スカンジナビア半島南西部のフィヨルド地帯に位置するヴェストラン県の県都ベルゲンは、13世紀にハンザ同盟の4大外地商館(外地ハンザ)が置かれて北ヨーロッパの中心的な貿易港となった。ブリッゲンと呼ばれる埠頭には「ゴード "gård"」と呼ばれる3~4階建て・切妻屋根のカラフルな木造家屋が立ち並び、中世以来のユニークな街並みが伝えられている。
港湾都市ベルゲンは8~11世紀のヴァイキング(北ヨーロッパを拠点とするノルマン人)時代の末期、1070年頃にノルウェー王オーラヴ3世が創設したと伝えられている。ただ、それ以前から漁港が存在していたようで、タラやニシン、皮革・毛皮製品、木材などの取引が行われていた。暖流である北大西洋海流の続流であるノルウェー海流の影響を受けて北緯60度という高緯度にもかかわらず温暖で、不凍港として年間を通して交易が可能だった。また、ベルゲン湾はバイフィヨルドに位置し、フィヨルドの入り組んだ地形が防衛に向いていた。こうした条件から次第に貿易港として頭角を現し、特にノルウェー北部から持ち運ばれる干しダラ(タラの干物)の交易で繁栄した。13世紀にホーコン4世ホーコンソンがノルウェー北部との交易独占権を与えると、ベルゲンはノルウェーを代表する貿易港のひとつとなった。
この頃、北海やバルト海の貿易で台頭したのがドイツ北部の港湾都市リューベック(世界遺産)だ。13世紀、リューベックの商人たちはハンザ(商人ハンザ)と呼ばれる商人のギルド(職業別組合)を組織して貿易を主導。13世紀末にリューベックを盟主にドイツの帝国都市(諸侯の支配を受けず神聖ローマ帝国の下で一定の自治を認められた都市)を結ぶ都市同盟となり(都市ハンザ/ドイツ・ハンザ)、ヴィスビュー(世界遺産)やタリン(世界遺産)、リガ(世界遺産)といったドイツ外の主要交易都市に進出した。やがて加盟都市は70以上に及び、北海・バルト海貿易を支配した。
ノルウェー王ホーコン4世ホーコンソンは1250年にハンザ同盟と通商条約を締結し、貿易を拡大させた。勢力を伸ばすハンザ同盟に危機感を抱いたエイリーク2世は13世紀後半に活動を制限するが、経済封鎖を受けて講和した。1350年頃にベルゲンはハンザ同盟に加わり、ロンドン(世界遺産)、ノヴゴロド(世界遺産)、ブルッヘ(ブルージュ。世界遺産)と並んで4大外地商館(外地ハンザ)が設置されてその中心を担った。まもなくスカンジナビア半島最大の都市のひとつとなり、19世紀にオスロに抜かれるまでノルウェーの最大都市としてありつづけた。
ベルゲンの主な輸出品は干しダラを中心とした先述の産品で、小麦粉や麦芽といった穀物やワイン、ビール、塩、麻製品、毛織物、金属・ガラス製品などが輸入された。ベルゲンはまたバルト海や北海・大西洋・地中海などを結ぶ中継貿易の中継地でもあり、ドイツ人を中心にイングランド人やスコットランド人、オランダ人といった各地の商人や職人が集った。ベルゲンでは外国人居住区がそれぞれ割り当てられていたが、ドイツ人居住区でハンザ同盟の商館が置かれていたのがブリッゲンの埠頭だ。
ハンザ同盟はベルゲンに富をもたらしたが、利益が地元に還元されないなどその特権と勢力からしばしばベルゲンやノルウェー(1523年以降はデンマーク=ノルウェー二重王国)と対立した。対立が拡大するとハンザ同盟は経済封鎖で制裁したり海賊を送り込んだ。しかし、こうした優位も15世紀頃から崩れはじめ、北海でイギリスやオランダ、バルト海でスウェーデンが台頭すると最盛期を終えた。
16世紀に大航海時代に入るとヨーロッパの貿易の中心は大西洋に移り、地中海貿易やバルト海貿易は縮小した。各国で中央集権が進んで主権国家・絶対王政・重商主義へ移行し、ハンザ同盟のような都市同盟は衰退した。この流れは宗教改革で加速し、ハンザ都市の多くが国家に吸収された。1669年を最後に総会は中止され、ハンザ同盟は事実上解体した。ただ、ベルゲンのブリッゲンではハンザ同盟の商館はドイツ商館として活動を続けた。1754年に商館はノルウェーに引き渡され、多くのドイツ人がノルウェーの市民権を獲得した。このノルウェー商館も1899年に活動を停止し、ひとつの時代に幕を下ろした。
世界遺産の構成資産は2件で、「ブリッゲン地区」と「フィンネゴーデン1a-1b(ハンザ博物館)」となっている。
「ブリッゲン地区」はベルゲン湾に面した南西のオープンスペースと、南東のニコライキルケアム、北東のエヴレガテン、北西のブゴーデンという通りの間に位置するエリアで、62棟の歴史的建造物が存在する。南西から北東にかけて細い通りが縦に走っており、この通り沿いに細長い木造家屋=ゴードが立ち並んでいる。ゴードはオフィス・倉庫・住居を兼ねた建物で、ドイツ人の若者を中心としたスタッフや職人が仕事と生活を行っていた。
ゴードはいずれも木造3~4階建ての切妻造で、妻側(破風側。棟に垂直な短辺側)を湾に向けており、奥に細長い造りとなっている。柱と梁でフレームを組む柱梁構造で、水平に板を並べて壁とし、屋根には瓦を葺いている。1階の妻側と平側(棟と水平な長辺側)の両面に荷物を搬入するための大きな開口部を持ち、三角破風の頂点にある屋根裏部屋の窓から滑車を伸ばして2~3階に荷物を引き上げることができた。また、通りは石畳ではなく板敷きで、台車で荷物を運びやすく工夫されている。ただ、多くの建築物や構築物が木造であるため火災に弱く、中世からたびたび炎上しており、特に1476年と1702年の大火でほとんど焼失した。このため現存するブリッゲンの多くの建造物は1702年以降に建てられている。こうした火災への対策として、ゴードの裏に「シェッレレ "kjellere"」と呼ばれる石造の小さな耐火貯蔵庫を有し、室内は火気厳禁で暖炉や調理のための火の使用すら許されなかった。
「フィンネゴーデン1a-1b(ハンザ博物館)」はもともとハンザ同盟の商館だった建物で、事務所や取引所・宿泊施設として使用されていた。1702年の大火後に建設され、19世紀にコンラッド・フレドリック・フォン・デア・リッペの設計で再建された。現在はブリッゲンとハンザ同盟の歴史的な史資料を集めたハンザ博物館として公開されている。世界遺産の資産には含まれていないが、ブリッゲンの北にはショットスチューエネ "Schøtstuene" と呼ばれるハンザ商人の集会所があり、こちらは火の使用が可能で暖炉や料理が振る舞われていた。
ブリッゲンは14世紀にさかのぼるハンザ同盟の商人たちの居住区であり、特徴的な社会組織の痕跡と空間使用の方法が示されている。世界でも類を見ない北方の「フォンダコ(商館/倉庫)」の一種で、当時の建造物が街の景観の中に生きており、北ヨーロッパ最古級の大型貿易港の記憶を伝えている。
ブリッゲンに残るオリジナルの建物は19世紀末の取り壊しや1950年代の数回の火災で多くが失われ、現在は1/4程度しか残っておらず、本遺産はこうして残された建物を中心に構成されている。しかし、中世の都市構造は維持されており、資産には埠頭に面したオフィスや住居、中ほどの倉庫、奥の集会所、キッチン、耐火性の石造貯蔵庫といったブリッゲンの機能や目的を示すために必要なすべての要素が含まれている。
ブリッゲンは調和の取れた大きな都市景観の中の一角として体感することができる。この区域は近くにある20世紀の大規模な建造物群よりも、ブリッゲンの外に位置する小さな木造住宅のエリアや中世の市街地とより密接に結び付いている。
ブリッゲンが直面しつつある潜在的リスクとしては、火事、過剰な来訪者、地球規模の気候変動による異常気象、海面上昇などが挙げられる。
ハンザ同盟の時代が終了してから長い時間が経過したが、ブリッゲンにおいてハンザ同盟の遺産は建造物や文書・物品に記録されており、後世に伝えられている。また、1900年以降については建造物に関する一連の調査記録が伝えられている。
建造物の保存は1960年代から大規模に行われており、世界遺産リストに登録された1979年までに大きな進展を見た。1965年には火災のような緊急事態に対応するために奥の建造物を移動して消防用のオープンエリアを確保したが、それ以降、都市構造に変更は加えられていない。ブリッゲンの建造物は多くが木製であり、経年変化や腐敗・虫害などの影響を受けやすい。これらに対して採られた対策や手法は十分に記録されており、オリジナルの素材のむやみな交換なども制限されている。特に2000年以降は修復に当たってオリジナルの素材と技術を維持することを重視しており、原料・塗料・栓・釘などの選択に細心の注意を払い、可能な限り当時のままの道具を使用している。
1900年以降、ブリッゲンでは経済活動が縮小し、多くの建物が廃墟となった。しかし、1960年代から干しダラや日用品の交易に代わって工芸品ビジネスが台頭し、観光客の増加に伴って飲食店や観光のビジネスが立ち上がった。この結果、特にゴードのファサード(正面)が連なる湾に面したエリアの空気感は必然的に変化したが、ハンザ同盟時代の雰囲気は奥のエリアでいまだに体感することができる。