シュトラールズントとヴィスマールはドイツ北部メクレンブルク=フォアポンメルン州に位置するバルト海に面した港湾都市で、14~15世紀にはハンザ同盟の交易都市、17~18世紀にはスウェーデンを中心としたバルト帝国の主要都市として繁栄した。歴史地区にはレンガ・ゴシック(ブリック・ゴシック。レンガ造のゴシック建築)の特徴的な建物をはじめ、中世・近世の数多くの建造物が伝えられている。
両都市には古代から居住の跡があり、ゲルマン系諸民族やデンマークの進出を経て12~13世紀にはスラヴ系ヴェンド人が入植して集落と港を建設した。最初に文書で言及されるのはヴィスマールが1229年、シュトラールズントが1234年で、リューベック法と呼ばれる都市法に従って統治を行い、防衛システムを構築した。この頃からリューベック(世界遺産)をはじめとするバルト海沿岸の都市と交流を深め、交易都市として台頭した。このときの町の中心がシュトラールズントのアルター・マルクト広場(旧市場広場)とヴィスマールのマルクト広場だ。13世紀中に両都市にドミニコ会とベネディクト会が修道院を創設し、いずれにも聖ニコライ教会と聖マリア教会が建設された。シュトラールズントはリューゲン公国、後にポメラニア公国、ヴィスマールはメクレンブルク公国に所属し、いずれも神聖ローマ帝国の下に入った。
13世紀、リューベックの商人たちは「ハンザ(商人ハンザ)」と呼ばれる商人のギルド(職業別組合)を組織して貿易を行った。13世紀末にハンザはリューベックを盟主にドイツの帝国都市(諸侯の支配を受けず神聖ローマ帝国の下で一定の自治を認められた都市)を結ぶ都市同盟となり(都市ハンザ/ドイツ・ハンザ)、シュトラールズントとヴィスマールも1293年に参加した。14世紀はじめにはポメラニアとメクレンブルクの間に戦争が起こり、ポメラニアが勝利してシュトラールズントが一帯の中心都市に浮上した。両都市はフランドルの毛織物やイングランドの羊毛、ヴェストファーレンのの金属・木材・ハチミツ・毛皮、ラトビアやロシアの油・塩などを取引し、やがて北海や大西洋に進出してノルウェーの魚やフランスやスペイン、ポルトガルのワインなども扱った。ハンザ同盟は1361~1370年の第2次デンマーク=ハンザ同盟戦争でデンマークに勝利し、1370年のシュトラールズントの和議でバルト海における自由貿易を認めさせ、最盛期を迎えた。両都市はバルト海南部でリューベックに次ぐ交易都市に成長し、同盟の最盛期を牽引した。交易で得た富や、木造の街で大火が頻発したこともあってレンガ造への建て替えが進み、この時代に建築ブームが起きた。特に1330~80年の間に数多くの重要な建造物が築かれたが、バルト海で流行したレンガ・ゴシックの中でもこの地域特有の「ズンディシェ・ゴシック」が生まれた。その典型がシュトラールズントのラートハウス(市庁舎)だ。
15世紀に入るとデンマーク、ノルウェー、スウェーデンによるカルマル同盟やイングランド王国、ブルゴーニュ公国、ポーランド王国といった強力な国家が台頭したり、15世紀後半に大航海時代がはじまってヨーロッパの貿易の中心が地中海やバルト海から大西洋に移ったこともあり、ハンザ同盟は衰退を余儀なくされた。1618〜48年に行われた三十年戦争でドイツは荒廃し、神聖ローマ帝国は衰退した。プロテスタント側で参戦したスウェーデンの活躍が評価され、講和条約であるウェストファリア条約でシュトラールズントを含むポメラニアやヴィスマールなどがスウェーデン領となった。続いてスウェーデンは1655~60年にデンマーク=ノルウェーやポーランド=リトアニア、ロシア帝国との間で争った北方戦争に勝利し、1658年のロスキレ条約でデンマークからスカンジナビア半島南部の多くの土地を獲得。バルト海沿岸部の多くを支配してバルト帝国を成立させた。
シュトラールズントとヴィスマールはドイツにおけるスウェーデン領の防衛拠点となり、最新の要塞システムが備えられた。また、その政治的重要性からヴィスマールには王立裁判所(現・地方裁判所)が設置されたほか、両都市にはスウェーデン時代にルネサンス様式やバロック様式、新古典主義様式の数多くの建造物が建設された。交易都市としてはハンザ同盟の時代ほど繁栄することはなかったが、17世紀後半には関税が免除されて一時的に興隆した。しかし、1700~21年の大北方戦争でスウェーデンが敗れるとバルト帝国は解体。ヴィスマールはデンマークやプロイセンなどの軍によって侵略され、要塞は破壊された。これによりヴィスマールは急速に衰退し、一方シュトラールズントはスウェーデン領ポメラニアの首都としてありつづけた。
ナポレオン戦争(1803~15年)後のウィーン条約でシュトラールズントはプロイセン王国、ヴィスマールはメクレンブルク公国の版図に入った。プロイセン王国が主導して1871年にドイツ帝国が成立してドイツ統一が実現すると、メクレンブルク公国もその版図に入った。近代に入って両都市には港が再建され、鉄道も開通してそれなりに栄えたが往時の勢いはなく、ドイツの中心都市とはならなかった。おかげで歴史地区は産業革命や世界大戦の影響もそれほど受けずに保存され、中世・近世の街並みが伝えられた。
世界遺産の構成資産は2件でシュトラールズントとヴィスマールそれぞれの歴史地区が地域で登録されている。いずれもリューベック法に沿って開発された街並みで、おおよそ縦横の街路によって区画された中世の街の形を留めている。
シュトラールズント歴史地区は楕円形の島に築かれており、一部の埋め立て地を除いて現在も水域に囲まれている。町の中心は東のアルター・マルクト広場と南のノイアー・マルクト広場(新市場広場)で、前者には聖ニコライ教会、後者には聖マリア教会が隣接している。現存する最初期の建物が1270~1380に建設された聖ニコライ教会で、フランス北部のゴシック建築の影響を受けたレンガ・ゴシックの典型で、リューベックの聖マリア教会とともにバルト海沿岸の教会建築のモデルとなった。1310~60年建設の聖ヤコブ教会、1380~1480年の聖マリア教会もこれに続いた。また、1251年創立のドミニコ会の聖カタリナ修道院は現在シュトラールズント博物館となっており、1261~1317年建設のゴシック様式の修道院教会が残されている。ベネディクト会の聖ヨハネ修道院は1254年の創設で、第2次世界大戦で破壊されたがいくつかの建物と遺跡が残されており、ゴシック・バロック・新古典主義様式の多彩な建築を伝えている。修道院によって13世紀半ばに設立された病院がハイルガイスト病院(聖霊病院)で、現在はハイルガイスト教会(聖霊教会)となっている。公共建築について、市庁舎であるラートハウスはきわめてユニークな建物で、ズンディシェ・ゴシックの傑作とされる。街には「ディーレンハウス」と呼ばれる内部に大きなホールを持つ商館やレンガ造の巨大な倉庫が立ち並んでいる。これらはヴィスマールのものより大きく、シュトラールズントが長距離貿易や中継貿易の拠点となっていたことに由来する。ディーレンハウスは事務所・倉庫・宿泊施設を兼ねた建物で、ファサードの破風(屋根の妻側の三角部分)は階段破風や三角破風・釣鐘破風・バロック破風などユニークな破風飾りで装飾されている。典型的なディーレンハウスとして14世紀に建設されたシーレハウスやディーレンハウスなどが挙げられる。島の外周にはスウェーデン時代の星形要塞の稜堡(城壁や要塞から突き出した堡塁)が残されており、スウェーデン時代のバロック建築の例としてランドシュタンデハウス(現・音楽学校)がある。
ヴィスマール歴史地区は北の港に隣接した円形のエリアで、かつては城壁や堀で囲われていた。中心はマルクト広場でラートハウスが隣接している。この場所には古くからラートハウスが立っていたが、現在の新古典主義様式の建物は1817~19年に築かれたものだ。14~15世紀のレンガ・ゴシックの教会堂には、1340~1450年建設の聖マリア教会、1370~1490年の聖ニコライ教会、1400~1600年頃の聖ゲオルグ教会などがあるが、聖マリア教会は第2次世界大戦で大破して鐘楼のみが残されており、聖ゲオルグ教会は大幅に再建されている。修道院は13世紀にドミニコ会とベネディクト会が設立したが、現存するのは前者のシュワルツェス修道院で、現在は福祉施設となっている。シュトラールズントと同様、聖霊の名前を冠した旧・ハイリンゲンガイスト病院があり、ハイリンゲンガイスト教会として存続している。伝統的な住宅はシュトラールズントより数が多いが全体的にコンパクトで、この傾向はディーレンハウスや倉庫も同様だ。よく知られたディーレンハウスにはマルクト広場の旧スウェーデン・ビュルガーハウス(公民館)がある。フュルステンホフはもともとメクレンブルク公爵の宮殿で、16世紀にゴシック様式で建設された後、ルネサンス様式で改修された。スウェーデン時代は王立裁判所となり、19世紀後半に地方裁判所となった。ヴィスマール市歴史博物館となっているルネサンス様式の建物は16世紀後半に築かれたビール醸造所で、ビールは当時ヴィスマールの重要な交易品となっていた。
シュトラールズントとヴィスマールは13~15世紀のハンザ同盟のヴェンド地方(ヴェンド人の入植地一帯)の主要都市であり、また17~18世紀のスウェーデン王国のバルト海南部における行政と防衛の拠点であった。レンガ造の建設技術と多彩な建築デザインが開発され、またバルト海地域のハンザ同盟都市の特徴的な形状と機能の発展に貢献し、さらにスウェーデン時代には要塞をはじめ防衛システムの確立に寄与した。
シュトラールズントとヴィスマールはハンザ同盟の交易都市の典型となった建設技術と都市形態の発展において非常に重要な役割を果たした。その特徴的な建築は主要の教区教会堂やラートハウス、ディーレンハウスなどによく表れている。
シュトラールズントとヴィスマールはその立地もあって重要な景観がよく維持されており、中世の町の境界線は現在でも明確に確認することができる。近代的な建物や産業用の工場などは歴史地区の外側に位置しており、中世から変わらぬ歴史的な街並みを鑑賞することができる。ただ、今後の新たな開発によって視覚的な影響を受ける可能性は否定できない。
第2次世界大戦で受けた被害は比較的軽微で、中世以降のオリジナルの建物が数多く保全されている。ハンザ同盟の主要都市としての重要性を伝えるためのすべての特徴と構造が保持されており、法的に保護されている。
シュトラールズントとヴィスマールにはハンザ同盟時代からスウェーデン時代までのオリジナルの歴史的建造物が数多く残されている。これらはつねに都市生活の中心を担い、継続的に居住・使用され、港も無傷で維持されており、時代時代の経済に重要な役割を果たしてきた。こうした継続性から両都市の機能は本物であり、真正性は高いレベルで維持されている。また、今日ではこうしたモニュメントの保全に関して高い修復・管理基準が設けられており、当時の素材を最優先して保全するなど適切な保全・修復活動が進められている。