1919~33年にかけてワイマール→デッサウ(現・デッサウ=ロスラウ)→ベルリンと移動したバウハウスを象徴する11の構成資産からなる世界遺産。期間は短いものの、その活動は世界の建築デザインに革命的な影響を及ぼした近代建築運動の基礎となった。
なお、本遺産は1996年に「ワイマールとデッサウのバウハウスとその関連遺産群 "The Bauhaus and its sites in Weimar and Dessau"」の名称でワイマール(旧・美術学校、旧・応用美術学校、ハウス・アム・ホルン)とデッサウ(デッサウ・バウハウス、マイスターの家々)の5件が登録され、2017年の拡大でデッサウ郊外の5件(バルコニー・アクセスのある住宅)とベルナウの1件(ADGB労働組合学校)を加えて現在の名称に変更された。
18世紀後半に鉄骨でフレームを作る鉄骨構造、19世紀後半には鉄筋をコンクリートで覆った鉄筋コンクリートが発明され、建築に革命的な影響を及ぼした。西洋建築は長らく石材を積み上げる組積造(建材を積み上げた構造)の壁構造(壁で屋根や天井を支え空間を確保する構造)で築かれており、特に石造の天井や屋根についてはアーチを駆使する必要があった。しかし、強力な鉄骨や鉄筋コンクリートによって柱や梁(はり。柱の上に水平に置く横架材)だけで上部構造を支えられるようになると壁は荷重の掛からないカーテン・ウォール(帳壁)となり、同時期に大量生産が可能になったガラスがはめ込まれた。また、鉄筋コンクリートは鉄筋の組み方やコンクリートの覆い方でいくらでも形を変えることができるため、板のように使って天井を組めばそのまま屋根(屋根スラブ)になり、同時に床(床スラブ)にもなった。柱とスラブ(板構造)を重ねれば何階建てにもできるため高さの制約はなくなり、屋根が必要ないため横の制約もなくなった。こうした新素材を利用した新しい建築文化の黎明期に誕生したのがバウハウスだ。
18世紀後半のイギリスでは産業革命以降、大量生産・大量消費社会が浸透していく中で、工場で生産された画一的で粗悪な商品群に対し、生活工芸品や民芸品(クラフト)の中にも芸術(アート)を組み込もうという「アーツ・アンド・クラフツ運動」が活発化した。この運動に影響を受けたドイツでは20世紀はじめにドイツ工作連盟が結成され、新しい芸術・建築と産業の在り方が模索された。特に第1次世界大戦(1914~18年)の敗戦後、経済的に困窮し、物資の不足に悩むドイツは合理的・効率的・機械的な産業システムが求められた。
後に近代建築の4大巨匠に数えられることになるドイツの建築家ヴァルター・グロピウスは鉄とコンクリート、ガラスを駆使した初期モダニズム建築のデザイナーで、「造形は機能に従う」と無駄をそぎ落として機能性を追求する機能主義を掲げ、機能的な建築はやがて用途や地域によらない統一的な様式を生み出すとしてインターナショナル・スタイル(国際様式)を主張した。一例がファグス靴型工場(世界遺産)で、工場にさえ機能的で明るく健康的なモダニズムのデザインを持ち込んで見せた。グロピウスはドイツ工作連盟のメンバーでその思想に大きな影響を受けたが、シンプルな機能主義は安価かつ大量生産に向いたもので、インダストリアル・デザインとして高い価値を持つものだった。
20世紀はじめ、同じく連盟のメンバーであるアンリ・ヴァン・デ・ヴェルデはワイマールに美術学校と応用美術学校を創設し、校舎の設計も行った。グロピウスは1919年にこれらの学校を統合して絵画・彫刻・写真・工芸・建築等を総合的に教える国立の美術工芸学校バウハウスを創立し、初代校長に就任した。「すべての造形芸術の最終目標は建築である」として総合芸術を提唱し、すべての芸術の基礎に建築を置いた。バウハウスの "bau" は「建築」を意味し、バウハウスで「建築の家」となる。特徴的なのがそのカリキュラムで、予備教育(基礎教育)を経た後、形態教育(色彩や形状・素材の理論教育)とクラフト教育(実技教育)というふたつの教育課程で理論と実践の統一を図った。これは芸術と工芸、芸術家と職人の統一を意味すると同時に、デザインと制作の過程を分離して「デザイン」という概念を明確化するものでもあった。そして画家パウル・クレーやワシリー・カンディンスキー、彫刻家オスカー・シュレンマーやゲルハルト・マルクスといった一流芸術家が参加して芸術理論を教育し、同時に数々のマイスター(職人の親方)が工房で実践を指導した。ワイマール・バウハウス時代の最大の成果が1923年に開催された最初の展示会に出展されたハウス・アム・ホルンで、バウハウスの理念を体現したものとなった。1924年にバウハウスへの助成金が半減して閉校に追い込まれたが、デッサウ市が受け入れを表明したため翌年移転した。バウハウスが入っていた建物は建築土木工科大学を経てワイマール・バウハウス大学の校舎となっている。
バウハウスは1925年にデッサウに移転し、市立学校として継続した。翌年には建築部門が設立され、グロピウスが自ら設計した新校舎も完成した。バウハウスの理念と教育はより洗練され、その成果は14巻のバウハウス叢書(そうしょ)にまとめられた。
グロピウスは1928年に辞任し、新校長としてスイスの建築家ハンネス・マイヤーが就任した。マイヤーは合理性や機能性をより徹底し、経済性を重視して既製品の利用もいとわなかった。しかし、経済・産業面を重視する方針は芸術家肌の教授陣としばしば対立し、辞職する教授も少なくなかった。また、共産主義や社会主義を支持するなど政治色を強めたため、1930年に市によって解任された。マイヤーが設計した建物にはバルコニー・アクセスのある住宅やADGB労働組合学校がある。デッサウ市はグロピウスに復帰を促したが、グロピウスの推薦を受けたミース・ファン・デル・ローエが第3代校長に就任した。ミースは政治色を排除しようと尽力したが、ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)がデッサウ市議会の最大政党になると非ゲルマン的であるとしてバウハウスの閉鎖を要求した。
ミースは1932年にバウハウスをベルリンに移転させ、工場を借りて拠点とした。私立学校として10か月ほど運営を行ったが秘密警察ゲシュタポによって1933年に閉鎖され、最終的には自主解散という形で廃校となった。バウハウスの運動はドイツにおいて潰えたが、教授や生徒たちはナチス=ドイツの迫害を逃れるために各国に散り、かえってその理念は世界に拡散された。グロピウスはイギリスに亡命後アメリカに渡り、ハーバード大学で教壇に立った。マイヤーはソ連に亡命して建築の発展に尽力し、メキシコを経てスイスに帰還した。ミースはアメリカに亡命してシカゴのアーマー大学(現・イリノイ工科大学)で建築を教授した。後にグロピウスとともに近代建築の4大巨匠に数えられている。また、ハンガリーの画家モホリ=ナジ・ラスローもアメリカに亡命し、シカゴでニュー・バウハウスを設立している。バウハウスの理念はインターナショナル・スタイルや高層建築といったモダニズムの潮流をリードし、世界の建築文化に絶大な影響を与えた。
世界遺産の構成資産11件のうち、ワイマールの「旧・美術学校」と「旧・応用美術学校」はベルギーの建築家アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデの設計で、前者は1904年、後者は1911に建てられた。歴史主義(中世以降のスタイルを復興した様式)からモダニズムへの移行期の作品で、ドイツ語版アール・ヌーヴォー=ユーゲントシュティールの影響を残した過渡期の作品となっている。
「ハウス・アム・ホルン」は1923年の展示会に出展された実験住宅で、共通のパーツを多用し、工房でパーツを作って現地で組み立てるプレハブ工法を駆使するなど、さまざまな工夫により4か月という短期と通常の半額近い工費で建設された。全体設計はゲオルク・ムッヘだが、バウハウスの各工房が参加して建物から内装・家具まで分業で行い、数多くのマイスターの手が入った集大成的な作品となった。平面は各辺12.7mの正方形で、直線で構成されたムダのないスタイルとなっており、鉄骨とコンクリート・スラブで支えられている。壁はスラブ・断熱層・内壁の3層構造で、南と西に大きな窓がはめ込まれており、機能性だけでなく居住性を考慮したものとなっている。
デッサウ時代のバウハウスの拠点となった「デッサウ・バウハウス」はグロピウスの設計で1925~26年に建設された。モダニズム建築の象徴であり、機能主義をもっとも完全に体現する作品とされる。主な建物は南の工房棟、北の学校棟(専門学校)、東のアトリエ棟の3ウイング(ウイングは翼廊/翼棟/袖廊。複数の棟が一体化した建造物群の中でひとつの棟をなす建物)で、工房棟と学校棟は橋状の管理棟で結ばれている。鉄筋コンクリート造で壁面は3棟それぞれデザインが異なっており、工房棟は壁を取り去った全面ガラス、学校棟は水平連続窓、アトリエ棟は窓とテラスが並ぶ形となっており、カーテン・ウォールの多様な使い方が提案されている。
「マイスターの家々(マイスターハウゼン/マスターズ・ハウス)」はグロピウスがバウハウスのマイスターたちのために設計した市立の住宅・宿泊施設で、かつてはクレーやカンディンスキーらも住んでいた。松の林の中にたたずむ1棟の戸建住宅と3棟の半戸建住宅で構成されており、鉄筋コンクリート造で水平線と垂直線で構成されたモダニズムらしい外観となっている。これらの建物はモデルハウスでもあり、マルセル・ブロイヤーの家具やマリアンネ・ブラントの内装品などバウハウスの粋が集められた。
デッサウ南部トルテン地区の「バルコニー・アクセスのある住宅」はマイヤーが設計した5棟の集合住宅で、ブルーカラー層に対するモダニズム建築のアプローチを示した。トルテン地区は安価な住宅の不足に悩まされていたデッサウ市がグロピウスに設計を依頼した住宅地区で、1926~28年に314棟のテラスハウス(境界壁を共有する長屋のような連続住宅)が建設された。1928年に新校長となったマイヤーが引き継ぎ、より安価な居住施設として高層の集合住宅を設計して1930年に完成した。5棟はいずれも鉄筋コンクリート造の3階建てで、各階北側にアーケード(屋根付きの柱廊)を持ち、南側は各戸に大きな窓が設けられている。それぞれの部屋は48平方m(約26畳)で、3部屋とキッチン・バス・トイレという構成で、市民に安価に貸し出された。
「ADGB労働組合学校」は1928~30年にベルナウに築かれたADGB(全ドイツ労働組合連合)の労働組合学校で、マイヤーとスイスの建築家ハンズ・ウィットワーが設計し、バウハウスの各工房の学生が建設に携わった。林の中の池を中心に校舎や教師・学生の住宅棟、レクリエーション施設などが周囲に配されており、日当たりや景観に配慮した構成となっている。1933年にナチス=ドイツに没収され、戦後は東ドイツの学校施設として使用された。世界遺産となっているのは元の姿を比較的よく留めている本部棟と南住宅棟、周辺の施設に限られている。2階建ての本部棟はロビーや講堂・食堂・キッチン・管理室などを備え、ガラス張りの廊下で南住宅棟と結ばれている。南住宅棟は3階建ての5つのブロックで構成されており、多くは学生の寮となっていて図書館や体育館と結ばれている。いずれも垂直線と水平線で構成され、ガラス窓の大きさや形状といった外観や平面構成は機能に応じて変えており、「造形は機能に従う」というコンセプトを引き継いでいる。
ワイマール、デッサウ、ベルナウにおけるバウハウスの建造物群はヨーロッパ近代芸術の中心的な作品群であり、建築とデザインの抜本的な改革を実現したアヴァンギャルド(前衛的)な理念を体現している。これらの作品群はここから始動したモダニズムの文化的開花を実証するものであり、その影響は世界中に及ぶ。
デッサウ・バウハウスとバウハウス所属の巨匠たちによって設計された建造物群は古典的モダニズムの基礎的な代表作であり、20世紀を代表する重要な作品群である。デッサウのバルコニー・アクセスのある住宅とADGB労働組合学校は教育と実践の統一というバウハウスの目標のユニークな成果である。
バウハウスの建築学校は20世紀における芸術・建築の思想と実践に革命を起こす近代芸術運動・建築運動のベースとなった。
構成資産は視覚芸術・応用芸術・建築・都市計画において世界的に影響を与え、モダニズムの発展を支えた建造物群を反映しており、顕著な普遍的価値を表現するために必要なすべての要素を含んでいる。11の構成資産には本遺産の重要性を伝える特徴やプロセスを確実に保護するために必要なサイズを有しており、法的保護を受けていて完全性は満たされている。
ワイマールの3件はいくらかの変更や部分的な修復が行われているが、その真正性は証明されている(旧・美術学校と旧・応用美術学校の復元された壁画を除く)。また、第2次世界大戦の空襲で再建が必要なレベルの大きな被害を受けたデッサウ・バウハウスも1976年に行われた大規模な修復工事のおかげでオリジナルの外観と環境が維持された。マイスターの家々については徹底した調査に基づいた修復が行われており、真正性を満たしていると考えられる。バルコニー・アクセスのある住宅とADGB労働組合学校は形状・デザイン・素材・原料といった点で本来の状態をほぼ維持しており、バウハウスの建築部門が残した建築遺産の重要な証拠となっている。