ドイツ北部の町・自由ハンザ都市ハンブルクは船舶を利用した交易で栄えた歴史ある港湾都市。その中で、エルベ川北岸付近に1885~1927年に築かれた港湾倉庫街=シュパイヒャーシュタット地区と、1920年代~40年代にかけて隣接して建設されたオフィスビル街=コントールハウス地区が登録されている(両者は接しているので構成資産は1件となっている)。
エルベ川河口に位置するハンブルクの町は6世紀頃に成立したと考えられており、810年頃にフランク王でローマ皇帝でもあるカール大帝が征服してキリスト教の教会堂を建設した。港湾都市として発達し、北海やバルト海を利用した交易を行った。1189年に神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世バルバロッサから税の免除や航行の自由など各種の特権を与えられ、13世紀には自由都市(大司教や司教の支配を受けず教会に対して義務を免除された都市)となり、リューベック(世界遺産)やブレーメンなどと都市同盟を結んでハンザ同盟へと発展した。ハンザ同盟は14世紀に全盛期を迎えて北海やバルト海貿易を独占するが、まもなく衰退。一方、ハンブルクは帝国自由都市(諸侯や大司教・司教の支配を受けず神聖ローマ帝国の下で一定の自治を認められた都市)となり、宗教改革においては新教=プロテスタントの拠点として有力都市としてありつづけた。
中世から近世にかけてドイツには数多くの領邦(諸侯や都市による領土・国家)が成立していたが、イギリスやフランスといった強大な帝国主義国家に対抗するために統一が必要とされていた。1815年に35君主国と4帝国自由都市からなるドイツ連邦が成立し、1834年にはドイツ関税同盟=ツォルフェラインが成立して経済統合が実現した。これにより同盟内の経済活動が活発化して1840代に産業革命が開始された。1870~71年のプロイセン=フランス戦争(普仏戦争)に勝利すると、ヴェルサイユ宮殿(世界遺産)で国王ヴィルヘルム1世の皇帝戴冠式を行った。これによりドイツ帝国が成立し、ドイツ統一が実現した。
ハンブルクはドイツ関税同盟やドイツ帝国に参加しつつも州には属さず、都市として独立を維持した。これは現在も同様で、特別市として「自由ハンザ都市ハンブルク "Freie und Hansestadt Hamburg"」の名称を掲げている。産業革命で活発化した貿易においてハンブルク港はドイツの主要港となり、免税で貿易を行う自由港として整備された。こうした流れの中で設立されたのがシュパイヒャーシュタット地区だ。
シュパイヒャーシュタット地区はエルベ川に浮かぶエルベ島の南に設立された新しい倉庫街で、1885~1927年にかけて主に土木技師フランツ・アンドレアス・マイヤーの設計で建設された。東西1.2km・幅150~250mほどの地区で運河やフレート(小運河)が張り巡らされ、北にはツォル運河、中央にはヴァントラームスフレート、南には西からケールヴィーダーフレート、ブルックスフレート、ザンクト・アンネンフレート、ホランディッシュブルックフレートが整備された。主な運河・フレート・道路はほぼ並行しており、倉庫の一方は運河やフレート、もう一方は道路に面しており、船や道路から荷の上げ下ろしを直接行うことができた。運河やフレートには火災の延焼を食い止める防火の役割もあり、また運河・フレート・道路によって細かいブロックに分割され、19基の橋が整備された。建設は3フェーズに分けて行われ、第1フェーズの1885~88年に地区の2/3を占めるA~Oブロックが完成し、1888年に新港の開港を迎えた。1891~96年の第2フェーズではP~Rブロックが築かれ、1899~1927年の第3フェーズではS~Xブロックが整備された。
倉庫はゴシック・リバイバル様式の赤レンガ造で、フレートや道路に面したファサードの屋根に三角破風や階段破風といった装飾を持つ伝統的な様式で築かれた。電動ウインチや油圧装置・電灯といった最新の設備を備えており、屋根にはウインチを使用するための窓=ウインチ・ドーマーが設置され、荷物の上げ下ろしに使われた。主に扱われた商品はカカオ、コーヒー、タバコ、絹糸、絨毯などで、特に前2者については世界最大級の取引量を誇った。シュパイヒャーシュタット地区には倉庫だけでなく、かつてのボイラー・ハウス、中央発電所、コーヒー取引所、火災警報局、ウインチ操作所(ヴァッサーシュロス/ヴァッサー城)、税関なども残されている。
シュパイヒャーシュタット地区は第2次世界大戦中の1943年に行われた連合軍によるハンブルク空襲で大きな被害を受け、約半数が破壊あるいは損傷した。特にA・B・C・J・K・M・Oブロックはほぼ完全に破壊され、A・B・C・Jブロックについては再建もされなかった。その代わりとして資産外にハンザ貿易センターが建設されている。1950年代~60年代にハンブルクの建築家ヴェアナー・カルモルゲンの指揮下で一帯の再建が進められた。19世紀のスタイルで復元されたものもあれば、鉄筋コンクリートの骨組構造(架構式構造)を持つものもあったが、後者でも装飾的にレンガ壁で覆われたため景観は保たれた。ただ、戦後はコンテナ輸送に移行したため対応できず、港湾倉庫としての役割はほぼ終了した。その後、同地区はオフィスや文化・レジャー施設として見直され、現在は多くがオフィス・倉庫・カフェ・レストラン・ショールームとして利用されている。
一方、コントールハウス地区は1920年代に旧市街の南東部、シュパイヒャーシュタット地区の北東部に隣接して開発された。もともと商館街ではあったが、約9,000人が死亡した1892年のコレラの大流行を受けて劣悪な衛生状態と貧困を一掃するために市内各地で再開発が進められ、コントールハウス地区も2番目に手掛けられた。世界遺産の資産に含まれているのは同地区の主に8件のオフィス・コンプレックスとなっている。
ミラマール=ハウスは1921~22年に建設された地区最初期のビルで、チリハウスと並んでドイツ最初期の高層ビルとされる。マックス・バッハの設計で、南東の角の丸みを帯びた形状が当時としては珍しく、一帯の建築デザインの先駆けとなった。7階建てで2階までは白漆喰、その上は赤レンガのツートーンカラーで、南ファサードには彫像で飾られた独特のポータル(玄関)が設けられている。
チリハウスは地区の最高傑作といわれるビルで、フリッツ・ヘーガーの設計で1922~24年に建設された。東に向けて先の尖ったデザインは船首を模しており、ミラマール=ハウスと対照的に鋭角で角を処理している。3つのパティオ(中庭)を持ち、南東部は柔らかく湾曲している。鉄筋コンクリート造・10階建てのモダニズム建築だが、壁には焼過レンガ(通常の焼成レンガより高温で焼いたレンガ)を積み上げて伝統的な外観を融合させている。南西の角に組み込まれているクリングベルク警察署はアルベルト・エルベの設計で1906~08年に建てられたレンガ造り・5階建てのビルで、ハンブルクでよく見られたバロック様式のタウンハウス(2~4階建ての集合住宅)となっている。
メースベルクホーフはハンスとオスカーのゲルソン兄弟が設計したビルで、1922~24年に建設された。1930年代までハンブルクの大船主であるアルベルト・バリンにちなんでバリンハウスと呼ばれていた。バリンの経営していたHAPAG社は当時世界最大を誇った海運会社で、このビルに入っていた。鉄筋コンクリート造の10階建てで、やはり焼過レンガの壁が見られる。
モーレンホーフは1927~28年に建設された8階建てのビルで、細長い多くの窓を特徴とし、装飾のないシンプルなスタイルで知られる。
モンタンホーフはヘルマン・ディステルの設計で1924~26年に建設された9階建てのビルで、表現主義(感情など主観の動きを表現することに重きを置いたイズム)建築の傑作とされる。焼過レンガによる濃い赤と窓枠の白がデザインを引き締めており、階段状の段差を持つ南西のファサードが独特の印象を与えている。
シュプリンケンホーフは1927~43年に建設された8~9階建てのオフィス・コンプレックスで、同名の不動産会社にちなんで命名された。ゲルソン兄弟やヘーガーの設計で、壁のダイヤモンド状のパターンやテラコッタ(素焼きの焼き物)のレリーフが特徴的だ。地区最大を誇る建物で、中心には長方形のパティオがあり、左右に三角形に近い台形状のパティオを連ねている。ビルには彫刻家ハンス・J・ウェグナーの4体の彫像が飾られてる。
これ以外にニーダーン通り10番の旧郵便局ビルや、ブルハルト通り19~21番のコントールハウスなどが含まれている。
本遺産は登録基準(i)「人類の創造的傑作」、(ii)「重要な文化交流の跡」、(iii)「文化・文明の稀有な証拠」でも推薦されていた。しかしICOMOS(イコモス=国際記念物遺跡会議)は、(i)の現代建築における価値についてチリハウス単体としては基準を満たす可能性を認めつつも証明はされておらず資産全体については正当化されていないとし、(ii)のシュパイヒャーシュタット地区とコントールハウス地区の歴史的重要性とその影響力については都市開発・建築・技術は固有のもので影響は実証されていないとし、(iii)の建築形態や品質・素材などの表現についてはハンザ同盟の港湾都市の証拠というよりハンブルクの商人に特化したもので文明や文化の証拠にはあたらないとしてその価値を認めなかった。
資産は19世紀後半から20世紀初頭の国際貿易の急速な成長の結果を象徴する建造物やアンサンブルのすぐれた例を含んでいる。歴史主義とモダニズムの質の高いデザインと機能的な構造は港湾倉庫とオフィスビルの卓越したアンサンブルとなっている。
資産は19世紀末から20世紀初頭の国際貿易の急速な成長の結果を象徴する建築物・空間・構築物・運河をはじめ、資産の顕著な普遍的価値を表現するために必要なすべての要素を含んでおり、質の高いデザインと機能的な構造を示している。また、資産はその重要性を伝える特徴とプロセスを完全に表現するために十分なサイズがあり、開発や放棄による悪影響を受けていない。
資産はその位置・環境・形状・デザイン・素材・原料について大枠で本物であるといえる。隣接する都市環境についてはかなりの変更が加えられているが、沿岸部についてはほとんど変わっていない。シュパイヒャーシュタット地区は第2次世界大戦中に大きな被害を受けたが、それによって資産の価値が低下したわけではなく、資産全体の形状やデザイン・素材・原料はほぼ維持されている。また、コントールハウス地区の機能も維持されている。資産の顕著な普遍的価値とその特性との関連性は正しく表現されており、そうした価値を十分に伝えている。