レーゲンスブルクの旧市街とシュタットアムホーフ

Old town of Regensburg with Stadtamhof

  • ドイツ
  • 登録年:2006年
  • 登録基準:文化遺産(ii)(iii)(iv)
  • 資産面積:182.8ha
  • バッファー・ゾーン:775.6ha
世界遺産「レーゲンスブルクの旧市街とシュタットアムホーフ」、ドナウ川沿岸の街並み。左の大きな建物はレーゲンスブルク大聖堂、中央の塔は旧ラートハウス
世界遺産「レーゲンスブルクの旧市街とシュタットアムホーフ」、ドナウ川沿岸の街並み。左の大きな建物はレーゲンスブルク大聖堂、中央の塔は旧ラートハウス
世界遺産「レーゲンスブルクの旧市街とシュタットアムホーフ」、全長308.7m(かつては336m)を誇るシュタイネルネ橋
世界遺産「レーゲンスブルクの旧市街とシュタットアムホーフ」、全長308.7m(かつては336m)を誇るシュタイネルネ橋
世界遺産「レーゲンスブルクの旧市街とシュタットアムホーフ」、ノイプファー広場のノイプファー教会
世界遺産「レーゲンスブルクの旧市街とシュタットアムホーフ」、ノイプファー広場のノイプファー教会
世界遺産「レーゲンスブルクの旧市街とシュタットアムホーフ」、レーゲンスブルク大聖堂のウェストワーク。2基の双塔がスパイア
世界遺産「レーゲンスブルクの旧市街とシュタットアムホーフ」、レーゲンスブルク大聖堂のウェストワーク。2基の双塔がスパイア (C) Hpschaefer http://www.reserv-art.de
世界遺産「レーゲンスブルクの旧市街とシュタットアムホーフ」、華麗なロココ装飾で覆われた聖母降誕教会
世界遺産「レーゲンスブルクの旧市街とシュタットアムホーフ」、華麗なロココ装飾で覆われた聖母降誕教会

■世界遺産概要

ドイツ南部バイエルン州の都市レーゲンスブルクのドナウ川南岸の旧市街からシュタットアムホーフに広がる一帯を登録した世界遺産。2,000年の歴史を誇る交易都市で、古代ローマからロマネスク、ゴシック、ルネサンス、バロック、ロココまで、多彩なスタイルの建造物が立ち並んでいる。なお、ポルタ・プラエトリア(プラエトリア門)をはじめとする旧市街のローマ遺跡の一部は世界遺産「ローマ帝国の国境線-ドナウ・リメス[西セグメント](オーストリア/スロバキア/ドイツ共通)」と重複している。

○資産の歴史

レーゲンスブルクには紀元前5000年頃から人類の居住の跡があり、179年にはローマ帝国によってカストラ・レジーナ(レーゲン川の城砦の意)と呼ばれる要塞が建設された。やがて周囲に城下町が発達し、ドナウ川やレーゲン川を利用した交易で発達した。ただ、最前線でもあったためたびたび襲撃を受け、470年に放棄されるとゲルマン系チュートン人の手に落ちた。その後、バイエルン人が入植し、フランク王国の下でバイエルン王国としてアギロルフィング家によって統治された。800年にローマ皇帝となったカール大帝がこの地を視察しているように、9世紀には王国で最重要の都市のひとつとなり、ルートヴィヒ1世(ルイ1世/ルイ敬虔王)らがこの地で帝国議会を開催している。

ドイツの地はフランク王国の分裂を経て数多くの領邦(諸侯や都市による領土・国家)に分かれて神聖ローマ帝国の下に入り、バイエルンはバイエルン公国として再編された。917〜920年にバイエルン公アルヌルフはローマ時代の城壁を拡張し、商人らの住居を取り囲んで城郭都市として整備した。レーゲンスブルクの商人たちはパリ(世界遺産)やヴェネツィア(世界遺産)、キーウ(キエフ)といった都市と遠距離交易を行って繁栄し、1000年までに人口約4万人を誇るドイツ最大の都市に成長した。11~12世紀には数多くの建物がロマネスク様式の石造建築に建て替えられた。その象徴が1135~46年に建設されたシュタイネルネ橋で、中世ヨーロッパを代表する石橋となった。

12世紀になるとレーゲンスブルクの争奪戦が勃発し、バイエルン公と司教の対立も激化した。市民らは神聖ローマ皇帝フィリップ・フォン・シュヴァーベンの支援を受けてコミューンを形成し、公国や司教からの独立を目指した。皇帝フリードリヒ2世は 1245年に市民が市長や市議会を選出する特権を与え、やがて帝国自由都市(諸侯や大司教・司教の支配を受けず神聖ローマ帝国の下で一定の自治を認められた都市)として認められて実質的な独立を勝ち取った。12~13世紀にはゴシック様式の建物が数多く建設された。その最高傑作がレーゲンスブルク大聖堂(聖ペーター大聖堂)で、ロマネスク様式の大聖堂が1273年の火事で焼失したことから1275年にゴシック様式で再建がはじまった。ただ、西ファサード(正面)のスパイア(ゴシック様式の尖塔)の完成は1872年までずれ込んだ。13世紀末には城外まで広がった住宅地を取り囲む形で城壁が拡張され、町はさらに拡大した。

14~15世紀に入ると交易ルートの衰退、ペストの流行、バイエルン公による締め付けなどによって町は拡大から衰退局面へ転じた。特にフス戦争(1419~36年)や東ローマ帝国の滅亡(1453年)でボヘミア(チェコ西部)やアジアへのルートが断たれ、イタリアへのルートについてもメイン・ルートがタウエルン峠からブレンナー峠に移るとレーゲンスブルクに代わってアウクスブルク(世界遺産)やニュルンベルクが繁栄した。バイエルン公から資金援助を受けたり、皇帝直属の知事が統治したり、司教が勢力を増して自由都市(大司教や司教の支配を受けず教会に対して義務を免除された都市)としての特権を失うなど、徐々に都市の自由は蝕まれた。

16~17世紀には大きな混乱期を迎えた。レーゲンスブルクはドイツ最大のユダヤ人コミュニティを誇っていたが、税免除の特権を持っていたユダヤ人を1519年に追放。シナゴーグ(ユダヤ教の礼拝堂)やユダヤ人墓地が破壊され、その建材や墓石を利用して跡地に聖母マリアに捧げるノイプファー教会がルネサンス様式で建設された。建設中に屋根から落下した人物が無傷になるなど奇跡の逸話が広まるとドイツ有数の巡礼地となり、多くの巡礼者を集めた。16世紀前半から多くの市民が旧教=ローマ・カトリックから新教=プロテスタントに改宗し、ノイプファー教会などもプロテスタントに移行した。三十年戦争(1618~48年)ではプロテスタントの拠点のひとつとなり、弾圧を逃れた数多くの亡命者が集まった。1632~34年にはレーゲンスブルクの戦いが勃発し、バイエルン公による征服、新教側に立つスウェーデンによる占領とローマ・カトリック聖職者の追放、神聖ローマ帝国とバイエルン公による奪還が行われた。1663年には帝国議会が旧ラートハウス(旧市庁舎)で開催され、帝国が滅びる1806年までたびたび招集された。

ナポレオン戦争(1803~15年)ではフランス軍の侵攻に乗じて1803年にレーゲンスブルク公国として独立するが、1810年のパリ条約でバイエルン王国(1806年に公国から王国に昇格)に吸収された。この過程で教会の世俗化が進められ、聖エメラム修道院やニーダーミュンスター修道院、オーバーミュンスター修道院などの廃院が進められた。町は王国の地方都市となり、1878年までにほとんどの城壁が撤去された。

ドイツの多くの古都が第2次世界大戦で深刻な被害を受ける中、レーゲンスブルクは早々に降伏したため旧市街周辺の被害はごく一部に留まった。これにより中世の街並みがほぼ無傷で伝えられるドイツでも唯一に近い歴史都市となった。

○資産の内容

世界遺産の資産にはドナウ川南岸に広がる旧市街と、オーベラー・ヴェールトとウンターラー・ヴェールトという島の一部、現在は運河によって島となっている北岸のシュタットアムホーフの一部が登録されている。

ローマ時代の遺跡は各地に点在している。ポルタ・プラエトリアはカストラ・レジーナ時代の水門で、17世紀まで北門として使用されていた。その後破壊され、1887年に遺跡の一部を建物の中に組み込む形で復元された。

フランク王国時代の建物としては、カロリング朝期の土台を持ち、13世紀に建設されて1855年に撤去され、1940年に復元されたローマ塔や、聖母降誕教会(旧・参事会教会礼拝堂)の鐘楼などが挙げられる。これらはカロリング朝時代に宮殿の一部を構成していた。

ロマネスク様式の代表的な建物には聖ヤコブ・ショッテン教会がある。もともとショッテン修道院の付属教会堂で、12世紀はじめにバシリカ式(ローマ時代の集会所に起源を持つ長方形の様式)・三廊式(身廊とふたつの側廊を持つ様式)の教会堂として建設された。ドイツを代表する盛期ロマネスク建築で、特にポータル(玄関)は最重要のモニュメントとされる。聖エメラム修道院の聖エメラム教会もバシリカ式の三廊式教会堂で、カロリング朝期の土台の上に11世紀にロマネスク様式で再建され、18世紀にバロック様式で改修された。身廊はバロック様式の壮大な装飾で覆われている。同修道院の聖ルパート教会は11世紀後半に築かれた「†」形のラテン十字形・三廊式のロマネスク様式で、やはり内装は17~18世紀にバロック様式で改装されており、彫刻やフレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)・絵画・スタッコ(化粧漆喰)などで飾られている。ニーダーミュンスター大聖堂教区教会はもともとニーダーミュンスター修道院の付属教会堂で、700年頃の創建で11世紀半ばにバシリカ式の三廊式教会堂として建て替えられた。こちらもロマネスク様式で内装はバロック様式だ。同様の造りを見せるのが1002年に神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世が建設した聖母降誕教会(旧・参事会教会礼拝堂)で、外観はシンプルながら内装は白と金を基調としたロココ様式の見事な装飾で彩られている。

ゴシック様式の代表的な建物としては、聖ウルリッヒ教会(現・聖ウルリッヒ教区博物館)が挙げられる。1225~40年に建設されたドイツ最古級の初期ゴシック様式の教会堂で、13~16世紀に描かれたフレスコ画で飾られている。レーゲンスブルク大聖堂の創建は8世紀頃とされ、10世紀後半にロマネスク様式で建て替えられ、1275年にゴシック様式で再建がはじまった。ラテン十字形・三廊式の教会堂で、フランスのゴシック様式を参考に西ファサードに巨大な2本のスパイアを持つ豪壮なウェストワーク(ドイツ語でヴェストヴェルク。教会堂の顔となる西側の特別な構造物。西構え)が計画された。15世紀半ばまでに身廊やアプス(後陣)といった主要部分が完成して使用が開始され、1520年までにほぼ完成した。しかしながらスパイアの完成は大幅にずれ込み、起工から約600年を経た1872年に平面85.4×34.8m、身廊の高さ31.9m、スパイアの高さ105mという巨大な教会堂が完成した。旧ラートハウスは市庁舎コンプレックスで、13世紀にゴシック様式で建設されたライヒサール(帝国ホール)、高さ55m・8階建ての時計塔、18世紀にバロック様式で拡張されたバロック棟という3棟の建物からなっている。ライヒサールでは1594~1806年にかけて帝国議会が開催されていた。ゴシック様式のオステントールは1284年に建てられた5階建ての門塔で、かつては東門として機能していた。

ルネサンス様式の代表的な建物にはノイプファー教会がある。アプスなどにゴシック様式の要素を残したルネサンス建築で、双塔を含めてラテン十字形・三廊式の教会堂となっている。16世紀にプロテスタントに改宗し、1542年にレーゲンスブルク初となるプロテスタントの礼拝が行われた。

バロック様式の建物には1731~33年に築かれたレシェンコール宮殿や、18世紀に建設されたシュタットアムホーフの聖マン教会などがある。

その他の代表的な建物として、聖エメラム宮殿(トゥルン・タクシス宮殿)が挙げられる。聖エメラム修道院の跡地を利用して整備されたトゥルン・タクシス家の宮殿で、19世紀にネオ・ルネサンス様式で再建・拡張された。500に及ぶ部屋や博物館・厩舎、ゴシック・リバイバル様式の礼拝堂など、数多くの見所がある。

レーゲンスブルクは「塔の町」としても知られており、資産には貴族が所有していた邸宅付属の約40基の塔が残されており、古都の景観にアクセントを与えている。位の高い貴族ほど高い塔を建てており、ステータスシンボルとなっていた。代表的な塔に、12世紀のロマネスク建築でこの種の塔でもっとも高い高さ50m・9階建てを誇るゴルドネ塔、13世紀のゴシック建築で高さ28m・7階建てのバウムバーガー塔、やはり13世紀のゴシック建築で7階建てのゴールデネス・クロイツなどがある。

■構成資産

○レーゲンスブルクの旧市街とシュタットアムホーフ

■顕著な普遍的価値

本遺産は登録基準(i)「人類の創造的傑作」でも推薦されていたが、ICOMOS(イコモス=国際記念物遺跡会議)はその顕著な普遍的価値について、個々の傑作にあるのではなく中世の都市構造に存在するとして価値は証明されていないとした。

○登録基準(ii)=重要な文化交流の跡

レーゲンスブルクの建築は、中世の交易都市としての役割と、アルプス以北の地域の中心都市としての影響力を示している。レーゲンスブルクはイタリア、ボヘミア、ロシア、ビザンティオンへの大陸交易ルートの要衝だった。また、大陸を横断するシルクロードと複数の接点を持っていた。レーゲンスブルクはこうした重要な交流による文化的・建築的な影響を伝えており、都市景観に表れている。

○登録基準(iii)=文化・文明の稀有な証拠

レーゲンスブルクの旧市街は神聖ローマ帝国の多くの重要な会議が開催された場所であり、帝国の文化的伝統に関する卓越した証拠となっている。特に1663~1806年には帝国議会が開かれており、ヨーロッパ史に重要な影響を与えつづけた。こうした役割の証拠として9世紀以降に築かれたふたつの宮殿の遺跡が存在し、他にも多くの保存状態のよい歴史的建造物が散在し、都市コミュニティの富と政治的重要性を物語っている。

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

「レーゲンスブルクの旧市街とシュタットアムホーフ」は中央ヨーロッパの中世における交易都市のすぐれた例であり、その歴史的段階をよく留め、特に11~14世紀の商業的発展に関して顕著である。

■完全性

レーゲンスブルクの旧市街では14世紀以前の中世の面影がよく保持されており、第2次世界大戦の被害も少なく非常によい状態で伝えられている。1970年代以降の修復作業もあって多くの歴史的建造物が良好に保全されており、都市の歴史的完全性の維持や重要な景観の効果的な保護につながっている。資産は顕著な普遍的価値を表現するために必要なすべての要素を含んでおり、法的に保護され、開発や放棄による悪影響を受けていない。

■真正性

都市が木造ではなく石造建築であることもあり、保護対象となっている個々の歴史的建造物は真正性を維持している。建物の修復は慎重に管理されており、歴史的な文脈を尊重しつつ法的な規定に従って適切に実施されている。

■関連サイト

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