロポリスはペルガモンの支配を象徴する王冠といった存在で、ビザンツ時代とオスマン時代には麓に都市が発展し、その支配域と景観はさらに拡大した。
ペルガモンの都市設計・建築・エンジニアリングはアナトリアで歴史的に蓄積されたさまざまな文化的背景を反映しており、それらを統合したものとなっている。カピカヤのキュベレの聖域は地元アナトリアにルーツを持ち、長期にわたって継続的に使用され、文化の交流・統合や人類の価値観の変遷を物語っている。価値観の交流という点で、エジプトの神に捧げられたローマ神殿=セラピス神殿を中心としたセラペウム(セラピスの聖域)は最たるものであり、アッタロス朝によって広められたキュベレ信仰のローマへの拡散を示している。
本遺産はヘレニズム時代の都市と景観の設計についてきわめて独創的ですぐれた証拠である。アスクレペイオン、セラペウム、カピカヤのキュベレの聖域、トゥムルスといった建造物群はその時代・文化・文明について雄弁に物語っている。
ペルガモンのアクロポリスはその都市設計や遺構によってヘレニズム時代の傑出した建築アンサンブルを構成している。特にアスクレペイオン、セラペウム、水利施設、アンフィテアトルムなどはアナトリアにおけるローマ時代という歴史的に重要な段階を示すすぐれた建造物群である。また、本遺産は地理学的にも重要な段階を示す卓越した歴史的都市景観である。
想・伝統と関連している。一例として、ペルガモンの彫刻学校はペルガモン様式を確立し、キュベレ信仰はアナトリアにおける継続的な伝統と信仰の象徴であった。そしてアナトリアにローマ人が進出・定住し、ペルガモンのアッタロス朝の王がキュベレ像をローマに持ち込んだことで両宗教の交流がはじまった。紀元前133年のアッタロス3世の遺贈により共和政ローマがペルガモンを継承し、後にはローマ帝国やビザンツ帝国の版図に組み込まれたことでローマ化が進んだ。セラピス神殿はローマ時代にエジプトの神セラピスを祀る神殿として建設された後、ローマ時代末期からビザンツ時代にかけてキリスト教の教会堂に転用され、付属施設であるロトンダのひとつはシナゴーグとなり、13世紀以降はモスクとして使用された。古代の聖域が、宗教は異なれど宗教的な目的のために使用されつづけた顕著な例である。
また、ペルガモンで生まれた医師であり哲学者であるガレノスは同地で教育を受け、その著作はペルガモンから広まった。古代世界随一の図書館の存在から文学や出版も盛んで、ペルガモン特産の羊皮紙は伝統産業となった。
本遺産は顕著な普遍的価値を表現するために必要なすべての要素が含まれており、適切な保全体制が取られている。また、資産にはアクロポリスとカピカヤのキュベレの聖域との間の景観ライン、アクロポリスとマウンド群との間の景観ラインなども含まれており、建造物だけでなく景観についても完全性が満たされている。
本遺産を構成するさまざまな資産は多様な属性によって真正性の条件を満たしている。ケールの丘のヘレニズム時代の集落、アスクレペイオン、アンフィテアトルム、テアトルムはその形状とデザイン・素材・原料・位置において真正性を保持している。ただ、ケールの丘のヘレニズムとローマ時代の遺跡は環境的に丘の東側に沿って走るケーブルカーによる悪影響を受けている。また、セラペウムの建設時とその後の宗教的建造物としての真正性は考古遺跡の形状とデザイン・素材・原料によって示されている。オスマン時代の建造物はすぐれた方法で保存されており、町のレイアウトも維持されているが、20世紀最後の四半世紀に行われた都市開発によって真正性に影響が出ている。ただ、オスマン時代の都市内部に位置するローマ時代の遺跡群は保存されている。
カピカヤのキュベレの聖域は形状やデザイン、素材や原料、伝統・技術、位置・環境、そして精神や印象といった点で真正性が維持・表現されている。マウンド群を古代ペルガモンの自然領域における権力の象徴と考えると文化的景観の意味とデザインが補完され、真正性を全体的に引き上げる。ただし、構成資産の「重層都市ペルガモン」と「X・テペ・トゥムルス」は違法な建築、「マル・テペ・トゥムルス」は違法な発掘よって悪影響にさらされている。