ブリュールはドイツ中西部ラインラント地方、ケルンの南13kmほどに位置する町で、アウグストゥスブルク城(ブリュール城)は18世紀前半にケルン大司教クレメンス・アウグスト1世(クレメンス・アウグスト・フォン・バイエルン)によって建設されたロココ様式を代表する傑作として知られる。ファルケンルストは付属の狩猟小屋で、両者はシュロス庭園(城の庭園)で結ばれている。なお、ロココ様式はバロック様式のコンセプトを維持しながら軽やかさや優美さを重視したスタイルで、後期バロック様式の一様式とされることもある。
なお、2024年の軽微な変更でバッファー・ゾーンが設定された。
中世から近世にかけて神聖ローマ帝国には王国や公国・侯国・伯国といった諸侯が治める数多くの国があり、また大司教や司教といったローマ・カトリックの高位聖職者(聖界諸侯)による大司教領や司教領が存在した。そして神聖ローマ皇帝は、「選帝侯」と呼ばれるドイツ王選出権を持つ有力諸侯による選挙によってドイツ王として選出され、教皇による戴冠を経て皇帝として承認されていた(16世紀以降は実質的にハプスブルク家が世襲)。ドイツ中西部の都市ケルンは選帝侯であるケルン大司教(ケルン選帝侯とも)が治めるケルン大司教領で、16世紀後半~18世紀半ばまで大司教位はバイエルン選帝侯(バイエルン公)でもあったヴィッテルスバッハ家が世襲していた。
ラインラントのブリュールは少なくとも12世紀にはケルン大司教の所領となっており、13世紀後半に大司教ジークフリート・フォン・ヴェスターブルクがケルンの防衛拠点として城を建設した。17世紀まで城は存続したが、プファルツ戦争(1688~97年、大同盟戦争)でルイ14世率いるフランス軍によって破壊された。
1715年、ヴィッテルスバッハ家の選帝侯でケルン大司教でもあったヨーゼフ・クレメンス・フォン・バイエルンはブリュールの城跡に新たに宮殿を建設する計画を立て、フランスのバロック建築家ロベール・ド・コットとともに計画を進めたが、形になることはなかった。
叔父の地位を引き継いだクレメンス・アウグスト1世はドイツ・バロックを代表する建築家ヨハン・コンラッド・シュラウンを起用して新たな計画を立案した。シュラウンは以前の城の構造や塔を利用しながら設計を行い、1725年に建設がはじまった。1728年にはシュラウンに替わってヴィッテルスバッハ家の血を引くバロック・ロココの建築家フランソワ・ド・キュヴィイエが起用された。キュヴィイエは、ルイ14世時代の重厚なバロック様式からルイ15世時代の軽やかなロココ様式へ移行する過渡期に生まれたレジャンス様式を持ち込み、アウグストゥスブルク城のファサードや西ウイング、パレード・ルーム(主人のための部屋)などに加え、狩猟小屋ファルケンルストを設計した。
1740~46年にはドイツのバロック・ロココを代表する宮廷建築家バルタザール・ノイマンが参加してアウグストゥスブルク城のメイン階段を手掛けた。階段の天井にはイタリア・ロンバルディアのフレスコ画家カルロ・インノチェンツォ・カルローネによって華やかなフラスコが描かれた。1754年頃からケルンの建築家ヨハン・ハインリヒ・ローズが内装の仕上げを行い、1768年に竣工を迎えた。
世界遺産の資産を構成する要素は主に3つ、アウグストゥスブルク城、シュロス庭園、ファルケンルストだ。
大司教の夏の宮殿として設計されたアウグストゥスブルク城は南・北・中央ウイングで「コ」の字形を作る3ウイング構成となっている(ウイングは翼廊/翼棟/袖廊とも呼ばれ、複数の棟が一体化した建造物群の中でひとつの棟をなす建物を示す)。全長50mほどの南北ウイングはシュラウンによるバロック様式で、両ウイングをつなぐ全長60mほどの中央ウイングはキュヴィイエによるロココ様式となっている。いずれも3階建てでマンサード屋根(途中で角度が変わる寄棟屋根)を持つが、東・西・南ファサード(正面)の中央部はバロック様式の教会堂のようなデザインで、中央上段に三角破風のペディメントを持ち、その下には四角柱のピラスター(付柱。壁と一体化した柱)が見られるが、北ファサードについてはペディメントも四角柱も存在しない。対称が崩れており、バロック様式では珍しいデザインとなっている。城内最高の空間と評されるのがノイマンが設計した中央ウイングの階段で、碧玉をはめ込んだ大理石柱や女人像柱カリアティード、白大理石柱と純白の彫刻・レリーフ群、繊細なスタッコ(化粧漆喰)細工、そしてカルロ・インノチェンツォ・カルローネの天井画と、ロココ様式の集大成となっている。カルローネはガーデン・ルームでも天井画を描いており、周囲にはやはり色大理石柱やスタッコの見事な装飾が見られる。大司教の居室であるパレード・ルームはファイアンス焼きと呼ばれる美しい磁器タイルで彩られている。
シュロス庭園を手掛けたのはフランスの造園家ドミニク・ジラールで、フランスのヴェルサイユ庭園(世界遺産)の造園に参加してアンドレ・ル・ノートルの指導を受けたとされる。ジラールはヴェルサイユ庭園にならって噴水や運河、パルテール(花壇と通路を幾何学的に配した刺繍花壇)や生垣を整然と並べてフランス・バロック様式の平面幾何学式庭園=フランス式庭園を設計した。1842年にプロイセンの宮廷造園家でランドスケープ・アーキテクト(景観設計家)であるペーター・ヨセフ・レンネが庭園を自然に近いランダムなデザインを特徴とするイギリス式庭園に変更した。大きな森には不規則に曲がりくねる小道が通され、森の西には自然に流れる川とふたつの島を持つ池、そして牧草地が美しい田園風景を奏でている。レンネは1844年に開通したケルン=ボン線の線路をも設計に含めており、池の上に架かる鉄橋が風情を出している。1933~35年にかけてサンスーシ宮殿(世界遺産)の庭師だったゲオルク・ポテンテが中心となって森の一部を取り壊してフランス式庭園の中心部を復元した。現在、宮殿の南に見られるシュピーゲル池(鏡池)を中心とする一帯がそれだ。
城の南東に位置するファルケンルストはキュヴィイエが設計したロココ様式・レンガ造の狩猟小屋で、カントリーハウス(貴族や富農が地方に築いた豪邸)風のより民衆的・家庭的なデザインとなっている。周囲はサギがよく舞い降りる場所で、タカを使ってサギを狩る鷹狩りが行われていた。狩りの後にはファルケンルストのサロンに集まって夕食を取り、会話やゲームに興じたという。フランス人画家ステファン・ローレンツ・デ・ラ・ロークによる狩猟の様子を描いたフレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)が特徴的だ。その南西にたたずむ八角形の付属礼拝堂は彫刻家ピーター・ラポルテリーのデザインで、貝殻や鉱物で装飾された見事な礼拝空間が広がっている。
アウグストゥスブルク城とファルケンルストはドイツにおけるロココ様式の最初の重要な作品であり、1世紀以上にわたって宮殿建築のモデルとなった。
アウグストゥスブルク城とファルケンルスト、シュロス庭園は18世紀の大規模宮殿建築を代表する傑作である。
アウグストゥスブルク城とその庭園・公園、ファルケンルストからなる資産には顕著な普遍的価値を表現するために必要なすべての要素が含まれている。
城はほとんどオリジナルのまま維持されており、きわめて広範囲にわたって保存されている。ロココ様式の選帝侯宮殿として特徴を保持しており、大部分は宮殿あるいは博物館として機能と目的を継続してきたため改修や改築といった変化を免れることができた。アウグストゥスブルク城の平面幾何学式庭園は元のデザインに沿って復元されたヨーロッパでも数少ない例であり、フランス以外ではフランス式庭園のもっとも本格的な作品といえる。