クヴェートリンブルクはドイツ中部ザクセン=アンハルト州に横たわるハルツ山地の北東部に位置する都市で、10世紀に東フランク王国ザクセン朝の首都となって繁栄した。962年には国王オットー1世が皇帝となって神聖ローマ帝国が誕生したことから「ドイツ帝国発祥の地」と呼ばれている。ロマネスク様式やゴシック様式の歴史ある建物が数多く残されているほか、ハーフティンバーの建物の質と割合は他に類がなく、特徴的な街並みを形成している。
クヴェートリンブルクには新石器時代から人類の居住の跡があり、古代から中世まで集落が築かれていたようだ。8~9世紀にハルスフェルト修道院の支部が設立され、聖ヴィパーティ教会が建設された。町が重要性を増すのは10世紀からで、919年に東フランク王位に就いてザクセン朝を打ち立てたリウドルフィング家のハインリヒ1世がハルツ渓谷を見下ろすシュロスベルク(城の山)に離宮としてクィティリンガブルク城を建てたことにはじまる。特に王家がキリスト教最大の祭りであるイースター(復活祭。イエスが処刑後の3日目に復活したことを祝う大祭)を聖ヴィパーティ教会で祝うようになると本格的に開発がはじまり、実質的に東フランク王国の首都となった。936年にハインリヒ1世が亡くなると息子オットー1世が王位を継いだが、前王の妻であるマチルデはオットー1世に依頼してクヴェートリンブルク修道院を設立して死の瞬間までその管理を担った。まもなく修道院教会として聖セルヴァティウス教会の建設がはじまり、マチルデが死去するとクリプト(地下聖堂)にハインリヒ1世とマチルデの棺が収められた。クヴェートリンブルクにはふたつの丘があったが、シュロスベルクの北西に位置するミュンツェンベルクには946年にベネディクト会の修道院と修道院教会として聖マリア教会が建設された。
962年にオットー1世が教皇ヨハネス12世からローマ皇帝の帝冠を授かって神聖ローマ皇帝となり、神聖ローマ帝国が誕生した(オットーの戴冠)。神聖ローマ帝国は後にドイツ第1帝国の異名を取るが、ここからクヴェートリンブルクは「ドイツ帝国発祥の地」「ドイツの揺りかご」などと呼ばれている。994年にオットー3世がクヴェートリンブルクに貨幣の鋳造権と市場を開くための市場権、課税権を与えると地域の経済的な中心地となり、シュロスベルクの北で最初の市場が開設された。また、クヴェートリンブルクの商人にアルプスから北海まで自由に貿易を行う権利が与えられると交易都市として繁栄し、商工業が発達した。リウドルフィング家は領内に数多くの修道院や教会堂を寄進し、キリスト教の宣教にも貢献した。
シュロスベルクやミュンツェンベルク、聖ヴィパーティ教会をはじめ10世紀以来の街並みはボーデ川の西岸に展開し、城郭都市を形成していた。12世紀には川を渡った東岸に新市街が建設され、幾何学的なグリッド構造を持つ整然とした街並みが築かれた。1330年に新旧市街が合併し、城壁が拡張されて新市街も城郭都市に収められた。それでも都市の発展は止まらず、城壁の外にアムノインヴィク、インデングロペンといった町が形成された。この頃の特産品は洋服の仕立てで、フランドル地方などから毛織物を輸入して洋服に仕上げて輸出した。商工業者はそれぞれの職業ごとにギルド(職業別組合)を作り、ギルドハウスを建てて拠点とした。それまで市政について修道院が大きな発言力を持っていたが、商工業者を中心とした市民たちは自由を求めて対立した。市民が中心となって1384年にニーダーザクセン都市同盟に参加し、1426年にハンザ同盟に加わり、1435年頃にはマルクト広場に市民の自由の象徴である剣と盾を持った騎士像・ローラント像が建てられた。しかし、15世紀後半に修道院からの完全な独立を図ってクヴェートリンブルク修道院長へートヴィヒの追放を企てると1477年に紛争に発展。市民はハルバーシュタット司教の支援を受けたが結局鎮圧され、すべての都市同盟からの脱退を強いられた。ローラント像はこのとき破壊された。
クヴェートリンブルクは旧教=ローマ・カトリックと新教=プロテスタントが争った宗教改革に大きな影響を受けた。ルターの宗教改革に賛同した宗教改革者トーマス・ミュンツァーは教会はもちろん帝国や諸侯の権威をも否定し、農奴制廃止を求めて反乱を扇動し、1524~25年にドイツ農民戦争を引き起こした。戦線はドイツ全域に拡大し、クヴェートリンブルクでも農民軍によって旧市街のベネディクト会とフランシスコ会、新市街の聖アウグスチノ修道会、聖ヴィパーティのプレモントレ修道会の修道院が破壊された。クヴェートリンブルクは混乱の中でザクセン選帝侯領の版図に入り、1539年に町はプロテスタントのルター派に改宗し、クヴェートリンブルク修道院も続いた。戦争被害と改宗を受けてベネディクト会修道院やプレモントレ修道会などが修道院を廃止した。
新旧両派の争いから国同士の大戦争に発展した三十年戦争(1618~48年)と、1676年と1797年の大火によって町の多くの建物が破壊された。これを受けて17~18世紀に数多くのハーフティンバーの建物が建設された。ハーフティンバーはドイツ語でファッハヴェルクハウス、日本語で半木骨造と呼ばれる構造で、柱や梁を組み合わせてフレームを作る木造の柱梁構造と石材を組み上げて壁を築く壁構造を併用し、壁に木材のフレーム構造が見える点を特徴としている。
1697年にザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世(ポーランド王アウグスト2世)がクヴェートリンブルクをブランデンブルク=プロイセンに売却。1701年にブランデンブルク=プロイセンがプロイセン王国に昇格してその支配を受けた。クヴェートリンブルク修道院はこれに反対しつづけたが、1802年に廃院となった。ナポレオン率いるフランス帝国が侵入すると1806年に神聖ローマ帝国は滅亡し、1807~13年のあいだフランス帝国下のヴェストファーレン王国の一部となり、その後はプロイセン王国のザクセン州の所属となった。
ナチス=ドイツの親衛隊SSの隊長であるハインリヒ・ヒムラーはハインリヒ1世の生まれ変わりを自称し、1936年にクヴェートリンブルクで没後1,000年の記念式典を開催した。シュロスベルクにはナチス=ドイツの基地が置かれ、聖セルヴァティウス教会は1938年に閉鎖された。近郊の町ランゲンシュタインにはランゲンシュタイン=ツヴィーベルゲ強制収容所が建設され、死亡した囚人の遺体はクヴェートリンブルクの火葬場で焼却された。1945年4月にアメリカ軍がほとんど戦闘なしで占領して町を解放した。ドイツの多くの都市が戦闘被害を受けたのに対し、中世以来の街並みがほぼ無傷で守られた。
世界遺産の構成資産は2件で、シュロスベルクやミュンツェンベルク、マルクト広場などかつての城郭都市の多くを占める「クヴェートリンブルク新旧市街」と、シュロスベルクの南西400mほどに位置する「聖ヴィパーティ教会」のコンプレックスとなっている。
「クヴェートリンブルク新旧市街」にはシュロスベルクとミュンツェンベルクというふたつの丘があり、ふたつを南西端として北東1.3kmほどまで資産が伸びている。
シュロスベルクはかつての城塞エリアで、ハインリヒ1世が宮殿を築き、オットー1世が修道院を建設して修道院の土地となった。城内には修道院教会である聖セルヴァティウス教会や僧院のほか、厩舎や農業のための納屋、製粉所やパン屋、ワインやビールなどの醸造所、ブランデーの蒸留所などが設置され、修道院ワインや修道院ビールが名物となっていた。聖セルヴァティウス教会はもともと王室礼拝堂として建設されたもので、10世紀後半に修道院教会として改築された。現在の建物は大火などを受けて11~12世紀にロマネスク様式で再建されたもので、「†」形のラテン十字形・三廊式(身廊とふたつの側廊を持つ様式)の平面プランを持ち、西のウェストワーク(ドイツ語でヴェストヴェルク。教会堂の顔となる西側の特別な構造物。西構え)の双塔は町のランドマークとなっている。14世紀に一部がゴシック様式で改装されたが、19~20世紀にアプス(後陣)などを除く多くがロマネスク様式に戻された。現在はプロテスタントのドイツ福音主義教会の教会堂となっている。シュロスベルクにはハーフティンバーの建物が多く、シュロス博物館を中心に多くが公開されている。
ミュンツェンベルクは10世紀にベネディクト会修道院と聖マリア教会が築かれた場所で、農民戦争で破壊された後、1536年に廃院となった。当時の城壁や教会堂跡が残されているほか、ハーフティンバーの数多くの建物が伝えられている。
他にも町には歴史あるロマネスク様式やゴシック様式の教会堂が多く、12世紀創建でロマネスクとゴシック様式を伝える聖エギディ教会や聖ベネディクト・マルクト教会、13世紀創建で14世紀に高さ72mを誇るふたつの巨大なスパイア(尖塔)を持つゴシック建築に改装された聖ニコライ教会、ドイツの名建築家フリードリヒ・フォン・シュミットが設計を行った19世紀ゴシック・リバイバル様式の聖マチルデ教会などが知られる。
市民にとって旧市街の中心となっていたのがマルクト広場で、北端にはラートハウス(市庁舎)が立っている。ラートハウスは14世紀はじめの創設と見られる旧市街最古級のホールで、ゴシック様式だが17世紀にルネサンス様式の要素が加えられた。ラートハウスの前には1869年に再建されたローラント像が立っている。広場の東に立つグリュンハーゲン邸は1701年に建設されたルネサンス様式のハーフティンバーの邸宅で、1770年にバロック様式で改装された。
城郭都市の城壁や城門はほとんど残っていないが塔はいくつか残されており、北西を見張る高さ40mのシュレッケンス塔や南東を見張る12世紀創建のクヒルテン塔、現在は住居として使用されているゲンゼヒルテン塔などが伝えられている。
「聖ヴィパーティ教会」はヘルスフェルト修道院によって9世紀に設立された教会堂を中心とする教会コンプレックスだ。ハインリヒ1世やオットー1世がイースターを祝った教会堂で、オットー1世はこの周辺に宮殿を建設した。12世紀にプレモントレ修道会の修道院となり、僧院などの施設が設置されたが、16世紀の農民戦争で破壊され、1546年に廃院となった。17世紀に教会堂が修復されるとプロテスタントの教会堂になったが、1812年に活動を終了した。戦後、修復されると1959年に教会堂としてふたたび奉献され、現在はローマ・カトリックの教会堂として使用されている。ロマネスク様式の教会堂が残るほか、ハーフティンバーのマナー・ハウス(荘園領主の邸宅)やゼルヴァルティー墓地、修道院庭園だったブリュール公園(世界遺産外)などが残されている。
クヴェートリンブルクは中世の構造を持つヨーロッパ都市の卓越した例であり、際立ったクオリティを誇るハーフティンバーの建物が数多く保存されている。
資産は顕著な普遍的価値を示すすべての要素を含んでおり、法的保護下に置かれている。都市プランと都市構造は基本的に中世の街並みをそのまま引き継いでおり、中世以来に築かれたハーフティンバーの建物を非常に高い割合で保持している。世界遺産の資産の外に制限区域、さらに外にバッファー・ゾーンが設けられており、範囲や質ともに適切に管理されている。
クヴェートリンブルクの真正性は確かで議論の余地はない。建物の多く、特にハーフティンバーの建物は何世紀にもわたってほとんど、あるいはまったく変更されていない。旧東ドイツ時代の1980年代後半に、取り壊された建物をプレハブ構造に置き換える政策が採られたため、一部で素材や構造の真正性が損なわれた。しかし、建物全体の中では比較的小さな割合に留まっており、何より町全体から見て規模・量・形状といった点で影響は小さく、全体的な都市景観は保持されている。