デンマークとの国境に近いドイツ北部シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州に位置する世界遺産。ヘーゼビューは8~11世紀のヴァイキング(北ヨーロッパを拠点とするノルマン人)時代に繁栄したデンマーク王国の主要港湾都市で、フランク王国との国境に位置していたことから周囲に防塞線ダーネヴィルケを張り巡らせて侵略に備えた。長らくこのラインが北ヨーロッパと西ヨーロッパの境をなした。
ユトランド半島では紀元前12000年以前の遺跡が発見されており、紀元前500年前後にはケルト人による鉄器文化がもたらされた。中世に入ってゲルマン系のアングル人、ジュート人、サクソン人が進出し、その後ゲルマン系ノルマン人の一派であるデーン人が入植してデンマーク人の祖先となった。遅くとも8世紀にはデーン人によるヘーゼビューの町が成立していた。
ヘーゼビューはシュライフィヨルド(シュライ湾。フィヨルドは氷河が山をU字形に削ったU字谷に海水が流れ込んでできた氷河地形)でバルト海と結ばれており、内陸に隠れるように位置する良港であることから港湾都市として開発が進められた。それだけでなく、ユトランド半島北部やスカンジナビア半島に向かう街道も走っており、陸路においても要衝となった。8~9世紀にはデーン人のもっとも重要な交易都市となり、特にバルト海や北海を利用した海洋交易で発達した。8~11世紀ほどまでがいわゆるヴァイキング時代で、ノルマン人は「ロングシップ」と呼ばれる喫水の浅い(深く沈まない)ヴァイキング船を利用してバルト海と北海を制し、ロシアやイベリア半島、地中海沿岸、果ては北アメリカにまで進出した。
ヘーゼビューはスウェーデンのビルカ(世界遺産)と並ぶヴァイキングの商業拠点として発達した。ただ、ヴァイキング勢力の南端の都市であり、たびたび異民族の侵入やヴァイキング同士の争いに巻き込まれた。たとえば800年前後にスウェーデンのヴァイキングがこの地を征服し、デンマーク王ゴズフレズが奪還している。このためデーン人は7世紀以前から長城(国境線に築かれた土塁や壁)として防塞線ダーネヴィルケの整備を進めた。たとえばホルリングシュテットからダネヴェルクに至るゾーデンヴァル(「ヴァル」はドイツ語で壁を意味する)と呼ばれる幅15~18m・高さ4mほどの土塁は700年以前に築かれた同地でもっとも強力な長城だった。8世紀にはこのゾーデンヴァルを利用してハウプトヴァル(主壁)やクルムヴァル(湾曲壁)に増築・拡大された。
804年にフランク王でありローマ皇帝でもあるカール大帝がザクセンの攻略に成功し、フランク王国とデンマーク王国はヘーゼビューの南20kmほどを流れるアイダー川で国境を接した。ゴズフレズは改めてヘーゼビューを防衛拠点として整備し、過去の土塁を利用しながらクルムヴァル、ノルトヴァル(北壁)、オスターヴァル(東壁)といった防塞線を構築した。808年にはバルト海沿岸の交易都市レリックを攻略し、住民をヘーゼビューに移住させて町を拡大した。9世紀には北ヨーロッパと西ヨーロッパの主要交易センターに発展し、820~860年にかけて独自のコインを鋳造して流通させた。
フランク王国は843年のヴェルダン条約で東・中部・西フランク王国の3か国に分裂し、855年のプリュム条約で中部フランク王国はロタリンギア、プロヴァンス、イタリアに分割され、870年のメルセン条約でロタリンギアとプロヴァンスは東西フランク王国に吸収された。934年に東フランク王ハインリヒ1世がヘーゼビューの戦いでデンマーク王ハーデクヌーズ1世を破って町を征服。デンマークはまもなくヘーゼビューを奪還すると、町を半円形の土塁で囲んで要塞都市に改造し、町からフェアビンドンスヴァル(接続壁)をノルトヴァルまで延ばし、南にコーヴィルケの土塁を築いて防塞線を強化した。以後、東フランク王国から発展した神聖ローマ帝国とデンマークはたびたび交戦し、デンマークの「青歯王」ハーラル1世の奪還、神聖ローマ皇帝オットー1世による征服と974年の併合、983年の「双叉髭王」スヴェン1世の再奪還が続いた。960年頃にハーラル1世がキリスト教に改宗して以降、デンマークにはキリスト教が浸透し、オットー1世の時代に司教区が成立した。
スヴェン1世は11世紀前半にイングランドやノルウェーを征服し、短期間ではあったがデンマーク、ノルウェー、イングランドの国王を兼ねた。その息子「大王」クヌート1世(イングランド王として。デンマーク王としてはクヌーズ2世)は3国の王位に就いて北海帝国を成立させた。クヌート1世は神聖ローマ皇帝コンラート2世に娘を送り、その支配権を認めさせて安定を図った。1035年にクヌート1世が没すると後継者争いの果てに分裂し、北海帝国はわずか7年で崩壊した。
1050年、ノルウェーの「苛烈王」ハーラル3世がヘーゼビューに侵攻。デンマーク王スヴェン2世の軍勢を破ると、船に火を放って港に送り込み、ヘーゼビューを焼き尽くした。1066年にはこの頃ヨーロッパに盛んに進出していたスラヴ人が押し寄せてふたたび町を破壊・略奪した。住民は町を放棄してシュライフィヨルドの北に移動してシュレスヴィヒを建て、ヘーゼビューは二度と再興されることはなかった。以後、この地域の重要性は薄れ、防塞線もほとんど使われることはなくなった。ただ、1162年頃にハウプトヴァルの一部がレンガの壁となり、19世紀半ばに防塞線が再利用されて27基の要塞が築かれている。
世界遺産の構成資産は22件で、ヘーゼビューと沖合構造物以外は土塁を中心とした長城となっている。
ヘーゼビューは半円形の土塁とシュライフィヨルドに通じるハッデビヤー・ノオール湖の海岸線に囲まれた港湾都市遺跡で、町の通りや港・住居などの遺構や、ルーン文字を刻んだルーン・ストーン、町で鋳造されていたコインなどの遺物が発見されている。一帯は考古学公園として保護されており、一部のヴァイキング集落が復元され、近郊にはロングシップなどを展示したヴァイキング博物館がオープンしている。
ダーネヴィルケは土塁を中心に柵・堀・石壁やレンガ壁などからなる構築物の複合体で、6世紀頃から12世紀にかけて築かれた。ユトランド半島の東に切れ込むシュライフィヨルドから西の湿地帯にかけて半島でもっとも狭い地域で、シュライフィヨルドと西から流れるトレーネ川を土塁で結ぶことで半島北部を隔離して国境を守る長城とした。
トレーネ川と接するクルムヴァルが最西端で、ホルリングシュテット周辺から東のハウプトヴァルまで弧を描きながら7.5kmにわたって伸びている。7世紀以前にゾーデンヴァルとして建設された土塁をベースとし、9世紀に拡張・増築して建設された。
ハウプトヴァルはクルムヴァルの東端から北東のダネヴェルク湖(現在は排水されている)まで5.5kmにわたって伸びる長城で、ダーネヴィルケでもっとも堅固に造られた。やはりゾーデンヴァルの土塁を利用して築いたもので、石壁やレンガ壁、堀なども見られる。大きさや構造は場所によって異なるが、おおよそ幅17m・高さ3mほどで、土塁の中心に石壁が積み上げられており、土塁の前には幅4mと5m・深さ2mの二重の堀が築かれた。当時、土塁の上にオークの板が壁のように張り巡らされていたという。
ノルトヴァルはダネヴェルク湖の東からシュライフィヨルドに近いシュライ平野まで1.5 kmにわたって伸びていた。幅14〜15mほどの土塁で、幅3mと5mの二重の堀が並行していた。また、土塁の前には木造のフレームを持つ要塞が展開していた。
フェアビンドンスヴァルは東フランク王国の侵略を受けて10世紀後半に建設された土塁で、ノルトヴァルとヘーゼビューの土塁を3.3kmの土塁で接続した。西側の土塁の北にはさらにボーゲンヴァルの土塁が築かれ、ノルトヴァルと合わせて三重の防壁を形成した。土塁は幅11~18m・高さ2mほどで、木製の構築物を伴っていた。
コーヴィルケも同時期に築かれた土塁で、こちらはヘーゼビューの南、クルムヴァルの東からゼルカー・ノオール湖にかけて約6.5kmにわたって築かれた。コーヴィルケが建設されるまでヘーゼビューは長城の外に位置していたが、この完成を経て町は長城の内側に収められた。土塁は幅7m・高さ2mほどで、土塁の前に幅4m・深さ3mの堀、上に高さ3mの柵が築かれていた。
オスターヴァルはエッカーンフェルデ湾に通じるヴィンデビヤー・ノオール湖とシュライフィヨルドの間に築かれた5.5kmの土塁で、ヘーゼビューの東を押さえていた。
沖合構造物はシュライフィヨルドの沖合に築かれた柵のような木製の構築物で、670mにわたって伸びていた。
ダーネヴィルケのあるヘーゼビューは西ヨーロッパ・北ヨーロッパ間の海上貿易と交流ネットワークの中心を担っただけでなく、数世紀にわたってデンマーク王国とフランク王国の国境の核心地だった。8~11世紀にかけてヨーロッパのさまざまな文化的伝統を持つ人々の間に立って交易を行い、交流をリードした卓越した証拠を示している。その豊富で非常によく保存された考古学的史料のため、ヴァイキング時代のヨーロッパの経済的・社会的・歴史的な発展を理解するための重要な遺跡となっている。
ヘーゼビューはヨーロッパ大陸をまたがる交易ネットワークの発展を促し、ダーネヴィルケと連動して新興のデンマーク王国とヨーロッパ各地の国々・人々との交流を推進し、交易ルートや経済・領土の管理を行った。8~11世紀にかけての海と陸の主要交易ルートの中心にあり、国境における大規模な防衛システムによって守られた交易都市の例として、考古学的史料はヘーゼビューとダーネヴィルケの意義を強調している。
ヘーゼビューとダーネヴィルケは交易都市と関連の防塞線コンプレックスで、6~12世紀にかけての考古学的遺跡や構築物を網羅している。資産はヘーゼビューとダーネヴィルケの長い歴史の中で築かれた各種のモニュメントや城壁、重要な位置や環境、考古学的遺構をはじめ、顕著な普遍的価値を示すすべての要素を含んでおり、法的に保護されている。ダーネヴィルケは時代時代に改修・増築されており、土塁には建設の各段階と防衛システムの進化の様子が反映されている。バッファー・ゾーンは重要な可視域を維持しており、地域の中核的な要素が将来にわたって維持されることを保証する保護・管理体制が取られている。
モニュメントの形状・デザイン・素材・原料に関して資産の真正性は高いレベルで満たされている。ヘーゼビューには放棄されて以来、人が住んでおらず、建造物も建てられていないため、遺跡を覆っている考古学的堆積層の真正性は保持されている。堆積層の95%は未発掘であり、発掘された5%については確立された考古学的手法と分析法により適切に研究されている。ダーネヴィルケの一部は19世紀に要塞として再構築されたが、土塁の古い部分とは明確に区別されている。ヘーゼビューとダーネヴィルケは徹底的に文書化されており、本来の構造が調査・研究され、維持されている。