タプタプアテア

Taputapuātea

  • フランス
  • 登録年:2017年
  • 登録基準:文化遺産(iii)(iv)(vi)
  • 資産面積:2,124ha
  • バッファー・ゾーン:3,363ha
世界遺産「タプタプアテア」、タプタプアテアのマラエ・コンプレックス、マラエ・ハウヴィリ。中央付近のメンヒルは高さ2.7mを誇るテ・パパ・テア・オ・ルエア、その奥がアフ
世界遺産「タプタプアテア」、タプタプアテアのマラエ・コンプレックス、マラエ・ハウヴィリ。中央付近のメンヒルは高さ2.7mを誇るテ・パパ・テア・オ・ルエア、その奥がアフ (C) Michel-georges bernard
世界遺産「タプタプアテア」、タプタプアテアのマラエ・コンプレックス、手前がマラエ・ハウヴィリ、奥の組石がマラエ・オプテイナ、左奥の島はアタラ・モトゥ
世界遺産「タプタプアテア」、タプタプアテアのマラエ・コンプレックス、手前がマラエ・ハウヴィリ、奥の組石がマラエ・オプテイナ、左奥の島はアタラ・モトゥ (C) Michel-georges bernard
世界遺産「タプタプアテア」、タプタプアテアのマラエ・コンプレックス、マラエ・タプタプアテア。手前は半人半神像ティキ、奥に連なる組石がアフ
世界遺産「タプタプアテア」、タプタプアテアのマラエ・コンプレックス、マラエ・タプタプアテア。手前は半人半神像ティキ、奥に連なる組石がアフ (C) Sur la route
世界遺産「タプタプアテア」、タプタプアテアのマラエ・コンプレックス、マラエ・タウアイトゥ(奥)と関連の組石(手前)
世界遺産「タプタプアテア」、タプタプアテアのマラエ・コンプレックス、マラエ・タウアイトゥ(奥)と関連の組石(手前)(C) Kounilig
ニコラ・シュヴァリエ『市場への競争、タヒチ』1880年。描かれている船はアウトリガー・カヌーで、ソシエテ諸島では「ヴァア」と呼ばれる
ニコラ・シュヴァリエ『市場への競争、タヒチ』1880年。描かれている船はアウトリガー・カヌーで、ソシエテ諸島では「ヴァア」と呼ばれる

■世界遺産概要

ハワイ諸島、ニュージーランド、イースター島を結ぶ「ポリネシアン・トライアングル」のほぼ中央に、フランス領ポリネシアに属するソシエテ諸島西部のリーワード諸島のライアテア島が浮かんでいる。美しいサンゴ礁とラグーン(礁湖・潟湖)に囲まれた島の南東には先住民の聖地とされるタプタプアテアのマラエ・コンプレックスがあり、古くから政治や外交・宗教・祭祀の中心として崇められてきた。特に諸島最大にして最古のマラエであるマラエ・タプタプアテアは1,000年の歴史を誇り、ポリネシア全域の聖地として多くの巡礼者や訪問客を集めた。資産はマラエ・タプタプアテア、マラエ・ハウヴィリといったコンプレックスのマラエ群のみならず、マラエ・ヴァーライやマラエ・タウマリアリといった近郊のマラエや集落・段々畑の遺構に加え、海域のサンゴ礁やラグーンと陸域の森林や渓谷で形成される文化的景観を含んでいる。

○資産の歴史

ポリネシアン・トライアングル西部のニューカレドニアやサモア諸島、クック諸島には紀元前1000年以前に人類が到達していたが、島が少ないその東や北へ進出するのは難しかった。7~10世紀頃にようやくウィンドワード諸島とリーワード諸島からなるソシエテ諸島に到達したと見られ、10世紀頃に東や北のマルケサス諸島やハワイ諸島、イースター島に広がったと考えられている。

こうした遠洋航海を可能にした船が、船体のサイドに転覆防止用の浮材を備えたアウトリガー・カヌーで、ソシエテ諸島では「ヴァア」と呼ばれている。船体を二重にしたヴァアは1艘で40~60人を収容し、さらにブタやニワトリ、イヌといった家畜や栽培用の各種植物を載せて移動した。

移住先の島で村を建築する際、もっとも重要視された空間が「マラエ」だ。マラエはソシエテ諸島でタアロア、ハワイ諸島ではカナロア、ニュージーランドではダナロアなどと呼ばれる最高神・創造神を祀る神域で、亡くなった祖先を供養する場所でもあった。石や木の柱で囲んだ長方形の土地に石を敷き詰めた組石や積石塚で、火山岩やサンゴ岩を使って建造され、アフやアウと呼ばれる壇やメンヒル(立石)を備えていることもあった。島や村・家族が専用のマラエを築き、島や村・家族の状況が変わると古いマラエから一部の石を持ち込んで新たに建設したり再建した。こうした石の移動によってマラエの連続性は維持され、神座を遷す遷座や同じ神を別の場所で祀る分祀が可能となった。そしてマラエは豊穣祈願などの祭祀を行う宗教施設であるだけでなく、島や村・家族の会議や裁判、即位式などの公的儀式、外部の人間と交渉を行う政治・経済・外交の場にもなっていた。

ライアテア島には7~10世紀に先住民であるマオヒ人が到達した。ソシエテ諸島初の王がアリイ(首長)のヒロで、ライアテア王国を打ち立て、最初のマラエとして「遠くからの犠牲」を意味するマラエ・タプタプアテアを建造したという。当初祀られていたのはタアロアと見られるが、その後ソシエテ諸島で広く崇拝されていた生と死の神オロに切り替わったようだ。14~18世紀にかけてマラエ・タプタプアテアは大幅に拡張され、現世であるテ・アオと、亡くなった祖先や神々の世界であるテ・ポを結ぶ神域とされた。その後、ヒロも神格化され、ヒロの兄弟がソシエテ諸島各地に広がることで神々の系譜は複雑化し、各地に数多くのマラエが築かれた。

17~18世紀、タマトアの一族がライアテア王に即位すると(タマトア朝)、ポリネシア全域をまとめて同盟を組んだ。各地の首長や戦士・神官がマラエ・タプタプアテアを訪れて神に祈りを捧げ、タマトア1世をはじめとする王に謁見した。こうしてマラエ・タプタプアテアはポリネシアの最高聖地となり、国際会議を行う議場を兼ねて同盟の象徴となった。そしてマラエ・タプタプアテアの石を取って各地にタプタプアテアを名乗るマラエが建設された。

1767年、イギリスの航海士サミュエル・ウォリスがヨーロッパ人としてはじめてソシエテ諸島を発見し、ウィンドワード諸島のタヒチ島に上陸した。1769年にはイギリスの航海士ジェームズ・クックが到達し、ロンドン王立協会に敬意を表して協会(英語でソサエティ、フランス語でソシエテ)の名を取ってソシエテ諸島と命名した(島々が社会的に連携していたためともいわれる)。ウィンドワード(風上)諸島やリーワード(風下)諸島もクックの命名だが、ライアテア島などの島名は現地語を尊重してそのまま使用された。

クックはライアテア島で「アリオイ」と呼ばれる神官だったトゥパイアと出会い、ポリネシアの地理と社会構造を学び、マラエ・タプタプアテアを訪れたという。そして彼を水先案内人として周辺の島々やニュージーランド、オーストラリアへ航海した。逆に、はじめてヨーロッパ大陸を踏んだポリネシア人がライアテア島出身のアオトウロウだ。1768年にフランス人航海士ルイ・アントワーヌ・ド・ブーゲンヴィルが操艦するラ・ブードゥーズ号に乗り、パリ(世界遺産)でポリネシアの文化や思想を伝えた。

18世紀後半の段階でタマトア家によるポリネシアの支配は崩れたが、リーワード諸島のライアテア島と北のタハア島は連合を組み(ライアテア=タハア王国)、東のフアヒネ島(フアヒネ王国)、北西のボラ=ボラ島(ボラ=ボラ王国)との同盟は維持された。19世紀に入ってフランスがポリネシアの支配を強め、宣教師がキリスト教を伝えると、マラエ信仰も下火となった。1847年にフランスは一帯を保護領とし、1880年にタヒチのポマレ朝が滅亡するとフランス領ポリネシアに併合した。ライアテア島のタマトア朝も女王テハウロアリイが1884年に没して終止符を打ち、次のテウルライ朝のタマトア6世が1888年に廃位されてライアテア王国は滅亡した。タプタプアテアのマラエ・コンプレックスは完全に放棄され、周辺ではココナッツ・プランテーションが開拓された。

1960年代に民族舞踊や音楽・口頭伝承・言語といった先住民の無形文化遺産の保護・再興が開始され、1968年にはマラエ・タプタプアテアの最初の修復が行われた。以来、マラエ・コンプレックスの修復・保全・整備が進められ、マラエ信仰も再構築された。1976年にアウトリガー・カヌーによる長距離航海が再開されると、航海を伴うレースや祭典の開催が活発化した。ライアテア島のマラエ・タプタプアテアはその中心を担い、現在でも各種セレモニーや祭祀が執り行われている。

○資産の内容

資産はライアテア島南東部、オポアの東に位置するタプタプアテアのマラエ・コンプレックスを中心に、周辺の海域と陸域を含んでいる。

タプタプアテアのマラエ・コンプレックスは聖なる山とされるテアエタプ山から尾根を経て海に突き出した半島の東端に位置している。海岸沿いに裾礁(フリンジング・リーフ。島や大陸の周りの浅瀬に発達したサンゴ礁とその地形)、沖に島を取り囲む環礁(アトール。島が海面下に沈降した結果、環状に残されたサンゴ礁とその地形)が伸びており、その間に湖のように穏やかなラグーンが広がっている。半島の先の環礁にはテ・アヴァ・モアと呼ばれる裂け目があり、ラグーンと外海をつなぐ水路となっている。テアエタプ山、マラエ・コンプレックス、テ・アヴァ・モアを結ぶラインは聖なる通路とされ、マラエ・タプタプアテアを目指す船は外洋からテ・アヴァ・モアを通り、タウラアタプと呼ばれるビーチから上陸した。

タプタプアテアのマラエ・コンプレックスの中心をなすのがマラエ・タプタプアテアだ。海岸のやや内側に玄武岩を敷き詰めた60×44mほどの組石で、中には5基のメンヒルが立っており、東側にサンゴ岩で組まれた42.5×6.9~8.2mの壇状のアフを備えている。マラエはオロに捧げられており、生者の世界(テ・アオ)と神々と死者の世界(テ・ポ)を結ぶ神域とされ、儀式の際は祭壇であるアフの上に神像が安置された。メンヒルはそれぞれの儀式を行う場所を示しており、アリイであるタマトア家の子供たちのヘソの緒が埋められたり、人身御供が捧げられた。また、ポリネシア各地に点在するマラエ・タプタプアテアの総本山で、王がポリネシアの島々と交流を行う外交の場でもあり、外国の使節団とここで接見した。

海に突き出したマラエ・ハウヴィリは低い石垣に囲まれたもっとも整ったマラエで、タマトア家の家族のマラエと考えられている。玄武岩を敷き詰めた51.0×27.5~32.5mの組石で、北東の海岸沿いに設けられた30.5×5.9m・高さ1.8mのアフはサンゴ岩が壇状に積み上げられている。周囲の石垣は平均で高さ1.1m・幅1.3mで、玄武岩とサンゴ岩でできており、南西に出入口が設けられている。中には8基のメンヒルがあり、中央付近に高さ2.7mに及ぶテ・パパ・テア・オ・ルエアがそびえている。この巨大なメンヒルはアリイの即位式などで使用され、他のメンヒルも埋葬など用途ごとに使い分けられていた。

マラエ・オヒロはマラエ・タプタプアテアの東に隣接しており、3.3×3.1mと5.4×3.6mの2基のアフを備えている。初代ライアテア王ヒロに捧げられていると見られることからオヒロと名付けられた。

マラエ・ハウヴィリの東に隣接したマラエ・オプテイナは23.5×1.2~1.8m・高さ1.6mのアフのみで形成されており、本体は未発掘となっている。タマトア家の分家のテイナ家のマラエで、マラエ・ハウヴィリとの間にタウラアタプのビーチが広がっている。

少し離れた西の海岸に築かれたマラエ・タウアイトゥは一辺24.6~34.0mのいびつな四角形のマラエで、23.2×4.8m・高さ1.9mのアフを備えている。5基の組石が隣接しているが、用途はわかっていない。地区のマラエと考えられており、人骨や動物の骨が発掘されていることから人身御供などの儀式が行われていた可能性が指摘されている。

タプタプアテアのマラエ・コンプレックスにはこれら以外にもマラエがあり、有力な一族や地区のマラエと見られている。また、数多く残る組石はなんらかの儀式の場と考えられている。

タプタプアテアのマラエ・コンプレックスの西には標高770mのテアエタプ山がそびえている。麓には尾根に囲まれたオポアとホトプウという2つの渓谷があり、深い森が広がっている。森にはマラエ・ヴァーライやマラエ・タウマリアリといった古いマラエがいくつも眠っており、集落や畑の遺構なども発見されている。草木で造られた家々はマラエのように石を並べたプラットフォームの上に築かれており、隣接地には水路などの灌漑設備を備えた段々畑が造営された。畑ではさまざまな種類のイモや、マンゴー、レモン、バナナ、パンノキといった果物が栽培され、移住した人々が持ち込んだと見られる他の島の固有種も存在した。一帯には多数のメンヒルも発見されており、埋葬地の墓標と見られている。

■構成資産

○タプタプアテア

■顕著な普遍的価値

○登録基準(iii)=文化・文明の稀有な証拠

タプタプアテアは1,000年にわたるマオヒの文化を卓越した方法で表現している。タプタプアテアのマラエ・コンプレックスと渓谷の丘に位置する種々の考古遺跡はその歴史を物語っており、高地に住む農民と海辺に住む王や神官・戦士からなる社会組織を反映している。また、アウトリガー・カヌーを用いて自然を観察しながら大海を航海する技術や、新たな移住先の島を人々のニーズに応じて開拓する技術を証明している。

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

タプタプアテアは14~18世紀にかけてマオヒの人々によって築かれたマラエの傑出した例を提示している。マラエは祭祀や社会的機能を備えた寺院の一種で、生者の世界と祖先の世界を結ぶ接点であり、その記念碑的な形状はアリイと呼ばれる首長たちの権威と権力を巡る争いを反映している。マラエ・タプタプアテアはそれ自体が首長一族によって構築された最高権威で同盟の具体的表現であり、石を他の島に運んで同名のマラエを建設するという祭祀文化の表れである。

○登録基準(vi)=価値ある出来事や伝統関連の遺産

タプタプアテアはポリネシア全域の人々にとって彼らの文化における祖先の故郷であり、彼らの起源を象徴し、祖先と結び付け、精神性を表現するものとしてきわめて重要である。いまなお生きつづけるこうした思想や知識はライアテア島の陸や海の景観、特にかつて中心的な役割を果たしたマラエの景観に埋め込まれている。

■完全性

資産は有形(考古遺跡、口承関連の場所、マラエ)および無形(起源に関する物語、儀式、伝統知識)の要素を有し、有機的に進化し残存する文化的景観である。マオヒ人の古代(伝統的)と現在(現代的)の価値観と自然景観が並存し、継続されていることを示す際立った例である。資産は顕著な普遍的価値を表現するために必要なすべての要素を含んでおり、バッファー・ゾーンも適切で、資産にあるべき要素を含んでいることもない。

■真正性

信頼できる客観的な情報によって資産の主要な物理的特性は真正性が確認されている。マオヒの人々に伝わる無形の史料と口頭伝承は多様であり、互いに補完するものである。初期の探検家や宣教師が残した記録と比較すると、口承の知識と文字資料の間には収斂性があり、つまりこうした要素はその情報が本物であることの証拠となる。近年、資産に関連した情報を集め、伝統的な知識を伝えようというコミュニティの努力が文化的景観の真正性を高めている。タプタプアテアのマラエ・コンプレックスでは一部のマラエが修復されているが、一帯のレイアウトや素材はほとんどオリジナルのまま保たれている。

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