ロルシュはドイツ中西部ヘッセン州に位置する町で、8世紀に設立された修道院によって切り拓かれた。修道院の建造物群は17世紀の戦争でほとんど破壊されたが、900年前後に築かれた王の門は往時の姿を留めており、数少ないカロリング・ルネサンス期の傑作と讃えられている。また、初期の修道院教会跡であるアルテンミュンスター遺跡はプレ・ロマネスク時代のバシリカ(ローマ時代の集会所に起源を持つ長方形の教会堂)の構造を伝えている。なお、世界遺産登録時にはバッファー・ゾーンが設けられていなかったが、2011年の軽微な変更で設定された。
ロルシュにはローマ時代から小さな集落があり、中世初期にはゲルマン系のチュートン人が暮らしていた。一説ではイエスの十二使徒のひとりである聖ペトロの家族が築いた住居があり、760年前後にフランク王国の貴族ロバーティナー・カンコルとその母親ヴィリスヴィンダがその場所に私設教会堂と修道院を建設したという。764年にこれらはメス司教クロデガングに譲渡され、クロデガングはゴルズ修道院の修道士を呼び寄せてベネディクト会の修道院を開設した。教皇パウルス1世は翌年、ローマ皇帝ディオクレティアヌスのキリスト教弾圧で殉教した聖ナザリウスの遺骨を聖遺物として贈った。766年にクロデガングはメス司教の職務に集中するため職を辞し、後継者として弟グンデランドと14人のベネディクト会修道士を送り込んだ。翌年、修道院のあるアルテンミュンスターは土地が低く洪水の恐れがあることから650mほど南西の丘に移転した(土地の所有権を巡る争いのためともいわれる)。
772年、修道院はグンデランドによってフランク王国カロリング朝のカール大帝に譲渡され、王立修道院となった。カール大帝は800年にローマ教皇レオ3世から戴冠されてローマ皇帝となっている(カールの戴冠)。774年に聖ペトロ、聖パウロ、聖ナザリウスに捧げる新しいバシリカ式教会堂がマインツ大司教によって奉献されると、カール大帝も参加して献堂式が行われた。大帝は近郊に宮殿を建設してしばしばこの教会堂を訪ねたほか、西フランク王ルイ2世をはじめカロリング家の国王や王妃・その一族が訪問した。また、聖遺物が数々の奇跡を起こしたという噂もあってヨーロッパ中から巡礼者を集めたという。
8世紀後半に修道院長に就いたリッヒボッドは修道院に写字室を設け、修道院図書館を設立した。写字室では聖書や古典の写本が製作されたほか、フランク王国に関するコデックス(冊子写本)なども作られた。特に8世紀後半~9世紀前半に製作されたラテン語の写本は「ロルシュのコデックス・アウレウス」と呼ばれ、カロリング朝のきわめて貴重な資料となっている。ロルシュ修道院は写本製作と図書の収集についてフランク王国や神聖ローマ帝国できわめて重要な役割を果たし、西・北ヨーロッパでもっともすぐれた写字室であり図書館と評された。カロリング朝時代、特にカール大帝の時代にアーヘン宮殿を中心に学問・芸術・建築などを回復する文芸復興=カロリング・ルネサンスが起こったが、ロルシュ修道院は特にラテン語文献の製作で貢献した。
カール大帝の跡を継いだルートヴィヒ1世(ルイ1世/ルイ敬虔王)が840年に死去すると後継者争いが勃発し、843年のヴェルダン条約でフランク王国は東フランク、中部フランク、西フランクの3王国に分割され、855年のプリュム条約で中部フランク王国はロタリンギア、プロヴァンス、イタリアに分割され、さらに870年のメルセン条約でロタリンギアとプロヴァンスはイタリアを除いて東西フランク王国に吸収された。ロルシュ修道院では876年にエククレシア・ヴァリアと呼ばれる地下礼拝堂が建設されるとカロリング家の埋葬地となり、東フランク王ルートヴィヒ2世やルートヴィヒ3世らが葬られた。962年に東フランク王国ザクセン朝のオットー1世が教皇ヨハネス12世からローマ皇帝の帝冠を授かり(オットーの戴冠)、神聖ローマ帝国が誕生した。ロルシュ修道院は帝国修道院となり、11世紀まで皇帝や国王・地元貴族から多くの寄付や寄進を受けて繁栄した。12世紀後半には「ロルシュ・コデックス」と呼ばれる当時の様子を記録したコデックスが編纂された。
ロルシュ修道院は神聖ローマ帝国の下で自由な活動を続けていたが、1232年に神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は修道院をマインツ大司教区の下に再編して特権の多くを剥奪した。運営もベネディクト会からシトー会に移り、1248年にはプレモントレ修道会に移行した。1461年以降はプファルツ選帝侯領に所属してローマ・カトリックの修道院として活動を続けた。
1556年にプファルツ選帝侯となったオットー・ハインリヒはプロテスタントのルター派(ルーテル教会)に改宗し、選帝侯領で宗教改革を進めた。これにより修道士は追放され、ロルシュ修道院は1564年に廃院となった。ただ、図書館の蔵書についてはハイデルベルクにパラティーナ図書館を建設して移送した。その後、修道院の写本類はハイデルベルクを占領したバイエルン選帝侯マクシミリアン1世によって教皇グレゴリウス15世に献上され、バチカン図書館(世界遺産)に収められた。
旧教=ローマ・カトリックと新教=プロテスタントの対立から国家間の大戦争に発展した三十年戦争(1618~48年)でロルシュ周辺は荒廃した。1621年に旧教側で参戦していたスペイン軍がロルシュを略奪し、火をかけて町を焼き尽くした。続いてプファルツ戦争(1688~97年、大同盟戦争)が起こるとルイ14世率いるフランス軍に蹂躙され、ロルシュは廃墟となった。その後、廃墟から切石やレンガが石材として持ち去られたため、さらに多くの建物が失われた。ただ、修道院の王の門だけは奇跡的にほぼ無傷で残された。
世界遺産の構成資産は2件。「アルテンミュンスター遺跡」は8世紀に築かれた最初の修道院跡地で、プレ・ロマネスク時代のバシリカ式教会堂や修道院施設のレンガ造の基礎が残されている。「ロルシュ修道院」には王の門が立っているほか、教会堂やいくつかの施設の遺構が残されている。王の門は900年頃に建てられたカロリング・ルネサンス期の楼門で、ドイツ語で「ケーニヒスハーレ(王のホール)」あるいは「トールハーレ(門のホール)」と呼ばれている。1階部分の3つのアーチはローマ時代の凱旋門を模したもので、左右にバシリカのアプス(後陣)を思わせる円柱形の張り出しを持ち、柱にはコリント式のアカンサスの葉とイオニア式のボリュート(渦巻き)の装飾を組み合わせたコンポジット式(イオニア式とコリント式の特徴を備えた様式)の柱頭装飾が見られる。上部構造はチュートン人の木造あるいはハーフ・ティンバー(木造の柱梁構造と石造の壁構造を組み合わせた木骨造)の家屋を思わせるこの地方特有のデザインで、壁は赤砂岩と白砂岩の六角形や四角形のプレートを貼り付けたまだら模様で、屋根は切妻造で木片を並べた杮葺き(こけらぶき)となっている。
1,200年前に建設された王の門はきわめて独創的な傑作であり、保存状態もすばらしい。王の門に代表されるロルシュ修道院の宗教コンプレックスはカロリング朝時代の貴重な建築作品群であり、印象的な彫刻や絵画・文書といった史資料を伴っている。
カロリング朝時代の王の門に代表されるロルシュ修道院は最初の国王兼皇帝だったカール大帝の下で開花した初期および盛期中世の西洋的精神を建築的に証明している。
ロルシュの修道院とアルテンミュンスターの完全性は建造物の遺構、特に王の門と修道院教会に付随しているが、これらは建築様式の驚くべき多様性を表現している。修道院の全盛期を示す壁や商業的な施設はヨーロッパの偉大な修道院の勃興と栄光・衰退を象徴しており、同様の遺構は他に見られない。建物の上部構造は失われているものの、修道院の面積の少なくとも2/3は無傷の考古学的遺構であり、800年以上にわたる修道院生活の遺物を保存している。記念碑的な遺跡と古代図書館の断片に示されているように、ロルシュ修道院は数世紀にわたって中央ヨーロッパでもっとも力強く活発な精神センターであり、その文化遺産は往時の繁栄の様子を伝えている。
ロルシュの修道院とアルテンミュンスターの真正性は現存する建造物によって、特に中央ヨーロッパにおけるカロリング朝時代のもっともよく保存され、ほとんど手付かずで伝えられている建物である王の門によって満たされている。すべての建造物は可能な限りの注意を払って維持・保存・研究ならびに展示されており、当時の彫刻や絵画もよい状態で伝えられている。