ドイツ中南部・バイエルン州北部に位置するバンベルクは神聖ローマ皇帝・東フランク王であるハインリヒ2世によって11世紀はじめに司教座が置かれて司教都市となり、「第2のローマ」と呼ばれるキリスト教宣教の拠点となった。13世紀にバンベルク司教領として独立し、南ドイツのローマ・カトリックと啓蒙思想、バロック様式の中心地となった。
バンベルクの地はローマ時代以降、ゲルマン系諸民族が進出し、その後スラヴ系の民族が植民を行った。8~10世紀のフランク王国カロリング朝の下で発展し、10世紀はじめにバーベンベルク抗争と呼ばれる血で血を洗う勢力争いを経てバーベンベルク家から東フランク王家のコンラディン家(フランケン朝)に移り、さらに王朝とともにバイエルン公であるリウドルフィング家に引き継がれた(ザクセン朝)。
リウドルフィング家の東フランク王ハインリヒ2世は1002年にバンベルクに司教座を置いて司教区とし、同年にバンベルク大聖堂の建設を開始した。ローマと同じように7つの丘があったことから地方名を取って「フランケンのローマ」と呼ばれ、ハインリヒ2世は「第2のローマ」を目指して特にキリスト教の拠点都市として整備を進めた。ハインリヒ2世が聖ミカエル修道院を建設したほか、11世紀中に聖ステファン教会、聖ガンゴルフ教会、聖ヤコブ教会などが建設された。これらに聖マーティン教会とオーベレ・プファル教会(聖マリア教会)を加え、線を結んでできる十字形は「バンベルクの十字」と呼ばれている。ハインリヒ2世は1014年に教皇ベネディクトゥス8世から皇帝冠を受けて神聖ローマ皇帝となるが、1024年に死去。その遺体は妻クニグンデとともにバンベルク大聖堂に葬られた。
バンベルクは交易都市としてドイツ、ポーランド、ポメラニア(ドイツとポーランドの沿岸部)、ボヘミア(チェコ西部)、ハンガリーなど各地の都市と貿易を行いながらキリスト教の宣教に努めた。一例が司教オットーで、11世紀後半に焼失したバンベルク大聖堂の再建を行ったほか、シュパイアー大聖堂(世界遺産)の建設にも携わり、ポメラニアやポーランドで宣教を行って多くの住民をキリスト教に改宗させた。オットーは亡くなると聖ミカエル修道院に埋葬され、後に列聖(徳と聖性を認めて聖人の地位を与えること)されている。
バンベルク司教は13世紀はじめに神聖ローマ教皇フリードリヒ2世から帝国諸侯(ライヒスフュルスト)に指定され、1245年に教皇インノケンティウス4世の承認を得てバンベルク司教領が成立して独立した。1251年にバンベルクのもっとも高い丘にアルテンブルク城が建設され、16世紀まで司教の居城となった。
バンベルクは宗教改革において旧教=ローマ・カトリックの拠点として重要な役割を果たした。新教=プロテスタントの先駆けであるフス派が反乱を起こしたフス戦争(1419~36年)で侵略を受けたが、町が落ちることはなかった。16世紀、ドイツで宗教改革がはじまるとバンベルクで魔女狩りと魔女裁判が行われた。1627年には悪名高い「ドルデンハウス」と呼ばれる魔女収容所が建設され、魔女の収容・拷問・処刑を行って約1,000人の犠牲者を出した(対抗宗教改革/反宗教改革)。新旧両派の争いから国同士の大戦争に発展した三十年戦争(1618~48年)では1632年にプロテスタント側に立つスウェーデン軍が侵攻し、町を破壊して捕らえられていたプロテスタントを解放した。
三十年戦争を経て諸侯や都市はルター派やカルヴァン派といったプロテスタントの信仰を認められたが、バンベルク司教領はローマ・カトリックの拠点でありつづけた。17~18世紀にかけてバンベルク司教はドイツの要職を兼ね、ローター・フランツ・フォン・シェーンボルンはマインツ大司教と選帝侯(ドイツ王選出権を持つ諸侯。ドイツ王が教皇の承認を経て皇帝となった)、フリードリヒ・カール・フォン・シェーンボルンは神聖ローマ帝国の副首相を努めた。彼らの居城が1602年にルネサンス様式で築かれた新レジデンツで、17世紀後半にローター・フランツがバロック様式で増改築している。この時代に町は繁栄を取り戻し、数多くのバロック様式の建物が築かれた。
ナポレオン率いるフランス帝国の侵略を受けて1802年にバンベルクは独立を失った。翌年バイエルン選帝侯領に組み込まれ、一帯は1806年にバイエルン王国に昇格した。この過程でバンベルクは王国の中心から外れて衰退したが、おかげで近代の都市開発を免れることができた。ふたつの世界大戦でドイツの都市の多くが破壊される中でバンベルクはほとんど被害を受けておらず、中世から近世の街並みを伝える稀有な歴史都市となっている。
世界遺産の資産はバンベルク旧市街で、レグニッツ川の2本の流れを基準に、川の南西のベルクシュタット、ふたつの流れに挟まれたインゼルシュタット、川の北東のトイアシュタットに分割されている。
ベルクシュタットのバンベルク大聖堂は1002~12年頃にハインリヒ2世の命で建設されたバシリカ式(ローマ時代の集会所に起源を持つ長方形の様式)・三廊式(身廊とふたつの側廊を持つ様式)の教会堂で、ドイツが誇るロマネスク様式の傑作とされる。1081年と1185年に大火で多くが焼失し、13世紀はじめに再建された。平面約99×29mで両端にアプス(後陣。半円の張り出し)を持つ独創的な平面プランで、両アプスにクワイヤ(内陣の一部で聖職者や聖歌隊のためのスペース)と至聖所を収めている。一般的にキリスト教の教会堂は東のアプスに主祭壇を置くが、バンベルク大聖堂では西アプスに配されている。東の双塔はロマネスク様式で高さ76m、西の双塔はゴシック様式で高さ74mを誇り、いずれも再建時に設置された。内部には数多くの彫刻作品が見られ、特に16世紀にドイツの彫刻家ティルマン・リーメンシュナイダーが彫り上げたハインリヒ2世と妻クニグンデの大理石製の棺や、13世紀に制作された教皇クレメンス2世の大理石棺、作成者不明ながらハインリヒ2世あるいは教皇クレメンス2世と見られるバンベルクの騎馬像は評価が高い。
「バンベルクの十字」の縦軸は西から聖ヤコブ教会、バンベルク大聖堂、聖マーティン教会、聖ガンゴルフ教会で、横軸は南から聖ステファン教会、オーベレ・プファル教会、バンベルク大聖堂、聖ミカエル修道院で構成されている。ベルクシュタットの聖ヤコブ教会は11世紀後半創立の教会堂で、1109年に司教オットーが完成させた。バンベルクでもっとも状態のよいロマネスク建築で、15世紀にゴシック様式の改装を行い、18世紀に西ファサード(正面)がバロック様式で改装された。インゼルシュタットの聖マーティン教会は13世紀創立のカルメル会修道院の修道院教会で、17世紀にイエズス会の教会堂としてバロック様式で建て替えられた。バロックらしい豪華な黄金祭壇で知られる。トイアシュタットの聖ガンゴルフ教会はバンベルクの現存最古級の教会堂で、1060年頃の建設と見られる。重厚なロマネスク様式だが、15世紀にゴシック様式の改装を受けて西ファサードのランセット窓(細長い連続窓)などが取り付けられ、16~17世紀のバロック様式の改装では双塔にドームが設置された。十字の横軸はいずれもベルクシュタットにあり、聖ステファン教会は11世紀はじめの創立で、17世紀にバロック様式で建て替えられ、19世紀にプロテスタントの福音ルーテル教会の教会堂となった。オーベレ・プファル教会は聖母マリア教会とも呼ばれるロマネスク様式の教会堂で、14世紀にアプスやクワイヤがゴシック様式で改修され、18世紀に内装がバロック様式で改装された。特に絵画とスタッコ(化粧漆喰)で彩られた見事な天井で知られる。聖ミカエル修道院は1015年にハインリヒ2世によって設立されたベネディクト会の修道院で、同年に修道院教会も建設された。現在の建物は1121年奉献と伝わるロマネスク様式で、1610年の火災を受けてルネサンス様式の西ファサードが取り付けられた。周辺の3階建ての建物は17~18世紀に建てられた修道院の施設で、僧院の他に食堂・図書館・娯楽施設・修道院長室・礼拝堂などが残されている。ゴシック様式の聖オットーの棺やロココ様式の説教壇、身廊天井の草花文様など、数多くの美術品を収めている。修道院は1803年に廃院となり、その後は公共施設として使用されている。
代表的な宮殿建築にはベルクシュタットの旧ホフハルトン(旧裁判所/旧宮殿)と新レジデンツ、郊外のアルテンブルク城がある。旧ホフハルトンの地はもともとハインリヒ2世の宮殿があった場所で、1570年頃に司教宮殿としてルネサンス様式で築かれた。新レジデンツが完成した後は官邸や図書館など公共施設として使用された。新レジデンツは新しい司教宮殿で、1602年に2ウイング(ウイングは翼廊/翼棟/袖廊。複数の棟が一体化した建造物群の中でひとつの棟をなす建物)がルネサンス様式で建設され、1700年前後にバロック様式の2ウイングが増築された。敷地にはバロック様式の平面幾何学式庭園であるバラ園が広がっている。郊外のアルテンブルク城は旧ホフハルトン以前の14~16世紀の司教宮殿だが、世界遺産の資産には含まれていない。
公共建築としてはインゼルシュタットの旧ラートハウス(旧市庁舎)が有名だ。15世紀半ばにレグニッツ川の中に築かれた人工島の上に建設されたラートハウスで、18世紀半ばにバロックおよびロココ様式で改装された。外壁に描かれたトロンプ・ルイユ(だまし絵)は1959~62年に画家アントン・グレイナーが描いたものだ。旧ラートハウスの北の川沿いに広がる「リトル・ヴェネツィア」には17世紀の家々が立ち並んでいる。
中世およびバロック時代のバンベルクのレイアウトと建築は11世紀以降の中央ヨーロッパの都市の形態と発展に多大な影響を及ぼした。
バンベルクは都市プランと聖俗の建造物の両面において中央ヨーロッパの中世初期の代表的かつ卓越した都市である。
ベルクシュタット、インゼルシュタット、トイアシュタットという3つの入植地からなる中世の都市レイアウトはいまでもよく保存されており、資産は顕著な普遍的価値を示すために必要なすべての要素を含んでいる。また、開発や放置による悪影響も見られず、完全性は満たされている。
3つの歴史エリアのレイアウトは中世の特徴を保持しており、これらのエリアに立ち並ぶ多くの歴史的建造物は本物である。1950年代以降、「バンベルク・モデル」と呼ばれる地域の歴史的資産の修復プログラム、大規模で野心的な計画ではなく小規模な一連のプロジェクト群を継続的に実施しており、その結果、バンベルクの保全レベルは全体的に向上し、大きな成果を挙げている。