スカンジナビア半島の北端に近いノルウェー北部トロムス・オ・フィンマルク県のアルタフィヨルド最奥部に位置する古代遺跡で、紀元前5000年~紀元前後に描かれた約6,000点ものペトログリフ(線刻・石彫)と60点ほどのペトログラフ(岩絵・壁画)が残されており、極北における先史時代の環境と人類の活動が記録されている。
地元の住民はこうしたペトログリフの存在を古くから知っていたようだが、古代遺跡として認識されたのは1950年代と見られ、イスネストフテンのピッピステイン(ピッピ岩)と呼ばれる岩に刻まれたペトログリフが最初とされる(世界遺産ではない)。1966年にトロムソ博物館にトランスフェルダレンのペトログリフが報告され、1973年にヒェメルフトのペトログリフが発見された。こうした発見はいずれも住民の報告による。世界遺産リストに搭載された1985年までに約3,000点のペトログリフが確認されたが、現在その数は約6,000点に及んでおり、世界遺産の5つの構成資産の外でも発見されている。ほとんどはペトログリフだが、60点ほどは岩に塗料で絵を描いたペトログラフとなっている。これだけのロックアートが集中しているのはこの地が北極圏における重要な交流地であったためと考えられており、交易センターなどとして機能していたと思われる。
ペトログリフは海岸沿いの岩盤に刻まれているが、古い時代のものほど高い場所にあり、最古のものは海抜26.5m、もっとも新しいものは海抜8mに位置している。ペトログリフの制作は植物の生えない海岸線近くの岩場が好まれたが、スカンジナビア半島の隆起によって海岸線から離れると、下に移動して絵を刻みつづけたと考えられている。この隆起は最終氷期(約7万~1万年前)にスカンジナビア氷床(フェノ=スカンジア氷床)と呼ばれる厚さ3kmを超えるぶ厚い氷床(大陸レベルの巨大な氷塊)に覆われていたことの反動で、氷が溶けて重さを失ったことで沈み込んでいた大地が隆起しつづけている。氷河に起因するこうした均衡作用を「グレイシオ・ハイドロアイソスタシー(氷河性地殻均衡)」、地殻が隆起して元に戻る現象を「アイソスタティック・リバウンド(地殻均衡復元)」という。
ペトログリフの絵柄でもっとも多いのは野生動物で、トナカイ、ヘラジカ(エルク/ムース)、キツネ、ノウサギ、クマ、オオカミ、ガチョウ、ハクチョウ、ウ、クジラ、サーモン、オヒョウなど多岐にわたる。特に多いのがトナカイで、主要な狩猟対象であり、生活に大きく関わっていたことを示している。中には腹部に子を宿したトナカイの絵なども見られる。また、クマも特徴的で、クマの巣や足跡も描かれており、崇拝対象となっていたと考えられている。動物は槍や弓矢・釣り竿を持った人間や、狩猟用のフェンスや罠などとともに描かれていることも多く、狩りや漁のシーンであることがわかる。
また、生活の様子を表現している絵柄も多く、食事やダンス・船旅・性的な絵も見受けられる。人間には描かれ方や装飾品で身分や部族を示しているとする説もあり、王家やシャーマン(神や精霊といった超自然的な存在との交流を通じて儀式や預言・治療・呪術などを行う宗教的職能者)などの身分や外交交渉、結婚などの儀式、宗教的な祭祀・儀礼、神話などの一場面を描いていると思われる絵も存在する。また、船首や船尾に動物の装飾を備えた喫水の浅い(深く沈まない)ボートの絵があり、これらはヴァイキング時代(8~11世紀)に登場する「ロングシップ」と呼ばれるヴァイキング船を彷彿させる。中には円や井桁のような幾何学的な図形もあり、抽象的なシンボルである可能性が指摘されているが、漁網などとする意見もあって定かではない。
世界遺産の構成資産は「ヒェメルフト」「ストールシュタイネン」「アムトマンスネス」「コーフィヨルド」「トランスフェルダレン」の5件となっている。
「ヒェメルフト」はサーミ語でイープマルオクタとも呼ばれるエリアで、アルタ最大のロックアート地帯として知られる。海抜8~26.5mの岩場に5,000年間のほぼ全期間にわたるペトログリフが見られ、3,000点以上が集中している。この地の岩盤は他のエリアの岩盤よりも硬い砂岩でできており、保存状態がよく、ペトログリフのラインも見やすくなっている。10,000年以上前までさかのぼる先史時代の集落跡も発見されており、隣接地に立つアルタ博物館では石器をはじめとする遺物やペトログリフの解説などが行われている。
「ストールシュタイネン」は海抜21~22mに位置し、紀元前5000~前2000年ほどの古いペトログリフが刻まれている。トナカイ、ヘラジカ、人間の絵が多いが、風雨の侵食作用が進んで一部の絵は判別が難しくなっている。私有地に位置しているため、一般には公開されていない。
「アムトマンスネス」はコムサ山の北東に伸びる岬の先端に位置し、海抜14~17mの岩場に500~600点ほどのペトログリフが見られる。時代は紀元前3000~前2000年ほどまでさかのぼり、近隣で先史時代の集落跡も発見されている。トナカイなどの動物はもちろん、人間や線形の幾何学図形も多く、非常にユニークなデザインで知られるが、侵食が進んで鮮明でないものも多い。
「コーフィヨルド」は海抜18~26mほどに位置し、紀元前5000~前3000年ほどの古いペトログリフが1,500点ほど発見されている。ヒェメルフトほどの数はないが狭い範囲により集中しており、狩りや釣り、儀式のような場面や、スノーシュー(雪上歩行具)や罠といった道具のように、人間活動に関する描写が多く見られる。19人が手をつないで立っている絵はなんらかの儀式や活動と見られており、さまざまな仮説を生んでいる。動物ではトナカイやヘラジカのほか、クマやクマの巣、クマの足跡が多く、クマの足跡については350点以上も見られる。
「トランスフェルダレン」はトランスファレルヴとも呼ばれるエリアで、海抜20~52mにそびえる垂直に近い断崖などにペトログリフが刻まれている。ここでは他のエリアでは見つかっていないペトログラフが60点ほど発見されている。泥に含まれている酸化鉄などの成分を動物の血液・脂肪などと混ぜ合わせて赤や青の顔料を作り、動物の毛や植物の繊維を用いたブラシや指で絵を描いていた。
アルタのロックアートは何千ものペトログリフやペトログラフによって先史時代の北極圏における生活・環境・狩猟採集社会の活動の様子を物語る稀有な証拠である。芸術性の高いさまざまなモチーフやシーンは狩猟採集社会の長い伝統や風景との関わりを反映しており、また紀元前5000年~紀元前後という期間におけるシンボルや儀式の進化を示している。
アルタに存在するロックアート関係の遺跡はほぼすべてが構成資産に含まれている。この地で見られる異なるモチーフ、スタイル、年代的フェーズのすべてが構成資産の中にあり、ペトログリフやペトログラフで表現されている。
こうしたロックアートは先史時代の海岸線近くに刻まれており、ロックアートを含む現代の景観は当時とそれほど変化していない。特に数kmにわたって伸びるフィヨルドの景観は手付かずで残されており、アルタでは先史時代の風景を容易にイメージすることができる。
自然による侵食や破壊はペトログリフやペトログラフにとって潜在的な脅威である。5件の構成資産のうちヒェメルフトだけが一般公開されており、訪問者の管理戦略の一環として、ロックアートを損傷から守るために木製の歩道と鑑賞用の台が設置されている。
アルタのロックアートのほぼすべてが岩の表面に描かれており、緩い岩の上に刻まれたいくつかの例外を除き、堅固な岩盤の上にあって保存状態はきわめてよい。ペトログリフの約30%は発見時に芝で覆われていたが、取り去って以降は大きな損傷を受けていない。ペトログリフはほとんど手付かずの状態で形状もよく見えており、制作技術の研究も容易である。加えてアルタで開発された新しい洗浄技術によって岩の表面に付着していた損傷の原因になりうる地衣類が除去され、視認性が大幅に向上した。
ヒェメルフトはロックアートのある最大のエリアで、石英を多く含む非常に硬い砂岩にペトログリフが刻まれている。保存状態はさまざまだが、きわめて良好あるいは良好であるものが多い。歩道沿いのペトログリフのいくつかは見やすいように赤く塗装されているが、真正性を毀損する要因になりうるとして継続的に議論されている。
他のエリアではより柔らかい岩に描かれているものもあり、一部では侵食が進んでいる。他のエリアよりも多くの亀裂が入った赤い粘板岩を特徴とするコーフィヨルドでは、ほとんどのペトログリフが芝の下に保存されており、数千年前の鑿(のみ)のような道具による跡を見ることができる。トランスフェルダレンのペトログラフは1960年代に学者によって発見されたが、ペトログリフについてはそれ以前から地元の人々に知られていたようだ。ペトログラフの保存状態は良好で、乾燥した岩面に、赤みがかった黄土色の粘土に結合剤として動物の脂肪を加えた顔料で描かれている。