フランス中東部、ブルゴーニュ=フランシュ=コンテ地域圏のコート=ドール県とソーヌ=エ=ロワール県にまたがる世界遺産で、ブルゴーニュ・ワインの名産地であるコート=ドールのブドウ栽培やワイン生産に関する産業遺産や文化的景観、関連の都市・村落が登録されている。構成資産は2件で、ディジョンの歴史地区と、コート=ドール北部のコート・ド・ニュイから南部のコート・ド・ボーヌにかけて、具体的にはディジョン南部のブルロッシュ地区からボーヌを経てマランジュに至る約60kmのエリアからなり、後者には40のコミューン(自治体)に位置する1,247か所のクリマが含まれている。
世界遺産名にある「クリマ "Climat"」はもともと地面の傾斜を示すギリシャ語の "klima" に由来し、ローマ時代には約324平方mの農地の測定単位を示し、近世にブドウ園の栽培区画を意味するようになった。英語名の「テロワール "terroir"」はフランス語で土地を示す "terre" から派生した言葉で、栽培環境に根ざした特性を意味する。
なお、世界遺産名は当初英語で "Climats, terroirs of Burgundy, France"、フランス語で "Les climats du vignoble de Bourgogne, France" と登録されたが、2016年の第40回世界遺産委員会で英語名は "The Climats, terroirs of Burgundy"、フランス語名は "Les Climats du vignoble de Bourgogne" と若干の変更が加えられた。
コート=ドールのヴィクスで発見されたヴィクスの墓は紀元前6世紀、ケルト人のハルシュタット文化(紀元前800〜前400年)期の王女の墓と見られているが、ここから青銅製のクラテール(ワイン壺)が発見された。また、紀元前5世紀に設立された近郊の古代都市アレジアの遺跡からは数多くのアンフォラ(ふたつの持ち手を持つ細長い陶器)が出土しており、ブドウやワインを入れていたと考えられている。こうしたことからブルゴーニュ地方において、ブドウ栽培は紀元前から行われていた可能性が指摘されている。ただ、明確なブドウ栽培の証拠はガロ・ローマ(共和政・帝政ローマ時代に征服されたガリアの地、あるいはその文化)期の1~2世紀のものとなっている。栽培されていた場所は現在のような丘の中腹ではなく、一帯の平野部だった。たとえばジュヴレ=シャンベルタンではこの時代のブドウの痕跡が発見されている。
コート=ドールが「黄金の斜面」を意味するように、標高250~450mに位置する丘陵は東を向いた日当たりのよい斜面で構成されている。夏は涼しく冬は暖かい西岸海洋性気候に属し、標高が低いこともあって1年を通して穏やかだ。ただ、内陸部であるため大陸性気候の影響で熱波や寒波が押し寄せたり、霜と雹が大きな被害を与えることがある。雨は1年を通じて降り、比較的夏に少なく冬に多いが、年間降水量は700mm程度(東京は約1,500mm)と多くはない。下層土は中生代ジュラ紀(2億~1億5千万年前)に形成された石灰岩、表土は粘土質の泥灰土やシルト(砂と粘土の中間的な大きさの砕屑物)・砂で、これらが混じって粘土石灰質の土壌を形成している。水を浸透させる石灰岩と砂、浸透させない粘土の割合によって大きく性格が変わるが、全体的に水はけは非常によい。冬に多い雨や余分な水を排出する斜面や土壌、長期熟成に向いた温暖な夏、石灰岩から供給されるミネラル分といった要素がブドウ栽培に最適な環境を提供している。
92年にローマ皇帝ドミティアヌスがイタリア国外において新たにブドウを植え付けることを禁じたが、280年にマルクス・アウレリウス・プロブスがこの勅令を無効化したことでブドウ栽培が一気に活発化した。2~3世紀にキリスト教が伝わり、313年のミラノ勅令でキリスト教が公認され、380年に国教化されると、ゲルマン系やケルト系の諸民族にキリスト教を宣教するために各地に教会堂や修道院が建設された。
『新約聖書』において、イエスは聖餐(せいさん。最後の晩餐)で「私の血である」とワインを十二使徒に分け与え、これにより神と預言者モーゼの間で結ばれた古い契約=旧約は刷新され、新たな契約=新約が結ばれたとする。このためワインはミサにおいてきわめて重要な役割を果たした。こうしたこともあって修道院は積極的にブドウを栽培してワインを醸造した。5~6世紀には修道院が中心となってコート=ドールの中腹を開拓した。
5世紀にはブルグント王国が一帯を治めたが、これがブルゴーニュの語源となった。534年にフランク人に征服され、9世紀にはブルゴーニュ公国が成立した。ボーヌ周辺はフランク王カール大帝(フランス名シャルルマーニュ)が開拓したとの伝説もあり、その名を冠したシャルルマーニュやコルトン・シャルルマーニュといったクリマも存在する。
1098年に修道会のシトー会が発足し、ボーヌに近いサン=ニコラ=レ=シトーにシトー修道院(ノートル=ダム修道院)が創設された。1132年には近郊のタールにシトー会の女子修道院としてタール修道院(タールのノートル=ダム修道院。17世紀にディジョンに移転)も開設された。修道士たちは清貧に過ごしたイエスの生涯を範とし、ベネディクト会の「清貧・貞潔・服従」「祈り、働け」といった会則・理念に戻ることを目標に活動をはじめた。そして自給自足を行う中で、フランス大開墾時代の先頭に立って地方を開墾し、輸出による資金の獲得や地域開発の目的もあってワインを組織的に生産した。
シトー会の時代にブドウ園や醸造所・圧搾所・カーヴ(地下貯蔵施設)といった栽培・醸造・保管施設に加え、住居や礼拝堂・採石場などを備えた「クロ "clos"」と呼ばれるブドウの栽培区画が設定された。このクロがコート=ドール全域に広がり、後の時代にクリマを中心としたシステムに吸収されていく。シャンベルタン=クロ=ド=ベーズやクロ・ド・ヴージョ、クロ・ド・タール、クロ・デ・ランブレイなどは中世以来の歴史を持つ畑で、クロの名を冠している。
12~13世紀、ブドウ園の多くは修道院や貴族が所有していたが、都市で力を付けたブルジョワジー(有産市民階級)がワイン生産に参入をはじめ、土地の細分化が起こった。
14~15世紀にかけてヴァロワ=ブルゴーニュ家がブルゴーニュ公国を治めるが、この時代にブルゴーニュ・ワインの名声は飛躍し、「キリスト教世界で最高のワイン」と評されるに至った。ワインは主に黒ブドウであるピノ・ノワールで造られたが、この頃、病気に強いガメイが広がっていた。ブルゴーニュ公フィリップ2世は品質に劣るガメイの栽培を1375年に禁じ、ブドウに適した場所を開拓・改良するなどして品質のすぐれたワインを生産する体制を整えた。この時代に単一品種で醸造する伝統が醸成され、赤ワインならピノ・ノワール、白ならシャルドネがその中心を担った。その孫に当たるフィリップ3世の時代には拠点都市であるディジョンとボーヌへの入国を制限してブランド力の向上と情報統制を図り、両都市に近い特定地域のすぐれたワインのみにディジョンやボーヌのマークを付けて出荷した。
1477年にブルゴーニュ公国がフランス王国に吸収されると、公国の貴族と修道院の領地が分配され、区画が整理された。ブルゴーニュのワインはその質の高さからフランス貴族を魅了し、貴族たちは先を争ってブドウ園を購入したという。
16世紀頃から土地台帳に記載された栽培区画がクリマと呼ばれるようになった。クリマごとに気候・土壌・斜度・日当たり・植物・微生物といった環境的特性=テロワールを明確化し、ブドウとワインの個性を決定付ける基礎に位置付けた。17世紀にはベーズとシャンベルタンが最優秀のクリマとして指定され、原産地統制呼称制度の先駆けとなった。こうしたクリマ・システムは18世紀にさらに強化された。
この時代にワインの製造・流通過程も効率化した。ブルゴーニュにはブドウ栽培からワイン醸造・瓶詰め・出荷まで一貫して行う生産者である「ドメーヌ」と、農家から原料となるブドウやワインを買い付けて醸造・熟成・アッサンブラージュ(ブレンド)・瓶詰め・出荷を行う生産者「ネゴシアン」がおり、両者を兼ねる者もいた。そして農家とネゴシアンの間を取り持ち、ブドウやワインを売買する仲介者が「クルティエ・グルメ(クルティエ)」だ。18世紀には「メゾン・ド・ネゴス」と呼ばれる商社が発達し、主に完成したワインを購入して販売した。こうしたシステムが発達することで需要と供給が強く結び付き、それぞれのテロワールを活かした生産・販売が可能になった。
1789年のフランス革命で修道院や貴族の土地が接収され、競売を経て市民に売却された。これによりクリマは細分化され、小規模なドメーヌが増加した。特に最上級のクリマはテロワールに応じて小さな畑単位まで分割された。一例がコンティ公が所有していたヴォーヌ=ロマネのブドウ園で、ブルゴーニュのブルジョワジーが買い取って一部がロマネ=コンティのクリマとなった。
19世紀にフランスで産業革命が進展するとワインの生産・流通も近代化・機械化され、鉄道のパリ-リヨン-マルセイユ線がディジョンに乗り入れたり、ブルゴーニュ運河が開通して輸出量が増加した。フランス皇帝であるナポレオン1世やナポレオン3世もブルゴーニュのワインを愛し、ナポレオン3世は1862年のロンドン万国博覧会で大々的に売り込みを行った。
19世紀末から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパの他の地域と同様、フィロキセラ(ブドウネアブラムシ)によってほとんどのブドウが枯死した。アメリカのブドウ品種の台木に接ぎ木をする方法でブドウ園は再興されたが、これを機にブドウ栽培とワイン醸造の近代化を推進し、ディジョンとボーヌに技術学校を開設して知識と技術の浸透を図った。そしてブルゴーニュ・ワインの評価を取り戻すためにクリマ・システムの再構築が行われた。
1934年にはブルゴーニュ・ワインの普及を目的にコンフレリー・デ・シュヴァリエ・デュ・タストヴァン(利き酒騎士団)が結成され、すぐれたワインの選定などを開始した。1935年には原産地統制呼称制度A.O.C.の認定を受け、ブルゴーニュ・ワインの厳密な定義や、グラン・クリュ(特急)-プルミエ・クリュ-(1級)-コミュナル(コミューン)-レジョナル(地方)という格付けが定められた。グラン・クリュ、プルミエ・クリュは最上級・上級のクリマ名を冠したワインであるのに対し、コミュナルはコミューン名(村名や地区名)、レジョナルは地域名であるブルゴーニュの名を冠したワインとなっている。たとえばヴォーヌ=ロマネ村のワインの中には、コミュナルであるヴォーヌ=ロマネがあり、プルミエ・クリュのクロ・パラントゥや、グラン・クリュのロマネ=コンティなどがある。コミューン名の場合はコミューン内、地域名の場合は地域内でのアッサンブラージュが認められている。
構成資産はブルゴーニュのブドウ園のクリマ群とディジョンの2件となっている。
1.ブルゴーニュのブドウ園のクリマ群
本資産はコート=ドールのディジョン南部のブルロッシュ地区からマランジュまでの全長約60km・幅6kmのエリアで、この間に40のコミューンと1,247のクリマがあり、総面積は約8,000haとなっている。クリマの境界は柵や石垣・ミュルジェ(石積み)・生垣・小道などで仕切られており、クリマによっては豪華なシャトー(宮殿・城館)を擁するなど地域の景観を構成している。
北部のコート・ド・ニュイはブルロッシュ地区からコルゴロアンまでで、栽培品種の約90%を占めるピノ・ノワールの世界最高の産地として名高い。コート=ドールの中でも森林や峡谷が多く、急な斜面と石灰質の土壌を持つ。石灰岩を切り出す採石場も豊富で、特にコンブランシアンの採石場で採れる石灰岩は建築装飾や美術品の制作などに使用されるほど上質で、コンブランシアン石灰岩との名称にもなっている。水に溶けやすい石灰岩のおかげでミネラル分が豊富でテロワールにも多大な影響を与えている。グラン・クリュのクリマも多く、12世紀にシトー修道院が切り拓いたクロを前身とするヴージョのクロ・ド・ヴージョ、1141年にタール修道院が開墾したモレ=サン=ドニのクロ・ド・タール、「ブルゴーニュの王」の異名を持ちナポレオン1世が愛飲したジュヴレ=シャンベルタンのシャンベルタン、世界でもっとも有名なワインのひとつであるヴォーヌ=ロマネのロマネ=コンティ、0.85haと最小面積のグラン・クリュ・クリマであるヴォーヌ=ロマネのラ・ロマネなどがある。
コート・ド・ニュイの主要都市がニュイ=サン=ジョルジュだ。4世紀にドラゴン退治の伝説で知られる聖ゲオルギオス(フランス語でサン=ジョルジュ)の聖遺物(イエスやマリア 、使徒や聖人の関連品)が持ち込まれたことから命名され、以来、聖ゲオルギオスはブルゴーニュの守護聖人として祀られるようになった。ローマ時代の神殿跡や13世紀に建設されたサン=シンフォリアン教会などの見所がある。
南部のコート・ド・ボーヌはラドワ=セリニーからマランジュまでのエリアで、マランジュを構成するドゥジズ=レ=マランジュ、シェイイ=レ=マランジュ、サムピニ=レ=マランジュとルミニーの4つのコミューンのみがソーヌ=エ=ロワール県に属している。コート・ド・ニュイと比較して倍近い栽培面積を有し、緩やかな斜面が東の平野にまで伸びている。60%を占めるピノ・ノワールの栽培も盛んだが、それ以上にシャルドネの白ワインが世界的に有名だ。その象徴がピュリニー・モンラッシェとシャサーニュ・モンラッシェで造られるモンラッシェで、『三銃士』の著者アレクサンドル・デュマが「脱帽し、ひざまずいて楽しむべし」と讃えたことで知られる。また、アロース=コルトン、ラドワ=セリニー、 ペルナン・ヴェルジュレスにまたがる一帯は「コルトンの丘」と呼ばれ、白ワインのシャルルマーニュやコルトン・シャルルマーニュ、赤ワインのコルトンといったグラン・クリュのクリマとして名高い。
コート・ド・ボーヌの主要都市が、ディジョンとともにコート=ドールのワイン交易の拠点となったボーヌだ。もともとローマ時代にカストルム(軍事拠点)が築かれ、交通の要衝となった場所で、都市プランにはカストルムから放射状に町が発達した様子が記録されている。中世には修道院や教会がその発展に大きく寄与し、ワイン生産の施設・設備とともに多くの建造物を残した。記録に残るようになるのは15世紀からで、1443年に開所したオスピス・ド・ボーヌ(オテル=デュー・ド・ボーヌ)が皮切りとなった。ブルゴーニュ公ニコラ・ロランが開設した病院や救貧院等を兼ねた福祉施設で、1452年に創設された修道院とともに町の福祉の向上に貢献した。建物はフランボアイヤン様式(火焔式)のゴシック様式で、ブルゴーニュの名産である彩釉タイルで彩られている。また、ブドウ園を持ち、ワイン生産を行っていたため、カーヴなどの施設も残されている。1859年からブルゴーニュ・ワインのチャリティー・オークションが行われており、博物館となった現在でも毎年11月に開催されている。ボーヌのオテル・デ・デュック・ド・ブルゴーニュはブルゴーニュ公フィリップ2世が14世紀半ばに建設した公爵邸で、ブルゴーニュ議会を兼ねていた。ゴシック様式や地元のハーフティンバー(半木骨造)の様式などが混在した独特の外観を見せている。現在はブルゴーニュ・ワイン博物館として地域やブドウ栽培・ワイン生産に関連したさまざまな史資料を展示している。リセ・ヴィティコール・ド・ボーヌ、通称ラ・ヴィティはワイン学校で、うどんこ病やフィロキセラに対する知識や技術を普及させたり、接ぎ木センターとするために1884年に設立された。現在もブドウ栽培とワイン醸造に関するさまざまな教育・研究を行っており、実際にワイン生産を行っている。他にも、12~13世紀に建設されたゴシック様式のノートル=ダム・バシリカ、ウルスラ会修道院を引き継いだ庁舎のメリー・ド・ボーヌ(オテル・ド・ヴィル・ド・ボーヌ)、16世紀のブルゴーニュ公爵邸であるメゾン・デュ・コロンビエといった歴史的建造物がある。
2.ディジョン
ディジョンはブルゴーニュ=フランシュ=コンテ地域圏の首府で、コート=ドール県の県庁でもあり、その歴史地区が資産となっている。ローマ時代のカストルムから発展し、ローマ街道の要衝として堅牢な市壁に守られた城郭都市に発展した。キリスト教が伝わったのは2世紀頃で、ディジョンの聖ベニニュがこの地で宣教中に殉教した。6世紀に彼の墓の上に築かれた修道院がサン=ベニニュ修道院で、以来ディジョンは有数の巡礼地となった。1031年にはブルゴーニュ公国の首都となり、14~15世紀のヴァロワ=ブルゴーニュ家の時代に最盛期を迎えた。フランス王国の版図に入るとボーヌからブルゴーニュ議会が移転され、多くの貴族が邸宅を構えた。この頃、町には多数の塔が立ち並び、「百鐘楼の町」との異名を取った。フランス革命期にサン=ベニニュ修道院をはじめ多くの修道院が廃院になり、歴史的建造物が破壊された。19世紀の産業革命を経て近代化し、鉄道・運河・水道などのインフラが整えられ、1866年にはナポレオン3世による都市改造が進められた。その後の戦争でも大きな被害は出ておらず、歴史地区には中世から近代の建物が立ち並ぶ美しい姿が保存された。歴史的建造物は数多いが、その中心となった宮殿がパレ・デ・デュック・ド・ブルゴーニュ(ブルゴーニュ公爵宮殿)だ。14世紀半ばにブルゴーニュ公フィリップ2世が創設し、時代時代の増改築を経て、ゴシック、ルネサンス、新古典主義様式をはじめ多くのスタイルが混在する現在の姿が完成した。宮殿の多くは17~18世紀の建設で、議場であるサル・デ・エタや、宴会場であるサル・ド・フロール、宮廷礼拝堂であるエリュー礼拝堂など華麗な空間が広がっている。中央にそびえるフィリップ・ル・ボン塔(フィリップ善良公の塔)はフィリップ3世が1450~60年頃に築いた塔で、ディジョンのランドマークとなっている。ディジョン議事堂はボーヌから移転したブルゴーニュ議会が置かれていた場所で、現在の建物は16~17世紀にルネサンス様式で建設され、ディジョン控訴院が入っている。サン=ベニニュ大聖堂(ディジョン大聖堂)はもともとサン=ベニニュ修道院の修道院教会だった建物で、フランス革命後の1792年に司教区を取り仕切る大聖堂となった。建物は13~14世紀のもので、ロマネスク様式とゴシック様式の折衷で、屋根の彩釉タイルが特徴だ。ディジョンのノートル=ダム教会は1250年頃に建設されたゴシック様式の教会堂で、西ファサード(ファサードは正面)の1階にポルティコ(列柱廊玄関)、2~3階にロッジア(柱廊装飾)を連ねたユニークな外観を有している。高さ74.4mを誇るクロッシング塔(十字形の交差部に立つ塔)や、おびただしい数のガーゴイル(悪魔や怪物を象った雨樋)、時を知らせるジャックマール(鐘突き人形)、古いものは13世紀までさかのぼるステンドグラス、ヴィエルジュ・ノワ(黒の聖母)として知られる喜望の聖母像、市民に「フクロウ」と呼ばれ愛されているラ・シュエット像をはじめ、ディジョンの象徴的な装飾を多く有している。サンテティエンヌ教会はゴシック様式の教会堂とネオ・ルネサンス様式の西ファサードを持つ教会建築で、15世紀にサンテティエンヌ修道院の修道院教会として建設された。フランス革命後に商工会議所が入り、現在は市立図書館や公文書館・博物館として使用されている。他にも、1204年創建で病院や薬局・礼拝堂・ブドウ園など多くの施設・設備を有する旧オピタル・ジェネラル(旧総合病院)、18世紀後半の建設で修道院長や司教が暮らしたサン=ベニニュ修道院宮殿、17世紀に建設された私邸で彩釉タイルで彩られたオテル・ド・ヴォギュエ(ヴォギュエ邸)、伝統的なハーフティンバーの私邸であるメゾン・ミリエール(ミリエール邸)、ギヨーム門がありラリー・ラファイエットやア・ラ・メナジェールといった大型商業施設が連なるリベルテ通りなど、数多くの歴史的建造物が存在する。
地籍上のブドウ園区画やコートの村々、ディジョンとボーヌの町々を結び付けるブルゴーニュ・クリマの地理的システムはブドウ園の歴史的景観の注目すべき例であり、何世紀にもわたって伝わるブドウ栽培はいまだ活発で、真正性も疑うべくもない。こうした活動の活力は、実験的な手法と、少なくとも10世紀以上にわたるブドウ栽培とワイン醸造のノウハウの蓄積を未来世代に伝えることに基礎を置いている。栽培区画とテロワールの差別化はディジョンとボーヌの町の政治的・商業的な繁栄によって可能になるもので、これらの町々は現在でも科学的・技術的訓練あるいは商業的・制度的代表を示す活気に満ちた中心地としてありつづけている。この区別は20世紀前半の原産地呼称の確立に対応するための進歩的な規制によって改善された。
ブルゴーニュのクリマは正確に区画されたブドウ栽培地の歴史的な構築を証明するもので、自然の潜在力と人間の活動の連動によって生まれる製品の品質と多様性を表す指標として、場所(クリマ)と時間(ミレジム)への対応を示す人間のコミュニティの独創的な文化的方式を表現するものである。クリマはディジョンとボーヌという軸となる都市の影響を受けた特定の自然環境と人間の相互作用を表している。土地区画の特性の認識とクリマの漸進的な確立は柵や石垣・石積み・生垣・小道といったいまも残る物理的な区分けによって具体化され、それぞれのクリマの特徴を示している。ディジョンとボーヌの町の建築遺産はブドウ栽培の構造を明白に証言しており、ブドウ栽培地の統治機関の権力と代表性を示す建造物で構成され、生産地やブドウ栽培の関係者の生活と密接に結び付いている。2,000年もの間、独特な自然条件に適応しつづけた人間の忍耐力が、この地を地域固有のブドウ園の模範的な集積地とした。
高速道路A6線への近接、制限区域で起きた都市の発展、いくらかの景観の変化といった事象にもかかわらず、資産は完全性について十分なレベルで保たれている。地籍の構造にも大きな影響はなく、歴史的な研究やクリマの境界線・エリアの永続性が示されている。
A.O.C.の評価では、ブルゴーニュの栽培と生産のモデルはそれ自体が区画の完全性と維持を保証するものといえる。各区画の高い地価がその機能と資産の安定性を支えており、都市の無秩序な拡大を抑制し、村々の特徴や田園風景を維持することにも役立っている。ディジョンとボーヌの旧市街の形態と都市構造(道路・区画・建造物)の永続性はその完全性を証明しており、特別な監視と管理措置が施された保護地域となっている。また、都市地区の完全性は遺産を保全するための経済・文化活動の永続性によっても保証されている。このようにクリマの地形的条件は安定的かつ等質であり、3つの構成要素(区画、ディジョン、ボーヌ)の間の領域的力学は機能しつづけている。
安定した人間社会によって発展した特定の自然環境を示すものとして、ブルゴーニュのクリマの真正性は1,000年のあいだ続くブドウおよびワイン文化の継続性と活力に反映されている。ブドウ園区画の地籍の記録はその規模・位置・所有権を証明するもので、クリマの複雑な形成過程や、先祖伝来の技術や伝統、農場経営と管理の継続性といったものを信頼できる形で証明している。土地利用や区画の連続性はまた、個々のクリマを結ぶ景観上の特徴(石垣・生垣・石積み・小道・柵等)に明瞭に表れており、それぞれの差異や特徴を表現している。19世紀末のフィロキセラの危機はヨーロッパのすべてのブドウ栽培とワイン生産の連続性を妨げるなど影響を与えたが、地域社会の回復力と忍耐力を強化することにつながった。1936年に制定された原産地統制呼称制度とそれに関連して設定された規格は資産の真正性の維持に貢献し、今日でも参照され役立っている。しかし、景観を保全し発展を管理するためには、部分的に実施されてある程度進展している、資産全体をカバーする他の特段の対策を伴う必要がある。ディジョンとボーヌの都市軸は科学的・技術的知識と教育的・商業的・制度的表現の活力ある中心地として同じ真正性を共有しており、クリマの建設という形で何世紀にもわたって果たしてきた役割を建築遺産を通じていまなお証明しつづけている。