フランス国境に近いドイツ西部ザールラント州フェルクリンゲンに位置する製鉄所で、地元のザール地方や近隣のロレーヌ地方で採れる豊富な石炭と鉄鉱石を利用して19~20世紀にドイツ最大の製鉄所に成長し、覇権国家イギリスを追い落としてドイツをヨーロッパ最大の工業国に引き上げた。
ナポレオン後のヨーロッパの在り方を決める1814~15年のウィーン会議において、ドイツでは35の君主国と4つの帝国自由都市(諸侯や大司教・司教の支配を受けず神聖ローマ帝国の下で一定の自治を認められた都市)からなるドイツ連邦が成立した。しかし、プロイセン王国とオーストリア帝国を除いて小国が多い連邦では行き来さえ不自由で、一帯は近代化を迎えることができなかった。そこで連邦の主導権を争っていたプロイセンは1834年にオーストリアを排除する形でドイツ関税同盟=ツォルフェラインを結成し、域内の関税を撤廃して経済的な統合を実現した。これを機に1840年代にベルギー・フランス国境に近いラインラントで産業革命がはじまり、ザール地方に波及した。イギリスでは綿織物など軽工業を中心とした第1次産業革命から鉄鋼・機械・造船・化学といった重工業や重化学工業の第2次産業革命へと発展したが、ドイツではいきなり第2次産業革命に突入した。
プロイセンは1870~71年に起こったプロイセン=フランス戦争(普仏戦争)に勝利するとパリを占領し、ヴェルサイユ宮殿(世界遺産)でプロイセン王ヴィルヘルム1世の皇帝戴冠式を行った。これによりドイツ帝国が誕生し、ドイツ統一が実現した。また、この戦勝でフランスから工業地帯で資源が豊富なアルザス=ロレーヌ地方や賠償金を獲得している。こうして中央集権が進み、権力と資金を手にした帝国宰相ビスマルクは鉄道などのインフラ整備や造船などによる軍備増強を図って国家プロジェクトを推進し、近代化と産業革命を推し進めた。このドイツ産業革命で主役の一翼を担ったのがフェルクリンゲン製鉄所だ。
1873年、ケルンのエンジニアで冶金の専門家であるユリウス・ブッフはフェルクリンゲンに製鉄所を建設し、2年後に精錬所の操業を開始した。しかし、原料の関税が高いことなどから1879年に閉鎖を余儀なくされた。1881年に近郊のザールブリュッケン出身の資本家カール・レヒリングがこれらの施設を購入しつつ新しい工場を建設。1883年に高炉(溶鉱炉。鉄鉱石を加熱して銑鉄を取り出す炉)の稼働が開始され、1893年までに4基の高炉が追加された。1890~91年には炉に風を送るガスブロー・エンジンや、炭素とリンを除去する最新の転炉(不純物の多い銑鉄から炭素を除いて強力な鋼に転換するための炉)であるトーマス転炉といった画期的なシステムを導入した。これにより高品質な鋼の生産が可能になっただけでなく、リンを多く含むロレーヌ地方の鉄鉱石の使用が可能になった。また、それまでは鉄鉱石や銑鉄を加熱するための燃料として石炭が使用されていたが、より高いエネルギーを放出する燃料として石炭を乾留(空気を遮断して加熱すること)したコークスの必要性が高まると、1897年にコークスを生産するためのコークス炉と石炭サイロ(貯蔵庫)が設置された。19世紀中にフェルクリンゲンはヨーロッパ有数の製鉄・製鋼所となり、鉄骨部品の生産においてドイツ最大の生産者となった。
20世紀に入っても製鉄所に対する投資は続けられた。1903年に6基目の高炉を導入し、1911年にはコークスと鉄鉱石を運搬するために当時最大規模を誇る吊り下げ式の電動ベルトコンベア・システムを設置し、実験段階を終えたばかりの乾式ガスによる精錬技術を採用したプラントを建設した。第1次世界大戦(1914~18年)がはじまると労働力として囚人や女性が導入され、軍の指導の下で工場が拡張されて軍用品の生産が行われた。ドイツが戦争に敗れると有力な工業地帯であるザール地方はドイツ・フランスの領有権問題にさらされ、国際連盟の管理下に置かれた。ナチス=ドイツは戦略的に重要なこの地を要求し、住民投票の後、1935年にドイツに復帰した。1928年には焼結技術(粉末状の金属を溶けない程度の温度で焼き固める技術)が導入され、ヨーロッパ最新最大の焼結プラントが建設された。この設備を見に世界中からエンジニアが集まり、先端的なモデルとなった。1935年にはコークス工場が再建・増築されている。
第2次世界大戦(1939~45年)ではフランス、イタリア、ロシアの戦争捕虜を中心に12,000人以上の外国人が強制労働に従事した。ドイツの製鉄所は連合軍による激しい空襲にさらされたが、フェルクリンゲンはほとんど被害を受けず、「フェルクリンゲンの奇跡」といわれた。戦後、ザール地方はフランスが占領して保護領としたが、1956年末にドイツに復帰した。保護領時代、戦後の建設ブームの中で製鉄所の生産はピークに達したが、1960~70年代に過剰生産と価格競争による鉄鋼危機によって業績は低迷し、製鉄所の再編が進められた。フェルクリンゲン製鉄所もブルバハの製鉄所と合併するなど影響を受けた。
1986年に操業を停止するとそのまま産業遺産として保護が進められ、修復や安全対策を施した後、博物館公園として公開された。おかげで取り壊しや開発などはほとんどなく、工場はおおよそ1930年代の状態を保っている。上に記したコークス炉やサイロ群、高炉群、ベルトコンベア、ガスブロー・エンジン、乾式ガス・プラント、焼結プラントなども保全されており、最盛期の姿を伝えている。
本遺産は登録基準(i)「人類の創造的傑作」でも推薦されていたが、その価値は認められなかった。
フェルクリンゲン製鉄所において銑鉄の生産におけるいくつかの重要な技術革新が行われ、あるいは実験レベルではなく最初に生産レベルで導入され、世界中の製鉄所が模倣して現在も使用されている標準モデルとなった。
フェルクリンゲン製鉄所は総合的な銑鉄生産工場の卓越した例であり、19世紀から20世紀初頭にかけてこの産業をリードし支配した。
フェルクリンゲン製鉄所の顕著な普遍的価値はその独自の完全性と独創性にある。それまでなかった規模を持つ乾式ガス・プラント、この種のものとしては最大規模を誇る吊り下げ式ベルトコンベア・システム、先駆的な焼結プラントといった技術的にマイル・ストーンといえる施設・設備の数々は19~20世紀の銑鉄生産システムを代表する不可欠な最重要部分であり、こうした貴重で複雑な生産施設が狭いエリアに集中している。資産は顕著な普遍的価値を持つこれらの要素をすべて含んでおり、操業停止直後から法的な保護を受けている。
フェルクリンゲン製鉄所の特徴は1986年に生産を終了して以来、取り壊されたり追加された建造物がほとんど存在せず、建設当時の姿の大部分を留めている点にある。数々の建造物は完全に本物であり、疑う余地はない。