フォンテーヌブロー宮殿はパリ(世界遺産)の南東約60km、イル=ド=フランス地域圏のセーヌ=エ=マルヌ県に位置するシャトー(宮殿・城館)で、カロリング朝から第2帝政まで、すべての王朝・帝政で王宮・皇宮として扱われた唯一のシャトーだ。特にヴァロワ朝期のフランス王フランソワ1世がイタリアのルネサンスやマニエリスムを持ち込んでフランス・ルネサンスを開花させ、「フォンテーヌブロー派」と呼ばれる芸術の一大潮流を生み出した。800年の歴史・1,500室の部屋・130haの庭園と公園を有する大シャトーで、皇帝ナポレオン1世は「これぞまさしく王の宮殿、世紀の宮殿なり」と讃えたという。
中世、フォンテーヌブローの地はクマやイノシシ、シカが出る王家の狩猟場で深い森が広がっていた。そこには「ブリオーの泉 "Fontaine Bliaud"」と呼ばれる泉があり、これが「美しい水が湧き出す泉 "Fontaine Belle Eau"」に転じてやがてフォンテーヌブローと呼ばれるようになったようだ。
11~12世紀はじめには正方形の平面プランを持つ塔のようなドンジョン(キープ。中世の城の主要部分となる主塔あるいは天守)が築かれていた。最初に記録に登場するのはルイ7世の時代で、王位に即位した1137年に王家の宮殿として勅許を与え、しばしばこの城に滞在したという。1169年にイングランドのカンタベリー大司教トマス・ベケットが聖母マリアとトゥールーズのサトゥルニヌス(聖セルナン)に捧げるサン=サトゥルナン礼拝堂を奉献すると、宗教的な権威が与えられた。
13世紀、この地を愛したルイ9世はシャトーを拡大した。後に列聖(徳と聖性を認めて聖人の地位を与えること)されて「サン=ルイ(聖ルイ。英語でセント・ルイス)」と呼ばれることになるルイ9世は第7回・第8回十字軍に参戦して殉教するなど敬虔なキリスト教徒で、フォンテーヌブローでは三位一体(父なる神、子なるイエス、聖霊の三者を同一の存在であると認める考え方)に捧げる修道院やトリニテ礼拝堂(三位一体礼拝堂)・病院等を建設し、シャトーの一部に宗教コンプレックスを整備した。1268年には孫のフィリップ4世がフォンテーヌブローで生まれた最初の王子となっている。この後もシャルル5世が図書館を建設し、その息子シャルル6世は王妃イザボー・ド・バヴィエールとともにこのシャトーに住み、ビエールの森やモレ、メルンといった町を獲得した。
イングランドとの間で百年戦争(1337〜1453年)が勃発すると、貴族たちはパリを離れてトゥールをはじめロワール渓谷(世界遺産)に退避し、フォンテーヌブローは一時的に放棄された。パリが陥落してフランスは窮地に陥るが、ジャンヌ・ダルクの活躍もあって戦争に勝利した。シャルル7世はパリを奪還し、ようやく1436年にこの地に戻った。ただ、1594年にアンリ4世がパリに戻るまで、実質的な首都はトゥールに置かれていた。
15世紀末からフランスはイタリアに進出して神聖ローマ帝国とイタリア戦争(1494~1559年)を戦ったが、勝利することはできなかった。しかし、イタリアで最盛期のルネサンスを目撃したフランソワ1世は感銘を受け、ルネサンスやマニエリスムの芸術家や建築家をフランスに招聘してルネサンス文化を持ち込んだ。1519年にロワール渓谷にシャンボール城(世界遺産)の建設を開始すると、1527年には廃墟となっていたフォンテーヌブローの再建を決定。マニエリスムの建築家セバスティアーノ・セルリオやジローラモ・デッラ・ロッビア、画家ロッソ・フィオレンティーノらを招聘すると、ギャラリー・フランソワ1世のウイング(ウイングは翼廊/翼棟/袖廊。複数の棟が一体化した建造物群の中でひとつの棟をなす建物)や南の門塔ポルト・ドレ(黄金門)、イタリア式庭園(イタリア・ルネサンス庭園)などを建設し、サン=サトゥルナン礼拝堂やトリニテ礼拝堂などの再建を行った。特に装飾の点で大きく貢献したのがロッソ・フィオレンティーノと、画家であり彫刻家・建築家でもあるフランチェスコ・プリマティッチオで、宮殿内を絵画やフレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)・スタッコ(化粧漆喰)・木彫細工・彫刻などの装飾で覆った総合芸術のスタイルは「第1フォンテーヌブロー派」と呼ばれた。中世の絵画や彫刻はキリスト教に関する物語を図案化するのみだったが、彼らは古代のギリシアやローマの歴史や神話を大胆に描いてまったく新しいデザインを創出し、レオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』や『岩窟の聖母』といったイタリアの名画やギリシア・ローマ時代の名作やレプリカを持ち込んで室内を飾り立てた。こうしてローマの芸術空間を再現したことから「ヌーベル・ローム(新ローマ)」とも呼ばれた。また、フランソワ1世はルネサンスで花開いた科学を奨励し、哲学や古典学の権威であるギヨーム・ビュデの進言を受けて王立教授団を創設し、フォンテーヌブローに王立図書館を設置して彼を初代の管理人に任命した。以上のような新文化に対する貢献からフランソワ1世は「フランス・ルネサンスの父」と呼ばれている。
フランソワ1世の息子アンリ2世はイタリアで建築を学んだフィリベール・ド・ロルムを王室建築家に任命し、シャトーをさらに拡大。ディアーヌのギャラリー、牡鹿のギャラリー、舞踏のサル(ボールルーム/アンリ2世のギャラリー)などを築き、フランチェスコ・プリマティッチオに加えて画家ニコロ・デッラバーテや彫刻家ベンヴェヌート・チェッリーニらが装飾を担った。アンリ2世と王妃カトリーヌ・ド・メディシスはこのシャトーを愛し、10人の子女の内の6人をここで産んでいる。
16世紀、フランスはローマ・カトリックを支持する旧教派とカルヴァン派プロテスタントである新教派=ユグノーの争いが激化し、フォンテーヌブローもユグノー戦争(1562~98年)で荒廃し、アンリ3世の時代に放棄された。こうして廃墟となったフォンテーヌブローを再興したのがアンリ4世だ。
アンリ4世はもともとユグノーだったが、1593年にローマ・カトリックに改宗し、1598年にローマ・カトリックが国家宗教であることを宣言すると同時に、信仰の自由を認めるナントの王令を公布することでユグノー戦争を終わらせた。その1593年にフォンテーヌブローの再建に着手し、翌1594年には首都をトゥールからパリに戻している。アンリ4世は全体の修復と同時にシャトーを東に拡大し、楕円形の中庭やオフィスの中庭、アンリ4世のクオーター、ベレ・シュミネ(美しき暖炉)のウイング、池のパビリオンなどを整備した。また、この時代にはフランスの画家マルタン・フレミネやトゥッサン・デュブルイユ、ネーデルラントの画家・彫刻家ヤン・デ・ホーイ、フランドル出身のフランス人画家アンブロワーズ・デュボワといったフランスやネーデルラント、フランドルの後期マニエリスムの芸術家たちが招聘され、そのスタイルは「第2フォンテーヌブロー派」と呼ばれた。また、庭園の建設にも尽力し、建築家・造園家クロード・モレや水力学のエンジニアであるトンマーゾ・フランシーニらがディアーヌの庭園やグラン・カナル(大運河)などを整備した。ルイ13世は父であるアンリ4世の死後その事業を引き継いで事業を完成に導いた。トリニテ礼拝堂の装飾や馬蹄形階段、白馬の中庭などはこの時代の作品だ。
ルイ14世にとってフォンテーヌブローは秋に訪れる狩猟館だった。この地にヴェルサイユ宮殿(世界遺産)のような豪華絢爛を持ち込まず、建物に関して大きな増改築も行わずにそれまでのスタイルを尊重する形で改修した。それでもヴェルサイユ宮殿の著名な建築家たちを招聘し、フランス式庭園(フランス・バロック庭園)の完成者である造園家アンドレ・ル・ノートルがグラン・パルテール(パルテールは花壇と通路を幾何学的に配した刺繍花壇)を、フランス・バロック建築の第一人者であるルイ・ル・ヴォーが池のパビリオンを建設し、画家兼室内装飾家であるシャルル・ル・ブランが各所にバロック様式の装飾を施した。ルイ14世は1685年にフォンテーヌブローの王令を発布し、ナントの王令を廃止して信仰の自由を否定してユグノーの弾圧を行った。
続くルイ15世は狩猟館として使用するだけでなく、ベレ・シュミネのウイングに新しい劇場を建設し、しばしばオペラや演劇などの宴を催した。1725年にはポーランド王女マリー・レクザンスカとの結婚式をトリニテ礼拝堂で行い、舞踏のサルで祝宴を開いた。また、ルイ15世はグラン・デザインと呼ばれる野心的な拡張計画を立案し、新古典主義建築の巨匠アンジュ=ジャック・ガブリエルに依頼してシャトーの西の棟を拡張してルイ15世のウイングとし、白馬の中庭やコンシェルジュリーの中庭、噴水の中庭に面したグロス・パビリオン(大パビリオン)などを建設した。また、フランスの画家フランソワ・ブーシェやシャルル=アンドレ・ヴァン・ロー、ジャン=バティスト=マリー・ピエールといったロココ様式や新古典主義様式の芸術家たちを召集して装飾を行った。
ルイ16世は財政状況の悪化からルイ15世が進めていたグラン・デザインを断念し、その代わりにギャラリー・フランソワ1世のウイングの拡張を行い、王と王妃のためのアパルトマン(居住区画)を整備した。
1789年にはじまるフランス革命ではシャトー自体は大きな被害を受けなかったが、調度品の多くは売却され、宮殿としての機能を失い、軍事学校として整備された。しかし、皇帝となったナポレオン1世は「これぞまさしく王の宮殿、世紀の宮殿なり」とフォンテーヌブローを愛し、ナポレオン1世のアパルトマンを壮麗なアンピール様式(帝政様式。古代ローマやエジプトを模したナポレオン時代の新古典主義様式)で建設するなど皇宮として再興した。また、白馬の中庭は名誉の中庭に改称され、名誉の中庭に面したフェッラーレのウイングが撤去されて鉄柵門となり、ディアーヌの庭園はイギリス式庭園(自然を模したイギリスの風景式庭園)に改装され、松の庭園もイギリス式のアングレ庭園(イギリス庭園)に置き換えられた。ナポレオン1世は1813年のライプツィヒの戦い(諸国民戦争)に敗れて降伏し、1814年4月16日に署名したフォンテーヌブロー条約で退位とエルバ島への追放を承諾した。4月20日にフォンテーヌブローを出発する際、名誉の中庭の馬蹄形階段で兵士たちに別れを述べたことからこの中庭は「別離の中庭」、階段は「別離の階段」の異名を持つ。ナポレオン1世は1815年にエルバ島を脱出して復位するが(百日天下)、このときもフォンテーヌブローに立ち寄っている。ナポレオン1世は同年のワーテルローの戦いに敗れると、南大西洋の孤島セントヘレナへ流された。
ナポレオン1世による第1帝政の崩壊後、ブルボン朝が復活してルイ18世が王位に就いた(復古王政)。ルイ18世と続くシャルル10世はフォンテーヌブローの再建・修復を進めた。また、フランス最後の国王ルイ・フィリップ1世の時代には歴史主義様式(中世以降のスタイルを復興した様式)を採り入れて、フランソワ1世やフィリップ2世の時代のルネサンス様式の装飾がネオ・ルネサンス様式として再現された。
1852年にフランス最後の皇帝ナポレオン3世が皇帝位に就き、フランス第2帝政がはじまった。トリニテ礼拝堂で洗礼を受けたナポレオン3世はナポレオン1世と同様にフォンテーヌブローを皇宮とし、各種アパルトマンやルイ15世のウイング、グロス・パビリオンなどを改装した。特にグロス・パビリオンのラウンジにはシノワズリ(中国趣味)の中国館をはじめエキゾチズムが持ち込まれ、皇妃ウジェニーに贈られたルイ15世のウイングの帝国劇場(ナポレオン3世劇場)は際立って豪奢な建物となった。
1870年の第2帝政の崩壊をもってフランスの君主制は終了し、国王や皇帝は消滅して王宮や皇宮も不要となった。しかし、文学者アナトール・フランスは「フランス人は皆、フォンテーヌブローを訪ねるべきである。そうすればこの驚異を生み出した過去のフランスを尊敬し、称賛し、愛することを学ぶであろう」と語り、シャトーを守ることを強調したという。第3共和政の時代に国立のシャトーとなり、大統領官邸や迎賓館として使用された。1913年には主要部が歴史的建造物に指定され、1927年にはシャトーを永遠に保存するために国立博物館となった。フォンテーヌブローは「美の都」として多くの芸術家に愛され、特にスペインの画家パブロ・ピカソやフランスの作家アンドレ・マルロー、アルゼンチンの作曲家アストル・ピアソラ、アメリカの作曲家レナード・バーンスタインらが足しげく通い、インスピレーションを得たことで知られている。
世界遺産の資産にはフォンテーヌブローの宮殿・庭園・公園が含まれている。
宮殿の中心となるのは噴水の中庭から楕円形の中庭にかけて広がる「グラン・アパルトマン」と呼ばれるエリアで、君主の居住区と関連施設が集中している。グラン・アパルトマンの中でも王と王妃の居住区がアパルトマン・ロイヤルのウイングで、楕円形の中庭とディアーヌの庭園に挟まれた棟に王のアパルトマンと王妃のアパルトマンが並んでいる。
王のアパルトマンは代々の国王や皇帝が過ごした場所だ。代表的な部屋が玉座のサル(サルは部屋・広間)、あるいは王のシャンブル(シャンブルは寝室)で、代々の王の寝室をナポレオン1世が改装し、パリの家具職人ジョルジュ=ジャコブ=デスマルターのによる玉座を中心にアンピール様式の華麗な装飾と調度品で彩られている。一例が金糸でナポレオン1世の象徴であるハチを多数縫い付けた天蓋であり、自らの象徴であるワシと「N」の文字を冠した黄金の燭台や、権威の象徴であるライオン像を刻んだ黄金のコンソール、自らの強い意志を示すゲッケイジュ(月桂樹)の王冠、画家ロベール・ルフェーブルによる肖像画、黄金とガラスのシャンデリアなどで、こうした象徴的で絢爛な装飾で自らの力を示した。ルイ13世のサロン(サロンは居間・応接室)はかつて王のグラン・キャビネット(キャビネットは小部屋・書斎・陳列室・事務室)と呼ばれた部屋で、アンリ4世の王妃マリー・ド・メディシスがルイ13世を出産したことからこの名が付いた。彼女がお抱え画家アンブロワーズ・デュボワに描かせたギリシアの恋物語「テアジェーヌとシャリクレ」の15の絵画に囲われたロマンティックな部屋となっている。サン=ルイ(聖ルイ)のサルは聖人となったルイ9世から名を取った部屋で、当時のドンジョンの壁を残すシャトー最古の部屋であることからドンジョンのサロンとも呼ばれる。彫刻家マチュー・ジャケによるアンリ4世の騎馬像のレリーフや、画家フランソワ=アンドレ・ヴァンサンによるアンリ4世の絵画などがあり、アンリ4世が愛したことでも知られる。そして王のアパルトマンのエントランス付近に位置しているのが王の階段だ。ルイ15世の時代、アンジュ=ジャック・ガブリエルが手掛けた階段で、マケドニア王アレクサンドロス3世(アレキサンダー大王)を描いたフランチェスコ・プリマティッチオやアベル・デ・プジョルの作品群をはじめ、壁面と天井は絵画・フレスコ画・彫刻・スタッコ(化粧漆喰)で隙間なく覆われている。エントランス付近にある衛兵のサルは近衛兵の詰所だったルネサンス様式の部屋で、寄木細工の見事な天井と床が見られ、壁面にはアンリ4世の巨大なレリーフで飾られた暖炉を中心に、歴代の君主の紋章や肖像画などが並べられている。
王のアパルトマンと対をなすのが王妃のアパルトマンだ。もっとも代表的な部屋が皇妃のシャンブル、あるいは王妃のシャンブルで、代々の王妃や皇妃の寝室となっていた。「6人のマリーのシャンブル」との異名を持ち、アンリ4世の王妃マリー・ド・メディシス、ルイ14世の王妃マリー・テレーズ・ドートリッシュ、ルイ15世の王妃マリー・レクザンスカ、ルイ16世の王妃マリー・アントワネット、ナポレオン1世の皇妃マリー・ルイーズ(マリア・ルイーザ)、ルイ・フィリップ1世の王妃マリー・アメリーらが過ごしたことで知られる。草花文様で覆われた華やかな部屋で、大きなベッドはマリー・アントワネットが注文したものだが、完成前にフランス革命に巻き込まれてここで眠ることはなかったという。王妃の銀のブドワール(ブドワールは婦人の私室)はマリー・アントワネットやナポレオン3世の皇妃ウジェニーが愛用した部屋で、天井に描かれた空はオーロラが輝くトロンプ・ルイユ(だまし絵)で、ミューズ(ギリシア神話の女神たち)の彫刻や寄木細工を配した清廉で華麗な空間となっている。フランソワ1世のサロンはフランソワ1世の王妃レオノールが寝室としていた部屋で、他の王妃も第2の寝室や前室として使用していた。フランチェスコ・プリマティッチオが担当したフランス・ルネサンスが誇る装飾に加え、ナポレオン3世が加えた5つのタペストリーが豪奢さを演出している。タペストリーのサロンはもともと衛兵室や控室として使用されており、ルイ・フィリップ1世が大胆に改装を行った。その名の通り豪華なタペストリーやカーペットで覆われた温かみのある部屋となっている。皇妃のグラン・サロンは王妃のゲーム・サロンとしても知られる部屋で、時代によってはビリヤード台などが置かれていた。天井にはローマ神話の女神ミネルウァらを描いたジャン=シモン・ベルテレミーの作品群を冠し、壁面は華麗なレリーフと巨大な鏡で飾られている。会議のサルは円卓と椅子が置かれた事務室で、もともとは王や王妃のキャビネットや寝室として使用されていた。フランソワ1世の時代のルネサンス様式の装飾で彩られており、壁面や天井は方形(四角形)や円形・半円形に区切られ、それぞれに絵画やレリーフがはめ込まれている。
舞踏のサルのウイングは楕円形の中庭の南に伸びる棟で、舞踏のサルやサン=サトゥルナン礼拝堂といった大型施設を備えている。舞踏のサルはボールルームやアンリ2世のギャラリーとも呼ばれるフランソワ1世の時代からの祝宴場で、アンリ2世の時代にフィリベール・ド・ロルムが監督してルネサンス様式のデザインを施した。ギリシア・ローマ神話の物語を描いたフランチェスコ・プリマティッチオやニコロ・デッラバーテのフレスコ画群、天井と床の豪壮な寄木細工、大理石の暖炉のレリーフ群、これらと調和するようにデザインされたネオ・ルネサンス様式のシャンデリアと、フォンテーヌブローを代表する美的空間となっている。サン=サトゥルナン礼拝堂はフォンテーヌブロー最古の礼拝堂として知られ、1~2階にまたがる上下2層で、上層は王家のみに使用が限定された王室礼拝堂となっている。王室礼拝堂は上品ながらこじんまりとした礼拝堂で、結婚式などの大きな行事はトリニテ礼拝堂で行われた。主祭壇に飾られたラファエロ作『フランソワ1世の聖家族』はよく知られている(レプリカでオリジナルはルーヴル美術館収蔵)。
教皇のアパルトマンは噴水の中庭の西に伸びる王太后のウイングを占める11室の居住区で、1804年にナポレオン1世の戴冠式に招かれた教皇ピウス7世が滞在したことに由来する。アンリ2世の王妃カトリーヌ・ド・メディシス、マリー・ド・メディシス、ルイ13世の王妃アンヌ・ドートリッシュといった王太后らが暮らした場所でもある。主な部屋には、ピウス7世が使用した教皇のシャンブルや、アンヌ・ドートリッシュが私室としておりアレクサンドロス3世のタペストリーや太陽と惑星の装飾で知られるグロス・サロンなどがある。教皇のアパルトマンの西にはふたつのギャラリーが隣接している。ナポレオン3世が作らせた栄華のギャラリーはルイ13世の洗礼やナポレオン1世とピウス7世の邂逅といったフォンテーヌブローの栄光の歴史を示す絵画が飾られており、天井にはフランス帝国を象徴する巨大なワシが描かれている。一方、絵皿のギャラリーはフォンテーヌブローの歴史を描いた128枚のセーヴル焼の絵皿を展示した部屋で、アンブロワーズ・デュボワの21枚の絵画なども飾られている。ルネサンス様式らしい寄木細工の装飾や幾何学的な構成はルイ・フィリップ1世が復興したもので、ネオ・ルネサンス様式となっている。王太后のウイングの南端に立つのがグロス・パビリオンだ。アンジュ=ジャック・ガブリエルによって建てられた新古典主義様式の建物で、特に1階は中国・北京の頤和園(世界遺産)から持ち込まれた数々の宝物を収めた中国館となっている。
王太后のウイングの北に伸びるのが馬蹄形階段のウイングだ。中心的な施設がトリニテ礼拝堂で、ルイ9世が建設した礼拝堂をフランソワ1世が再建し、アンリ4世の時代に画家マルタン・フレミネが装飾の方向性を決め、ルイ13世によって完成し、ルイ14世やルイ15世、ルイ16世が追加した。壁面も天井も絵画やスタッコ・彫刻で覆われた総合芸術の場となっており、ベースはルネサンス様式ながらバロック総合芸術を予見したものとなっている。絵は教会にふさわしく『旧約聖書』や『新約聖書』を題材としており、特に父なる神、子なるイエス、聖霊の三者の同一性を謳う三位一体(トリニテ)を描いたものが多い。たとえば主祭壇の祭壇画はジョン・デュボア・ル・ヴューの作品で、処刑後に十字架から降ろされるイエスの十字架降架と三位一体を描いている。数々の歴史的なイベントの場としても知られ、ルイ15世とマリー・レクザンスカ、スペイン王カルロス2世とマリー・ルイーズ・ドルレアンの結婚式や、ナポレオン3世の洗礼などが行われた。馬蹄形階段はルイ13世の治世に建築家ジャン・アンドゥルエ・デュ・セルソーが築いたもので、グラン・アパルトマンへのエントランスとなっており、結婚式などのイベントの際は華やかに装飾されて人々を迎え入れた。エルバ島へ赴くナポレオン1世が別れの演説を行った場所でもあり、「別離の階段」の異名を持つ。
ベレ・シュミネのウイングは噴水の中庭の南東に位置する棟で、大ホールに設置された美しい暖炉(ベレ・シュミネ)から命名された。ルイ15世の劇場があったことからアンシェンヌ・コメディ(旧劇場)のウイングとも呼ばれるが、劇場は火事で撤去された。黄金門=ポルト・ドレは楕円形の中庭との間をつなぐ門塔で、フランソワ1世が建設し、アンリ4世の時代まで中心的なエントランスとして機能していた。3階建てで各階にイタリア風のロッジア(柱廊装飾)を備えており、フランチェスコ・プリマティッチオによるルネサンス様式の内装が残されている。マントノン侯爵夫人のアパルトマンはルイ14世の妻のひとりだったマントノン侯爵夫人フランソワーズ・ドービニェが住んでいた場所で、ルイ14世とモンテスパン侯爵夫人の子ルイーズ=フランソワーズ・ド・ブルボンをはじめ正妻以外の妻や子が暮らした場所だった。
噴水の中庭の東と西をつなぐ回廊がギャラリー・フランソワ1世のウイングだ。ギャラリー・フランソワ1世は1528~30年に建設されたフランス・ルネサンスを代表する60×6mほどの空間で、装飾はイタリアの画家ロッソ・フィオレンティーノが取り仕切り、複雑な彫刻を施した方形の寄木細工の木製パネルや方形のフレスコ画、方形の絵画などをパズルのように組み合わせて飾り立てた。こうした幾何学的な装飾パターンがルネサンス様式の特徴で、バロック様式ではそれぞれが絡み合って不定形化していく。絵の題材はフランソワ1世や紋章などのほか、英雄アキレウス(アキレス)や半人半馬のケンタウロスなどギリシア・ローマ神話の物語を象徴的に描いたものが多く、いずれも国王の権威や力を示している。ナポレオン1世のアパルトマンはもともとルイ16世がアパルトマン・アンテリアとして拡張したエリアで、ナポレオン1世が自らの居住区として整備した。もっとも重要な部屋がナポレオンのシャンブルで、白と金・緑を基調としたアンピール様式のシンプルな空間となっている。皇帝ナポレオンのプティ・シャンブルは「小さな寝室」という名の通り青銅の王冠を冠した天蓋付きの小さな鉄製ベッドが置かれた部屋で、書斎として使用され、マホガニーの机で仕事をこなしていたという。退位のサロンはアンピール様式の赤い家具と金の模様で統一された華やかな広間で、ハチやワシといったナポレオンの象徴で飾られている。1814年4月、ナポレオン1世はここで退位を迫る文書に署名し、皇帝位から降りた。
閣僚のウイングは名誉の中庭の北に位置する棟で、大臣たちのためにフランソワ1世が建設したものだ。ルネサンス様式のレンガ造の建物で、ファサード上部にはルネサンス様式の典型的なオーダー(基壇や柱・梁の構成様式)が見られる。
ディアーヌのギャラリーのウイングはディアーヌの庭園の東、楕円形の中庭の北に広がる棟で、ローマ神話の狩猟の女神ディアーナ(ギリシア神話のアルテミス)にちなんでいる。ディアーヌのギャラリーは「女王のギャラリー」とも呼ばれていた回廊で、80×6mほどの長大な空間で、アンブロワーズ・デュボワやヤン・デ・ホーイといった第2フォンテーヌブロー派の見事な装飾で知られる。フランス革命後の混乱で荒廃したが、ナポレオン1世が修復し、一部を撤去してアベル・デ・プジョルやメリー・ジョセフ・ブロンデルらの絵画に差し替えた。これをナポレオン3世が16,000冊に及ぶナポレオン1世の蔵書を収める図書館に改装し、現在の姿となった。ここに置かれている地球儀はナポレオン1世がテュイルリー宮殿に収めるために作らせたものだ(テュイルリー宮殿は1871年に焼失)。牡鹿のギャラリーもディアーヌのギャラリーと同時期、16世紀に建設され、17世紀に改装された74×7mほどの回廊で、牡鹿の胸像が並んでいたことからこの名が付いた。立派な角を持つ牡鹿は狩猟場の代表的な獲物で、狩猟の女神をテーマとするディアーヌのギャラリーと対であることがわかる。ナポレオン3世がアンリ4世を描いた絵画や像を収集する部屋に改装している。
ディアーヌのギャラリーのウイングの東には王子たちのウイング(ルイ15世の王子たちのウイング)が伸びている。この中にある狩猟のアパルトマンにはルイ14世の宰相マザランやオルレアン公といった重要人物が住んでいたことで知られている。
ルイ15世のウイングは名誉の中庭の南に位置する棟で、フランソワ1世が築いてルイ15世が拡張した。現在、その多くを占めているのがナポレオン1世博物館で、ナポレオン1世に関する絵画や肖像画、使用していた衣服や磁器・武器、収集した金細工や時計などの美術品など、計500点以上を収蔵している。帝国劇場はルイ15世のウイングの西端にナポレオン3世が建築家エクトル・ルフエルに依頼して建設したもので、ナポレオン3世劇場とも呼ばれている。豪奢な内装で知られるが、財政悪化の煽りを受けて彼の治世中に開催された公演はわずか15回に留まった。
庭について、フォンテーヌブローには4つの主要な中庭(楕円形の中庭、噴水の中庭、名誉の中庭、オフィスの中庭)と3つの主要な庭園(グラン・パルテール、ディアーヌの庭園、アングレ庭園)、2つの主要な水場(鯉の池、グラン・カナル)があり、東には公園が広がっている。庭園と公園を合わせて約130haの広がりを持つが、もともとはさらに外側に狩猟場でもある広大な森林が広がっていた。
楕円形の中庭は噴水の中庭の北東に位置しており、楕円形に近い八角形であることからこの名が付いた。初期のシャトーの中心部でもあり、一部にドンジョンの壁面が残されている。西側にはフランソワ1世が建てた棟が残っており、シャトーでもっとも重要なアパルトマン・ロイヤルとなっている。噴水の中庭は三方を囲われ、一方を鯉の池に向けた「コ」字形の中庭だ。もともと池近くの噴水には傑作として名高いミケランジェロのヘラクレス像が設置されていたが、像はフランス革命の混乱で失われ、現在も行方不明となっている。現存する像は『ユリシーズ』に題材を取った作品だ。名誉の中庭は白馬の中庭、別離の中庭とも呼ばれる広場で、「コ」字形の中央奥に馬蹄形階段が控えている。もともと西にフェッラーレのウイングがあって中庭は閉じていたが、ナポレオン1世の時代に撤去され、黒と金で彩られた鉄柵門に置き換えられた。オフィスの中庭は楕円形の中庭の東に広がっており、アンリ4世のクオーターなどに囲まれた正方形に近い空間となっている。これら以外に、ディアーヌのギャラリーのウイングや王子たちのウイングに囲われた王子たちの中庭などがある。
グラン・パルテールはルイ14世の治世にアンドレ・ル・ノートルが設計したフランス式庭園だ。もともと花壇が広がっていたが、ルイ15世の時代に多くが取り払われて「田」字形の区画と芝・小規模の花壇・中央の泉・南の泉が残るのみとなった。中央の泉にはローマの川の神テヴェレ、南のロムリュスと呼ばれる泉にはローマの創始者ロムルスの像が置かれている。ディアーヌの庭園は狩猟の女神ディアーナの噴水から命名されており、噴水の中央には牡鹿を捕らえたディアーナと4頭の猟犬の像が立っている。以前はフランス式庭園だったが、ナポレオン1世の時代に自然を模したイギリス式庭園に改装され、アズサやユリノキといった木々がランダムに植えられた。脇にはアンリ4世が創建し、ルイ15世が再建したジュ・ド・ポーム(球戯場)が立っている。アングレ庭園はシャトーの西を占めるイギリス式庭園で、ナポレオン1世の依頼で建築家マクシミリアン・ジョゼフ・ウルトーが造園した。マツやトウヒ、ヒノキ、ユリノキなどが繁る林の中に人工の川や丘・噴水などが点在し、遊歩道が伸びている。鯉の池はアングレ庭園に隣接する池で、宮殿からの眺めにアクセントを加えている。小島に立つ池のパビリオンはルイ14世の時代にルイ・ル・ヴォーが建設したオクタゴン(八角形の建造物)だ。
グレート・パルテールの東が公園のエリアだ。アンリ4世が整備した大運河=グラン・カナルは全長1,200m・幅40mという規模を誇り、森を切り裂く形で一直線に伸びている。ルイ13世がガレー船を浮かべて楽しんだことで知られ、当時は周囲にブドウなどの果樹が植えられていた。グラン・カナルの周囲は現在、モミやニレなどの林となっている。
フォンテーヌブロー宮殿の建築と装飾はフランスのみならずヨーロッパの芸術の進歩に多大な影響を与えた。国王に招聘された画家や彫刻家・建築家といったイタリアの芸術家たちはフランス・ルネサンス美術に決定的かつ持続的な方向性を与え、そのもっとも格調高く重要な例を提供した。
フォンテーヌブローの宮殿と庭園は4世紀にわたる主要な王宮であり、1685年のルイ14世によるナントの王令の廃止や、1814年の皇帝ナポレオン1世の退位をはじめ、フランス史において際立って普遍的な重要性を持つ出来事と関係している。
19世紀までフォンテーヌブローの宮殿と庭園はフランスの統治者たちの住居としてありつづけた。彼らはつねに宮殿を保全し、芸術的な改修を行い、宮殿をより豊かに保った。
フォンテーヌブローにはフランソワ1世、アンリ4世、ルイ13世、ルイ15世、ルイ16世らが王宮の美的価値を高めようと努力を傾け、ナポレオン1世が何よりも愛したそれぞれの治世と様式の痕跡が刻まれている。
フランス第2帝政の終わりまで王宮や皇宮として維持され使用されつづけたフォンテーヌブロー宮殿は、何世紀もの間、幾多の改修や近代化が行われてきたことで知られるが、その真正性は変化していない。20世紀に入るとルネサンス建築の最重要部分とそれらの装飾を公開・修復するために多くの工事が行われたが、やはり真正性は維持されている。