バチカン市国はイタリアのローマ市内に位置する世界最小の国家であり、面識は44haと東京ドーム10個分に満たないが、その全域が世界遺産の資産となっている。約13億人の信者を有するキリスト教ローマ・カトリックの首長である教皇(ローマ教皇/法王)の在所であり、教皇宮殿であるバチカン宮殿と、教皇聖座である「聖ペトロの司教座」の置かれたサン・ピエトロ大聖堂、教皇のコレクションを集めたバチカン美術館や、その西に広がるバチカン庭園を中心に、各種官公庁や教会堂・礼拝堂・修道院・神学校・宮殿・ホール・事務所などからなる。バチカン市国はローマ市内に数多くの飛び地を有しており、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂やサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂、カンチェッレリア宮、ピオ宮、ウフィツィオ宮、ジャニコロの資産群などは世界遺産「ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂(イタリア/バチカン市国共通)」に登録されている。
古代、ローマの北東、テベレ川の西岸に位置するバチカヌスの丘は「アゲル・バチカヌス」と呼ばれていた。洪水も多くて人の住む場所ではなく、ローマ時代にはネクロポリス(死者の町)として墓地が広がっていた。1世紀にローマ皇帝カリグラがキルクス(多目的競技場)を建設し、その中心にエジプトから取り寄せたオベリスク(古代エジプトで神殿の前に立てられた石碑)を打ち立てた。キルクスはさらに皇帝ネロによって整備されたが、ネロは64年のローマ大火やキリスト教弾圧の犠牲者を周辺のネクロポリスに埋葬した。この大弾圧でイエスの十二使徒のひとりであるペトロ(ペテロ。シモン・ペトロ)と、『新約聖書』の著者のひとりであるパウロが殉教したという。パウロの墓の上に立つとされる教会堂がローマのサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂(世界遺産)だ。
ペトロはガリラヤ湖の漁師で、弟のアンデレとともにイエスの最初の弟子となり、イエスからアラム語で「岩」を意味する「ケパ(ギリシア語でペトロ)」の名を与えられた。イエスはまたペトロに対し「この岩の上に私の教会を建てる」と語り、「私はあなたに天の国の鍵を授ける」と言ったとされる(『新約聖書』「マタイによる福音書」より)。このためペトロはしばしば首座使徒(第1の使徒)とされ、イエスの死・復活・昇天後はその教えを広めるために宣教活動をリードした。ローマ帝国の帝都ローマでも宣教を行うが、迫害が激化してきたことからローマを退避すると、道中でイエスとすれ違ったという。「主よ、どこへ行かれるのですか(クォ・ヴァディス)」と尋ねると、イエスは「あなたが私の民を見捨てるので、私はもう一度十字架に架けられるためにローマへ」と答えたという(『新約聖書』「ヨハネによる福音書」より)。そしてペトロはローマに引き返し、やがてネロの迫害で捕らえられて逆さ磔の刑に処されてアゲル・バチカヌスに葬られたという。なお、この殉教地に建てられたと伝わる教会堂がローマのサン・ピエトロ・イン・モントリオ教会(世界遺産)だ。
313年、皇帝コンスタンティヌス1世はミラノ勅令でキリスト教を公認し、349年にペトロとされる墓の上にバシリカ式(ローマ時代の集会所に起源を持つ長方形の様式)のマルティリウム(記念礼拝堂)を建設する。これが後の聖(サン)ペトロ(ピエトロ)の教会堂、サン・ピエトロ大聖堂だ。実際に同聖堂の地下のグロッタ(洞窟)では崇拝対象になっていた2世紀頃の墓が発掘されており、王を示す紫の衣をまとった人物の骨が発見されている。これがペトロの遺骨であると考えられているが、決定的な証拠はない。
395年のローマ帝国の東西分裂を経て、コンスタンティノープル(現・イスタンブール。世界遺産)を中心とする正教会と、ローマを中心とするローマ・カトリックの対立が進み、1054年に教皇レオ9世とコンスタンティノープル総主教ミハイル1世が互いを破門して明確に分裂した(シスマ)。もともとキリスト教には教会組織のトップに君臨する「総主教」と呼ばれる最高位聖職者がおり、ローマ、コンスタンティノープル、アレクサンドリア、アンティオキア、エルサレム(世界遺産)に5大総主教座が置かれていた。しかし、イエスから「教会の岩」と呼ばれ、天国の鍵を託されたペトロに由来するローマ・カトリックはローマ総主教=教皇こそ首長であると主張し(教皇首位権)、教皇聖座が置かれたローマのサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂(世界遺産)を中心に運営を行い、教皇は隣接するラテラノ宮殿に住んでいた。サン・ピエトロ大聖堂はペトロの記念礼拝堂あるいは巡礼教会堂としてありつづけ、500年前後には教皇シンマクスが隣接地にバチカン宮殿を築いたという。
ヨーロッパにおいて皇帝はローマ皇帝を、帝国はローマ帝国を意味する。教皇はローマ皇帝の帝冠を授けることによってローマ帝国の正統な後継であることを認め、同時に教皇の権威付けを行った。800年にサン・ピエトロ大聖堂で教皇レオ3世がフランク王国のカール大帝に帝冠を授けたのが中世最初の皇帝戴冠(カールの戴冠)で、962年にはヨハネス12世が東フランク王国のオットー1世に帝冠を授けている(オットーの戴冠)。以来、神聖ローマ皇帝の戴冠式はサン・ピエトロ大聖堂で行われている。また、イタリアをランゴバルド王国の支配から救ったフランク王ピピン3世やカール大帝は奪還した土地を教皇に寄進した。こうして教皇庁は教皇領と呼ばれる領土を持ち、国家として振る舞うようになった。こうしてサン・ピエトロ大聖堂は権威化し、9世紀には教皇聖座が遷され、バチカン宮殿も拡張された。
1303年にフランス王フィリップ4世は教皇ボニファティウス8世を捕らえ(アナーニ事件)、1309年に教皇聖座をフランス・アヴィニョンの教皇庁宮殿(世界遺産)へ遷した(アヴィニョン捕囚/教皇のバビロン捕囚)。1377年にフランスの支配から逃れてローマに戻った教皇グレゴリウス11世は、サン・ピエトロ大聖堂とラテラノ宮殿が荒廃していたことから教皇聖座をサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂に置き、バチカン宮殿を整備して教皇宮殿とした。1378〜1417年の大シスマ(教会大分裂)でローマとアヴィニョンに教皇が並立したが、コンスタンツ公会議で解消され、教皇聖座がサン・ピエトロ大聖堂に戻された。これにより教皇聖座と教皇宮殿はバチカンに統一された。
476年に西ローマ帝国が滅亡して以来、中世のあいだローマは華やかさを失って次第に没落していった。その輝きを取り戻すのが14~16世紀のルネサンス時代だ。その初期、ルネサンス美術を愛した教皇ニコラウス5世はローマの再興を掲げてバチカン宮殿を改修し、教皇の蔵書を集めたバチカン図書館を創設した。ニコラウス5世やアレクサンデル6世はサン・ピエトロ大聖堂の改修を模索し、ユリウス2世によってまったく新しい教会堂の建設が決定された。ユリウス2世は主任建築家としてルネサンス盛期の大建築家ドナト・ブラマンテを起用し、1506年に工事が開始された。ブラマンテのプランは内接十字式(クロス・イン・スクエア式。四角形の内部に「+」形のギリシア十字を埋め込んだ形)のクロス・ドーム・バシリカで、点対称の建物だった。レオ10世の時代にブラマンテが亡くなるとジュリアーノ・ダ・サンガッロが引き継ぎ、さらにラファエロ・サンティやアントニオ・ダ・サンガッロ、バルダッサーレ・ペルッツィらが続いた。ラファエロが平面プランをギリシア十字形から「†」形のラテン十字形へ変更したが、ペルッツィの時代に元に戻された。
サン・ピエトロ大聖堂の規模があまりに巨大であったことから莫大な予算が必要で、レオ11世は贖宥状(しょくゆうじょう。免罪符)を発行して賄おうとした。これを切っ掛けに教会不審が爆発し、宗教改革が起こることになる。また、神聖ローマ帝国とフランス王国の間で戦われていたイタリア戦争(1494~1559年)において、フランス側についた教皇クレメンス7世に激怒した神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)が1527年にローマを攻撃して略奪・破壊を行った(ローマ劫掠)。こうした混乱から大聖堂の建設は進まず、ローマのルネサンスも終わりを告げた。
教皇パウルス3世の時代に主任建築家として巨匠ミケランジェロ・ブオナローティが抜擢された。ミケランジェロは設計を根本的に見直し、それまでのベースを活かしながらも一部を取り壊して改築した。教皇からフィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(ドゥオモ。世界遺産)のクーポラ(ドーム)に匹敵するものを求められ、巨大なクーポラが設計された。グレゴリウス13世の時代に主任建築家としてジャコモ・デッラ・ポルタやドメニコ・フォンターナが抜擢され、バロック様式の長球(楕円を回転させた形)ドームが完成した。
17世紀はじめ、パウルス5世は旧大聖堂の解体を決定し、1606年に解体工事がスタートした。同時にバロック建築の旗手であるカルロ・マデルノを主任建築家に命じてミケランジェロのプランの見直しを行った。ミケランジェロはギリシア十字形の平面プランを計画していたが、ギリシア十字部分をアプス(後陣)とし、東側に身廊やナルテックス(拝廊)を取り付けてラテン十字形とした。通常、ラテン十字形の教会堂はアプスに当たる頭の部分を東、人々を迎え入れる身廊を西に置くが、ローマからの巡礼者を迎える必要から180度逆にデザインされた。また、バロックを代表する彫刻家・建築家であるジャン・ロレンツォ・ベルニーニの協力を得て教会堂の顔となる東ファサード(正面)をバロック様式で再設計した。さらにベルニーニはサン・ピエトロ広場の設計を担当し、聖母が両手を開いて人々を招き入れるような楕円形のコロネード(水平の梁で連結された列柱廊)を建設した。大聖堂は1626年に奉献されたが、建設や装飾の作業は17世紀後半まで続けられた。
一方、ニコラウス5世が開始したバチカン宮殿の再建はサン・ピエトロ大聖堂の建設と並行して17世紀まで継続的に進められた。時代時代に拡張された一例がシスティーナ礼拝堂で、宮殿内の教皇の私設礼拝堂だったものを教皇シクストゥス4世が1473~81年に改築した。システィーナ礼拝堂は教皇を選出する「コンクラーヴェ」が開催される場でもあり、枢機卿と呼ばれる高位聖職者の投票で次の教皇が決定されている。バチカン図書館やバチカン美術館はもともと宮殿の一部として整備されたものだ。16世紀にシラクトゥス5世が新しい図書館の設計を建築家ドメニコ・フォンターナに依頼し、現在の建物が建設された。
バチカンはナポレオン戦争(1803~15年)でフランスのナポレオン1世の侵略を受けたが、1814~15年のウィーン会議で復活。19世紀半ばにはイタリア統一運動リソルジメントによって多くの教皇領が接収された。この運動によってローマとヴェネト州を除いてイタリアが統一され、1861年にイタリア王国が成立。1866年にヴェネト州、1870年にローマを併合し、教皇領は消滅した。イタリア王国の首都はトリノ(世界遺産)、フィレンツェを経て1871年にローマに遷された。バチカンもイタリア王国の版図に入ったが教皇庁は認めず、教皇は「バチカンの囚人」と呼ばれ、イタリア政府と激しく対立した(ローマ問題)。
1929年、イタリア首相ムッソリーニは教皇ピウス11世と和解し、ラテラノ条約を締結。これによりバチカンは国家として認められ、独立を果たした。サン・ピエトロ宮殿とサンタンジェロ城を結ぶ約500mの「和解の道(コンチリアツィオーネ通り)」はこれを記念してムッソリーニが整備したものだ。独立したバチカン市国は聖職者を中心とした教皇国家で、バチカン市国で生まれ育った土着の国民は存在しない。600名ほどいるバチカン国籍保有者のほとんどはローマ・カトリックの聖職者や修道士で、在職中に一時的に国籍を取得し、任を解かれて帰国すると国籍を元に戻す。教皇庁は元首である教皇を補佐してローマ・カトリックを統治する中央機関であり、バチカン市国の行政府でもある。教皇を守るための軍隊は存在せず、スイス人衛兵と市国警察が取り締まりを行っている。
世界遺産の資産は全長3.2kmの市壁に囲われたバチカン市国全域となっている。市壁は9世紀にレオ4世が創設したもので、もともと約5kmの城壁で44の塔を有し、サンタンジェロ城を含むアウレリアヌスの城壁に接続していた。16~17世紀にパウルス3世やピウス4世、ウルバヌス8世らによってルネサンスの星形要塞に改築され、城壁から飛び出した数々の稜堡が築かれた。現存する城門として、スイス衛兵で知られるサンタ・アナ門、サン・ピエトロ広場に隣接したサン・ペレグリーノ門、サン・ピエトロ大聖堂の南に位置するペルグリーノ門、バチカン庭園の南西に位置するペルトゥサ門、塔では教皇が別邸として使用することもあるサン・ジョヴァンニ塔などが挙げられる。
サン・ピエトロ大聖堂はラテン十字式・三廊式(身廊とふたつの側廊を持つ様式)の教会堂で、全長約220m・幅約150m、身廊の高さ46.2mと、教会建築としては世界最大級を誇る。また、クーポラは内径41.5m、外径58.9m、内部の高さ117.57m、頂部まで133.3mという規模で、教会建築としては世界でもっとも高いドームとされる。教会堂の顔となる東ファサードはバロック建築の規範とされるもので、細長い長方形でジャイアント・オーダー(1~2階を貫く柱を持つファサードの展開様式)を持ち、ペディメント(頂部の三角破風部分)は小さく低く、柱は角柱と円柱・ピラスター(付柱。壁と一体化した柱)が混在し、柱や屋根の彫像は不等間隔に並べられている。正方形や円を基本として均等・均衡・対称を重視したルネサンスとは明らかに異なるデザインで、クーポラの長球やコロネードの楕円形とともにバロックを代表する空間となっている。東ファサードの南には天国の鍵を持つペトロ、北には剣と巻物を持つパウロの彫像が置かれ、ファサード上部にはイエスや聖母マリアをはじめ13体の彫像が並んでいる。2階はロッジア(柱廊装飾)で、中央は教皇が演説を行う教皇のロッジアとなっている。東ファサードには聖なる扉、聖餐の扉、フィラレーテの扉、善悪の扉、死の扉という5つの扉があり、いずれも見事なレリーフで装飾されている。
大聖堂内部は500体以上の彫像やスタッコ(化粧漆喰)細工、レリーフ、絵画、モザイク画(石やガラス・貝殻・磁器・陶器などの小片を貼り合わせて描いた絵や模様)、フレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)といった装飾や芸術作品で埋め尽くされており、金色を基調とした荘厳な空間が広がっている。11の礼拝堂と45の祭壇があり、それぞれが時代時代のすばらしい装飾で飾られている。最奥部に収められているが教皇聖座・聖ペトロの司教座、内陣中央、クーポラの真下にそそり立つ高さ30mの天蓋がバルダッキーノで、いずれもベルニーニの傑作として名高い。バルダッキーノの下に教皇の祭壇があり、地下聖堂クリプトへ通じる階段が設置されている。クリプトにはコンフェッシオーネの祭壇やバリウムの壁龕があり、さらに地下には洞窟グロッタが広がっていて代々教皇の棺が収められている。このグロッタはローマ時代にネクロポリスだった場所で、ペトロの墓やコンスタンティヌス1世によって築かれた旧大聖堂の遺構を含んでいる。他に特に名高い礼拝堂や祭壇として、ミケランジェロの聖母子像『ピエタ』が置かれたクロチフィソ礼拝堂や、カルロ・フォンタナの設計でカルロ・マラッタのモザイク画『キリストの洗礼』のある洗礼礼拝堂、ベルニーニによる『アレクサンデル7世の墓碑』や『ウルバヌス8世の墓碑』などが挙げられる。
大聖堂の東に広がるサン・ピエトロ広場は全長340m・幅240mほどで、東に楕円形のコロネードが展開している。東西2つのアーチからなるコロネードはそれぞれ4列の柱廊で、284本のドーリア式円柱と88本の角柱、上部に144体の彫像が林立している。楕円の中央に高さ25.5mのバチカン・オベリスクがそびえ、南北に噴水が配されている。
バチカン宮殿はサン・ピエトロ大聖堂の北東に隣接する教皇宮殿で、ベルニーニが設計したスカラ・レジアと呼ばれる美しい階段で結ばれている。宮殿には1,000以上の施設や部屋があるといわれるが、ほとんど一般には公開されていない。教皇の住居や公邸となっているのが教皇のレジデンツで、教皇が実際に生活するエリアは教皇のアパルタメント(居住区画)と呼ばれている。レジデンツでは特にジョルジョ・ヴァザーリらの見事なフレスコ画で知られるレジアの間が有名だ。ボルジアのアパルタメントはアレクサンデル6世が築いた14室からなる住居エリアで、ピントゥリッキオのフレスコ画で知られている。この真上に位置するのがユリウス2世によるラファエロの間で、ボルジアのアパルタメントに対抗して贅を尽くしたものとなった。ラファエロの間は署名の間、ヘリオドスの間、コンスタンティヌスの間、ボルゴの火災の間という4部屋で構成されており、ラファエロや彼の弟子であるジュリオ・ロマーノ、ジャンフランチェスコ・ペンニ、ラファエリーノ・デル・コッレらがフレスコ画を担当した。特に署名の間の『パルナッソス山』『アテナイの学堂』『聖体の論議』『枢要徳』はラファエロの最高傑作といわれる。
バチカン宮殿でも歴代の教皇が築いた私設礼拝堂群は特に豪壮な装飾で知られる。シクストゥス4世が建設したシスティーナ礼拝堂はその筆頭で、壁面と天井を飾るフレスコ画群は圧巻だ。西・南・北の壁面はモーセとイエスの生涯が描かれており、ドメニコ・ギルランダイオやボッティチェリ、ペルジーノ、コジモ・ロセッリといったルネサンスを代表する画家の作品が並んでいる。東の壁は全面をミケランジェロの『最後の審判』が覆っており、天井は『旧約聖書』の「創世記」から『原罪と楽園追放』『イヴの創造』『アダムの創造』『ノアの燔祭』『大洪水』など9場面を描いたミケランジェロの作品群が並んでいる。同様にミケランジェロのフレスコ画で知られるのがパオリーナ礼拝堂だ。パウルス3世がパウロに捧げる礼拝堂として建設したもので、ミケランジェロ最晩年の作品である『サウロの回心』と『聖ペトロの磔刑』を筆頭に、数多くのフレスコ画や彫刻・装飾で彩られている。ニコラウス5世礼拝堂はエウゲニウス4世とニコラウス5世によって装飾された礼拝堂で、全面をステファノやラウレンティウスといった聖人を描いたフラ・アンジェリコのフレスコ画で覆われている。これら以外にも、レデンプトリス・マーテル礼拝堂、ウルバヌス8世礼拝堂、ドゥカーレの間、クレメンティーナの間など見所は尽きない。
バチカン美術館はもともとバチカン宮殿の施設で、両者は厳密に分かれているわけではなく、宮殿のシスティーナ礼拝堂なども美術館の見学コースに含まれている。ルネサンスの時代、教皇たちはローマ時代以来、ヨーロッパ史の中心を担ったキリスト教史の正統な継承者であることを示すために古代の芸術品や遺物を収集し、遺跡を保護した。こうした意味でもギリシア・ローマといった古典の復興を掲げる文芸復興=ルネサンスは教皇にふさわしい芸術様式だった。美術館の起源は15~16世紀、ニコラウス5世やアレクサンデル6世、ユリウス2世の時代で、ルネサンス期の建築家・芸術家を召集して数多くの彫刻や絵画・装飾を制作させてその礎を築いた。バチカン美術館は美術館・博物館・ギャラリー・ホールなどの複合体で、細かいものも合わせるとその数は50を超えるという。主な美術館として、ボルジアのアパルタメントに収められていたジョットやレオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロ、カラヴァッジョらの絵画を収蔵したバチカン絵画館(ピナコテーカ)、シャガールやダリ、ゴッホ、ゴーギャン、マティス、カンディンスキーといった現代画家の作品を展示する現代宗教美術コレクション、ギリシア・ローマ時代の彫刻を集めたピオ・クレメンティーノ美術館、キアラモンティ家のピウス7世のローマ&ルネサンス期のコレクションを中心に収蔵するキアラモンティ美術館、グレゴリウス16世がエジプトやエトルリアの遺物を展示するために築いたグレゴリアーノ・エジプト美術館とグレゴリアーノ・エトルリア美術館などが挙げられる。
バチカン図書館は古代より教皇と教皇庁が収集した史資料を収蔵する図書館で、160万もの書籍や写本・コデックス(冊子写本)・コイン・メダルその他史資料を収めている。ラテラノ宮殿やアヴィニョン時代に史資料が流出したが、15世紀にバチカン宮殿に戻ってからニコラウス5世が図書館を設立して収集を再開。16世紀にはシラクトゥス5世がドメニコ・フォンターナ設計による新館を建設し、17世紀には私的あるいは機密の文書を収めるためにパウルス5世がバチカン使徒文書館(バチカン秘密文書館)を設立した。新館最上階に設けられたメイン・ホールがシスティーナ・ホールで、70×15mという広大な空間をジョヴァンニ・ゲラやチェーザレ・ネッビア、アンドレア・リッリ、ジローラモ・ナンニらのフレスコ画が覆っている。
バチカン庭園はバチカン市国の西半分以上を占める公園で、中世には各種宮殿や果樹園・牧草地などが広がっていた。16~17世紀にブラマンテやピッロ・リゴーリオらによって整然と区画されたイタリア式庭園(イタリア・ルネサンス庭園)が開発され、ルネサンスあるいはバロック様式の噴水や彫刻を随所に配し、イタリアカサマツやレバノンスギで囲った豪奢な庭園となった。現在、公園全体は自然を模したイギリス式庭園となっており、その中にイタリア式庭園やワシの噴水をはじめとする噴水群、政府宮殿やピウス4世の館などの宮殿、サント・ステファノ・デッリ・アビシニアン教会やマーテル・エクレジエ修道院のような宗教施設、バチカン放送やマルコーニ無線電信所、エチオピア大学といった公共施設が点在している。
バチカンは幾世紀にもわたって発展を続ける継続的な芸術的創造物であり、その空間設計によって人類のもっとも有名な創造物群を統合した卓越した傑作である。その中には宗教建築の世界的な象徴として知られるサン・ピエトロ大聖堂を筆頭に、フラ・アンジェリコの壁画で飾られたバチカン宮殿のニコラウス5世礼拝堂や、ピントゥリッキオのフレスコ画で彩られたボルジアのアパルタメント、ラファエロと弟子たちによるラファエロの間、ペルジーノやボッティチェリらによって制作が開始され16世紀にミケランジェロの天井フレスコ画群や彼の記念碑的作品である『最後の審判』で完成したシスティーナ礼拝堂、同じくミケランジェロの作品が残るパオリーナ礼拝堂をはじめ、数多くの傑作を有している。
バチカンは16世紀以降の建築の発展に深い影響を与えた。後代の建築家たちはバチカンを訪れてブラマンテ(サン・ピエトロ大聖堂やベルヴェデーレの中庭)やミケランジェロ(サン・ピエトロ大聖堂のクーポラ)、ベルニーニ(サン・ピエトロ大聖堂のコロネードやバルダッキーノ)らの作品群を研究し、ヨーロッパ内外を問わずバチカンの建造物群はさまざまに模倣・複製された。これはラファエロやミケランジェロのフレスコ画に代表される絵画や美術館に収められた古美術品も同様で、芸術に対する影響力もきわめて大きなものだった。
バチカンはルネサンス美術とバロック美術の理想的かつ規範的な宗教・宮殿建築である。
バチカンは聖ペトロの墓を有する巡礼の中心地であり、キリスト教の歴史と直接かつ物理的に結び付いている。図書館の写本や書籍に代表されるように、千年以上にわたって人類はこの特権的な地に集合的記憶と普遍的才能といった至宝を蓄積してきた。
本遺産はバチカン市国の領土全域を資産としており、オリジナルとしての完全性や特徴を保持している。その際立った都市的・建築的・芸術的価値は度重なる拡張や形状・デザインの変更にもかかわらず芸術的な品質と最高水準の職人技を維持しており、調和のとれた比類のない有機的アンサンブルを構成している。何世紀にもわたって使用されてきた市民的で神聖な建造物群はその宗教的・文化的・制度的・外交的な機能を手付かずで維持している。
資産はその特徴のほとんどが元の形状のまま保護・保全されており、当初の機能を引き継ぎ、本来の宗教的・文化的価値を忠実に伝えていることから真正性の条件を満たしている。世界遺産リストに登録されて以降、資産のもっとも重要なモニュメントのいくつかに行われた大規模な修復キャンペーンは遺産の物理的な保全を保証し、その価値を表現する能力を強化している。